アマボンズ/1

「何だかんだでさぁ――」
 組織の優秀なエージェント、A・B・アマボンズは迅速に異常事態に対応する。彼女には経験があり、技量があり、持って生まれた気質があった。どんな苦難も笑って乗り越えられるような、無邪気で前向きな推進力――物語の主人公のような人格があった。
「異世界ではどうだか知らないけど、やっぱりこの世界では――地球では、あたしたち人類が最強なんだよねぇ。どこの誰が何のためにこんな意味不明な事態を引き起こしてるのかは知らないけど、あんまり霊長類をめないでほしいよね」
 誰に聞かせるでもないのに朗らかに語りつつ、アマボンズは駆ける。組織の拠点のひとつである平凡な図書館の床を、濃い蜜色の足が機敏な草食獣のように踏みしめていく。
 目指す先には、組織の構成員――トッペキがいる。彼女は図書館の壁に背中を預け、今も奇声を発しながら全身を掻きむしっていた。包帯が解け、傷ついていない箇所がないのではないかと疑わせるほど疵痕だらけの肌を晒している。
 その全身から、彼女の『聖楽器』――ギロのものと思しき爆音が放たれている。
 物理的な音波が図書館じゅうのしょを揺らし、大量の本を雨のように降らせている。お陰で視界が不明瞭なうえに足下もおぼつかないが、アマボンズは転びそうになる素振りもなく真っ直ぐに走る。落下してきた書籍を軽やかに避け、たまに腕で払いのける。
 アマボンズは訓練と実戦を豊富に積み重ねた、組織が誇る万能無敵のエージェントだ。現在、なぜか『聖楽器』が使用できず――腰に吊した拳銃のようなラッパも靴やポーチに仕込んだ鐘も何の反応も示さないが、道具が使えないなら生身で動くだけだ。
 元々、アマボンズは『聖楽器』を己の行動の補助程度にしか用いていない。そこまで頼りにしていないのだ――怪しげな異世界由来の産物、摩訶不思議な兵器に頼りすぎることを本能がしていた。
 そのため肉体を極限まで鍛え、科学が生んだ最新兵器の扱いに習熟している。
『聖楽器』の使い手はその神から不意に与えられた奇跡そのもののような道具を、やたらと濫用したがる。だが強力な道具に、能力に依存しすぎてそれに振り回されてばかりだ。それ以外の要素をとことんまで追究し、熟練させたアマボンズの敵ではない。
 ゆえにこそ。アマボンズは、奇々怪々なる組織のなかにおいても特筆すべき存在に成り得た。突出した、優秀なエージェントと評されているのだ。
「任務達成に必要なのは、たぶん『聖楽器』とかじゃなくて――」
 癖でつい舌をだしつつ、アマボンズは挑発的にえた。
「努力と根性と、毎日の筋トレと豊かな食生活! そして充分な睡眠時間!」
 元気よく語りながら、トッペキのそばまで駆け寄る。どんどん落ちてくる本の雨を舞うようにかわした瞬間、その両手には手品みたいに武器が握られている。

挿絵9

『聖楽器』であるラッパではない。右手には暴徒鎮圧用の電気銃、左手には破壊力に秀でた大口径の拳銃。そこそこ重量があるし大の男でも扱いには難渋する代物だが、アマボンズは『聖楽器』を宿したものに特有の身体能力の向上という恩恵を受けている。ゆえに、玩具のようにそれを容易く操る。
 見た目はまさに、水鉄砲を振り回してはしゃぐ子供のように。
 けれど指先と表情はれいに、無慈悲に引き金をひいた。
「ばきゅ~ん!」
 ふざけているような掛け声とともに、電気銃を撃った。弾丸を射出する通常の拳銃ではない。有線の矢を発射し、電気銃本体に備わった電力を流して感電させ麻痺させる非殺傷武器である。
 有線のためどうしても射程が糸の長さによる制限を受ける、限界まで近づかなくてはいけなかったが――そうしなければならない理由があった。
 アマボンズが狙ったのは、今も自傷により血を流しているトッペキである。
 同僚だ。べつにお友達などと呼べるほど深い関係ではないが、何度も会話を交わして気心が知れた相手ではある。かわいく優しくおっとりとした彼女を、アマボンズは好意的に思っていた。殺伐とした人間がおおい組織における、陽だまりのような存在だった。
 仲良くなれる気がしていた。
「がっ、ひ――」
 電気銃の矢は寸分違わず、正確にトッペキの胸元に突き刺さる。同時に電流がほとばしり、彼女はけいれんした。焦げたようなにおいとともに、その唇の隙間からよだれがこぼれる。
 相手も『聖楽器』の使い手だ、身体的には強化されている。容赦はできなかった。常人なら心臓麻痺を起こしかねない強烈な電撃である――けれど、あまり手応えはない。
「ひっ、いい! ひいいぁああ……!?」
 悲鳴をあげながらトッペキはがくがくと震えて、身体を丸める。彼女はどうも錯乱しているのか曖昧な状態なようで、その口からは理性的な発言がでてこない。
 電撃で焼け焦げた衣服と包帯の切れ端が宙を舞い、蛍のように輝いた。
 その間もトッペキは意識を失うこともなく、身体を引っ掻いている。見るに堪えない自傷行為は止まらない――ギロの音色も、途絶えずに響いている。
「ちぇっ、これで失神して演奏を止めてくれたら簡単だったんだけど」
 アマボンズは唸ると電気銃を放り捨て、後退。倒れた本棚の後ろに隠れつつ、左手に握った拳銃を両手で構え直す。電気銃で狙うには接近しなくてはならなかったため肉薄していたが、もはや危険を冒してまで『聖楽器』の使い手のそばにいる意味はない。
 拳銃の有効射程、というかアマボンズが狙って当てられる範囲は半径十五メートルほど。しゃへいぶつなどに邪魔されたり避けられたりしなければ、この図書館の室内ほぼ全域がアマボンズの狩り場となりうる。
 己の安全性を確保してから、深呼吸。
「ごめんね、トッちゃん」
 無邪気な言動を綺麗に消し去り、アマボンズは拳銃を構える。
 引き金を二回、呆気なく引いた。
 トッペキの両腕、その根元が撃ち抜かれてぶきが舞った。

