時任静/1

 時任静は幼いころ、神童と呼ばれていた。
 まだ物心がつかぬ年齢のころから、まるで王侯貴族のように、大人たちにかしずかれてきた。天からの授かりもの、神さまの子供だと褒めそやされて……。その理由はわからない、今から思いだしても自分のことのようには思えないぐらいだ。
 幼少のころから大人顔負けの能力、あるいは才覚を発揮したものは神童と呼ばれる。静の生まれた家も問題だった、両親はとあるおおきな宗教の分派を――国によっては異端と誹られるそれを熱心に信仰していた。
 ひとならざる怪奇な才能を発揮したという息子を、両親は奇跡の子だと、文字どおりの意味で神さまからの贈りものだと思いこみ――礼賛した。綺麗に飾り立て、宗教団体に献上し奇跡の承認を得て、息子を神輿にのせることで莫大な名声と権利、財産を得た。
 実の息子に対してさえ、静さま静さまと、へりくだって接していたのだ。
 異常である。どうかしている。
 高校生になり、それなりに世間に揉まれた今ではそう思うものの……。当時の静は偏った思想をもつ連中、宗教に骨まで染まったものたちに取り囲まれて育ったから、とくに自分の立場に疑いをもつこともなかった。
 自分は特別な存在、神童であり、敬われて当然。だからといってごうがんそんに振る舞えなかったのは、生来、静が臆病な気質だったせいである。
 静はいつも、びくびくとしていた。
 医者は(宗教団体にも医学の知識をおさめた、専属の医師ぐらいいる。何でもかんでも神さま任せ、奇跡任せではないのだ)静が生まれつき、聴覚が発達しすぎているせいだと診断している。本来、人間には聞き取れない周波数の物音まで拾い、他人の筋肉や心臓、脳細胞の動きまで聞き取ってしまって――まるで心を読んでいるみたいだった。
 そして宗教団体だからといって心清らかな聖者ばかりが所属しているわけではなく、内部では醜い権力争いが繰り広げられていた。静とその両親への嫉妬や陰口、罵倒や取り入ろうとするものたちのおべっかなどが日夜――絶え間なく耳に飛びこんでくる。
 気が滅入って、何も聞きたくないと耳を塞ぎ、静は内気な――己の内側に閉じこもりがちな性格に育った。健常な人間すら、常に騒音に晒されていれば心を病む。静にとってこの世界は生きづらく、騒音や爆音、ノイズに溢れた居心地の悪い場所だった。
 静は日に日に病みつき、不安定になり、衰弱していった。
 天才も、二十歳過ぎればただのひと――けれど静は、そのただのひとになる前に擦り切れて疲れきって、命を失ってしまいそうだった。
 そんな静を心配し、当時、宗教団体に不動産を提供していた地主――刈谷という姓をもつものたち、橙一や蒼衣の両親が何かと面倒を見てくれた。当時の彼らは宗教に染まっておらず、一般人であり、異常な育ちかたをしている静をいたく気遣ってくれた。
 静の両親が何らかの不正を働き投獄されてからは、静は刈谷夫妻に引き取られ、実の息子のように育てられることになった。橙一や蒼衣、ふつうの子供たちと寝食をともにし、遊び、何でもない日常を過ごすことで――自然と人間らしさを得ていった。
 宗教団体は静の両親も関わったというある陰惨な事件を起こし、糾弾されて、弱体化していた。生き残るために必死になり、いまいち得体の知れない神童のことなど誰もが忘れてしまったようだった。
 そして十年前、静や刈谷兄妹の人生を一変させたあの奇妙な誘拐事件が起きるまで――静にとっては、後にも先にも二度となかった平穏な日々がつづいたのである。

時任静/2

 静が神童と呼ばれる理由となった、その怪奇な才能とは何だったのだろうか。
 異常な聴覚のことか、あるいは息子が神からの賜り物であると思いこみたがった両親の妄想、でっちあげだったのか。当時の記録はほとんどなく、あまりにも幼いころだったため、静自身にもはっきりとはわからない。
 静は蒼衣とはちがって、誘拐事件の後に救出――あるいは発見されてからも、べつに記憶を失ったりはしなかった。覚えている。両親の顔も。その狂信的な言葉の数々も、傅く人々も……。蒼衣や橙一との、何でもない日常も。
 けれど、自分が備えているという不可思議な才能、とやらについての詳細は曖昧である。手から火がでるとか、肌に神さまからのメッセージが刻まれるとか、そういうわかりやすく目に見えるような奇跡は起こせなかったようなのだが。
 なぜ、神童と呼ばれていたのか。どうして、敬われていたのか。
 いま現在、不登校の引きこもりで友達も恋人もおらず、学校の成績も底辺のほう、スポーツもぜんぜん得意ではない――という平均以下の自分をあらためて見直してみても、そこに奇跡の残滓すら感じとることはできない。
 だから何だか、静にとっては幼いころのことは夢か、あるいは他人の記憶のようで現実感がないのだった。
 両親に会えば何かわかるのかもしれないが、彼らはいまだ収監中であり、諸事情あって静には面会もできない。彼らは息子を怪しげな宗教団体の崇拝対象、神童に祀りあげたのだ。息子と会うことで、また同じような愚行を繰り返さないともかぎらない。そう警察が判断し、息子である静を両親から遠ざけている。
 ふつうの親らしいことは何もせず、ひたすら気味が悪いほど崇拝してきた両親なので、あんまり家族だとも思えないし――とくに会いたくもないけれど。静にとっては、幼なじみの蒼衣や静のほうが、疎遠な時期があったとはいえ、家族のような存在だけれど。
 己の過去に渦巻くあいまいとした部分をつくったのは、まちがいなく両親ではあるので、いちどぐらいは面と向かって話してみたくもある。自分はいったい何者なのか、自分の才能とは何だったのか……。静が神さまの賜りものだというなら――自分はいったい何のために、この世界に送りだされてきたのか?
 日々の暮らしのなかで、現実的な些細な問題――賃貸アパートの家賃や光熱費、食事の献立、学校の定期考査などなどに洗い流されて、普段はそんな疑問は頭に浮かばないぐらいになっていたけれど。
 夜眠る直前などに、あれこれ考えこんでしまうことがある。
 ――自分は、いったい何者なのか。
 思春期らしい悩みといえば、それはそのとおりだけれど。

