時任静/1

 血のような粘性をもつ黒い水が、少女の背筋を伝っている。
 あまさとあかしゃと名乗った濃い蜜色の肌をもつ少女が、彼女の住まいだというベニヤ小屋のそばで水浴びをしているのだ。ボロ布のようにしか見えない衣服らしきものをあっさりと脱いで、赤茶けた土に裸足のあとをつけて――鼻歌をさえずりながら。
「~……♪」
 それが風呂の代わりなのか、ベニヤ小屋のすぐそばに剥きだしの配水管があり、あからさまに後から取り付けられた管のようなものの結び目をほどくと温水が垂れてくる。それを異国の宗教でも信じる敬虔な信徒のようにひざまずきながら、朱紗は浴びている。
 もともと水質があまり良くないようで、わずかにされただけだろう温水は白く濁っている。それを気にせず全身に注がれながら、朱紗は信じられないことに洗剤を肌にし――車でも磨くようなブラシで、泡だらけになりながら身を擦っている。
 どれだけ汚れていたのか、ブラシで肌をごしごしとするたびに黒いものが大量に垂れ流されている。絵の具のかたまりを、ゆっくりと削っているようですらあった。
 何だか見てはいけないもののような気がして、時任静は目を逸らした。
 いつものように膝を抱えて、ぼんやりとする。
 状況は、さっぱり理解できない。夢のなかのような不可思議な場所で黒い化け物に追いかけ回されていたと思ったら、刹那のうちに視界が切り替わり、この奇妙な場所に迷いこんだ。その理屈も、この場所も、朱紗と名乗った少女の正体も何もかも不明だ。
 それなりに平凡な町中で育った静には馴染めない、陰鬱な景色のとうしょである。無数に建ち並ぶ工場群。そこから垂れ流される汚水のためか黒く染まった海。水墨画で描かれたような風景の片隅に、うち捨てられたように存在するベニヤ小屋。
 その室内で、静は途方に暮れている。廃材を組みあわせたような、そのまま粗大ゴミとして回収されてしまいそうなベニヤ小屋のなかには、あまり何もない。
 朱紗がてきとうに拾って集めてきたようなサイズも色もばらばらの布が、鳥の巣みたいに敷き詰められている。ベニヤの壁や天井にはこれも種類がめちゃくちゃのポスターや色紙、銀紙に何かの包装紙などがべたべたと貼られている。
 家具らしきものはなく、娯楽のたぐいもない。朱紗はたくさんの布やら何やらを集めたりパッチワークにするのが好きなのだろう、錆の浮いた裁ちばさみや針山などの裁縫グッズが隅っこのほうにある。
 天井から吊られた干し魚と干し柿。もとは焼酎か何かが入っていたのだろう四リットルのペットボトルがいくつか並び、そこそこ綺麗な水――飲料水で満たされている。
 静には見慣れぬ様式の祭壇めいたものが、ベニヤ小屋の一角にあった。もともとは海中にあったのではないかと疑わせる、富士壺などが大量にひっついて凸凹になった石像が鎮座している。それは鈴や鐘、なわや巻き布で飾られている。
 まったく文化の異なる国のようだけれど、朱紗は日本語が通じるし――国内ではあるのだろう。教会で神童として囲われて育った静にはまだまだ常識というものが育ちきっていないし、あまり変とも思わない。受け入れつつ、そんなに気にしなかった。
 いきなり瞬間移動してしまって動揺していたが、いつものようにうつむいて自閉しているうちに何だか落ちついてきた。
「ねぇねぇ」
 ベニヤ小屋のすぐ正面、開きっぱなしの扉の向こうで水浴びをしていた朱紗が――興味深そうにこちらを眺めながら話しかけてくる。
「おにいさんは、神さまか何か?」
「神さまじゃないよ」
 神さまのように扱われてきたけれど、両親が投獄されると同時に神聖は否定されて――静はちょっと変わった育ちかたをした、どこにでもいる少年になったのだ。そこまで詳しくこちらの生い立ちを説明するのも億劫なので、素っ気なく否定するだけ。
 ふぅん、と朱紗は残念そうに唸ると――配水管からのびた管の先端を慣れた手つきで結わえる。犬のように全身を揺すって水気を散らして、毛羽だったタオルで身を拭う。
「そっか~。まぁ、そうだよね。ちょっぴり期待はしたんだけど――じゃあ、おにいさんはどこの誰? 見ない顔だから、この島のひとじゃないだろうけど?」
「僕は、えっと、時任静。高校生だよ。えっと――」
 気さくに話しかけられたが、うまく返事ができない。お喋りは苦手だ。
 今のところ朱紗には悪意も何もないし、見た目は高速道路を爆破したあのアマボンズとまったく同じなのだけれど――こちらのことを知らないようだ。
 演技をしているようにも見えない。朱紗は無垢に、質問を重ねてくる。
「こうこうせい? よくわかんないけど、やっぱり内地のひとなんだねぇ……。うちの島だと、おにいさんぐらいの年齢だとみんな働いてるし」
「えぇっと。朱紗……ちゃんも、働いてるの?」
「働いてるっていうのかなぁ、自給自足してるけど。どっかのお店とかに勤めてたりはしないよ、あたしはたぶん九歳か十歳ぐらいだし?」
 自分の年齢すら曖昧らしいけれど、思ったよりも幼い。その年齢にしては落ちついているというか、大人びている。見た目は未成熟だし、舌足らずでもあるのだけれど。
 朱紗はタオルで全身を丁寧に拭ってから、「あぁ、さっぱりした」と満足げに吐息を漏らし、てきとうな布を身にまとっている。
 色とりどりの布を縫いあわせた、かんとうじみた衣装だ。ファッションなのか何なのか、まともな衣服は所持していないらしい。
 生乾きの髪を手で搾るようにしつつ、朱紗がベニヤ小屋のなかに踏みこんでくる。そして人見知りをして身を強ばらせる静の顔を、間近から覗きこんできた。
「おにいさん――静さん、お腹でも痛いの? 顔色よくないね?」
「だ、大丈夫だから」
 無造作に触ってこようとするので、静は壁際まで後退する。室内は狭いので、すぐに背中が布の垂れたベニヤ製の壁に当たった。朱紗ははにかんで、困り顔になる。
「そんなに怖がらなくても、取って食ったりしないよ?」
 まともな教育を受けていないように見えるが、その発言には知性がある。どうにも不可解で、静は朱紗をまじまじと見た。目と目があって、慌ててうなれる。
「あっ、もしかしてお腹すいてるの? じゃあご飯つくるね、ちょっと待ってて♪」
 楽しそうにそんな静を眺めてから、朱紗がまたベニヤ小屋の外へ小走りで向かった。状況がまったく把握できないまま――そうして、静は意外と歓待されていた。