アマボンズ/2

 アマボンズは、ゆるゆると拳銃を握った両手を降ろした。
 おおきく息を吐き、拳銃は右手のみで保持する。発砲した反動で痺れた指先――空いた左手で、ポケットをまさぐる。何か甘味がほしかったのだが、あいにくと切らしていた。ここのところ忙しくて、コンビニなどでお菓子を購入する暇もなかったのだ。
「こんなことなら、トッちゃんに誘われたときにうなずいてさ……。ロールケーキ、食べさせてもらえば良かったな。まぁ、今さら何を言っても後の祭りだけど」
 まだ数時間も経過していない、この図書館でトッペキと交わした何気ない会話を思いだしながら、アマボンズはぼやく。再び拳銃を両手で構えて、弱々しく首を振った。
「スワシワラちゃんじゃあるまいし、過去は変えられないもんね。選択ミスを嘆いてみても仕方ないか――あ~あ、相変わらずままならない世の中だねぇ?」
 一瞬だけ老婆のようにえんせいてきな目つきになると、気持ちを切り替える。人間を撃ったのは初めてではない、いちいち小娘のようにパニックになるほど若くも愚かでもない。それに、どうやら異常事態は何も解決していない。
 いまだに落ちてくる本をかるく避けながら、身を低くして本棚に隠れたままトッペキのほうを見る。頭が痛くなるほどの、ギロの音色を聞きながら。
 いまだに、『聖楽器』の演奏は止まっていない。
 どうやらトッペキは、その両手で身体を掻きむしることで『聖楽器』ギロの演奏をしていた。それを強制的に止めるために、腕を撃ち抜いてみたのだが――。
 トッペキはあろうことか、瀕死の重傷を負いながらも床に身体を擦りつけて演奏を続行している。飛び散った硝子片によって傷つき、出血しながら音楽を紡いでいる。
 ここまでくると、本気で異常だ。トッペキには自傷癖があるとはいえ、基本的にはおおらかな普通の女の子である。激痛のショックで失神することもなく、一心不乱に我が身を傷つける。そんな、人間の常識から外れきった行動はしないはずである。
 本人の意志ではなく、何者かに操られて非合理的な行動を強いられている。そんなふうに推測してみるが――アマボンズは、すこし違和感を覚える。
 人間を操る、なんて簡単に言うがそんなことは現代の科学でもほぼ不可能だ。長い時間をかけて洗脳すれば、できなくもないだろうけど。魔法のように、あるいは超能力のように簡単に人間を操ることはできない。
 そんなのは、フィクションの世界だけの話だ。
 ならば疑うべきは、通常ではありえない奇跡をも可能とする『聖楽器』だが――現在、とりあえずアマボンズの所有するふたつの『聖楽器』は使用できなくなっている。
 他の『聖楽器』も同様に機能を停止しているとしたら、何がトッペキに自傷行為を強制しているのか。あるいは、アマボンズの『聖楽器』のみが使用できなくなっている?
 こんな事態は初めてなので理屈も立てられず、推測しようにも材料が足りない。今、巻き起こっていることに何の意味があるのか――それすらも不明なのだ。
 組織と敵対する、何らかの存在からの攻撃?
 理解の及ばない、恐るべき陰謀の一環?
 いろいろ考えてしまうが、だとしても何だか不自然な気がする。敵が見えない、その目的も何もかも……。単に脈絡なく非常識な事態が展開しているだけだとすると、そんなものはもう災害だ。どうにもできないし、どう対処するのが正解なのかもわからない。
 とりあえずやかましいし、物理的な被害もでているので、トッペキの演奏を止めようと思ってあれこれ手を尽くしてみたけれど。麻痺させても、両腕を吹き飛ばしても彼女は演奏を止めなかった。
 こうなると、トッペキを殺すしかない。『聖楽器』はその使い手の命を奪えば、たいてい演奏を止める。名前のとおり楽器なのだ、それを奏でるものがいなければ権能を発揮できない。無論、半ば自動的に鳴りつづけるように思えるスワシワラのオルゴールのような例外はあるにせよ――たいてい、使い手を殺せば『聖楽器』も止まる。
 けれど。
 殺してもいいのか。
 アマボンズは冷酷な殺人マシーンでも、任務達成のためなら手段を選ばない徹底した合理主義者でもない。感情がある。人格がある。泣いて笑って怒って生きている、ひとりの人間である。
 何だかわからないけど喧しいし不安だからって、友達になれそうだったひとりの優しい女の子を殺せるのか。殺してもいいのか――そんな権利が、自分にあるのだろうか。
 トッペキを見る。両腕を吹き飛ばされる重傷だ――とくに左腕は心臓に近い位置のため、失えば太い血管が破れて大量に血が溢れだしてしまう。包帯と自傷痕が目立つ愛らしい少女の周りは、すでに血の海である。
 放っておいても、すぐに失血死するだろう。
 それを待たずに、すぐ殺すのも簡単だ。拳銃を構えて、狙って、撃てばいい。
 五秒もかからない。けれど、アマボンズは迷ってしまった。
「…………」
 黙考し、とりあえずトッペキからは注意をらさないまま――組織の他のものに連絡をとることにする。『聖楽器』はなぜかうんともすんとも言わないが、拳銃は使えた。無線などなどの現代的な科学の産物、普通の道具は使用できるはずだ。
 情報を集めて、現状を確認する。
 強制的にトッペキを殺して止めるのは、躊躇ためらわれた。命は大事だ、失えばたいてい二度と取り戻せない。どうしても必要なら、アマボンズはその忌まわしい行為を実行するが――普通に、何だかとても嫌だった。ゆるされざる、罪深い行為だ。
 今さら、天国へ行けるとも思わないけれど。
 せめて地獄の責め苦は、軽めのほうが良いかなと――。
 そんなことを考えつつ、アマボンズは無線の周波数を合わせる。どこかに繋がったのか、耳障りに垂れ流されていたノイズが一瞬だけ消える。周りではいまだにギロの爆音が轟いているため、音が拾いにくく、アマボンズは無線機に耳を押し当てる。
「もしも~し?」
 そんな何気ない、日常的な単語を口にした瞬間――。
 なぜか無線機が重力に従って落下し、床に落ちた。
「おやぁ……?」
 アマボンズは戸惑い、己の手のひらを見る。先ほど銃を撃った反動が残っていて、手がしびれてつい無線機を取り落としてしまったのだろうか。そんなことを、ぼんやり考える。けれど――目に見える光景は、こちらの予想をおおきく裏切っていた。
 アマボンズの手のひらが、透けていた。
 お化けのように。
「何これ」
 ちょっと放心してしまって、アマボンズは首を傾げる。見る見るうちに手のひらどころか二の腕のあたりまで透けて、消える。トッペキの両腕を奪った因果応報みたいで、何だかぞっとしないが――撃ち抜かれたりなどして、千切れたわけでもない。
 本当に、すうっと消えている。出血すらない。
「ちょっ、何? えっ、どういうこと……?」
 組織が誇る優秀なエージェント、アマボンズは無知な子供のように戸惑った。わけがわからない。先ほどから、疑問ばかりが湧いてきて一向に己の体験している事態に理解が及ばない。こんなのは初めてだった。否、遠い昔に似たような困惑を――。
 まるで最初から、存在しなかったみたいに。
 アマボンズの全身が、ゆっくりゆっくり希薄になって――消え失せていく。