時任静/3

 僕はもう駄目かもしれない。
 いつもの台詞を脳内で繰り返し繰り返し唱えながら、静はすこしだけ過去のことを思いだしていた。神童と呼ばれていたころの、他人みたいな自分のことを。
 けれど実際、そんな場合ではない。目下、静は絶体絶命のピンチを迎えていた。近ごろこんなのばっかりだ、と嘆いてみても仕方がない。走馬燈めいた記憶の反芻をやめて、目の前の光景をおっかなびっくり直視する。
 吐息の触れる距離に、巨大な黒い獣がいる。
「待って」
 静は我ながら情けない震えまくった声で、命乞いをした。
「落ちついて。君に言葉が通じるわけがないのは見てわかるんだけど、万が一にもその可能性があるなら聞いてほしい……。助けて。殺さないで。食べないで。僕は美味しくないよ、話しあおう。誰か、誰か助けて」

挿絵6

 涙ぐんで、静は完全に腰を抜かしてその場にへたりこんでいる。
 そんな静の周囲は、奇妙な空間になっていた。大草原である。つくりものめいたプラスチック製なのではないかと疑わせる、異様につるつるとした雑草が一面に生えている。全方位、延々とそんな草っ原が広がっている。
 ちらほらと花も咲いているが、ちいさな女の子が落書き帳に描いたみたいな、雑というか奇妙なつくりの花である。真っ直ぐな茎の先端に、四枚か五枚の宝石めいた光沢をもつ花びらが乗っている。
 何だか演劇の舞台の、大道具や小道具めいた環境である。気温はなまぬるく、暑すぎも寒すぎもしない。なぜか太陽が沈む気配はなくずっと明るいが、空にお日さまは見当たらない。肌に風は感じるのに、どこか屋内みたいに思える。
 丸みを帯びた地平線が遠くに見えるが、どこまで走ってもずっと同じ景色がつづいている。建物や、人間の姿はどこにもない。遊園地のアトラクションみたいだが、それにしたって手抜きすぎる感じだ。
 朝も昼も夜もないのでいまいち正確ではないが、静の体感では、おおよそ数日ほどこの空間で過ごしている。奇妙に眠くもならず、空腹もおぼえない。まさか自分は死後の世界にでもいるのではないか、と疑わせる。あるいは、夢なのだろうか。
 異様に青々とした空を見上げて、静は頬をつねる。痛みは感じる。夢ではないのだろうか――でも、だとしたらここは何処なのだろう? なぜ、自分はこんな摩訶不思議な場所に独りぼっちでいるのだろう?
 静は途方に暮れて、頭を抱えてうずくまってしまいたくなった。だが目の前に、自分を軽く踏みつぶせそうな巨体が――怪物がいる。逃げなくてはと思うが、立ち上がる気力も体力もない。どうしようもなく詰んでいる、何でこんなことに……。
「うう。僕が何をしたっていうんだ、つましく誰にも迷惑をかけず生きてきたのに」
 愚痴ってみても仕方がない。それは理解しているが、静に他にできることはなかった。
 黒い獣はなぜか静をじっと見ているだけで、噛みついてきたりすることもない。逃げると追いかけてくるのだが、その理由もわからない。静を弄んで、遊んでいるのだろうか。
 とりあえず呼吸を整えながら、いろいろ思いだしてみる。
 静の記憶は、中途はんぱに途切れている。この奇妙な空間に迷いこむ直前まで、静は橙一の運転するバイクに跨がっていた。
 その前日――高速道路が爆破され、刈谷兄妹の住まいでお世話になり、成り行きで流されるままに登校して……。ドグモと名乗る不思議な少年に、命を狙われた。追いかけ回され、橙一に助けだされて、彼とともに死地から脱出。
 その途中で眠気に襲われ、バイクを走らせる橙一の背中に抱きついたまま居眠りをしたのだ。そして目覚めたときには、この不可思議な空間にいたのである。
 わけがわからない。まったく、何もかも理解できない。思考を放棄して、どっか遠いところに逃げたいぐらいだ。静は基本的に、そういう情けない性格をしていた。
 普通がいちばん。超常現象など、願い下げである。
 だから、こんな空間でも時折――脳裏に響いてくるキャロルの声もほとんど聞かないふりをしていた。電波が繋がりにくいみたいに、彼女の声はどこか遠く、薄くてかすれており、集中しないと聞き取れないぐらいだったし。これ幸いにと、意識から遠ざけていた。