時任静/2

「にへへ、まぁ食いねぇ食いねぇ♪」
 変な具合に笑いながら、朱紗が料理を振る舞ってくれた。
 ベニヤ小屋の、正面。踏みならされた地面にブロックが積まれており、そこに金網が載せられている。その下部では原始的な焚き火が燃えており、見たことがない魚がじりじりと炙られている。
 もうひとつ焚き火をつくって凹みが目立つ寸胴鍋を置き、朱紗が得体の知れない何かのスープをお玉でかき混ぜている。お粥のようなものらしいそれをお皿によそって、焼き魚を添えて差しだしてくれる。
 静が先刻までいた不思議な夢のような空間では、なぜかどれだけ時間が経過しても生理的な欲求――眠気や空腹はおぼえなかったのだが。料理のにおいを嗅いでいたら急に空きっ腹を自覚し、腹の虫が鳴った。
 赤面し、もぐもぐとお礼を口にしながら皿を受け取る。超能力で曲げたような歪んだスプーンも手渡され、やけに目玉の飛びだした魚の身をいじましくほぐした。
 それをやはり物珍しそうに眺めつつ、朱紗がベニヤ小屋に戻って陶器のカップに水をなみなみと満たして、零さないように気をつけながらゆっくり戻ってくる。
「うん、まぁ飲んで飲んで♪」
 器を静のそばに置くと、自分も食事に取りかかる。豪快に頭から魚を丸かじりにし、はふはふと息を吐いて熱気を逃がしている。
「天気悪いなぁ、今日も」
 独り言のようにぼやき、朱紗が分厚い雲に覆われた空を見上げていた。
 周りに無数に建ち並ぶ工場群がもくもくと黒い煙をあげており、そのためか常に島は霧に覆われるみたいに曇りがちだ。ゴミ捨て場のような景色とあいって、あまり箸が進むようなロケーションではない。
 海とか島とかって、町中とはちがってもっと心温まるような風景なのだろうと漠然と思っていたけれど。ひたすら、いんいんめつめつとしている。
「んん――」
 放棄された電子レンジに腰掛け、朱紗が足をぱたぱたしながら明後日の方向を見た。その視線の先、遠くのほうで動くものがいる。
 こんなひなびた島には似合わない、高級そうなスーツ姿の一団である。やくざか何かだろうか、観光客にも島の住民にも見えない。彼らは何だか慌てたそぶりで走り回っているものの、距離が遠いのでこちらには気づいていないようだ。
「何だろあれ――おにいさん、知りあい?」
「いや……。ごめん、わからない」
「ふぅん。近ごろ増えたんだよね、あんな感じの連中が。島に知らない人間が大挙して押しかけたんで、みんなぴりぴりしてるよ。おにいさんも知らない顔だし、あの連中の仲間だろうと思ったんだけどな――関係ないんだ? たしかに、雰囲気ちがうもんねぇ?」
 愛想の悪い静に頓着せず、朱紗はぺらぺらとよく喋る。女の子のこういう感じは苦手だ――と思いつつも、食事まで施されて素知らぬ顔をしているのも失礼であろう。
 静は苦労しながら、どうにか朱紗とコミュニケーションをとった。
 静は口べただが、朱紗がかなり快活だったため会話に支障はなかった。しばし食事をしながら雑談し、いろんな情報を得ることができた。
 この島はやはり日本国内のようで、四国からやや離れた北の海に存在するらしい。
 もともと無人島がいくつも並んでいるだけの場所だったが、朱紗が生まれるちょっと前から工場がやたらと増えたとか。
 そこに勤務する作業員などの生活の場として、この島にちいさな町がつくられたようだ。住居などがあるのはこの島だけで、他の島にはだいたい工場しかないらしい。
 時代の流れから閉鎖する工場も増え、人件費削減のために解雇される人々もおおく、本州へと移住するものたちも後を絶たず――ゆっくりと町の人口は減り寂れていっているようだ。たしかに工場も含めて、建物のすべてが老朽化している。
 どこか遠い昔にタイムスリップしたというか、モノクロ映画でも観ている気分だ。とはいえ言葉も通じぬ黒い獣と――化け物と摩訶不思議な空間で向きあっているよりは、よほど気楽な現状ではある。水を口に含み、静はやや人心地ついた。
 そんな静を何だか拾ってきた野良猫でも見るように眺めつつ、朱紗は取り留めもなくいろいろ語ってくれた。
 どうやら朱紗はたった独りで、この島で生まれ育ったらしい。
 両親はすでに他界しているようで、天涯孤独の身の上のようだ。島のものたちとも交流はまったくなく、このベニヤ小屋で魚などを捕って自給自足の生活をしているという。
 まだ両手の指で数えられる年齢の少女にとっては、つらく苦しい生活だろうに……。朱紗にとってはこれが当たり前なのだろう、とくに悲観した様子はない。
 他人と見比べさえしなければ、どれだけ赤貧でも孤独でも、己が憐れな境遇だなんて夢にも思わない。朱紗は、あっけらかんとしていて楽しそうで、幸せそうですらあった。

時任静/3

 静はほぼ無言だが、朱紗がやたら喋るので間がもたないこともなかった。
 彼女の話を聞くともなく聞くことで、その数奇な生い立ちを識ることになった。どうも孤独に過ごしていた彼女は喋り相手に飢えていたようで、感心するほど饒舌だった。
 朱紗の母親はこの近辺の島嶼が工場群に埋め尽くされる以前から、この地で代々、暮らしていた人々の末裔だったようだ。
 何を生業にしていたどんな由来の一族だったのかは、朱紗もよく知らないらしい。その肌の色など含めて彼女はどこか日本人離れしているし、異国の難破船などからこの島に漂流した船員なんかが生き残って、細々と暮らしていたのだろうか。
 彼女の母親の一族は古来より、ベニヤ小屋のなかにある祭壇を祀っていたようだ。何の神さまでどんな宗教なのかはわからないが、いわゆる巫女みたいなものだったのか。
 朱紗に何の説明もしないまま母親は亡くなったようなので、彼女にも詳しくはわからないようだ。言いつけどおり、いちおう祭壇を保存して大事にしてはいるようだが。
 ともあれ母親は島々に工場が溢れ、その作業員としてこの地に訪れた父親と出会って恋に落ち、おうを重ねたようだ。だがそのことを責められ、悲観した母親は駆け落ちを企てたものの――運悪く乗りこんだ船が沈没した。父親はその際に命を落とし、母親もそのショックのためか体調を崩して、そのまま息を引き取ったとか。
 昔話のような悲劇だ。ともあれ母親はその時点ですでに妊娠しており、その子――朱紗をかろうじて出産してから世を去ったようだ。両親を失い、取り残された朱紗は母方の祖母の手で育てられたものの、その老婆も高齢だったためすでに存命ではないとか。
 駆け落ちに失敗して恥と罪だけを残して、両親は亡くなり、朱紗は偏見と侮蔑に晒されながらこのベニヤ小屋で育った。島の住民も腫れ物に触るようにして朱紗には近づかず、不義の子である彼女には戸籍などすらないようで、教育なども受けられなかった。
 野生動物のように育ちながらも、朱紗は世をねずに、たくましく成長している。今でも、島の隅っこで。独りぼっちで、愛も文化的な生活も知らずに。
 その境遇は、静から見ても悲惨で憐れであったが――朱紗本人がまったく己の人生を嘆いていないため、何も言えない。同情すらできない、何様なのかという話でもあるし。
 静だって、べつにこの少女に比べて人間らしい、誇れるような人生を歩んできたわけでもないし。こちらの価値観で彼女を不幸だと決めつけて、悦に入るのも傲慢だ。
 思いつつ、一方的に彼女のことをってしまうのは不公平に思えて、静もかいつまんで自分の生い立ちなどを語ることになった。神童として崇拝され、両親が投獄された後にはつまらない平凡な少年として暮らしてきた。要約すればすべて語るのに三十分も必要ない、シンプルな己の生涯を。
 キャロルや黒い獣などなどの不可思議な現象については、とりあえず黙っておいた。話して信じてもらえるとも思えない、荒唐無稽なことだし――朱紗ならば、そんなこともあるのかもねと受け入れてくれそうだったけれど。
 彼女と同じ顔をしたアマボンズという存在のこともあるし、迂闊にそのあたりの経緯を喋るのはどうも躊躇ためらわれた。どうせ単なる世間話だ、地雷を踏んでもつまらない。
 そこそこ発展した町で暮らしていた静の話は、こんな暗鬱な島で育ったらしい朱紗には物珍しいのか――すごく感心しながら聞いてくれた。
「おにいさんは都会からきたんだねぇ」
 ぺろりと平らげて、朱紗がお代わりのお粥を皿によそっている。食べてみてわかったが、お粥といっても白米ではなく――何か似て非なる穀物を煮立てた代物であった。
 まったく美味しくはないが、無料で食事を振る舞われておいて文句も言えない。静はもともと食事にはあまり頓着せず、栄養剤と水だけでも満足できるぐらいだし。
 ゆっくりゆっくり淡泊な味の焼き魚を噛みしめつつ、静はだらだらと語らっていても仕方ないと思い、己のやるべきことを考えて言ってみた。
「あの。この島、交番とかないのかな」
 ここが日本国内であれば、ふつうに乗り物などを利用すれば地元へ帰れるはずだ。所持金は一切ないが、交番で電話などを借りて、刈谷兄妹などと連絡がとれれば交通費ぐらい送金してもらえるかも。お金は、あとで働いて返せばいい。
 帰りたい。ここが遠い異世界ではなく、静の日常と地続きの国内のどこかならば、その気になればどうにでもなるはずだ。日本は法治国家だし、現代は通信技術も何もかも発達している。望めば、多少は苦労するかもしれないが、信乃芽の町へ帰れるはずである。
 わけのわからない島にずっといるのも落ち着かないし、朱紗の世話になりっぱなしなのも心苦しい。誰とも関わらないような、静かで平和な暮らしに戻りたかった。