時任静/1

 ときとういずみは黒く薄汚れた海のそばで、ひざまずいていた。
 おそらく静の生きていた時代からさかのぼること半世紀ほど前――だと思しき、あまさとあかしゃと名乗った少女が暮らしているとうしょのひとつ。詳細な位置は、いまいち判然としない。
 視界が悪すぎるのだ。
 時刻は陽が落ちた直後といったところだが、文明から遠いこの島はほぼ真っ暗だ。月と星の輝きも、どろどろと渦巻いた雲にさえぎられてほとんど届かない。
 恐怖すらおぼえる深い闇のなかで、静は我が身を抱きしめて黙考もっこうする。
 これまで数日ほど、静と朱紗はそれなりに平和な共同生活を営んでいた。朱紗は静が理由は不明だが未来からきた存在だと思われる、という曖昧な説明に納得してくれたのか何なのか、よくできた妹のようにしく世話を焼いてくれた。
 狭苦しいベニヤ小屋に、朱紗は彼女が趣味で集めているらしい大量の布を敷き詰めて寝床として提供してくれたし、飲み水や食事も振る舞ってくれた。彼女はどこから見ても浮浪者同然のその日暮らしなので、そんな彼女にご飯などをたかるのはなかなか罪悪感があったが、静は他に当て所もなかったのでずるずると居座った。
 コミュニケーションをとるのは得意ではないが、島のあちこちを巡っていろんなひとに話を聞いたりもした。駐在というのだろうか、警官のようなひとや訳知り顔のこの島のお大尽だいじんなどなど……。手当たり次第に接触して、情報を集めた。
 だが静の暮らしていた時代や地域に比べると、この島は異様にものでしかない静に対して冷淡だった。話しかけてもほとんど返事もしてもらえず、警官などは怪しんで無理やり取っ捕まえようとしてきた。
 この時代は、この島は、子供だからといって甘やかしてくれない。現代社会に骨まで浸かった静からすると、驚くほど野蛮で排他的で獣の群れのような理屈が平然とまかとおっていた。現代の人々は、この島のものに比べれば天使のように清らかで親切で優しかった。
 何度か挑戦したものの成果もなく、そもそもこの時代の人間に何を言っても未来である静の居場所に戻れる保証はまったくないのだ。もともと気弱な静はすっかりめげて、ベニヤ小屋から出ることもなくなっていた。
 唯一、朗らかに接してくれたのが朱紗で、彼女としては捨て犬でも拾ってきた気分なのか何なのか――女の子特有の馴れ馴れしさでよく喋り、親身に接してくれた。
 彼女はとくに仕事もしていないようで(見た目はまだ小学生ぐらいの幼さなので、当然ではあるが)暇らしく、ずっと静と一緒にいてあれこれ話しかけてくれた。
 未来の、つまり静にとっては現代の話をよく聞きたがり面白がってくれた。静が未来からきた、なんてのはどう考えても信じてもらえそうにないし、たぶん空想の物語のように思って子供っぽく喜んでいただけだろうけど。
 自分を気にかけて、話をしてくれる誰かがそばにいるだけで、とても救われた。現代では誰とも深く関わらず、引きこもっていた自分が馬鹿だったように思えた。
 あんなに恵まれていたのに。
 何もかもに不満を抱いてるみたいに、膝を抱えてすべてを拒絶して。
 傲慢だった。静は反省し、悔いた。平和でのんびりとした暮らしが、静のなかにうみのように溜まっていた倦怠感けんたいかんも何もかも洗い流してくれたみたいだった。
 何だか性格まで明るくなって、静は朱紗につられてよく喋るようになった。行動的になり、よく朱紗に付きあって食事に用いる魚を捕まえたり、釣り糸を垂れたりした。
 夜は眠くなるまで喋り、肌寒い季節なのもあってたまに朱紗と抱きあって眠った。彼女もたぶん、天涯孤独の身の上で寂しかったのだろう――新しくできた家族を、この不思議な未来からの来訪者を受け入れ、子犬のようになついてくれた。
 静はすっかりバケーションを楽しんでいるような心持ちで、ずうっとここで暮らしたほうが自分は幸せなのではないか――などという、不思議な感慨まで湧いてきていたのに。
 そんな安らかな生活は、長くはつづかなかった。
 静はどこまでも運命に翻弄ほんろうされ、打ちのめされ、傷つき引きちぎられるようにして生きていくしかないようだった。安らかな暮らしなど、あってはならないみたいだ。
 泡沫うたかたの夢のような、極楽浄土のごとき日々はあっという間に終わって――。
 悲劇がやってくる。
「キャロル?」
 耳障りな甲高い声が聞こえた気がして、静はそっとその名を呼んだ。
 以前は鬱陶うっとうしいほど絶え間なく聞こえてきたあの声が、久しぶりに耳に届いたのだ。彼女は何があったのだろうか――えらく慌てていて、悲痛にわめき散らしている。
 以前なら、お願いだから黙ってくれ、と苛立ちながら拒絶していたけれど。
 いつでも明るいキャロルの声音が、何だかこれまで自分に親切にしてくれた朱紗のそれと重なって――に突っぱねることもできなかった。
 静はいまだに、キャロルの顔すら知らないのだけど。
 声からいって、まだわりと幼い女の子だし。きっと、朱紗みたいな感じなのだろう。彼女を無視し、あるいは酷い言葉を吐いて拒絶して、哀しませることを想像する。かわいい眉をひそめて、おおきな両目を涙でいっぱいにして……。
 それはこの世に存在するどんなことよりも、罪深いことのような気がした。

