トッペキ/1

 こんな世界は滅んでしまえばいいのに。
『聖楽器』なる摩訶不思議な存在をしゅうしゅうする組織によって、トッペキと名付けられた少女は幼いころ――ずうっとそんなことばかり考えていた。
 薄暗い人生をおくっていたのだ。
 そして、それは決して本人のせいではなかった。だからトッペキ――本名、ざいざんなえはいつでも自分の身に起きる不幸や、不快感のぜんぶを誰かのせいにしてきた。
 ぜんぶぜんぶ、意地悪な誰かのせいだ。
 ――幼いころに、両親が離婚をしたのも。
 悪意のある、何者かのせいなのだ。
 ――大好きだった父親ではなく、あの忌々しい母親のほうに引き取られたのも。
 ――その母親に愛されなかったのも。
 ――むしろ毛虫のように嫌われ、顔を見るたびに眉をひそめられたのも。
 ――母親の機嫌が悪い日には、手酷く痛めつけられたのも。
 ぜんぶぜんぶ、自分以外の誰かのせいだ。
 この世界のせいだ。
 運命のせいだ。
 神さまに嫌われたせいなのだ。
 だから。
「こんな世界は滅んでしまえばいいのに」
 じゅめいた言葉を、もうろうとした意識のなか、トッペキはひさかたぶりに口にした。声はすでにかすれきって、誰の耳にも届かないはずだ。誰に聞かれたとしても、何を子供じみたことを言っているのかと、苦笑いされてしまうだけだろう。
 トッペキ自身も、そう思う。思春期にはありがちな発想だ。不幸で、不運で、納得がいかない。だから八つ当たりをする、自分以外の何かへと――この世界のぜんぶへと。
 年齢を重ねるうちに、みんな馬鹿馬鹿しくなってやめる。
 愚痴を零しても何の意味もないし、人間がどれだけ呪っても、そう願っても――世界はまったく揺るぎもしない。恨み言を口にするだけ、酸素の無駄遣いだ。
 それは『聖楽器』という、超常的な代物を身に宿した今になっても同じだ。滅べ、と思っても……。ゲームの電源を落とすみたいに、この世界は消え失せたりしない。
 誰だってありふれた思春期を終えたあと、理解するこの世の大前提だ。
 それで良かった。望んだだけで世界が滅んでしまうなら、こんなに恐ろしいことはない。というか、この世界で今も一生懸命に人生をがんばってるひとたちに申し訳が立たない。ちょっとした不快感や、不幸のために、ぜんぶの終わりを願うのはいけないことだ。
 今ではそう思う。だって終わりは、こんなにも寂しくて虚しくて無価値だ。
「うち死ぬんやろなぁ」
 組織のアジトのひとつである図書館、その床に転がったままトッペキはぼやく。自分の身体から流れだした血液がつくった海のなか、うつ伏せになって――。
 死が間近に迫っていることを、実感する。
 血が足りない。だから脳みそも機能してくれなくて、夢うつつだ。ふと気を抜けば意識が飛びそうになるが、そうなったらお終いだ。二度と、目覚めることはないだろう。
 ずるずる生き長らえても、自分に何ができるわけでもないが。
「やっぱり、死ぬんは嫌やん」
 ぶつぶつと、独りごちる。やや不自然な関西弁は、幼いころの名残だ。父が大好きだった。気は優しくて力持ち、という人物で――よくトッペキはねだっておおきな父に抱っこしてもらった。それが好きだった、それだけで世界のぜんぶが輝いて見えた。
 けれど両親は離婚し、トッペキがおおきなものに抱かれることはなくなった。
 名残惜しくて、父の真似をして関西弁で喋るようになった。母にはえらく不評で、何度も怒られた。別れた夫の口調で喋る娘を毛嫌いし、ののしり、ときには殴った。
 そんな母が嫌いだった。
 だからトッペキは心を閉ざし、いつも部屋に引きこもっていた。
 義務教育の期間中ですら不登校がつづき、どこかにいる自分と同じ種類の人間が掻き鳴らす薄暗い音楽を聞き、ゴスを身にまとい、ネガティブな言葉を並べただけの散文詩のようなものを書いていた。
 そんな、どこにでもいる根暗な小娘だった。
 父が遠方で、何かの事故で亡くなったらしい――と聞いてから、ますます鬱の傾向が加速した。大好きだった父と引き離されたまま、その最期にも立ち会えなかったことを哀しんだ。納得できなかった。意味がわからず、父のあとを追いたいぐらいだった。
 生きている意味を見失い、何度も自傷行為に及んだ。
 母はそんな娘を不気味がり、手に負えないと思ったのか、ほとほと嫌になったのか――滅多に自宅に帰ってこなくなった。それまでは世間体もあるし、普通にご飯などを用意してくれたのだが、それも途切れた。
 食事もとらず、己の身体を傷だらけにしながら、トッペキはゆっくり衰弱した。
 そのまま死ぬはずだった。それでも良かった、何の期待もしていなかったのに。