時任静/4

「あぁ、あるよたぶん。島の真ん中に、そんな感じの建物が。あとで案内してあげるねぇ、ご飯を食べ終えてちょっと休憩したら行こっか」
 朱紗はわりと簡単に了承してくれてから、残念そうにくちびるを尖らせた。
「帰っちゃうんだね、おにいさん。仕方ないけどね、島の外のひとだし。久しぶりにお喋りとかできて楽しかったんだけどなぁ――ちょっと、寂しいな」
 その言葉を聞いて、彼女の潰れてしまいそうなほど儚い表情を見て、静はすこし心が痛んだ。この少女をつれて一緒に本土へ帰ることも一瞬だけ考えたが、ひとりの人間の面倒を見れるほどの甲斐性は静にはないし、べつに朱紗もそんなことは望んでいないだろう。
 たまたま巡り会った、行きずりの他人だ。朱紗はどうも単なる赤の他人だと思うには、因縁じみているが……。深入りしても、良いことはない気がする。
 彼女は高速道路を爆破し、静の命を容易く奪いかけたアマボンズと同じ顔をしている。同一人物なのか、よく似た他人なのかはわからないけれど――やはり迂闊に踏みこむのは躊躇われる。何事もないうちに、とっととお別れしておくべきなのだろう。
 なぜ自分がこの島にきて、朱紗と巡り会い言葉を交わす羽目になったのか、まったくわからないから不安が残るけれど。もっと真剣にいろいろ朱紗を問い質したりして、自分の周囲に渦巻く謎や不思議を解き明かすべきなのかもしれないけれど。
 そんな根気も意欲もない、静はただ平穏に暮らしたかった。それだけの望みが、いつまで経っても叶わない。理不尽な運命を、静は嘆いた。
「嫌ぁな雲行きだなぁ、嵐がくるかも」
 空を見上げて、朱紗がぽつりと独りごちた。食事が終わってしまったら静が去ってしまう、それが寂しいのか――スプーンを弱々しく口にくわえたまま動かない。
「このへんは空気も水も汚れてるから、雨がわりと有毒なんだよね。おにいさん本土のひとなら免疫ないだろうし、雨が降ったら船もでないし……。おにいさん、急ぐもんでなければ今日は泊まってく?」
 心細そうに朱紗がそう言うので、静は返事に迷う。何だかこの子を独りで置き去りにするのも気が咎める――とはいえ、いつまでも居座っていても別れがつらくなるだけだ。
「とりあえず、どうするにせよ……。交番かどこかで、電話だけさせてね。朱紗ちゃんはスマホとか――持ってないよね、うん」
 静は朱紗の無邪気な提案をきっぱりと拒絶もできずに、そんな曖昧な返事をするしかなかった。とりあえず、刈谷兄妹に連絡だけしておきたい。不意に静が消えて、心配しているだろうし。
 キャロルが自分と入れ替わって動いているなんてこと、静は想像もしていないため、そんなことを考えていたけれど――。
「すまほって、なぁに?」
 朱紗がきょとんとするので、すこし怪訝になって顔をあげる。
「知らない? えぇっとスマホっていうのは略称で、正確にはスマートフォンっていうんだけど。あの、携帯電話っていうか」
 うまく説明できない。静には当たり前の文明の利器だが、この鄙びた島の住民にとってデジタル機器はあまり一般的ではないのかもしれない。
 静の暮らしていた町とは、生活レベルがかなり異なっている感じだし。ほとんど浮浪者のような暮らしをしている朱紗が、スマホの契約をしていないのは推測できたが。
 そんなことを考えていた静は、呑気だった。自分が巻きこまれている現状が、理解できるはんちゅうをおおきく逸脱していることに――この瞬間まで気づいていなかった。
「そもそも」
 朱紗は困ったように、眉をひそめて言った。
「でんわって、なぁに?」
 信じられないその発言に、静は慄然とした。電話は電話だ。いくら本土から遠い島で、文明的ではない暮らしをしている朱紗でも――それぐらい知っていそうなのに。
 そう思いつつ、ふと静のなかに妄想じみた懸念が湧いてくる。
 自分はもしかしたら、予想以上に、深刻な状況に巻きこまれているのかもしれない。
「あのう。朱紗ちゃん、今日って何月何日? ていうか、西暦何年かな?」
「せいれき?」
 これまで軽快に喋っていた朱紗だからこそ、この言葉の通じていない感じ――いちいち単語の意味が理解できない、みたいな反応が不審だった。大事なことなので根気強く、静はそんな朱紗に質問を重ねて、自分の良からぬ推測が当たっていたことを理解する。
「嘘でしょ――」
 静は頭を抱えて、僕はもう駄目かもしれない、といつもの台詞を脳内で渦巻かせる。
 朱紗が冗談や嘘を口にしていない、としたら――。
「僕、もしかして、過去にタイムスリップしちゃってる……?」
 静の推測が正しければ、ここはどうやら七十年ほど昔の日本であるらしい。

アマボンズ/1

 信乃芽の町の遙か上空を、A・B・アマボンズは滑空している。
 文字どおり、何もない宙空を滑るようにして飛翔しているのである。焦げ茶色の髪と身体のあちこちに巻きつけた飾り布が、風圧で戦場の旗めいてはためいている。
 アマボンズがその身に宿すふたつの『聖楽器』のうち、鐘と呼称されるものを用いて――翼をもたぬ人類には本来ありえない、高空での移動を可能としているのだ。
 ちなみにアマボンズが所持している『聖楽器』は、ラッパと鐘である。
『聖楽器』のご多分に漏れずにそれぞれ長ったらしい正式名称が存在するのだが、アマボンズは形状からそれらを単純にラッパ・鐘、または正式名称の頭文字を繋げてアサルト(ASSAULT)・ボーン(BONE)などと呼んでいる。
 組織につけられたアマボンズというコードネームと並べて、アサルト・ボーン・アマボンズなどと名乗ることがおおいのはそのためである。本名は遠い昔に捨ててしまったので、今ではアマボンズという偽名のほうがしっくりくるぐらいだ。
 天里朱紗という本名には、その生まれ育った陰鬱な島の記憶が付随する。なのであまり思いだしたくないし、アマボンズとして生まれ変わった気分で清々すらしている。
 ともあれアマボンズは基本的に、己の『聖楽器』を便利な道具としてのみ用いている。『聖楽器』は、世界の条理すらねじ曲げる途方もない代物だ。思うがままに濫用すれば周囲のものを――そして世界を傷つけ、どんな災禍を招くかわからない。
 あくまで常識の範疇で、『聖楽器』の出力を抑えて使用する。道具として。そうすることでアマボンズは組織に不穏分子として排除されることなく、有能なエージェントとしての評価を得ていた。
『聖楽器』の超常現象じみたちからをただ垂れ流すだけなら、猿にだってできる。きちんと扱い、最小限のちからで仕事を果たす。それが、大人というものだろう。
 もう、無邪気な子供ではいられないのだ。『聖楽器』は使用するたびに体力やもろもろを消耗するので、そう全力で乱発もできない。人間の理を超えるちからなのだ、常に導火線に火が点いた爆弾のようなものだ――慎重に扱うべきであろう。
「ん~……。やっぱり普通に、自転車とかで移動するべきだったかなぁ?」
 ぼやきながら、アマボンズはやる気のないスケート選手みたいな動きで滑空していく。その細い足先、靴裏では『聖楽器』の鐘が時刻を告げるように低く小刻みに鳴っている。
 心臓の鼓動みたいに。
 基本的にアマボンズは『聖楽器』ラッパを大砲あるいは重火器として、『聖楽器』鐘を爆弾として用いる。単純な、武器としての扱いである。
 鐘の音色を一方向に解き放てば、こうしてジェット噴射のように用いて空を飛ぶことも可能だ。手榴弾を連続でばらまいて、その爆風で飛翔するようなもので、かなり器用な行為である。アマボンズの経験と訓練の賜だ、他人には真似できないだろう。
 何の防護もないまま生身で空を飛べば、空中の塵や虫にぶつかるたびに傷を負う。何かに激突すれば、ぺちゃんこになって即死だ。けれど『聖楽器』を宿したものは肉体ががんけんになるし、念のため眼球を保護するためゴーグルだけは用いている。
 信号機も対向車もない空だ、真っ直ぐ目的地へ向けて短時間で移動できる。
「急がないとねぇ――」
 やや鐘の出力をあげて、アマボンズはさらに加速する。
 目指す場所は現在、組織にとって最大の関心の対象である『お姫さま』が生活している刈谷兄妹の住まい――教会である。この調子なら、ほんの数分で到着するであろう。
 現在のアマボンズの任務は『お姫さま』の監視だし、あまり目を離すわけにもいかないのだ。今回は、必要があったためトッペキのいる図書館まで足を運んだけれど。
 電話でやりとりしても良かったし、普段はそうしているのだけれど。
「スワシワラちゃんが関わってるっぽいしねぇ、今回は何もかもいつもどおりじゃない。なるべく、自ら動かないとね」
 面倒くさそうに、アマボンズは深々と吐息を漏らす。
「あたしは古いタイプの人間だから、どうも電話越しの会話には馴染めないし」