時任静/2

 静は何だか切ない気持ちになって、取り留めもなく語りかけた。
 いつも無視していた、煩わしいだけだったはずの、彼女へと。
「落ちついて。どうしたの――君はさぁ、いつも脈絡なくまくしたてるだけでまったく意味がわからないよ。筋道立てて、5W1Hとかに気を遣って喋ってほしいな」
『何よ、静。静のくせに、何だかばかに大人ぶった喋りかたをするじゃない。WとかHとか言われてもわからないわ、それって音楽記号か何か? だったらあたしも知ってるはずだけど、さっぱり意味がわからないわ!』
「いつどこで誰が何をしたか、っていうこと。Wっていうのは、つまりホワイとかの頭文字なんだけど――それよりさ、こっちも君に聞きたいことが山ほどあるんだけど」
『当然ね! 何でも聞いて! って普段なら言いたいところだけど、こっちはのっぴきならない状況なのよ! あたし、もう何をどうしたらいいかわからないわ!』
「奇遇だね。こっちも同じだよ、のっぴきならない事態ってやつだ」
 キャロルと喋っていたら何だか落ちついてきて、静はほっとした。どうも自分で思っていた以上に混乱していたらしい――ようやく、周りの光景に意識が向く。
 場所は、どこかもわからぬ岩肌剥きだしの洞窟のなかである。
 朱紗のベニヤ小屋のある、島の外縁――そのどこかだと思われる。富士壺だらけのぬるぬるした岩。海藻や船虫、貝や魚の死骸。
 生臭く、不気味で、できればこんな場所には長居したくないのだけれど。
 この場から動けない、理由がある。
「キャロル。僕の目の前で、女の子が大怪我を負って倒れている。どうすればいい?」
『どういうこと? こっちには声は聞こえるけどあなたの見ているものは見えないの――わけがわからないわ、あと何でもかんでも聞かれても困るわ! あたしは神さまじゃないのよ、あなたもそうでしょ?』
「そうだね。うん、君はたまに気が利いたことを言うね」
『あたしはいつでも気が利いてるわ! あなたがそんなあたしの言葉を聞き流すから、何を言ってもノイズみたいに無価値になっていたけれど!』
 相変わらず脳の奥から響くようなキャロルの声には慣れないが、顔をしかめながらも、静は丁寧に相手をする。これまでは周りから見えない誰かと会話する頭のおかしいやつ、みたいに思われるのが嫌で恥ずかしくて、ちゃんと会話もしなかったけれど。
 今、静が頼れるのはこの不可解な声だけだ。これが自分の妄想なのか何なのかはわからないが、すくなくとも誰かと話すだけで心はわずかに落ち着きはする。
『女の子が怪我してるって? それで、どうすればいいかって聞いたの? 馬鹿ね! 静、そんなの助けてあげるしかないじゃない!』
「その方法がわからないから、困ってるんだよ」
『そうね! でも、う~ん……あたしは演奏家であってお医者さんじゃないわ。怪我の手当ての作法なんか知らないし、聞かれても困っちゃうわね。あっ、ネットとか本とかで調べてくればいい?』
「君、ネットとか使えるの?」
『あたしは今、諸事情あってあなたと入れ替わるかたちであなたの世界で暮らしてるの。パソコン、いまいち使い方がわからないけどね――あなたの記憶とかを参照することができるから、どうにかならなくもないわ』
「僕と、入れ替わってる? どういうこと……?」
 意味がわからないうえに何だか不安で、静は身をぎゅっと強ばらせる。海水を浴びたので全身しとどに濡れており、寒い季節と地域であるため震えが止まらない。この調子だと、普通に風邪をひくし、さいあく凍死しそうだ。
 歯の根も噛みあわないまま、キャロルがまとまらない口調で簡単に状況を説明してくれた。それを、静は驚き相槌あいづちも打てないまま一方的に聞かされる。
 どうも静が日常から遠く離れて不思議な旅(他にどう表現すればいいのだろう?)をしていた間、キャロルはなぜか静のよく知る世界で暮らしていたらしい。橙一や蒼衣と、わりあい楽しげに日常を満喫しているようだった。
 どういうことなのか理屈がわからないし、どう考えても破天荒なキャロルが静にとっては大事な幼なじみだった橙一や蒼衣に迷惑をかけていないか、不安だったけれど。
 今は、都合がいい。
 声で遣り取りができるだけだが、それこそキャロルが言ったように彼女に調べてもらえば現代の最新知識は手に入る。何も持たぬ普段着で過去の世界に飛ばされた静にとって、それは場合によっては何にも代えがたいほど有益なものだ。
 もちろん。キャロルという存在やその声や、語った内容のすべてが静の妄想の産物でしかない――みたいな可能性はあるけれど。その疑いと、不安感は消えないけれど。
 夢のような世界や過去のどこか遠い島国に、こうして飛ばされてしまった今、どんな摩訶不思議な出来事が起きても不思議ではない。何だかわからないが、静の知る常識から外れた非常事態に、変梃へんてこな運命に、自分は巻きこまれているらしい。
 今さらすぎるが、静はようやくそれを実感し――納得し、考える。いつものように怯え、ぜんぶ拒絶して目を逸らしても意味はない。
 今、他の誰でもなく自分が、動いて対処しなければ手遅れになりかねない。あとで悔やんでも意味はない――命は、たいていの場合は失えば二度と取り戻せない。
 静の目の前に、これまで親切にしてくれた愛らしい少女――。
 天里朱紗が、血と海水で汚れた無惨な姿で転がっている。