トッペキ/2

 トッペキは死ななかった。
 その身には、いつの間にか『聖楽器』ギロが宿っていたのだ。
 これは後から聞いた話だが。トッペキの父親は『聖楽器』の使い手であり、組織に所属するエージェントだったらしい。現在の、トッペキと同じように。
 世界の裏側で暗躍する、忌まわしくも危険な仕事だ。父はそんな薄暗い世界に愛する妻と娘を関わらせたくなくて――離婚を、別の道を選んだのかもしれない。
 本人が亡くなっているので、確かめることもできないが。
 トッペキは、そう信じることにした。父は自分たちを捨てたんじゃない、愛していたけれど、やむなく別れるしかなかったのだ。そう考えたほうが、すこしは良かった。
 誰からも愛されず、世界を、何もかもを憎みながら生きているよりは――ずっと。
 ともあれ父の死と同時に、その『聖楽器』は唯一の肉親である――娘のトッペキのなかに移動した。『聖楽器』には、そういう性質があるらしい。持ち主が死ぬか、何らかの方法で譲渡することで、他者に受け継がせることができる。
 ともあれ父は組織の仕事中に、死亡した。敵対する何者かと争って、殺されたのか、単なる事故か――それは判然としないが。その結果として、トッペキは『聖楽器』の所有者となった。
 しばらくは、『聖楽器』で遊んでいるだけだった。
『聖楽器』ギロは、その能力によって他の『聖楽器』の持ち主の居場所を感知できる。
 それを利用して『聖楽器』の周囲で頻発する事故や事件を予言し、ネットでちょっとした有名人になったりした。みんなに賛美され、頼られて、自尊心が満たされた。
 やがて組織に勘づかれ、勧誘され、その一員になったが――そのころにはもう、トッペキはだいぶ持ち直していた。父の死について好意的な解釈も得られたし、『聖楽器』という特別な代物を身に宿したことが自己肯定感を与えてくれていた。
 自分は特別な人間である。『聖楽器』の所有者、すごい能力者である。
 その事実があるだけで、ちいさな不幸や不快感は吹っ飛んだ。嘘みたいに、楽になった。他に能力の使いかたを知らないため、自傷行為はつづけたが――別にもう何も怨んでいないし、死にたいわけでもないし、人生にそこそこ満足してすらいた。
 だから。
「死ぬんは嫌やなぁ……。堪忍してほしいなぁ、そんなん言うても仕方ないんかなぁ」
 トッペキは泣いていた。残りわずかな体液を、無駄に浪費していた。
 先ほどアマボンズに撃ち抜かれ、胴体からちぎれた両腕が間近に転がっている。尋常ではない深手だ、致命傷である――トッペキはもうじき死ぬ。即死できなかったのが不幸に思えるぐらい、痛くて、苦しくて、つらかった。
 それでも。
「何でやのん。何で、うちが――死ななあかんの」
 虚空に問いかけるが、返事はない。
 先ほどまでこの場で暴れ回っていたはずのアマボンズは、なぜか姿を消している。トッペキにとどめもささず、かといって治療するわけでもなく、こんな中途はんぱな状態で放りだすのは――アマボンズらしくない気がしたが。
 何か、非常事態が発生したのかもしれない。トッペキの生死など問題にならないぐらいの、おぞましい出来事が展開中なのだろうか。
 どうでもいい。どうせ、もうトッペキは死ぬ。この世界に関わる権利を失い、永遠の虚無へと引きずりこまれる。
 自分が死んだら、この身に宿った『聖楽器』ギロはどこへ行くのだろう。父の場合は、娘であるトッペキに受け継がれた。基本的に親から子へと受け継がれるのだ――だが、トッペキには子供はいない。恋人すらいない、そんな浮かれた職場でも人生でもない。
 肉親に受け継がれる、ということなら――今はどこで何をしているのかもわからない、母親が『聖楽器』ギロを身に宿すことになるのか。それは嫌だ。父と自分の、親子の絆そのもののようなこれを、あの憎たらしいひとに奪われるのは我慢できない。
 だからトッペキは死の間際、ひたすら願った。
「あげへんよ、お母ちゃんには……。うちのやもん、お父ちゃんからもろたんやもん。あんたには、あげへん。絶対に、これはあげへんよ……。大嫌いな、お母ちゃんなんかに」
 やがて涙も、血も止まった。体液と一緒に生命まで流れて、零れて、失われていく気がした。空っぽになったトッペキの内側で、乾いた風が吹いていた。もう痛みもない、何も感じない――ひたすら嫌で、不快で、苦しかった。
 だから、幼いころのことを思いだして。
 ちょっと感傷的になって。
「こんな、世界は――」
 何かを言いかけて、その途中で力尽きて、息絶えた。
 血と、書物が散らばった冷たい図書館の床の上で、ひっそりと命を終えた。

刈谷橙一/1

「――んひゃん!?」
 不意にキャロルが変な声をあげたので、橙一はギョッとしてそちらを見る。
 刈谷兄妹の暮らす教会、その居住区となっている一軒家である。
 奇妙な現象――全身の溶解、というに見舞われた妹・蒼衣が横たわった寝台がど真ん中にある、彼女の私室である。
 あまり女の子らしい内装でもない。おおきな本棚に並ぶのは各種の参考書や、専門書、堅苦しい文芸書ばかり。誰かからの借り物か、もらいものらしい少女漫画のコミックスや軽薄な雑誌が何冊か並んでいるが、景観から浮いている。
 ぬいぐるみのひとつもない。洋服たんにもクローゼットにも必要最低限の衣服しかなく、壁には汚れひとつもない制服が吊されている。無駄なインテリアや装飾はほとんどなく、寒々しいほど殺風景だ。
 昔はくだらない小物などを、大喜びで集めていたのに。そんなふうに彼女が蒐集した小石を加工したピアスを指先で撫でて、橙一ははなじろむ。
「ど、どうした?」
 視線の先、立派な事務机の正面、これも機能的なリクライニングチェアに腰掛けたキャロルが――肩を、指先を震わせて「はう、う」と吐息を漏らしている。
 あきらかに変な様子なので、橙一は心配してそちらへ駆け寄った。
「足でもったのか? おい、キャロル?」
 親にすがおさなごのように、そっと彼女のきゃしゃな肩をつかんで揺さぶった。
「あ、あぁ――驚いたわ」
 いつもは放っておいても延々と喋るのに、今はひたすら呆然として、キャロルは何度かおおきく瞬きをする。そこで橙一に気づいたのか、こちらを見上げて片目をつぶった。
 気遣ってくれてありがとう、と言うように。
 そんな彼女の正面では、蒼衣の私物であるかなり立派なデスクトップパソコンが光を放っている。キャロルにわれ、あれこれと橙一が最低限の使いかたを教えたのだ。その後、彼女はずうっとこの文明の利器を触っていた。
 まさか暇つぶしでもあるまいし、どうやらネットで何か調べ物をしているようだが――よくわからない。橙一も、非常事態の連続にややパニック状態になっていて、他人のすることに気を回す余裕もなかったのだ。
 それも仕方がない――大事な妹の蒼衣が目の前で溶けて、どろどろとした銀色の半液体になってしまったのだ。今はドグモとやらが(こちらも、橙一から見れば正体不明の怪しげな子供だが……)何かしたらしく、蒼衣は元の姿を取り戻し、ただ眠っているだけのように見えるが。まったく、安心はできない。
 いつまた蒼衣が溶けて、得体の知れないどろどろに変わるかわからないのだ――生きた心地すらせず、橙一は悪い夢を見ているような気分でひたすらしゅうしょうろうばいしている。
 そんな状態だったのだが、今さらながらキャロルの不審な行動に意識が向いて、当惑する。もう何もかもわけがわからなくて、誰か賢いものに解説してもらいたかった。
「さっきから何を調べてたんだ、キャロル?」
「治療法よ」
 ちいさな子供のように、疑問をそのまんま口にすると――キャロルは端的に応えた。パソコン画面が放つ光を照り返して、その不思議な白金色の髪がきらきらと輝いている。
 夜空の星々のように。
 それに一瞬だけ見とれながらも、橙一は重ねて問うた。
「えっと。蒼衣の、治療法ってことか? あれ、さっきの――何かどろどろに溶けちまったのって、病気か何かなのか? あんなの、聞いたことねぇけど」
「ちがうわ。病気ではないわね、あれは」
 彼女にとっても不可解なことなのだろう、かなり歯切れが悪い。
「あたしが調べてたのは、銃で撃たれた傷跡の治療法よ……。静が知りたがってたし、他に今あたしにできることもないし、ぱそこんとやらを活用して調べてたの。またあの子と話せるようになったときに、教えてあげられるように」
 橙一にはよくわからないことを言うと、キャロルは困ったようにはにかんだ。
「蒼衣の状態については、あたしよりもドグモが何やら訳知り顔だから――聞きたいことがあるならそっちに聞いてね」
 そのドグモは、蒼衣が寝転んだベッドのそばで膝を丸めて、熟睡している。床に座りこんだままよく眠れるな、とは思うが――何だかその寝顔がやけに安らかで、赤ん坊のように愛らしくて、無理に叩き起こして事情を聞くのははばかられた。
 無論、そうしたい気持ちもあるが。どうやらドグモのお陰で、どろどろに溶けて崩れかけていた蒼衣は助かったようなのだ――命の恩人だ、なるべく恩を仇で返したくない。
 安らかな眠りぐらい、甘受してほしい。
「よく寝てるわね」
 キャロルが橙一の視線を追って、寝息をたてるドグモに気づいて微笑んだ。
「演奏すると、疲れるものね。ドグモの楽器はあれね、音からいってハープね――美しい短音……。さっきまでギロの音色がやかましくってかき消され気味だったけど、それでも意地でがんばって演奏して、蒼衣を治してくれたわ。口は悪いけど、良い子なのね」
「ギロ?」
「響いてたでしょう、さっきまで耳が痛くなるぐらいの――ギロの爆音が。それはゆっくり音量が絞られて、今はもうかき消えちゃったけど」
 知らない単語を口にした橙一の独り言に、キャロルはいちいち長台詞で応える。ふと首を傾げ、難しい顔をしてから――彼女は深く吐息を漏らした。
「あぁそう、死んだのね。ギロを演奏していた子が――わかるわ、なぜか。記憶が、心が、楽器と一緒にあたしのなかに移動している。そうか、そういうことね……。あぁ、だからあたしは『お姫さま』なんだわ」