アマボンズ/2

 アマボンズは滑空しながら、ぼんやりと町の景色を眺める。
 地上を行き交う車が蟻にしか見えないぐらいの高度だ、ほとんど航空写真のような視界……。ふと違和感をおぼえて、アマボンズは町の片隅へ目を向けた。
 何かが、引っかかる。アマボンズはこうして上空を移動することがよくあるので、この国における基本的な町のつくりは見知っている。けれど、おかしい。ぎにしたみたいに、違和感のある箇所がある。
 町の隅っこに、不自然な空白がある。そこに何かがあるのはわかるのに、意識できない。否――よぉく凝視して、アマボンズはそこに不自然に立派な屋敷があることを理解する。道路も繋がっていない、街並みとは建築様式も雰囲気も何もかも異なる建物。
「何だあれ……?」
 あんな怪しい物件があるなら、組織が勘づかないわけがない。調査などをしているはずだし、アマボンズも任務の前に町の地理条件は確かめている。あんなところに屋敷などあったか? なぜ、これまで認識できなかった?
 何度か瞬きを繰り返し、アマボンズは屋敷とその周囲を注視する。どうしても気になる、引っかかる。第六感が警鐘を鳴らしている。寄り道をして、あの屋敷を調べるべきか。トッペキあたりに電話で連絡をして、調査を依頼するべきか。
『お姫さま』は今のところ平和に暮らしているだけだし、そちらは今は組織の誰かに任せて――自分は屋敷の調査に赴くべきだろうか。
 しばし、アマボンズは逡巡して考えこむ。組織の人手不足は深刻である、信用できる人間もすくない。人任せにできず、ぜんぶ自分で処理するしかない。だが時間は有限だし、刻一刻と変化する状況に――気になる点の出現に、対応が間にあっていない。
「まったくもう、お仕事って大変だなぁ……。生きていくのってさ」
 アマボンズは町の景色をゴーグル越しに眺めながら、何気なくつぶやいた。
「ありふれた、どこにでもある町って感じなのに――世界の命運を左右する重要な舞台になっちゃうなんてねぇ。信乃芽の町だっけ、静おにいさんが帰りたがってたところ」
 瞬間、口元に手を添えて、アマボンズは首を傾げる。
「おにいさん? あれっ、何だろ? そう呼ぶのが自然に思えたけど――時任静とは面と向かって会話もしてないよね、何でこんなに親しげなの? あたし?」
 記憶を掘り起こして、眉をひそめる。生まれ育った島のベニヤ小屋で、静と食事を取って他愛ない会話をした思い出……。何だこれは。その後の自分の行動を思いだし、あちこちに不自然なものを見つける。アマボンズは、蒼白になった。
「スワシワラちゃんの『聖楽器』のちからで、過去が歪んでる? 今、書き換えられてる途中って感じ? だけど、何の意味があるんだろう――どういうこと? 過去に干渉できるのは、スワシワラちゃんのオルゴールだけだよね? どうして、時任静が過去にいるの?」
 何か想像もできない、おぞましい陰謀が水面下で進んでいる。アマボンズはそれを察して、猛烈に冷や汗をかいた。まずい。思った以上に、危機的状況なのかもしれない。
 ここが正念場だ。打つ手をあやまてば、取り返しがつかない。そんな気がする――いいや察せなかっただけで、とっくの昔に状況は詰んでいるのではないか?
 そんな予感がして、ぞっとした。
「おわっ……?」
 寒気を覚えて震えた瞬間、アマボンズの全身が傾いた。次から次へと、予期せぬトラブルが多発している。咄嗟に両手を広げてバランスをとりつつ、はなじろむ。
「わっ、わっ?」

挿絵7

 アマボンズは慌てて、状況を確認する。なぜか、靴裏から生えた鐘の出力が低下している。切れかけた電球みたいに音が弱まり、浮力が途切れがちになる。
「やっば――」
 考えごとをしていたため鐘を操るのが疎かになっていた、わけではない。そこまでは抜けていない。ならば、これは何だ?
 初めての経験で、かるくパニックになりかける。
 やばい。アマボンズは高空にいる、鐘がちからを失えば真っ逆さまに墜落して――地面に叩きつけられてお陀仏である。大急ぎで、鐘を全力で操って地上へと向かう。せめて軟着陸しなくては、間抜けな死にかたをすることになる。
 地上へ向かううちに、アマボンズの発達した聴覚が異様な音を捕らえた。
 のこぎりきをするような、道路工事のような――耳障りな騒音。けれど、どうやら音楽である。楽器の、演奏のようだった。
 何者かが、『聖楽器』を使用している。鐘が出力を失いつつあるのも、そのためだろうか。何らかの『聖楽器』の能力で干渉されて、鐘のちからが弱まっている?
 聞き覚えのある旋律だ。
 たしか、こんな音色を放つ『聖楽器』の持ち主は――。