時任静/3

 朱紗は今日も独特なファッション――全身に飾り布を巻き付けた奇妙な風体で、健康的な濃い蜜色の手足を剥きだしにしている。見ているこっちが寒くなる。そんな彼女はずぶ濡れで、どうも失神していた。
 その頭と、胴体と、右足から出血している。
 医学の知識のない静には正確なことはわからないが、下手したら死んでしまうのではないかと思われるほどの負傷である。頭部と足は軽く切っただけのようだが、腹部の傷はまずい。銃弾で撃ち抜かれているのだ。
 幸か不幸か銃弾は貫通したようで、鉛の毒が回ったりはしなさそうだが(そういう描写をドラマか何かで見た覚えがある)、普通にお腹に穴があいているのはまずい。位置的に内臓は傷ついていないと思われるが、血が止まらない。
『銃弾? 静、あなたどこで何をしてるの?』
 キャロルにいろいろ問われるまま、まとまらない口調で静は自分の体験したおおまかな出来事について語ってみる。声は届くけれど、あくまで静とキャロルは他人である。なぜか向こうは一方的にこちらの知識を得ているらしいが、こちらの見聞きしたものが直接――タイムラグなく伝わるわけでもないようだし、情報の共有は必要だった。
 不可思議な存在であるキャロルなら、自分の置かれた状況について何かしらの説明をつけられるかも、という期待もあったのだが。
『何で過去なんかにいるのよ、静。おかしな子ね?』
 などと、なぜか呆れられる始末である。
 どうもキャロルにとっても意味不明な事態らしい――ただ、いくつか情報は得られた。最初に静が目覚めたあの奇妙な夢のような世界で遭遇した、黒い魔物は、どうやらキャロルのペットのようなものらしい。
 ノイズマシーンなどと呼ばれたそれは、キャロルの命じるままに動く頼もしい忠犬――のようなもの、らしい。キャロルが命じれば静にも従ってくれる、かもしれない、とわりと曖昧なことを言われた。
 あの怪物は今は行方不明だが、合流できれば静の身を守るために戦ってくれるかもしれない、とのこと。事実は不明だし、本当にあの禍々しい化け物が自分などの言うことを聞いてくれるかは不明だが、すこしだけ希望は得られた。
 静は丸腰だし、喧嘩もできない。したことがない。
 明確な危機が迫っている今、自分の身の安全性をすこしでも向上させられるかもしれない、という期待ができるだけで有り難い。
『危険って――いったい何がどうなってるのよ、何か悪いことでもして警察にでも追いかけられてるの? 悪い子ね、静?』
「悪いことはしてない……。と思う、たぶん。君さぁ、何でそう偉そうなの?」
『お姫さまだからね、いちおう。自分でそう名乗ってはいないんだけど――みんなそう呼ぶんだし、きっとそうなんでしょ? 不快だったら謝るわよ、静?』
「いいよ。今さら……。キャロルさま、とか呼んだほうがいい?」
『やめて! あなたにまで無意味に持ち上げられたら、あたし大気圏を突き破ってお空の星になっちゃいそう! 息苦しくなっちゃうわ、そういうのは好きじゃないの!』
 こっちがすこし喋ると倍も三倍も返事をしてくる。うるさいし情報に余計なきょう雑物ざつぶつが混ざるので聞いてて徒労感があるが、静はぐっと我慢する。
 彼女の言動について、気にしている場合でもない。

時任静/4

 会話はつづく。
 思えば彼女とこんなにも、たっぷりと語らったのは初めてだ。話してみれば意外と相手は愛想が良く、お喋りが得意ではない静もするすると言葉をつむげた。
 勝手に相性は最悪、だと決めこんでいたけれど。
 自分自身と対話するように――ごく自然に、コミュニケーションできている。それが不思議で、なかなか感慨深い。人間、やはり話してみないとわからないものだ。
 相手は人間なのかどうかもわからない、不可思議な存在だけれど。
 静は苦笑いしながら、己の置かれた状況を説明する。
「よくわからないけど。朝、起きたら僕たちの暮らしているベニヤ小屋の周りが取り囲まれてたんだ。たぶん、島のひとたちに」
『どうして?』
「わからない。呼びかけても返事してくれないし、ゾンビみたいで怖かった……。何か、誰かに操られてるみたいだった」
『それは怖いわね。でも何で、そんな事態に? あなた、何かしたの?』
「何もしないよ……。でも、その島のひとたちは何か鬼気迫る様子でね、なぜか朱紗ちゃんを襲ったんだ。掴みかかって押し倒そうとしたり、何か農具みたいなので刺そうとしたり、警官のひとなんか銃で撃ってきたりしたんだ」
『穏やかじゃないわね。いったい何でそんなことに――よく無事だったわね、静。きっと、その朱紗ちゃんとやらを守って勇敢に戦ったのね! 流石だわ静、あなたはあたしの誇りよ! 悪党どもをばったばったとぎ倒し、奮迅ふんじんの大暴れをしたのね!』
「君は僕を何だと思ってるの……。普通に逃げたよ、怖いから。みんな僕には目もくれなかったから、僕だけ逃げても良かったんだけどね。朱紗ちゃんにはお世話になってたし――必死に、何か無我夢中で、彼女を抱えて逃げたんだ」
『偉いわ。そこで朱紗ちゃんを見捨てて自分だけ逃げてたら、あなたを軽蔑したわ』
「うん。でも僕はこの島に土地勘がないしさ、朱紗ちゃんも運悪く警官の銃で撃たれて息も絶え絶えだったし……。意識がなくてね、どこに行けばいいかもわかんなくて――当て所なく逃げて、崖に追い詰められたんだ」
『映画みたいね』
「映画だったら良かったんだけどね。それでもう、僕は怖くてさ――やぶれかぶれになって、海に飛びこんだんだ。そんなに高くなかったし、落ちても死なないかなって……。いま思うと、もうちょっと後先を考えるべきだった気もするけど」
『そのまま突っ立ってても、なぶごろしにされたかもしれないし。何が正解かなんてわからないわ、あなたはあなたなりに精一杯に考えて行動したんでしょ。それなら、あたしはそれを尊ぶわ。ふたりとも無事だったみたいだし、結果オーライじゃない』
「オーライではないよ……。まだ島のひとたちは僕たちを追ってるだろうし、すぐにこの場所も見つかる。そしたら、次はもう逃げ場はないよ。朱紗ちゃんも重傷だし、すぐにお医者さんに見せなくちゃ危険な状態なんだろうけど――」
『島のひとたちみんなが操られるか何かして、襲ってきてるなら望み薄ね。お医者さんも敵っていうか、危険かもしれないし。その時代の医学でどうにかなる怪我なのかもわかんないわね、あたしがそっちに行ければ良かったんだけど』
「君がこっちにきたからって、何ができるっていうの?」
『治療ができるわ。そういう演奏、たぶんできるから。ん~……音が届くなら楽器の演奏もそっちに届くのかしら、でもなぜか今は演奏ができないのよね』
 キャロルはすこし考えこんでから、ちょっと愛らしく唸った。
『駄目ね。やっぱり、行き来ができない――あなたと入れ替われないの。だいたい、何であたしがこっちの世界にきて、あなたがそんな不思議な経験をしてるのかもわからない。お互い、自分たちの持ち場で、最前を尽くすしかないのかしら』
「持ち場って……。まぁ、みょうだけど」
 静は頭を掻いて、とりあえず朱紗に身を寄せる。止血などをしたほうがいいのだろうが、素人が処置しても悪化するだけな気もするし、方法もわからない。
 せめて震えている朱紗に、体温を届ける。
 他に何もできない。世間に背を向け、知識も技術も何も得てこなかった自分の半生が悔やまれる。今さら遅いけれど、本当にこれまで自分は何をしてきたのか。
 生きてきただけだ。
 橙一なら。蒼衣なら。キャロルなら。他の誰だって、今の静よりは何かましなことができた気がする。自分は駄目な人間だ、とあらためて思った。
 泣きそうになる。
 そんなこちらの感情を察したのか、キャロルがすこし声音を優しくした。
『大丈夫。何とかなるわ、自分を信じなさい』
「僕は僕がいちばん信用できないよ……。本当にもう、自分で自分が嫌になる」
『じゃあ、静のぶんまであたしがあなたを信用するし愛するわ。あたしたち、なぜかは知らないけど二人一組なんだから――支えあっていきましょ』
「二人一組かぁ……。支えあうっていうか、一方的に寄りかかってる気がするけど」
『それが申し訳ないと思うなら、ねぇ静――何度も何度も言ってるけど。あなたの歌を聞かせてよ、あたしはそれだけで何だってできる気がするの』
「歌は嫌いだ。これも、何度も言ってるけどね」
 静は深々と吐息を漏らして、苦笑いした。
「でもまぁ、いいよ。いつか会えたら、ね」
『うん。いつか会えたら』
 そこで不意に、キャロルの声が途切れた。