刈谷橙一/2

「……どういうことだ?」
 キャロルまで意味不明なことを言い始めたので、橙一は恐ろしくなった。不意に彼女が、奇妙な異世界からの来訪者であることを思いだす。理屈の通じない、摩訶不思議な、橙一の常識の外側からきたお客さまであると――。
 思わず後ずさってしまった橙一に気づいて、キャロルは寂しそうな顔をした。
「ごめんなさい。あたしっていつもそうね、思いついたことをしゃくせずにそのまんま話すから意味がわからないのよ。静にもよく怒られたわ、でも喋れるってことが嬉しくってねぇ――楽しくって、つい勢いよくどんどん話を進めてしまうのよ」
 リクライニングチェアを回転させて、キャロルがこちらに向き直る。お上品に膝の上に手を添えて、しゅくじょめいて微笑んでいる。
「でも。橙一には、蒼衣にも……さんざんお世話になったし。あなたたちが愛おしいから、あなたたちを安心させたいわ。そのために、あたしのお喋りする喜びは、快楽は後回しにしていろいろ説明してあげる」
 わからないところがあったら聞いてね、と赤ん坊をあやす母親のように優しく言って――キャロルは手を伸ばして、橙一の頭を撫でてきた。
 よしよし、と。
 その手をすぐに戻し、指揮者のように振りながら――彼女はとうとうと語る。
「橙一。聞いて。あなたたちが暮らしているこの世界の他に、異世界、と呼ぶしかないものが存在することはもう知ってるわね。あたしは、どうやらその異世界そのものみたい」
「………?」
 やはり理解できなくて、橙一は情けなく思いながらも何も言えなかった。キャロルもうまく説明できないのが歯がゆいのか、手を無駄にわきわきと動かしたり、何かを探し求めるように視線をあちこちに向けたりしている。
 言葉の通じない外国人と、一生懸命コミュニケーションをとろうとしている観光客そのものだった。実際、彼女は外国などよりよほど遠いところからの来訪者なのだろうが――そう橙一は考えて無理に納得していたが、ちがうのだろうか。
 異世界そのもの、とはどういうことだ?
「だからね。異世界というのは、とても生物的なものなのよ。巨大な、ひとつの生き物なの。あなたたちの知っているなかから単語を選ぶと、神さまみたいなものかしら。この表現でわかる? 宗教の話じゃないんだけど、あたし静が知っている単語を選んで話してるみたいだから――あの子、宗教関係者だからそっち方面の語彙がおおいのよ」
 そういえば静は、橙一の両親が熱心な出資者となっていたある宗教団体の幹部の息子で、生き神のように崇拝されていた。宗教団体がまだ活動していた当時は橙一も物心がつかない子供だったので、ぼんやりとしか覚えていないが。
 異様な集団だった。あまり思いだしたくもない。現在は宗教団体は解体され、静の両親も収監され――信者も散り散りになっている。だから現代の、橙一たちの生活には関係がない。そう思って、見ないふりを、考えないふりをしていたのだが。
 橙一たちは、その宗教団体の所有物件だった教会で暮らしているのだ。忘れられるものでもない――いつでもそれは、刈谷兄妹の人生に深く暗い影を落としている。
「その巨大な生命体、異世界が――半世紀ほど前にこの世界と激突したの。交通事故ね。その際に異世界は粉々に砕けて、その肉片はこの惑星に散乱しちゃったのよ」
 御伽噺のあらすじをなぞるように、キャロルはどこか他人事みたいに語っている。
「そんな異世界の中心、核となる、心のようなもの……。脳みそ、あるいは魂のような、中心点があたし。キャロルと呼ばれている、あたしよ」
 橙一は、その説明をすぐには飲みこめない。
 キャロルとはともに何週間も生活してきたが、見た目はやや変なものの普通の女の子である。自分たち、この地球で暮らす平凡な人間とさほどちがいはない。
 泣いて笑って、食事や睡眠をして生きている、どこにでもいる人間だ。
「そんなふうに、思いこまされたみたいね」
 橙一の心を読んだように、キャロルはまだこちらが何も言わないうちにも――淡々と語りつづける。
「心を、思考を操る、特殊な能力をもつものがいるみたい。そいつが仕込んだ悪意が、呪縛が、いまだにあたしを戒めている。すくなくとも、記録にはそうあるわ」
 記録? また意味のわからない単語がでて、橙一は眉をひそめる。何か重要な話をされているようだが、ついていけなくて――それが悔しい。
 今はただ、黙ってキャロルの話を聞いた。いつか、その語った意味がわかる日がくるかもしれない。だから、その言葉のひとつひとつを脳髄に刻みこんだ。
 そうするべきだと思ったのだ。
「半世紀前の交通事故――衝突の際に飛び散った肉片は、ぶつかった際にこの惑星にへばりついてしまったけれど。剥がれたら、あたしの元に戻ってくる。そういう性質があるみたいね。今、そんな肉片のひとつ、ギロがあたしの元に戻ってきたのよ」
 ギロ。またその単語だ。どうやら楽器らしい――音楽の授業で習った気がする、橙一はあまり真面目な学生ではないのでうろ覚えだったが。ギロギロ鳴るからギロ、という安易なネーミングなのが妙に面白くて、覚えていた。
「普通、こんなことは有り得ないみたいね。そんな肉片――『聖楽器』と名付けられたらしいけど、それを集める組織があるみたいで……。その組織が、強大なちからをもつ『聖楽器』を手放したがらずに、確保して、独り占めにしていたから」
 キャロルは足をぶらぶらと動かして、遠い目をしながら語る。ちょっと離れた位置にある書物を、がんばって朗読しているみたいだった。自分でも理解できない内容もおおいのか、やたら首を傾げながら――ひたすらにそれを読み上げている。
 何かの真実を、口にしている。