アマボンズ/3

 十数分後。
 無事に地上へと舞い降りたアマボンズは、悪いと思ったもののコンビニの前に停まっていた自転車を拝借し、猛烈に漕いで図書室までとんぼ返りした。自転車の持ち主への対処は、あとで組織に任せるつもりだ。その程度のことはしてもらおう。
 非常事態である。
 先ほどから、鼓膜を引っ掻くような異様な演奏が町中に鳴り響いている。この音色には聞き覚えがあった――先ほど別れたばかりの組織の構成員、トッペキの『聖楽器』である。
 彼女が身に宿した『聖楽器』は、ギロと呼ばれている。あまり一般的には馴染みのない楽器であり、弦楽器とも打楽器ともつかない不可思議な代物だ。無数に溝が刻まれた太い棒のような楽器で、それを引っ掻くことで音をあげる。
 そうして掻き鳴らされる音色が、ギロギロギロ――と聞こえるためそのまんまギロと名付けられたという。洗練されていない、どこかの民族に伝わる楽器である。
 トッペキはドグモなどと同様に、ほぼ『聖楽器』と肉体が融合してしまっている。彼女の身体にはギロのそれと似た無数の溝が存在し、それを引っ掻くことで音色を奏でる。
 その溝は、もともとは自傷痕――かみそりなどで肌を切り裂いた際に生じた疵痕であり、演奏するたびに傷口が開いて彼女は出血する。常にトッペキが包帯や絆創膏で覆われているのも、そんな使用するたびに傷を負い血を流す『聖楽器』の性質による。
 痛々しいので、アマボンズはあまり彼女が演奏する姿を見たくない。
「トッちゃん!」
 図書館に辿りつき、アマボンズはいつもは腰に差しているラッパを拳銃のように構えて突入する。ギロの持ち主、トッペキの姿を探しながら。
「どこ? この演奏、何?」
 問いかけながら図書館のなかを見回して、すぐに変事に気づく。
 ギロの演奏が物理的な風圧でも生じさせたのか何なのか、書架が倒れている。大量の書物が散らばり、足の踏み場もない。図書館のなかで大爆発でも発生したか、巨大な震災にでも襲われたような有様だ。あきらかに、異様である。
 そんな災害か悪意ある暴漢の群れに荒らされたような図書館、その片隅にトッペキがうずくまっていた。先ほど別れたときと変わらぬ、包帯だらけの異様な見栄え。のような少女は虚ろな目をして――痒くて堪らない、というように全身を引っ掻いている。
 そのたびに彼女の『聖楽器』――ギロの音色が、耳が痛むほどの大音量で放たれる。音波に打たれ、アマボンズは怯む。暴力的な音色……。嵐のなかを進むような気分で、両腕で身を庇いながら、アマボンズはトッペキのもとへ向かった。
「大丈夫? どうしたの、何があったの? この音を止めて!」
 トッペキからの返事はない。アマボンズを無視しているというより、意識が曖昧なようだった。彼女は大量出血をしている。手にしたケーキ用のぎざぎざのある包丁で自らの肌を刻み、裂いて、血を流している。
 彼女には自傷癖があるが、それにしたって異様だ。自傷どころか、緩慢な自殺に見えた。流れた血がトッペキの周囲に飛び散り、殺人現場そのものである。
 失血により意識レベルが低下しているのか、トッペキはアマボンズにも気づいていないようで――けれど己を傷つける、おぞましい演奏を停止しない。
 よくわからないが、このままではトッペキが出血多量でショック死する。気絶でもさせるしかない――そう判断し、アマボンズは彼女へラッパを向ける。
 だが引き金をひき、音色を放とうとして怪訝になる。
 音がでない。否、『聖楽器』ラッパから音波は放たれている。だがその旋律は、トッペキの放つギロの音色に激突し――瞬時に相殺されて消えている。まったく同じ波長の音波がぶつかって、消滅している? 何だ、この現象は?
 トッペキは身内なので、ある程度、その『聖楽器』の能力は把握している。
 彼女の『聖楽器』ギロは広範囲に音色を響かせ、その能力の範囲内に他の『聖楽器』使いがいた場合は感知できる――というもの。潜水艦のソナーのようなものだ。トッペキ本人にしかわからない感覚だが、『聖楽器』の持ち主はギロの放つ音波を受けたときの反響音が一般人とは異なるらしい。
 そんなギロの能力を利用し、トッペキは『聖楽器』の持ち主と所在地を捜し当てる――いわばレーダーか警察犬みたいな役割を担っている。非戦闘要員でありながらも、組織の目的である『聖楽器』の在処を探知できる能力が重宝され、そのぶん地位は高い。
 トッペキは、そんな人物である。だがそんな事前情報だけでは、目の前で巻き起こっている出来事の説明がつかない。本人に問い詰めたいが、トッペキはどうもまともな状態ではない。何もかも後手に回って、理解不能で、気ばかりが焦る。
「どういうことだろうねぇ――」
 アマボンズは歯噛みしつつ、全身にぶちかまされる音の洪水をどうにか堪えて、前へ進む――トッペキのもとへ向かう。
 こうなったら普通に首でも絞めて彼女を失神させるしかない。『聖楽器』に頼りすぎないために、アマボンズはある程度の軍人じみた訓練は積んでいるのだ。
「対処が早いですね、さすがはアマボンズ――といったところでしょうか」
 不意に、甘やかな声が響いた。
 掻き鳴らされるギロの音色の隙間で、まるで脳に染みこむようにその声はよく聞こえた。アマボンズは警戒心を抱き、声の主を探す。咄嗟に、何か攻撃を受けても数秒だけでも時間を稼げるように、倒れた書架の陰に身をひそませながら。
「誰?」
 大胆に、アマボンズはすいする。血まみれの図書館。本の日焼けを避けるために薄暗い館内の一角に、誰かが立っている。明るい屋外から踏みこんできたばかりのアマボンズはまだ明度の調整ができておらず、その表情は闇に覆われてよく見えない。
「寂しいことを言いますね」
 何だか引っかかることを言っているのは、髪の長い人物だった。男か女かもわからない――いつの間にかトッペキの傍らに立ち、ギターのようなものを奏でている。
 見たことのない形状の楽器だ。『聖楽器』なのかどうかも判断できない。だがこんな異様な状況で平然としていることから考えて、まともな人間であるはずがない。
 こちらの名前も、知っているようだし。
「私のことは、まぁ――独奏者とでも呼んでください。ともに美しい旋律を奏でるパートナーを失い、途方に暮れて立ち尽くす憐れな道化ですよ」
 でもそれも今日で終わりです、と独奏者と名乗った人物は囁いて――。
 血の海のなかで、にっこりと笑った。
 アマボンズは、なぜかその顔に見覚えがある気がした。

ドグモ/1

 組織によってドグモと名付けられた下水道育ちの少年は、夢を見ていた。
 基本的に野の獣か虫のように人間的な理性のない、本能だけで生きているような人格の彼にとって――夢とは単なる記憶の整理だ。娯楽のたぐいにもほとんど触れずに育っていたし、空想的な代物を知りもしないので夢にもでてこない。
 原始人のように、ただ己が重ねてきた時間を、人生を反芻する。
 何の感情もなく、五感が拾った情報をジグソーパズルのように分類し脳の決められた箇所に分類しつづけるだけの作業。無為に眺めていても仕方ないと脳が判断するのか、普段は夢など見ずに――入眠すると意識が途絶え、一拍もおかずに覚醒するものだが。
 今日、ドグモが体感した事柄はあまりにも異様すぎて、脳が解釈に手間取っている。そんな感じがした。何度も何度も繰り返し、体験した事柄を並べてはどこに分類すればいいのか迷っている。そんな夢だった。
 今朝、ドグモはヴァイオリンを演奏していた。
 本物の楽器ではない。ドグモが身に宿す『聖楽器』であるハープの能力により生じる銀色のものを、ヴァイオリンのかたちに変形させて演奏しているのだ。
 普段は水銀のようなそれをシンプルな形状にしか変化させないが、やろうと思えばかなり複雑な形状にもできる。面倒だし疲れるし、無意味なのであまりやらないが。
『お姫さま』を奪取するための方策が見いだせず、ひたすら作戦を練りながら時間を浪費している現状、何かしていないと暇で仕方がないのだ。
 銀色のものを、それこそ銀細工のように精緻に変形させるのは『聖楽器』の訓練にもなる。まだまだドグモはこの異能を使いこなせているとはいえないし、修練は必要である。肉体は、鍛えれば鍛えるほど強くなる。ドグモにとって身体のいちぶのような『聖楽器』もそれは同じであると信じた――強くなることは、ドグモの目的でもある。
『聖楽器』は楽器と名前がついているので、演奏技術を学ぶのも悪いことではないように思えた。なので銀色のものを楽器に変形させ、たわむれに鳴らしている。
「ん~……。何か、しっくりこねェな?」
 ぼやきながら、不器用な手つきで銀色のヴァイオリンを演奏する。
 ドグモたちが生活の場としている、信乃芽の町の外れにある屋敷。その一角、無数にある空き部屋のひとつである。家具のたぐいはなく、がらんどうだが、どういう理屈なのかいつでも綺麗に清掃されている。
 窓から差しこむ冬の日差しを浴びながら、ドグモは演奏をつづける。
 今日は気温が高いので、がんばって演奏していると暑くなってきて、いつも身にまとっている外套は脱いでそのへんに放っている。
 外套の下はスワシワラが好んでドグモに着せたがるかわいい感じの洋服なので、ヴァイオリンなど演奏していたら、どこの良家の御曹司かと思うような見栄えである。色の抜けた長い髪をてきとうに結わえているドグモは、頬に汗の雫を伝わせている。
「~……♪」
 地団駄を踏むみたいに、拍子を取っているのか貧乏揺すりなのかわからぬ動きをして――ドグモは懸命に演奏していた。だがやがて飽きたのか、うまく旋律を奏でられなくて苛々してきたのか、八つ当たりぎみに壁を蹴った。
「あァもう、やってらんねェな! 独学じゃ限界があるだろうがよォ――でもなァ、家庭教師の先生を雇うわけにもいかねェしな?」
 そのまま銀色のヴァイオリンを床に叩きつけそうになり、咄嗟に堪えると、また構え直す。この水銀めいた代物はドグモのいちぶ――その身に宿る『聖楽器』なので、衝撃や痛みが多少はドグモ本体にも伝わるのだ。
 丁寧に扱わないと、無駄に痛い思いをすることになる。
「かといって、スワシワラに教本とか探してきてもらうわけにもいかねェし」
 独り言をぼやきながら、ドグモは嘆息する。
 演奏する楽器にヴァイオリンを選んだことに、とくに理由はなかった。すくなくとも、ドグモはそう思いこもうとしていたけれど。
 実際、この不可思議な屋敷の主が、ヴァイオリンを好んで用いるため子供っぽい対抗心が湧いてきたのである。なぜかドグモの恩人、スワシワラは屋敷の主のことばかり見ている。演奏が好きなのか、屋敷の主にご執心なのかはわからないけれど。
 何となく気に食わない。
 スワシワラの視線が他人に向いていることが、我慢ならない。なので自分もヴァイオリンを演奏できるようになり、彼女の注目を引き寄せたかった。褒められたかった、上手だねって笑ってほしかった。お母さんみたいに。
 けれど。そんな気持ちを自覚してしまうとプライドが損なわれるので、ドグモは単なる気まぐれだと――自分自身にすら嘘をつき本心を見ないふりしていた。
 傍から見ると一目瞭然だろうし、そんな気持ちをドグモが抱えていることを察したスワシワラがどんな反応をしても腹が立つだろうから、決して彼女には知られたくない。相談できない。黙々と練習し、屋敷の主よりも演奏の腕前が上達したら「どうだ!」と言いながらスワシワラに見せてやる。
 きっと馬鹿みたいに感心して、拍手して、褒めてくれるだろう。
 それを想像すると、何となく幸せになる。『お姫さま』だの『聖楽器』だの組織だの何だのという、あらゆる世界にとっての重要な存在がどうでもよくなってしまうぐらいに。
 ドグモは実際、その程度の――何でもない幸福を求めていたのかもしれなかった。
 今日、この日までは。