キャロル/1

「あらっ、静? どうしたの? 声が聞こえなくなったわ!」
 刈谷兄妹の住まいである教会、その居住スペースである一軒家。蒼衣の私室にて、キャロルは目を白黒させる。あぁもう、と地団駄を踏んだ。
「けっきょく、重要なことを言いそびれたわ。だって静が珍しくよく喋ってくれたから――嬉しくってさ、呑気にお喋りしてる場合じゃないのにね」
 室内は優等生の蒼衣らしい質素なつくりで、あまり女の子らしくはない。
 簡素な事務机と高級なリクライニングチェア。必要最低限の衣服のみが収納されたクローゼットとたん。病室に置かれるような、清潔だけれど簡素な寝台。蒼衣がもともと暮らしていたという、現在はキャロルが借用している子供部屋に比べると殺風景だ。
 壁に吊された制服。足下は毛足の長いカーペット。寒い季節なので、電気ストーブが置かれている。統一感のない書籍やぬいぐるみが、背の低い棚にきちんと配置されている。
 蒼衣はそんな部屋の寝台で、横になっている。
 意識はあるのだかどうだか、酷く発熱したように顔は紅潮している。重たい風邪でもひいたみたいだ。黒髪が汗で頬に貼りつき、痛々しい。
 服装はパジャマである。先ほど、キャロルが男どもを部屋から叩きだして何とか着せてあげた。ボタンがちぐはぐに留まっていて、肌がだいぶ露わになっている。
 キャロルは無頓着だが、みんな肌を見せるのを恥ずかしがるし――そのままにしておくのも可哀想に思って、丁寧に蒼衣の服の乱れを正してやる。
 寝台のそばには橙一が付きっきりになっており、目に見えておろおろしていた。というか、わけがわからない――みたいな表情である。
 ただひたすらに妹のみを案じ、その手を握りしめている。
 逞しく凜々しい顔立ちが台無しなぐらいに、不安そうに涙を零してすらいる。
 声をかけたいが、お喋りなキャロルすら何と言っていいかわからなかった。
「離れてろ」
 かすれた声を漏らしつつ、寝台の枕元に立った小柄な少年――ドグモが指を振る。その爪の先から銀色の糸のようなものが伸びて、蒼衣の全身にゆるく垂れた。
「何してんだよ、おい……。ってか、おまえ誰だ? 何なんだよ、これっ!?」
 橙一が八つ当たりするように、ドグモを怒鳴った。
 そちらには応えず、ドグモはやや下品に舌打ちをする。
「わかんねェけどさ。こいつ、どうもおれの『聖楽器』で編まれたお人形さんみたいだ。編みぐるみっていうのかなァ――だから、おれの『聖楽器』を使えばある程度はかたちを保てる。死にゃあしないと思うからよォ、ぎゃんぎゃん喚くなよ」
「『聖楽器』? って何だよ、蒼衣はどうしちまったんだよ……?」
 見るからに錯乱さくらんした様子の橙一は、大事そうに蒼衣の頬を撫でる。
 それを痛ましく思いながら眺めつつ、キャロルは回想する。
 矢継ぎ早に色んな出来事が起きたし、いまだに状況は不明瞭だ。教会の前で行き倒れていた(?)傷だらけのドグモの看病をしていたキャロルは、橙一の悲鳴を聞いて慌てて一軒家の一階――台所へ向かった。
 そこで、蒼衣が溶けて崩れていた。
 そうとしか表現できない、異常な状態になっていた。彼女は銀色の、どろどろとした何かの塊になって、床に垂れて広がっていた。最初は、それが蒼衣だと言われても意味がわからなかったぐらいだ。
 たしかに彼女は何となく、キャロルから見ると不思議な違和感をおぼえる感じではあったのだが――あまりこの世界のものと接触していないキャロルには、それが蒼衣特有のものなのか、さほど珍しくないありふれた状態なのか判別できなかった。
 疑問を放置したままともに暮らしていたら、この事態だ。
 先ほど、不意に鳴り響いた不気味な音色――おそらくギロの演奏が流れるのと同時に、蒼衣は溶けて崩れた。意味がわからない。
 ギロの音色が鳴っている間はキャロルの主力武器であるピアノじみた楽器も、ドグモの『聖楽器』(などと呼ぶらしい。キャロルにとっては馴染み深くない単語だ)も使用できなかったようだが――その理屈も不明だ。