刈谷橙一/3

「だから。今回は、想定外の事態みたいね。『聖楽器』ギロの所有者だった、トッペキ――本名・財山香苗ちゃんは本来、肉親である母親に移動するはずだった『聖楽器』を、受け渡したがらなかった。母親が嫌いだったから……。だから行き場を失った『聖楽器』は、本来そうあるべき流れとして、あたしのほうへ還ってきた」
 胸元に手を添えて、キャロルは神妙な顔をする。
「香苗ちゃんは組織において、そこそこの地位にいたみたい。そんな彼女の記憶、閲覧した組織の記録を――あたしは読めるようね。『聖楽器』ギロと同化した、香苗ちゃんの魂を吸収したせいかしら。欠落もおおいし、彼女の勘違いなどもあるだろうけど、いろんな知識が補完された気がするわ」
 みたいとか、気がするとか――曖昧な物言いである。
 あくまでもキャロルが取りこんだという、その香苗なる人物の記憶を眺められるだけなのだろう。それがキャロルにとって意味不明な代物なら、眺めてもそれが何なのかはわからない。推測するしかないし、それが正解かもわからない。
 たとえば文明を知らない原始人の前で、現代の野球をやってみても、彼らには意味がわからないだろう。棒きれを握って戦っているようだ、と漠然と思う程度のはずだ。
 その真意はわからない。それでも、何も見えないよりは遙かにましだ。
 香苗とやらが見聞きしたものを取りこみ、キャロルの知識は増している。手に入れた情報をひとつひとつ考察し解釈しながら、丁寧に語ってくれている。
「これは、幸運だわ。このチャンスを活かすわよ、橙一」
 リクライニングチェアの上でややはしたなく胡座をかいて、キャロルは笑った。
「どうやら『聖楽器』ギロは、他の『聖楽器』の能力を打ち消すちからがあるみたい。音波に、同じ音波をぶつけたら消えるでしょう? それと同じよ、って説明でわかる?」
 わからなかったが、キャロルは興奮したようにまくしたてている。
「さっきまで、あたしが演奏できなくなってたのはそのせい。なぜか香苗ちゃんが、『聖楽器』ギロを最大の音量で掻き鳴らしつづけていたのよ。『聖楽器』の能力が打ち消される音波が世界に満ちていたせいで、他の音色がさえぎられていたのね」
 新理論を発見した熱心な科学者のように、一方的に言葉を並べている。
「でも不思議ね。香苗ちゃん自身は、『聖楽器』ギロの能力を他の『聖楽器』の持ち主を捜し当てる……みたいな感じに用いていたわ。最小限の、狭い範囲にしか能力を活用できてなかった。それなのに、何で急に『聖楽器』の真のちからを発揮できたのかしら?」
 キャロルはそこで一旦、おごそかな目つきになる。暗い、大事なものを傷つけられた親猫めいた眼差しだ。凄味すらあって、橙一はちょっとひるんだ。
「ど、どうした?」
「何か、嫌な感じがするの……。香苗ちゃんに無理やり、『聖楽器』ギロを全力で演奏させた何者かがいるみたい。そう考えるとつじつまがあうわ。でも、それは誰? 何のために、そんなことをさせたの? 演奏はもっと、楽しいものであるべきよね?」
 彼女はそれだけ言うと、首を傾げて考えこんでしまう。置いてきぼりになっていた橙一は、その様子があまりにも真剣だったので――声をかけることもできない。
 彼女の語った内容を頭のなかで吟味する、余裕もなかった。
「……えっ、何?」
 不意にキャロルが顔をあげて、耳元に手を添えた。
「どうしたの、静? えっ、えっと――ちょっと待ってよ。あたし考えごとをしてるの。あなたっていつも一方的ね、それはあたしも同じ? お互いさまってことね!」
 急に独り言を始めたかと思うと、キャロルはおもむろに立ち上がった。リクライニングチェアを尻で押しのけるようにして、前のめりになっている。
「うん。大丈夫、『聖楽器』ギロの音色は完全に停止してるわ……。持ち主の、演奏者の香苗ちゃんが亡くなったから――えっ、それは誰って? あとで説明してあげる!」
 電話で通話しているような、支離滅裂な発言をして、キャロルは微笑んだ。
 前向きで、ごうな笑みだ。見ているだけで、元気になるような。
「今は――そうね、そっちのほうが緊急事態ね! 今からそっちに行くから、一瞬だけでも入れ替わりましょ? 今ならできるはずよ! 橙一がちょっと混乱しっぱなしだから、あなたのほうでできるかぎりフォローしてあげて! よろしくね!」
 どこか楽しそうに言うと、キャロルは一度だけまた橙一の頭を撫でて――頬を寄せてくる。彼女の長い髪が、橙一の視界のぜんぶを覆ってしまった。
「ごめんなさい、橙一。話の途中だけど、あたし行かなくちゃ。静がお世話になったらしい、かわいい女の子が死んじゃいそうなの――助けに行くべきよね? 命は大事だもん、誰ひとり死なせないわ!」
 彼女が叫ぶと同時に、その姿が切り替わる。
 瞬きするうちに、先ほどまで彼女が立っていた位置に――時任静が出現していた。
 入れ替わった。そうとしか表現できない、奇妙な現象だった。
「えっと――」
 橙一に抱きつくような格好で出現した静は、状況がわからないのか、困惑している。
「あ、あれ? 僕、元の世界に――現代に帰ってこれたの?」 
 そして嬉しそうに、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。
 橙一はやはり何も言葉にできないまま、ただその様子を眺めているしかなかった。

キャロル/1

 潮のにおいと、寄せては返す波の音。
 どちらもキャロルにとっては未知のものだったが、だからこそ嬉しくって――しばし堪能した。鼻歌などをさえずりながら、夢見心地で。
 だがすぐに、そんな呑気にしている状況ではないと思いだす。
 海水の生臭くも塩辛いにおいとこくした、けれど決定的に異なる、悪臭を嗅ぎ取ったのである。てつさびじみた、それは生理的嫌悪感を喚起する血のにおいだ。
 静と入れ替わったキャロルは、絶望的な光景のなかに立っていた。
 ごつごつとした岩壁に取り囲まれた、浅瀬である。小柄なキャロルの足首までの高さまでを潮流が埋めており、せわしなく波を立てている。お気に入りの服が汚れるのが嫌で、眉をひそめてから、キャロルは血のにおいを辿たどって周囲を見回した。
「あぁ――」
 すぐ間近の岩場に、ひとりの少女が横たわっている。
「あなたが、あかしゃちゃん?」
 ざぶざぶと足で海水を割りながら移動して、彼女を覗きこむ。
 酷い有様だった。想像はしていたが、それでも多少は怯んでしまう。
 朱紗というらしい少女は血と海水と、泥で汚れきっている。びしょびしょに濡れそぼっており、寒いのか小刻みに震えていた。元々は健康的だったはずの濃い蜜色の肌は血の気を失い、くちびるが青ざめている。
 肩と、太股に銃痕。全身に、無数のさっしょう。服の代わりらしい全身に巻き付けた飾り布はあちこち解けたりちぎれたりしていて、脱げかけている。あらわになったおへそのあたりに手を添えて、眠るように失神していた。
 どう見ても瀕死の重体である。何の処置もしなければ、すぐにでも死ぬだろう。キャロルのなかに回収された『組織』の少女、トッペキこと財山香苗と同様に。
 そんなふうに観察しつつ、礼儀として軽く頭を下げる。
「うちの子が、静がお世話になったわね。……うん?」
 げんになって、キャロルは己の長い髪をくるくると指先で巻き取る。
 静との会話では声しか届かないし、おまけに彼はとても説明が上手とは言えないため――あまりこちらの状況を理解できていなかったのだが。こんなのは、想定外である。
「この子は……。たしかアマボンズちゃん、だったかしら」
 一瞬だけめいもくして、キャロルは考えこんだ。静が経験した出来事は、この肉体に、脳みそに刻みこまれている。それを参照し、数秒でキャロルは結論した。
 この子が自分たちをかつて高速道路で襲った奇妙な少女、アマボンズと同一人物かはわからない。静も、判断できていなかったようだ――見た目はほぼまったく同じだが。何にせよ、静がこの子にお世話になった事実は変わらない。
 この子のことを助けたいと、彼が望んでいたということも。
「よくわからないけど。とりあえず、あなたを助けるわね」
 静はこの女の子を――天里朱紗を、それなりに大事に想っていたらしい。ならば、その気持ちを尊重する。それに相手が何者であれ、目の前でうら若き少女の命が花と散るのを黙って見過ごすのは、キャロルの流儀ではない。
「朱紗ちゃん。……音楽はお好き?」
 返事がないのを理解しながらも、キャロルは静かに問うた。
 静には喧しいとか静かにしてとか不評だったので、ちょっと自信を失いかけているが――それでも演奏が自分の役目だ。
 腕を振り上げて、下ろした瞬間にはもうキャロルの目の前に奇妙な楽器が出現している。周囲の物質――今回は暗褐色の岩や貝殻を元にして形成した、ピアノめいた楽器である。様々な音色を響かせられる、キャロルの主力武器だ。
「歌がないのは寂しいけれど。文句を言ってもしょうがないわね、緊急事態よ」
 そんなことを言いながら、鍵盤に指を添える。
 軽やかに、キャロルは癒しの旋律を奏で始める。