ドグモ/2

 たっぷりと、ヴァイオリンの練習をしたあと。
 空腹感を覚えたドグモは、屋敷を歩いて食堂へと向かっていた。屋敷の一階にある、広々としたホールである。たいてい、いつもそこで食事を採ることになっていた。
 下水道という最低の環境で、蛆虫がご馳走というぐらいの食生活を送っていたドグモにとって、普通の食事はそれだけで天上の美味であった。
 コンビニ弁当すら、涙がでるほどうまい。組織でも栄養剤のようなものを投与されるだけだったし――施設の外での暮らしにおいて、ドグモにとって食事は最大の喜びであった。
 なので毎日、楽しみにしていた。たいてい食事はスワシワラがつくってくれるので、それも幸福感を加味してくれる。ドグモは料理はできないし、屋敷の主人は基本的にまったくこちらに干渉してこないため、彼女がつくるしかないのだ。
 見た目より長生き(時空間を超越して存在する彼女を表現するのに適した表現かどうかはわからないが)のスワシワラは、わりと料理のレパートリーも豊富だ。成長期の子供であるドグモに気を遣っているのか、栄養面も考慮したおいしい食事を振る舞ってくれる。
 楽しみである。餌付けされる動物みたいではあるが、どんなに嫌なことがあっても食事をするたびにドグモはご機嫌になる。よだれを拭いつつ、浮かれた歩調で進む。
「ふふふん、今日の飯は何だろなァ――」
 きちんと身を覆い直した外套を指で撫でながら、しばし異様に広い屋敷をちょこまかと歩いていたが……。ふと、ドグモはぎくりと背筋を強ばらせる。
 野獣のように発達した嗅覚が、何か異様なにおいを感知した。
「何だ、このにおい――血か?」
 すぐに思い当たる。鉄さびのようなにおい。しばし嗅いでいなかった、己の身体にも流れている体液のにおい。一気に浮かれていた気分が冷めて、ドグモは臨戦態勢になる。
 平和なこの国で、地上で、施設の外で――血が流れることは滅多にない。異常事態が発生している。ドグモはハープを操り、身体の周囲に銀色のものを渦巻かせる。
 何があっても対応できるように身構えつつ、血のにおいを辿った。
 呑気な生活がつづいていたので忘れかけていたが、自分たちは追われる身である。組織からの追っ手、刺客が襲撃しにきたのかもしれない。
 あの組織もスワシワラの超越的な能力は知っている、迂闊に刺激して怒らせたくないだろうから手出しもしないはず――と思いこんでいたけれど。
 対抗策を見いだし、自分たちを始末するために狩人を送りこんできたのかもしれない。単なる強盗などとは、とても思えない。この屋敷は不自然なほど周囲から隔離されており、普段は通行人や車、野生の鳥や獣すら迷いこんでこないのだ。
 何らかの意志をもって、この屋敷に侵入し、血を流したものがいる。そんな不穏な状況で、のほほんとしているほどドグモも間抜けではない。
「ったくよォ、退屈してたから良い憂さ晴らしになりそうだけど……。せめて食事のあとにしてほしかったぜ、腹ぺこじゃちからがでねェよ」
 ぼやきつつ、ドグモは警戒しながら迅速に駆ける。
 屋敷の三階にいたドグモは身を低くしながら螺旋階段に辿りつき、エントランスホールを見下ろす。巨大な扉と、艶々の床と、シャンデリア。日中で明るいため照明は点けられておらず、あちこちの窓から陽光が差しこんでいる。
 なので明るく、くっきりとよく見えた。
 エントランスホールの真ん中に、誰かが蹲っている。神に祈るように跪いて、微動だにしない。その姿を、顔を見て――ドグモの心臓がおおきく跳ねた。
「スワシワラ!」
 思わず警戒も忘れて、その名を呼んだ。
 視線の先、血のにおいの大元にいるのは時間に干渉する強大な『聖楽器』の持ち主、スワシワラである。神にも等しい権能をもつ彼女が、ちからなく項垂れている。
 その周囲には、血の色が広がっていた。神さまみたいな彼女も血は赤いのだな――と現実離れした光景を見て理解が追いつかず、関係ないことを考えてしまった。
 返り血などではない、スワシワラが流している血である。
 出血の原因ははっきりしている。スワシワラは、両腕が欠落していた。無理やり引きちぎられたみたいに、腕がもげている。肩の内側の肉が露出し、生々しくも痛ましい。心臓に近い部位なので、大量出血している。
「スワシワラ――」
 ドグモは何も考えられずに、ハープを鳴らして銀色のものを円盤状に変形させ――そこに飛び乗る。螺旋階段を用いず、宙に浮遊する銀色の円盤をサーフボードのように操って一階へ舞い降りた。ほんの数秒で、無惨な有様の恩人のもとへ。
 やはり、見まちがいではなかった。スワシワラの腕がもげている、うち捨てられたお人形のように。子供に戯れにもてあそばれた、昆虫のように。体内の血を流し尽くしたのか、やがて出血は止まったが――周囲にはぬるぬるとした生乾きの血液が広がっている。
 ドグモは円盤に乗ったままなので、うっかり血で滑って転ぶこともなかったが、目の前の光景が理解できなくておろおろとうろえた。スワシワラは神に等しい存在だ、誰が彼女を傷つけられるというのだろう?
「大丈夫か! 誰にやられたっ、ちっくしょ! 組織の連中かっ!?」
 スワシワラには意識があるようで、何度かちいさく瞬きをしていたため、ドグモは息せき切って問いかける。見るからに彼女は致命傷を負っている、手当てをしたいが――方法がわからない。他人を傷つけ、奪い去る、肉食獣のような技能しか知らなかった。
 ただ動揺し、何度もスワシワラの名前を呼んだ。無力な幼児のように。
「ドグモくん」
 スワシワラが不意に、消え入りそうな声でつぶやいた。
「大丈夫――」
 いつもそうしていたように、彼女はドグモの頭を撫でようとしたようだが、両腕が欠落しているため無理だ。困ったように苦笑いしてから、頬を寄せてきた。
 血まみれの、それでも柔らかくて触り心地の良い頬が、ドグモのそれを擦った。
「誰も怨まないで、ね。仕方ないことだから。もともと、不自然だったんだ……。それが、元通りになるだけ。だから泣かないで、大丈夫だから。ドグモくんは強い子だから、わたしも幸せだったから。せっかく、ドグモくんはかわいいんだから」
 いつもながら理解しがたい発言をして、スワシワラは微笑んだ。
「ねぇドグモくん、今日のお昼ご飯は何にしよっか――」
 遺言めいて何でもないことを言って、彼女はゆっくり傾くと、血の海のなかに倒れこんだ。失血しすぎて、意識がなくなったのだ。まだかろうじて生きてはいるようだが――すぐにでも、彼女は息絶えてしまうだろう。
「待ってろ! 医者とか、何か呼んでくるからさァ!」
 もう屍体のようにしか見えないスワシワラを置いて、ドグモは屋敷の外へ向かった。医者か、もはや組織に連絡をとってでも彼女を助けたいと思った。
 スワシワラは組織に飼い殺しにされるだけだった自分を助けて、外の世界につれだして、たくさんの幸せをくれたのだから。今度は、こちらの番である。
「死ぬなよ! おまえがいないと、おれは何をどうしたらいいかわかんねェから!」
 最後に一声、えてから――ドグモはひた走っていく。
 哀しいぐらい明るく眩しい、外へと向かって一直線に。