キャロル/2

 推測すると。蒼衣は『聖楽器』そのものかまたはその副産物、ないし関係する何かで、キャロルたちの楽器と同様に一時的にその機能を失ってしまった。だから仮初めとしての人間の姿を保っていられずに、溶けて崩れたのだろうか。
 けれど。
 蒼衣は人間のはずだ。普通の、女の子だった。
 たしかに橙一などから聞いた話では、蒼衣は十年前に誘拐されて――帰ってきたときには別人のようになっており、記憶も失っていたようだけれど。
 本当に別人、というか何かわけのわからない別の存在になっていたのだろうか。
 考えても答えは得られず、途方に暮れるしかない。
 現在、『聖楽器』の機能を停止させるらしいギロの音色は止まっている。その間は『聖楽器』なども用いられるため、キャロルは必死に治療を目的とした音を発し、ドグモも理由は不明だが協力してくれた。
 そして蒼衣は元の身体を、人間のかたちを取り戻した。けれど酷く消耗しているのか何なのか、せったまま意識すら戻らない。
 本当に――わけが、わからない。
 ギロの音色が聞こえない間、もしやと思って静との対話を試みてみたら繋がり、久しぶりに会話ができた。情報交換はできたが、あっちはあっちで何だかわけのわからない事態に陥っているらしく――頭を抱えるしかない。
 そんな静との会話も、いま途切れてしまった。ギロの音色が復活した様子はないし、何か他に理由が、彼と会話が成立する条件があるのだろうか。
 ギロの音色が聞こえる前、今からすると信じられないほど平和な日常を満喫していた間も――彼の声は聞こえず、こちらの声も届かなかったのだし。ギロの音色と、静とキャロルの対話が成立するかどうかは、あまり関係ないことのように思えた。
 だから何だという話だが。彼の声が聞こえないのは、キャロルにとっては何だか途方もなく不安で、寂しいことだった。
「とはいえ。偉そうに、お互いの持ち場で最前を尽くしましょうなんて言っちゃったものね――えぇ、あたしも自分ができるかぎりで努力するわ」
 独りごちて己を鼓舞し、キャロルはひとつひとつ疑問を片付けることにする。
「ドグモ」
 何だか平凡な一軒家の台所に似合わない、薄汚れた少年をる。彼もまた怪我を負っているはずだが、己の弱みを見せない野生動物のようにしい顔をしている。
「まずは蒼衣のためにちからを尽くしてくれたこと、感謝するわ。何がなんだかわからないけど――蒼衣が人間のかたちを取り戻せたのは、あなたのお陰なんでしょ」
「こいつさ、教会の前で倒れてた俺を心配してくれたみたいだしな。恩返し――ってわけでもねェけど、見殺しにするのも寝覚めが悪いだろうが」
 かわいくない素っ気ない態度で、ドグモは煩わしそうに首を揺すった。そして、兎のような紅い瞳でこちらを注視してくる。
「あんた――えっと、『お姫さま』だよな?」
 しかし、そういえばほぼ初対面なのだ。いくらキャロルが馴れ馴れしいとはいっても、まだ多少は会話するのもぎこちなくなる。
「そう呼ばれてはいるわ。何だか『お姫さま』って漠然としていて味気ないから、できればキャロルって呼んでね。こっちの名前は、だいぶ気に入ってきたのよ」
 キャロルは堂々と胸を張って、頷いた。
「ドグモ、あなたは何者? 何のために、あたしたちの前に現れたの? 誰かを助けてほしいって言ってたけど、それはいいの?」
「良くはねェけどさ――」
 矢継ぎ早に問われて鼻白はなじろみながら、ドグモは髪をかきあげて意外と愛らしい素顔を晒した。色素の抜けた髪。その顔には、疲労感が色濃く浮かんでいる。
「こいつ――蒼衣っつうのか、こいつが安定するまでは手も放せねェし。何でこいつがおれの『聖楽器』でつくられたってか、何かそんなような感じになってるのかこいつが起きたら聞きてェし。スワシワラは、あの馬鹿は、行方知れずだしな」
 彼はそれから、ぽつぽつと己について語った。
『聖楽器』という摩訶不思議なものを蒐集しゅうしゅうするための、組織。ドグモと、スワシワラという人物はその組織から脱走した流れものらしい。
 そのスワシワラなる人物とは、なかったことになった記憶のなかで遭遇してはいる。その際にはキャロルは表出しておらず、出会ったのは静のほうではあるけれど。
 何だか不可解な、詩歌のようなことを口にしていた、あのどこか陰気な背の高い女……。彼女は時空に干渉するという、神さまのような能力をもっているらしい。
 あの学校での出来事は不自然に消えているし、たぶんそのスワシワラとやらが時空をいじって『なかったこと』にしたのだろう。などと、推測する。
 なぜキャロルだけが――おそらく静も、その『なかったこと』になったはずのことを覚えているのかは不明だ。
「それは、あんたが何か特別な存在だからじゃねェの」
 ドグモが、ちょっとキャロルの反応に不安を覚えたように早口で言った。
「あんたはさ、組織が血眼になって追い求めて――ずっと観察してたすっげェ存在なんだろ。おれ、だからスワシワラのことも助けられるんじゃないかって……。最後に見たときあいつはもう両腕が切り取られて瀕死だったし、きっと神さまみたいな存在にしか救えないんじゃないかって……。おれ、わらにもすがる思いでこの教会にきたんだよ」
「みんな、そんなようなことを言うけどね。あたし、自分がどんな存在なのかわからないのよ。そういうの、ちゃんと自覚して理解してるひとっている? 自分自身のことなんて、鏡を見ても誰に聞いても、わかんないわ?」
 そう応えたが、ドグモがあまりにも悲痛な顔をするので――可哀想に思った。
 ちいさな子供には、やはり笑っていてほしい。単純に、それが人情である。
「安心しなさい。何とかしてあげる、とは断言できないけど。できるかぎり、協力は惜しまないわ。今は誰が敵で、いったい何が起きていて、あたしたちがどんな立ち位置にいるのかもわかんないけれど。だからこそ、互いに手を携えないとね」
 本心からそう言うと、キャロルは瞑目めいもくして天井を見上げる。
 静の声が聞こえないかと思ったが、キャロルがそう願ったときはたいてい――今も、彼とは会話ができないのだ。
 本当にもう腹が立つ子ね、とキャロルは頬を膨らませる。