アマボンズ/1

 遠い昔に聞いた覚えがある島唄のような、優しい音色が響いている。
 否、幻聴かもしれない。血のにおいで満たされた図書館は、まったくの無音である。耳が痛くなるほどの静寂のなか、A・B・アマボンズは何度か瞬きをした。
「………え?」
 さすがに当惑して、しばし立ち尽くした。
 状況がわからない。だが自分が臨戦態勢であることをどうにか思いだして、ひとまず機敏に間近にあった倒れたしょの陰へと飛びこむ。身を隠しつつ、必死に思案した。
 今、自分は消えかけていた。未知なる『聖楽器』の能力か、何かの怪奇現象に見舞われて――存在が消滅しようとしていた。そんな実感がある。思考が途切れる直前、ゆっくりとお化けのように透けていく己の手や腕を、存在を知覚していた。
 そのとき取り落とした拳銃と通信機も、先ほどまでアマボンズが立っていた位置に転がっている。夢でも幻覚でもない、自分は確実に消え失せようとしていたのだ。
 だが、なぜかその奇妙な現象は停止し、己は助かった。確かめるように両手を何度か開閉し、深呼吸して――アマボンズは高鳴る鼓動を聞くともなく聞く。
 血が巡っている。肉体はここに実在している。自分は、生きている。
 ならば、動くべきだ。
 今、この世界では前代未聞の不可思議な出来事が生じている。対応し、解決するのが自分の役目である。それが、自分の生きる意味で――存在価値だ。
 あるいはしょくざいである。
 胸の前で十字を切るような仕草をしてから、アマボンズは恐る恐る書架の陰から顔をだした。視線の先、荒れ果てた図書館の奥は血の海になっている。
 乾きかけた血溜まりに突っ伏して、組織の知人――トッペキが事切れている。
 生きていないのは一目見ればわかった。組織の優秀なエージェントとして様々な経験を積んだアマボンズは、たいを見慣れている。そこに転がっているものが、すでに生命活動を終えた単なる肉であると、なきがらであると本能的に察する。
「トッちゃん――」
 それでも何だか儚い気持ちになって、そろそろと書架の陰から進みでると、トッペキに歩み寄った。彼女の両腕はちぎれ飛んでおり、やや遠い位置に転がっている。自分が彼女の『聖楽器』ギロの演奏を止めるために、銃弾で撃ち抜いたのだ。
 死因もそれであろう。出血多量の、ショック死だ。『聖楽器』の使い手は大なり小なり肉体が強化されるが、別に不老不死になるわけではないのだ――血を失いすぎれば普通に死ぬ。自分が殺したのだ。
「ごめんね。まだ若かったのにねぇ、これから楽しいこともいっぱいあっただろうに。人生、まだまだ捨てたもんじゃなかっただろうにね」
 謝罪しながらトッペキに寄り添い、その首筋に指を添える。見開かれたままの彼女の両目を覗きこみ、瞳孔を確認。やはり、死んでいる。
「本当にごめん。でもまぁ、とりあえず……。それが任務だから、『聖楽器』が悪用されないように回収する」
 アマボンズはいちいち声にだして説明しながら――それが死者への最低限の礼儀だと思って、丁寧に後始末をしていく。腰に吊した己の『聖楽器』ラッパを握りしめて、銃を抜くようにして構える。
 その先端を、トッペキに向けた。
「間にあうかな? 間にあえばいいな! Splash……☆」
 大急ぎで、『聖楽器』ラッパを使用する。やはり拳銃のような引き金を、握りこむようにして絞った。瞬間、爆音が轟く。
 高らかな、『聖楽器』ラッパの音色である。
 先ほどまではなぜか『聖楽器』が使用できなくなっていたが、今は再び使えるようになっている。音には淀みがなく、なめらかに能力が発動する。
 普段、アマボンズはこの『聖楽器』を単なる武器――それこそ銃器のように用いている。だが、これには他の『聖楽器』と同様に摩訶不思議な能力があった。
『聖楽器』を使用すると極端に疲弊する。疲れると動きが鈍り、任務の達成に支障をきたす。そう思って、普段はあまり能力を発動しないようにしているが。
「とりあえず、屍体ごと『聖楽器』を回収するね!」
『聖楽器』ラッパの音色が直撃したトッペキの屍体が、折りたたまれていく。
 そうとしか表現できない、奇妙な現象が生じた。
 包帯と血でまみれた自傷癖のある少女、トッペキこと財山香苗の屍体が折り紙のように内側に畳まれて、ちいさくなっていく。刹那、その全存在が視認できないほど収縮して――アマボンズの手にした『聖楽器』ラッパに吸いこまれる。
 肉食獣が獲物を丸呑みにするように。
 あるいはブラックホールのように。
『聖楽器』ラッパは、音色を炸裂させた対象を空間ごと折りたたみ、ちいさくして吸いこむことができるのだ。物理学に則った現象ではないので、いまいち理屈はわからないが――それがこの『聖楽器』に秘められた能力である。
 アマボンズが試したなかでは、最大で建築物――一軒家ぐらいのサイズまでのものなら吸いこめた。本気で形振り構わずこれを用いれば、もしかしたらひとつの惑星ぐらい……自分たちが暮らすこの地球ぐらい、丸ごと飲みこめるかもしれない。
『聖楽器』はおしなべて、たったひとつで世界を滅ぼすこともできる超兵器なのだ。
 もちろん、アマボンズはそんなことはしないが――とてつもなく危険で、強大な能力なので、やはりあまり使用したくはない。手に負えない、人間の身に余るちからだ。
 ちなみに何かを吸いこむだけではなく、解き放つこともできて、普段は吸いこんだ圧縮空気を放つことで通常兵器のように用いている。その程度でも、ちょっとした手榴弾ぐらいの威力はでるし――基本的にそれで充分ではある。
 過ぎたちからは身を滅ぼす。
『聖楽器』を身に宿したものたちの末路を、いろいろアマボンズは知っているが――だからこそ己はそうならないように自重している。いつも。これまでは。
 だが、今はそうも言っていられない状況かもしれない。
 余裕げな態度をかなぐり捨ててでも、対応しなくては。
「ん~……。『聖楽器』の感触はしないけど」
 トッペキの屍体を吸いこんだラッパを、アマボンズは指先で撫でる。音色を、能力を放ったことで、火傷しそうな熱が生じていた。
 だが『聖楽器』特有の、それこそ惑星でも吸いこんだような重みがない。トッペキが所有していた『聖楽器』ギロは、すでに失われていたのかもしれない。
 今はその確認は後回しにして、アマボンズは『聖楽器』ラッパを元通り己の腰に吊すと、床に転がった通信機のもとまで歩いて拾い上げる。
 組織に、連絡をとらなくては。
 アマボンズには現場判断である程度、自由自在に動ける程度の権力はあるが、組織に飼われている身の上だ――ご主人さまの意向をあおぐ必要はある。
 何より、状況を誰かに説明してほしかった。
 いつまでも理解不能な事態の直中で、翻弄されていたくない。
「ハロ~ハロ~、波浪警報……。こちらアマボンズ、現在の状況を教えてくれる?」
 前置きもなく、そう尋ねる。
 いつまた自分の存在が消える、というあの不可思議な現象に見舞われるかわからないのだ――動けるうちに、生きているうちにやるべきことを果たさなくては。