ドグモ/3

 悪夢から覚めて、ドグモは両目を見開いた。
 視界に飛びこんできたのは、見慣れない天井である。蜘蛛の巣がかかった木製の壁と天井、蛍光灯が剥きだしの照明。どこだ、ここは?
 全身が鉛のように重たく、激痛がして、首も動かせない。ただ何度も瞬きをして、ドグモは当惑する。いいにおいのするベッドシーツのなかで、身じろぎをした。
 思いだしてみる。あの惨劇そのものの光景を目撃してから――両腕を切断されたスワシワラの治療のために、ドグモは屋敷の外へと向かった。己の『聖楽器』でつくりあげた銀色の円盤に乗って、最大速度で疾空したのだ。
 その途中で、よりにもよってアマボンズと遭遇した。彼女はどうも、それまでは組織からの脱走者であるドグモを見失っていたらしい。追っ手も放たれ捜索されていたが、ドグモたちは引っかからなかったようだ。
 あの奇妙な、外界から隔離されたような屋敷にいるかぎり、組織の監視網すら逃れてドグモたちは平和に暮らせていたのだ。だがスワシワラを助けるため、ドグモは不用意に安全地帯から飛びだして――組織に発見されてしまった。
 どうも『聖楽器』使いを探知するような能力の持ち主がいるらしく、その人物が『聖楽器』の持ち主の所在を感じてアマボンズに連絡。彼女が迅速に駆けつけて、ドグモと接触することになったようだ。
 ドグモはアマボンズが苦手だが、いちおう彼女は何もわからなかった下水道育ちのドグモを人間らしく育ててくれた教育係ではある。必死に対話を持ちかけて、頭を下げてまで頼んで、一緒に屋敷に向かってもらった。
 アマボンズは何を考えているかわからぬやつだが、懇願するドグモに思うところがあったらしく、意外なほどすんなり同行してくれた。
 世界の命運すら左右する超越者、スワシワラの現状が気になっただけかもしれないが――状況の確認のために、ふたりで屋敷に急いだ。
 しかし医者や治療の能力をもつ『聖楽器』使いを派遣してもらえるよう、アマボンズが組織に連絡をとっててくれたが――それは無駄に終わった。屋敷から、スワシワラの姿が忽然と消えていたのである。血溜まりだけを残して、彼女は行方不明になっていた。
 これにはドグモもたまて、理解不能で、ひたすら混乱した。無駄足を踏まされたアマボンズはとりあえず事情を聞くためにか、ドグモを拘束しようとしてきたので――必死になって逃げた。組織に戻るのは嫌である。
 アマボンズに執拗に追いかけられ、交戦し、必死に抵抗したもののドグモは負傷。昔取ったきねづかで、何とか町の下水道を利用して逃げ延びたものの……。動けなくなって、意識を失い、今に至る。
 組織には『聖楽器』使いを探知する能力者がいるようだし、こちらの所在は掴まれているはずである。呑気に寝てはいられない、すぐに場所を移すべきだ。
 しかしドグモは満身創痍だ、疲れきってもいるのですぐには動けない。じりじりと焦りながらも、スワシワラを心配する。彼女はどこへ行ったのだろう、無事なのだろうか。その『聖楽器』を用いて、どこか別の時系列へ向かったとも考えられるが――。
 とりあえず組織には明確に追われているし、彼らにはもう頼れない。なので、ドグモは他にあてもなく、スワシワラの能力すら通じないらしい『お姫さま』と接触することにした。『お姫さま』なら、行方不明のスワシワラを発見できるかもしれない。
 そう思い、現在『お姫さま』が暮らしているという信乃芽の町の教会へ向かったのである。だがそこで痛みや疲労が限界がきたのか気絶し、今こうして目覚めた。
 組織の建物っぽくはない内装だし、たぶん教会のどこかなのだろう。かなり立派な寝台に、ドグモは寝かされている。近くにはなぜか身体を鍛えるための器具や、男性向けのバイク雑誌などが散見する。ドグモは与り知らぬことだが、刈谷橙一の私室である。
 ドグモの全身には手当てが施されており、右手には包帯が巻かれ、頬と左足には絆創膏が貼られている。消毒液のにおい……。組織の研究施設を思いだし、やや不快だった。
 刈谷兄妹などはドグモの素性を知らないはずだし、行き倒れだと思って心配して、とりあえず家に運んで寝かせつつ手当てしてくれた――という具合だろうか。彼らはほんとうに単なる一般人のようだし、まぁ当然の対処であろう。
 世話になってしまった。
 とはいえ、怪我の手当てや寝床の確保のために教会を訪れたわけではないのだ。『お姫さま』と交渉し、スワシワラを探すために協力してもらわなくては――。
「動かないで」
 不意に、枕元で愛らしい声音が響いた。
 否。声だけではない、ぎこちないピアノの旋律も聞こえてくる。
「えぇっとドグモ、だったかしら。演奏中に中座するのは失礼よ、ちょっと黙って聞いてなさいね……。あなたが何もしないなら、こっちも危害はくわえないわ」
 ギョッとしてドグモがそちらを見ると、そこで正体不明の不可思議な『お姫さま』――キャロルが傲慢に踏ん反り返っていた。

ドグモ/4

 ドグモにとって、こうして『お姫さま』と向きあうのは初めてのことである。
 想像していたよりも普通の人間っぽいというか――威厳がないというか、単なる外国人の女の子に見える。服装も、やや古ぼけた普段着である。後から聞いた話だと、成り行きから同居している蒼衣のお下がりだという。
 寒い季節のため、もこもこの毛糸のセーターを身にまとっている。床に敷かれたホットカーペットに寝そべり、興味深そうに漫画本なんかを眺めていた。
 整った顔立ちをしているものの、浮き世離れした雰囲気はあまりない。これなら、まだスワシワラのほうが異様なぐらいだ。きちんと、この現実に馴染んでいる感じ。
「こんにちは」
 キャロルはお行儀良く座り直すと、快活に微笑んだ。
「挨拶は大事よね。お返事ぐらいして! すべての基本よ、そうでしょう?」
「てめェ――」
 あまりにも明け透けなキャロルの態度にやや鼻白んで、ドグモは身構える。寝床の上で身を丸めてやや後退すると、己の髪の毛を一本だけ引っぱった。
 爪弾くように。
 同時にドグモの身に宿る『聖楽器』――ハープが震えて音色をあげて、銀色のものが周囲に渦巻く。キャロルはそれを見て、「猫みたいな動きね」と変なことを言っていた。
 そんな彼女の正面に、不可解なものが浮遊している。
 鋼鉄や木材、石などがぐちゃぐちゃに接合されて何かのかたちを形成している。弓のようなピアノのような、武器のような楽器のような何かである。それはキャロルの間近で、物理法則を無視して浮遊している。
「一曲いかが?」
 その何かにキャロルが触れると同時に、ピアノの音色が鳴り響いた。
「どんな音楽が好み? ピアノ? ギター? ホルン? あなたの望む音色を奏でてあげる――この楽器、いろんな音がだせるんだから。シンセサイザーってやつに似てるみたいね、最近ようやく扱いかたを覚えてきたのよ。練習したからね、たくさん♪」
「えぇっと、あんたが『お姫さま』か?」
 親しげに大量の言葉を浴びせられて、ドグモはうまく返事ができずに聞きたいことだけ聞いた。基本的に辿々しい喋りかたをするスワシワラのみを話し相手にしていたため、彼女に比べればまだましだから忘れかけていたが……。ドグモもべつに、お喋りが得意なわけではない。ずっと、下水道で人間らしからぬ暮らしをしていたのだ。
 一方的に、鳴き声のように、思ったことをそのまんま喋るだけ。
「何かよくわかんねェけど、とんでもない存在だっていう――あんたなら、スワシワラを助けられるのか? 大変なんだよ、あいつが! 腕が、ぶった切れててさァ?」
「待って? 順序立てて説明してちょうだい、あとできれば『お姫さま』じゃなくてキャロルって呼んでね。だいぶ、この名前も気に入ってきたの」
 びみょうに噛みあわない返事をして、キャロルは幸せそうに微笑んだ。
「キャロル、キャロル、キャロルって……橙一や蒼衣に何度も呼ばれたからね。耳に心地良くなってきたわ、だから好きになれそうなの――この名前もね。静はまだ数えるほどしか呼んでくれないっていうのにね、あたしたちは同じなのに」
「えェっと……?」
「助けるって言ったわね? それが目的? あのときみたいに、あたしたちを襲うつもりだったらどうしようかと思っていたけれど――敵意は感じないわね。お友達になれるかしら? ねぇドグモ、傷つけあうよりは仲良くなるほうが幸せな感じよね?」
 こっちが一言、口にするたびにその十倍はまくしたてられる。ぜんぜん追いつけない――とりあえず彼女が『お姫さま』であることは、まちがいがないようだが。
 彼女の間近に浮遊する武器だか楽器だかを警戒し、ドグモは身構える。相手はスワシワラと同等かそれ以上の超越者、だと推測される。迂闊に刺激したら、何か良からぬ事態を招きかねない。
 とはいえ、引っかかる点があったため質問する。
「おい、えぇっとキャロル――襲うってのは何だよ? おれは、てめェとは初対面のはずだけどよ?」
 実は『お姫さま』を手にするため、襲撃計画を立てたりはしていたのだが。実行はしていない――こちらの考えていたことを見透かされているようで、気味が悪い。
「あら? あぁ、そういえばあの日の出来事はなかったことになったんだったわ――ごめんなさい。忘れてね、混乱しちゃうだけだと思うわ」
 不可解なことを言ってから、キャロルは「よっこらしょ」と言いながら立ちあがる。ずっと座っていたのだろう、皺が寄ったスカートを手のひらで叩いていた。
「あなた傷だらけなのよ、無理しないで寝てなさい。今、あなたが目覚めたって蒼衣や橙一に伝えてくるから。そっちにはドンパチするつもりはないみたいだし――あたしも、できれば出会ったひとすべてと仲良くしたいと思ってるのよ。難しいけどね、なかなか」
 歌うように言いながら、彼女は急がず焦らず部屋の出入り口へと向かう。
 その途中で、ふと何かを思いだすように沈黙して――振り向いてきた。
「待って? あなた、スワシワラって言った?」
「知ってんのか?」
 無視できない名前をだされて、思わずドグモは身を乗りだした。さすが時間に干渉する神さまのような存在――あいつは有名なのだろうか、ドグモとちがって。