独奏者/1

 オルゴールの音色が響いている。
『独奏者』と呼ばれる不思議な存在は、現代から遡ること半世紀ほど前――時任静が迷いこんだ時系列の、彼が隠れている洞窟のそばに立っている。
 波が削った奇岩がいくつも並ぶ、誰かが目をかけて資金を注げば後に観光名所になるかもしれない場所である。悪天候のため吹き荒れる潮風が、海を異様に波立たせている。
 飛沫を受けながら、『独奏者』は苔や海藻がまとわりついて不安定な足場で、滑り落ちることなく立ち尽くしていた。麗しく長い髪が、幽玄に舞っている。
 そんな彼の立つ奇岩のそば、海面に血まみれの女が浮かんで漂っている。
 組織によってスワシワラと名付けられた、野暮ったい服装の痩せた長身の女である。すでに絶命しており、肌は血色を失って青ざめていた。気の早い海鳥が集まって、その死体に――新鮮な肉にたかろうとしている。
 それを見るともなく見て、不意に苛立った調子で、『独奏者』は指揮者のように指を振った。その手のひらから伸びた銀色の糸が、スワシワラの全身に絡みつき、海の奥底まで引きずり下ろす。海底まで糸を長く延ばし、砂と土のなかに埋葬した。
 吐息を漏らし、『独奏者』は片手に携えたオルゴールを撫でる。
「また、ひとつ」
 男なのか女なのかもわからぬ曖昧な声音で、怪人は独白する。
「オルゴールを回収――因果律が、ここに収束したわけです。まったく面倒な話ですよ、時空間に干渉する『聖楽器』というのは……。無数の並行世界にいる無数のスワシワラが、私の目的を邪魔しにくる。どうして? あなたは私の味方でしょう?」
 かつて一度は愛した女を、延々と殺しつづける。どんな地獄の刑罰も色あせるような責め苦のような時間を、『独奏者』は体験しつづけている。
 まともな精神なら耐えられない。とっくに、己は発狂しているのかもしれない。
 けれど。今さら、始めてしまった行いを止めることもできない。
 奇岩の上でしゃがみこみ、膝の上にのせたオルゴールの蓋――のように見える上部を開く。その奥には、小宇宙のようなものが渦巻いている。
 それを注視し、『独奏者』は苛立たしげに髪をかきあげた。
「まだ足りませんか。今回こそは、と思ったのですけどね――いくつか予想外の展開が起きてしまっています。やはり異世界にとって特別な存在である『お姫さま』と、今回はアマボンズ……天里朱紗が問題でした」
 けれど、と彼は力強く己を励ますように語気を荒げる。
「今回、天里朱紗は排除できそうです。『始まりの存在』である彼女が消えれば、組織もおそらく成立しないかあるいは組織としてまとまるまで時間がかかる、あるいは最低でも強度が低下する。私の計画の、行動の邪魔をされる可能性が低くなりますよね」
 良かった探しをするように、ひとつひとつ、己の成し得た成果を確認する。
「そうして何度も何度も繰り返してでも、障害を、不確定要素を消していく。将棋の駒を進めるように、私の満願まんがんじょうじゅのために。今回も、このまま押し切れる気はしますけど――どうしましょうかね。組織が消えるとなると歴史にはおおきな変化が生じる、これまで積み重ねてきた経験が、布石が通用しなくなる可能性がありますね」
 わずかに迷いながら、『独奏者』は真上へ視線を向ける。
 やけに暗い、黒々とした暗雲が立ちこめる夜空だ。
「けれど。『お姫さま』が出現した、今はかつてない好機。ここを逃せば、次はないかもしれません。あの存在は特別すぎる、『わけがわからない』はこっちの台詞ですよ。本当に、何なんですかねぇ――キャロル? あなたという、存在は?」
 自嘲じちょうするように笑いながら、『独奏者』は問いかける。
「良い迷惑ですよ。ひとが演奏し、歌っている横から、割りこまないでくれませんか」
 返事はない。独りぼっちで、彼だか彼女だかは独り言をつづける。
「けれど。あなたが何であれ、神であれ、関係ありません。私は、いつか必ず――絶対に、私の欲しかったものを手に入れる。その幸福な景色のなかに、私が存在しなくてもいい」
 そこまで語って、ふと『独奏者』は肩越しに振り向いた。
 そこに、気配を感じたのである。『独奏者』はその身に宿した『聖楽器』のひとつ、ハープを用いて空気中に目に見えないほどの細い銀色の糸を張り巡らせており、蜘蛛のように周囲の様子を完璧に感知し把握しているのだ。
 視線の先に、先ほど海の底に沈めた女とまったく同じ姿の人物――スワシワラがいる。やや離れた位置だ。崖の先端あたりに腰掛けて、こちらを哀しそうに見ている。
「こんばんは」
 優雅に腰を折ってお辞儀すると、『独奏者』は何度も繰り返した儀式のように、慣れた口ぶりで問いかけた。
「久しぶりでしょうか。いつも挨拶に困りますね――あなたは、いつの時代のどこの世界からきたスワシワラですか? どこまでご存知で、何をしようというのでしょう?」
「これまで百万回も、同じことを言われたかもしれないけど」
 距離は遠いけれど、ぎりぎり潮騒しおさいにまぎれずに声は届く。
 スワシワラは、悲痛に訴えてくる。
「こんなこと、もうやめよう。誰も望んでないし、幸せにはならないよ。これがわたしのためだというなら、申し訳ないよ。こんなことなら――あの日、あなたを外につれださなければよかった。ちょっとした気まぐれだったのに、取り返しがつかない失敗だった」
 やはり彼女はいつものように、弱々しく告げてくる。
「わたしはね、本当に、君に幸せになってほしかったんだよ――ドグモくん
 その声に、彼女の気持ちに、今回もまた『独奏者』は返事もせずに耳を塞ぐ。