刈谷蒼衣/1

 刈谷蒼衣は、ゆっくりと意識を取り戻した。
 見慣れた自宅の、己の部屋の天井――。
「蒼衣ちゃん! 目を覚ましたんだね、大丈夫?」
 覚醒すると同時に聞き慣れた、いつでも耳にしたいと心から願っていた優しい少年の声を聞いて――一瞬、夢かと思った。寝惚けているのか、ぼんやりとしてしまう。
 ぱちくりと瞬きをして、こちらを覗きこんできている誰かをじっと見上げる。
「おにいさん」
 そこに、蒼衣のすべて、愛するすべてである時任静がいる。
 一瞬ちょっと違和感をおぼえたのは、彼がいつもつけていた左右非対称のヘッドフォンが見当たらないせいか。否、何だか全体的に雰囲気が変わった気がする。
 情けなくて気弱で、いつでもびくびくおどおどと怯えているような印象だった静だが――何だかちょっと、頼もしい感じになっている。今も献身的に蒼衣の看病をしてくれていたのか、なぜか濡れ布巾を絞っているようだった。
 風邪をひいたわけでもないのに。
 何だか妙に可笑おかしくて、蒼衣はくすくすと笑った。
「ど、どうしたの?」
「いいえ――」
 さすがに怪訝そうになる静に、蒼衣は満面の笑みで応えた。
「何でもありません。おはようございます、おにいさん」
 とりあえず静が愛おしくて堪らなくて、状況も何もかも捨て置いて抱きつこうと手を伸ばしたら、その指先を不意に握りしめられた。
「蒼衣! 大丈夫か? 気持ち悪かったりしないか? 心配したぞ!」
 兄の、橙一に。ごつごつした男らしい指の感触が何となく不快で、静とのスキンシップを邪魔されたのも腹立たしく――蒼衣はじゅうめんをつくった。
「橙一。ぎゃあぎゃあ騒がないでください、見苦しいですよ」
 かわいくないことを言ってしまったが、橙一は気にせずに、へなへなと腰砕けになって安堵の吐息を漏らしていた。何がなんだか、わからないが……。橙一がいる。静もいる。自分も生きている。それだけで、他のことはどうでもよい気もした。
 蒼衣は胸元に手を添え、深呼吸する。誰かが着せてくれたのか、なぜかボタンを掛け違えたパジャマなどを着ているが――いったいこれはどういう状況なのだろうか。誰が着替えさせたのか。おにいさんだったら恥ずかしすぎてもんする。
 否、今はそれどころではない。
「動くなよォ、まだ不安定かもしれねェからさ」
 枕元、蒼衣の頭の方向から――かわいげのない男の子の声がした。
 驚いて見ると、そこに不思議な人物が立っている。血のにおいがする拘束衣めいたものを身にまとった、まだ幼い男の子だ。血色の瞳。漂白剤でも用いたのかと思うぐらい色の脱けた髪。表情には疲労感があり、頬を汗が伝っていた。
「あァ、くたびれた……。余計な労働させんなよォ、畜生が」
 なぜか悪態をついている。この子は、いったい何者なのだろうか。
 自分の部屋に見慣れない男の子がいることが、何だか落ちつかず、蒼衣は当惑する。だが同時に、なぜか不思議なぐらい穏やかで安らかな気持ちでもあった。
 目を閉じれば、すうっと寝入ってしまいそうだ。
 蒼衣は、何か重たくて苦しいものから解放されていた。そんな実感がある。
「んっと。僕たちもいまいち状況がわかんないし、ちょっと変な話だから信じられないかもしれないけどね――」
 なぜか静が代表して、いろいろ説明してくれた。
 ずっとキャロルと入れ替わるかたちで姿を消していた静は、なぜか半世紀ほど過去の時代へと飛んでおり、そこで天里朱紗なる女の子に拾われて世話になったという。
 過去に移動していた、という時点で何がなんだかわからないが――。
 蒼衣はとりあえず、静の言うことは黙って聞く。
 何でも静が最優先だ。そのように、プログラムされている。
 ともあれ。静はその過去の時代において、なぜか島の人々に追われて殺されそうになり、朱紗は銃弾を食らって瀕死の重傷を負った。そんな彼女を救うため、キャロルが静と入れ替わって過去に飛び、治療に当たっているのだとか。
 その入れ替わりの理屈も、よくわからないけれど。
 今までどれだけ望んでも、せっついても不可能だったのに――今回はあっさり入れ替われたらしい。その理由も、理屈もさっぱりわからない。
 何にせよ、あの変梃へんてこな異世界のお姫さまではなく、愛すべき静がこの世界に戻ってきてくれたことを喜ぶべきだろう。何となく寂しい気もするが、別に死に別れたわけでもないのだろうし――キャロルとも会おうと思えばまた会えるはずだ。
 そんなことを考えている自分が、蒼衣にはすこし不可解ではあった。あんなのでも二週間ほど、共同生活をしているうちに愛着が湧いたのだろうか。
 煮え切らないもやもやした気持ちを抱えつつ、蒼衣は吐息を漏らした。
「ったくよォ。こっちの用件は済んでねェってのに、勝手に過去とかに行かれても困るんだけどよォ――『お姫さま』のやつ」
 ぶつぶつと文句を言っている、拘束衣を着た少年はドグモというらしい。彼はスワシワラなる人物を助けてほしい、と望んでこの教会を訪れたようだ。
 そういえば血まみれだった彼を見つけて、屋内まで運んだのは自分だ。寝起きで記憶が混乱しているというか、ちょっと変な具合だが――それを遅まきながら思いだす。
 ともあれ彼は、不意に溶けて崩れた蒼衣を再構築(という表現をしていた)し、治療してくれたらしい。お陰で、蒼衣は人間のかたちを保っている。
 かつて誘拐され、そして命を落としたあわれな少女――刈谷蒼衣の偽物である、この自分は生き長らえている。奇跡的に。幸か不幸か、ドグモの助けによって。