ドグモ/5

「スワシワラ、スワシワラねぇ――」
 歩くと自動的についてくるピアノめいたものに、グラビア撮影でもしているみたいに頬杖をついて、かわいくキャロルは唸った。
「うんと……。うまく説明できないけど、今そんな名前が聞こえたのよ。これは、あたしが聞いたんじゃないわ――静の聴覚がごっちゃになってるのかしら。スワシワラ、おかしな単語だもの、たぶん同じものについて言ってるのよね? そうでしょ?」
「んん……?」
 ぜんぜん、何を言ってるのかわからない。先ほどからドグモは目を白黒させて、「えっと」だの何だのという吐息めいたものしか発することができずにいる。
 おかしな女の子である。見た目は完全に普通なのに、あまり人間と喋っている気はしない。何かもっと理解しがたい、妖怪か宇宙人のようだった。
 しばし意味のある発言もできず、ドグモはまじまじとキャロルを眺めてしまった。彼女は腕組みし、ピアノにもたれかかって思案している。
「どういうことかしら……。情報の共有が必要だわ、静との。あの子はあの子で何か不思議な物語に巻きこまれてるみたいね――ページの半分が剥落した本みたいに、よくわからないわ。あの子と喋りたいけど、どうも先日から声が届かないのよね」
 何やらぶつくさと言っていたキャロルだが、不意に顔をあげる。
「ねぇドグモ、聞こえた?」
「はい? 何がだよ――えぇっと、キャロル?」
 あまりにも十年来の知りあいみたいに簡単に名前を呼ばれたので、逆にすぐに反応できなかった。間の抜けたやりとりをしつつ、ドグモも耳を澄ませる。
 聞こえたって、何が?
 当惑するドグモを置き去りにして、今度こそキャロルは扉を開くと素早く廊下を駆けて行ってしまう。無邪気だった表情に、深刻な色をにじませて。
「悲鳴――みたいなものが、聞こえたのよ。これは、橙一の声かしら? ちょっと待っててね、様子を見てくるから。あなたは傷が痛むだろうし、動かないほうがいいわよ?」
「待てよ、おれも行く。こっちも、てめェらに話したいことがあるんだよ」
 状況がさっぱりわからないまま、ドグモはそう言ってキャロルの背中を追った。全身、痛いが――たぶん自分をぶちのめしたアマボンズも手加減してくれたのだろう。治療も施されているし、痛くて動けないほどではない。五体満足で、元気ではある。
 どうも、呑気に寝ている場合でもなさそうだし。
「いいわ。男の子ね。でも用心しなさい、ドグモ」
 やはり無駄に親しげに、キャロルが目配せをしてくる。
「何だか、とても嫌な予感がするわ。耳障りな音も聞こえるのよ、鋸を引くみたいな……。これって、たしかギロっていう楽器の音よね? 死者を弔う歌声だってもうすこし明るくて楽しい気分にさせてくれるわよ、これじゃあ断末魔の叫びね」
 走りながらも元気よく喋っていたキャロルが、不意に押し黙った。部屋を飛びだして、長い廊下を走って――短い階段を降りた先。そちらを見つめて、硬直している。ドグモは勢いよくそんな彼女にぶつかって、「どうした?」と非難じみて言った。
 ドグモが激突した衝撃で我に返ったのか、キャロルはこちらを振り向いてビックリした顔をしている。キャロルも小柄だが、ドグモのほうがわずかに背が低いため――彼女が前にいると視界が塞がれて何も見えない。
 いったい、何があったというのだろう?
「キャロル――」
 階段の先には、ちいさな生活空間があった。ソファやTVが置かれている、平凡なリビングである。その真ん中に、ドグモは名前も知らぬ青年がへたりこんでいる。逞しいたいせいかんな顔立ち。見るからに鍛えている頑健そうな人物だが、今は弱々しく項垂れている。
「どうしたの、橙一?」
 名前を呼んで、キャロルが呆然としていた。
「あなたが抱えてる、その銀色のものは――なぁに?」
 キャロルの言葉どおり、橙一というらしい青年は何か得体の知れないどろどろとしたものを抱えている。溶けかけたアイスのような、銀色の何かだった。ドグモが己の『聖楽器』――ハープで操る銀色のそれと、気味が悪いぐらいよく似ていた。
「なぁに、あれ? ドグモ、あなた知ってる?」
 なぜかこちらのことを知っているらしいキャロルも、すぐにドグモの能力を連想したのだろう――こちらを振り向いて凝視してくる。
 けれど、ドグモにはわけがわからない。銀色のものは自分のいちぶのように感知できるが、今はすべて己の体内に収納しているか周囲に展開している。
 あれは、ドグモの能力の産物ではない。
 けれど――まったく同じものにしか見えない、あれはいったい何だろう?
 例しに念じて銀色のものを動かそうとしてみたが、反応しない。否、おかしい。ドグモの意志によっていつでも出し入れし、操作できる銀色のものすら手応えがない。
『聖楽器』が、機能を停止している。キャロルのそばに浮遊していたピアノも、ゆるやかに床に落ちて砕けた。木片や金属片になって、散らばる。
「………?」
 キャロルにとっても理解できない現象なのだろう、怪訝そうにしている。だが彼女は橙一のことが心配だったのか、とりあえず楽器は放置して彼のもとへ走った。
「どうしたの、橙一? ちゃんと説明して! 聞くから――大丈夫よ、あなたは良いひとだから。あなたが哀しむような運命を、この世界の神さまは用意しないはずだわ」
 たぶん慰めようとしているのだろうが、言っていることは相変わらず意味不明だ。それでも声をかけられてすこし落ちついたのか――橙一は、呆然としながら顔をあげる。
「これ、蒼衣なんだ」
 そして、理解しがたいことを言う。
「蒼衣なんだ、蒼衣がいきなり溶けて――こんな、こんなふうに」
「蒼衣? 何を言ってるの、橙一?」
 キャロルも困惑して、ひたすら橙一の肩を揺すって呼びかけている。
 そうしている間にも、不気味なギロの音色は鳴り止まずに響き渡っている。悪意に満ちた音符の群れが、あらゆるものをむしばおとしめ壊していくようだった。