刈谷蒼衣/2

 頭のなかのもやが晴れたような、不思議な爽快感がある。
 蒼衣は、いろんなことを思いだし、しっかりと自覚できていた。自分はつくられた生命、時任静の情報を『独奏者』なる人物に送りつづけるために配置された単なる駒、情報端末である。可哀想な刈谷蒼衣の立場を乗っ取り、成り代わった恥ずべき偽物だ。
 静に感じる愛おしさも、執着心も、すべてつくられた感情だ。
 それを思いだした。
 自分は『独奏者』の仕込んだプログラムに動かされる、操り人形でしかない。
 それでも。
「蒼衣ちゃん。お水、飲む?」
 そっとこちらに水滴のついたコップを差しだしてくれる静を見て、胸の内側があったかくなる。この感覚は単なるプログラム、つくられた本能――それでもあらがいがたい。
 普通に、優しくされて嬉しくもあった。
「ありがとうございます、おにいさん」
 そっとコップを受け取り、ゆるゆると身を起こしてそれを飲んだ。銀色の何かで構成されたこの身体は、べつに栄養や水分の摂取を必要としないのだが。
 静の好意そのもののような冷たい水が、全身に染み渡り、幸せな気分になった。
 ともあれ――あまり、呑気にしている場合でもない。
「わけがわかりませんが。どうも、のっぴきならない状況のようですね」
 頭が混乱したままだが、どうにか自分らしいと思える何だか堅苦しい喋りかたを思いだしつつ、蒼衣は語る。
「おにいさんが戻ってきてくれたのは嬉しいですが――いきなり過去に飛ばされたり、わたしが溶けたり? 不可解な現象が頻発しています、困ったものですね」
「『困る』どころじゃねぇよ、蒼衣……。だ、大丈夫なのか?」
 おっかなびっくり、橙一が頭を撫でてきた。触るとまた蒼衣が溶けたり、砕けたりするとでも思っているのか、すぐに手をはなしてしまったが――。
「ええ。問題ありません、……どうもお騒がせしましたね」
 全員に対して、そう言った。なるべく、いつもの蒼衣らしく。もうこの身体の内側では何かおおきなものが切り替わっているが、それを決して悟らせないように。
 自分は偽物で、この場にいる資格はないかもしれないけど。
 このあったかい団欒だんらんのなかで、己の居場所で、まだ刈谷蒼衣として生きていたかった。それは『独奏者』に仕込まれたものではない、今の蒼衣自身の本心だった。
 そのためにも。疑われてはならない。偽物だと気づかれてはならない。
 いつかすべての嘘がかんされて、哀しい別れが訪れるとしても。
「……何ですか?」
 何か言いたげにドグモがこちらを見ていたので、蒼衣は問いかける。彼は眉をひそめ、じっとこちらを観察していた。彼はどうやらその身に宿した『聖楽器』ハープとやらで、蒼衣を治療してくれたようだが――その際に何かを察したのかもしれない。
 口止めをしておくべきだろうか。
 命の恩人に対して、あまり強気な態度で脅したりしたくはないが。必要ならば、蒼衣は決して躊躇ためらわない。この平和な日常を、己の居場所を守るために。
「まァ、とりあえず治療を終えたら『お姫さま』は戻ってくるんだよな? おれはそれを待つしかねェけどさ――あぁもう、振り回されっぱなしで腹が立つぜ!」
 ドグモは頭をがしがしと掻くと、無造作にその場に座りこんでしまう。今は、とりあえず蒼衣のことを追及する気はないらしい――彼自身にも、まだ具体的な推論があるわけではないというか、それどころではないのかもしれない。
 大事な、家族のように親密な相手が、危機に見舞われているようだし。
「あのう。ドグモくん――って呼んでいいよね、年下っぽいし」
 静がおずおずと、貧乏揺すりをしているドグモへと声をかける。
「そのスワシワラさんってひとなんだけど。僕、過去でそれらしいひとと一瞬だけ会ったんだよね……。わけのわからないことを言って、すぐに消えちゃった」
「あァん?」
 ドグモはかわいくない反応をしてから、首をかしげる。
「まァ、あいつは時間に干渉する『聖楽器』の持ち主だからな。過去にいたこと自体は、そこまで変じゃねェんだけど――ん~? あいつ両腕を切り飛ばされて、そのあと姿を消しちまったんだけど、もしかして過去に飛んで逃げたのかァ?」
「あっ、ちょっと待って」
 自分から話を振ったくせに、急に自らそれを遮って、静は耳元に手を添える。
「何? どうかしたの、キャロル?」
 どうやら、過去に飛んだというキャロルと会話しているらしい。彼は何やら時空間を無視して、キャロルと会話ができるようだ。蒼衣たちにはキャロルの声は聞こえないため、静がいきなり独り言を口にし始めたみたいで、なかなか珍妙な光景だが。
「はい? いや、僕はその島では朱紗ちゃん以外とはほとんど接触しなかったし……。知りあいじゃないよ。ってか島のひとたち、何か様子がおかしかったっていうかいきなり襲ってきたし――と、とりあえず逃げて! やばいかも!」
 緊迫した様子で、静が必死に叫んでいる。
「いやいや、いま交代されても困る! 僕は君とちがって、戦ったりできないもん! とりあえず逃げてよキャロル――朱紗ちゃんと一緒に、できれば安全なところまで!」

キャロル/2

「簡単に言うけどね、静」
 キャロルは癒しの音色を響かせるピアノを演奏しながら、冷や汗をかいていた。指先は忙しく鍵盤の上を走り、そのたびに朱紗の傷が塞がれていく。銃弾は貫通していたため、摘出などの必要はなく、傷を消毒しつつ治療していたが――。
 血を流しすぎている。静養と、できれば輸血が必要だ。朱紗の意識は戻らず、ぐったりしたまま――とりあえず現代でパソコンを用いて調べた医療知識で、最低限の処置をしたが、朱紗が助かるかはまだわからない。安心はできない。
 キャロルはその意のままに動かせるピアノを用いることで、いろんな奇跡めいた、魔法めいた能力を発揮できるが――いまだに自分に何ができて、何ができないのかはよくわからない。とりあえず感覚的に、できると思ったから治療はしてみたが。
 それが静の望みだったから、懸命にそれを果たしたのだが。
 そして実際、ある程度はうまくいったようだが。
 朱紗は一命を取り留めたようだが、どこか清潔でゆっくり休める場所に運ぶ必要がある。こんな不衛生な海辺で、冷たい海水にひたひたに浸ったままでは健康体であっても病気になってしまいそうだ。
 身震いして、キャロルはいったん周囲を見回した。
 いつの間にか。
 どうも島の外縁部分にあたるらしいこの浅瀬に、いくつもの船が近づいてきている。漁獲に用いられるのだろう、古めかしく錆が浮いた漁船の群れだ。ちょっと数えきれないほど、海面を埋めるほどの量だし――そのすべてに武装した人々が乗っている。
 彼らは手に手に草刈り鎌や、木材を伐採するための斧やなた、料理に用いる包丁、魚を獲るためのもりなどを握っている。何人か、警察や軍人らしいものがいて、彼らは銃器を構えている。一揆でも起きたみたいな有様だわ、とキャロルは静の知識を検索しつつ考えて――ぞっとした。
 彼らはすべて、こちらに無機質な視線を向けてきている。
 狙いは、こちらだ。
 静の話だと、彼らは問答無用で襲ってきたらしい。朱紗も、彼らの放った銃弾で瀕死の大怪我を負った。こちらを狙い、殺そうとする敵だと思ったほうがいい。
 何で襲われるのか、意味がわからないが――無視もできない。
「仕方ないわね」
 朱紗の治療はまだ完了していない。ピアノの演奏をつづけながら、キャロルは自分のすべきことを思案する。『聖楽器』もそうだが、キャロルのピアノも楽器の性質をもつため――使用するたびに必然的に音がでる。島の人々は、それを辿って追ってくる。
 朱紗の治療を中断するわけにもいかない今、静かにこっそり身を隠しながら逃げるのは無理だ。かといって、戦うのも避けたい。
 島の人々は何だか様子がおかしいが、単なる人間であろう。ピアノを武器として用いてキャロルが暴れれば、死傷者がでる。半世紀前のこの時代で、必死で生きている人々を――現代の誰かの遠い先祖かもしれない命を、奪い去るのは問題がある気がした。
 何より、血は見たくない。キャロルは兵士ではない、頭のおかしい人殺しでもないのだ――戦闘はしたくない。もちろん、己の命を守るためなら仕方ないが。
「今は逃げるしかないわ」
 そう判断し、ピアノをけんしながら、歌うように叫んだ。
「あたしのノイズ! ここにいるんでしょ? お願い、出てきて!」
 瞬間、キャロルのお腹のあたりに闇が渦巻いた。
 そこから、何かが飛びだしてくる。

キャロル/3

 それは巨大な、闇そのものである。薄暗い洞穴じみたこの空間では、ほとんど視認できない。渦巻く闇の集合体、としか表現できない代物だ。
 それは獣の唸り声をあげながら、ゆっくりと実体化していく。
 キャロルのピアノと同様に、周囲の物体を取りこんで己の身体を形成しているのだ。たった数秒で、闇は巨大な獣の姿をとった。
 乗用車ほどのサイズ。全身を覆った鎧めいた毛皮。頭部らしきものはあるが、目も口も鼻もない――どちらかというと機械のような、バイクじみた外見である。
 静が見れば驚いただろう。それは、キャロルと静が入れ替わった直後――ずっと夢のような空間で静を追いかけ回していた異形の獣である。(キャロルの主観で)二週間ほど前の、高速道路での大騒動の発端になった存在でもあった。
 あの騒動のあと、キャロルが暇つぶしも兼ねて何とか調教――調律して、ある程度はこちらの言うことも聞くようになっている。だが基本的には、道理の通じぬ怪物だ。
 しばらく、何の前触れもなく姿を消していたようだし――その行動は不可解で、理解の及ぶものでもない。キャロルにとっては忌まわしい存在でもあるし、姿を見るだけで悩ましい気持ちになる。
 できれば、あまり頼りたくはなかったのだが。
「ノイズマシーン――」
 そう名付けた異形の獣を、キャロルは見上げる。
「助けてほしいの。あたしは演奏をつづけるから、そんなあたしと朱紗ちゃんを乗せて安全なところまで運んで。お願い、あとでお礼はするから。その恩は忘れないから」
 黒い獣――ノイズマシーンは言葉を理解できているのか、どうなのか、よくわからないが身震いをした。そして、あっさりキャロルを口にくわえて、真上に放り投げた。
「わわわっ!?」
 あまりにも乱暴な扱いに文句を言う前に、つづけてノイズマシーンは同じように朱紗も投げる。まずキャロルが、つづけて朱紗が重力に従って自由落下――ノイズマシーンの背中に移動させられた。
「んもう、もっと丁寧にしてよ!」
 キャロルが喚いているうちに、その腰に黒いものが絡みつく。ノイズマシーンの身体からのびた、黒い糸――ずり落ちないように固定するシートベルトのようなものか。
 朱紗も同様にしっかり確保してから、ノイズマシーンは朗々ろうろうえた。
 何の楽器のそれかもわからぬ、耳障りな旋律だった。
「ひゃっ――」
 びっくりしてキャロルが身をすくませているうちに、ノイズマシーンは動き始める。少女ふたりを背中に固定したまま、地を蹴った。衝撃に、海水が派手に舞い上がった。

挿絵10

 そのままノイズマシーンは地面を、岩壁を蹴って立体的に跳ねる。一瞬で洞穴どうけつじみた空間から飛びだし、海の方角へ。
「ちょっ、あたしのノイズ! そっちじゃないわ、言うことを聞いて!」
 キャロルはどうにか癒しの演奏をつづけながら、地団駄を踏むようにしてノイズマシーンの背中をややはしたなく蹴りつける。
 進行方向には、無数の船が漂っている。つまり血に飢えたようなぎらぎらした目をした島の人々がいるのだ――かつにそちらへ飛びこめば、最悪の場合は血祭りにあげられる。
 実際、島の人々は色めき立ち、声なき声をあげながらこちらを指さして船を動かし始めている。何発か銃声もした。攻撃をされている……。幸い、銃弾はこちらからおおきく外れて無駄に岩壁をえぐったり、海水に着弾して波紋を広げただけだったが。
 不快そうに唸って、黒い獣は首を振った。
 そして、海面から突き出した奇岩に着地、おおきく跳ねる。乱暴な上下動に、キャロルの長い白金色の髪が躍った。
「ひあぁっ!?」
 お姫さまらしからぬ悲鳴をあげて、キャロルは目を白黒させる。
 だが同時に、すこし感動的な光景を見た。
 海だ。
 どうやら、こちらでの時刻は早朝のようだ。水平線の向こうから顔をだしたばかりの朝陽が、世界を真紅に染めている。陽光を反射し、なみ飛沫しぶきのひとつぶひとつぶが宝石のように輝いている。
 キャロルにとって、自分では初めて見る大海原だった。工業廃水のせいか黒ずんで見える、油の浮いた汚い海ではあったが――それでも海は海だ。大自然の、美があった。
「綺麗な世界ね、本当に」
 恍惚こうこつと吐息を漏らしたが、すぐにそれどころではなくなる――あちこちにきのこのように生えている巨岩を足場に、ノイズマシーンが小刻みに跳躍。重力を無視するような動きで断崖絶壁を駆け上がり、あっという間に島の内陸部へ。
 さびれた漁村じみた島の光景のなかへと、飛びこんでいく。
 全力疾走で。
 そちらにも、けっこうな人数の島民がいて、さすがに急に出てきた巨大な黒い獣に驚いたのか絶叫をあげていた。拍手で出迎えられるとは思っていなかったが、化け物にでも遭遇したようなリアクションをされるのは不本意ではある。
 キャロルは溜息をつくと、ピアノでの演奏を再開する。幸いにノイズマシーンから伸びた糸のようなもので固定され、キャロルも朱紗も振り落とされることはない。
 どんな状況でも演奏に専念し、綺麗な音色を響かせるのが己の役目。
 キャロルはそう強く念じながら、ピアノの鍵盤を丁寧に叩く。
 うるわしい旋律を奏でながら、キャロルは死地を駆け抜ける。