 けれどこの不可解な現状は、キャロルとも関わりがあるかもしれないし……。いちど話してみるべきではないか、と思い始めてもいる。すくなくとも、このまま一生、永遠にこんな出来損ないの箱庭みたいな場所にいるのは御免だった。
 静は平穏に暮らしたいが、できれば楽しく、幸せに生きたいという人並みの願望もあるのだ。このまま何事もなく、退屈を持て余しながら朽ちていくのは嫌である。
「キャロル……?」
 恐る恐る、何を今さらと怒られそうだが、静はキャロルに呼びかけてみる。
 彼女の声は基本的に右耳から聞こえるので、そちらに手を添えて、電話するみたいな仕草をしてしまう。とくに意味のない行動だが、地べたに座りこんだままぶつぶつと独り言をつぶやくのも頭のおかしいひとみたいだ。べつに、それを見咎めるものが周りにいるわけでもないけれど。
「キャロル、聞こえる? 返事して……?」
 だが、応答がない。すくなくとも、静には感知できない。こっちが黙れと言ったときはしつこくお喋りをつづけるのに、必要なときにはお返事してくれない。なぜかそれが、たいへん腹立たしい。静は何だか拗ねてしまって、うなれる。
 すると不意に、目の前にずっと鎮座している黒い獣が動いた。
「うわっ――」
 びっくりして後ずさる静の正面で、黒い獣は虚空を見上げている。何かの物音に反応した、みたいな動きだが……。静は誘拐事件をきっかけに、異常な聴覚を失っている。現在では耳も常人並みにしか聞こえない、今も何の音も感知できなかった。
 そういえば、この空間はやけに静かだ。耳鳴りがするぐらいに。音を伝達する、空気が存在しないみたいに。ふつうに呼吸はできるし、大気の構成は静のよく知る普通の世界と変わらないようなのだが。
 あれほどキャロルの喧しい声をいとっていたのに、音がまったくしないのも、それはそれで不安になる。いつも聞こえているはずの自分の鼓動すら、感じない気がする。
 急に不安になって、胸元に手を添える。
 自分がお化けか何かになって、臨死体験でもしているのではないかと思ったのだ。
「ど、どうしたの……? 何か、聞こえるの?」
 獣が相手では言葉も通じないだろうが、静はいちおう声をかける。不気味だし恐ろしいが、この黒い獣は変わり映えのしない同じ景色のなかで――唯一、動きのある存在だ。コミュニケーションはできそうもないが、注目しておいて損はないだろう。
 獣は当然のように、静の声にも反応しない。妙に金属質な体毛を波打たせ、何かを警戒するように虚空を睨みつけている。
「ねぇ……?」
 反応がないのでれて、相手がこちらを傷つける様子がないので油断してもいて、静は黒い獣にそっと触れた。冷たく硬い、生物らしさのない体表面。
 それでも感覚はあるのか、獣が煩わしそうに身じろぎした――。
 瞬間、夢から覚めるみたいに、不意に視界が激変した。

時任静/4

 歌声が聞こえる。
 でたらめな音程だが、楽しそうで、聞いているだけで幸せな気分になってくる。まだ幼い、舌っ足らずな女の子の声だ。その金属が跳ね回るような歌声は間近から響いてくる潮騒にかき消されながらも、鼓膜に絡みつくような余韻を残す。
 ふらふらと、歌声に誘われるようにそちらに歩み寄りかけてから、静は「はっ」と両目を見開いた。耳が痛んで、手を添える。
「ここは……?」
 瞬きもしない一瞬のうちに、視界が切り替わっている。先ほどまでは、妙につくりもののようなおかしな空間にいたのだが――気がつけば、うら寂れた漁村、みたいな場所に立っていた。頬を撫でる風も冷え冷えとしていて、生臭い潮のにおいがする。
「えっと――」
 戸惑いつつも、静は周囲を見回す。
 錆の浮いた古ぼけた倉庫が並ぶ、海岸線である。正面にはどす黒く濁った海、灰色の工場群が遠目に見える。どうもちいさなとうしょが無数に密集しているらしく、そのすべてにパズルゲームのブロックみたいな味気ない工場が乱立している。
 静はそんな自然物に無理に人工物を嵌めこんだような、環境保護をお題目とする慈善団体が見たら怒りだしそうな風景のなかにいる。
 海面から突き出した巨大生物の背びれじみた、いくつもあるちいさな島のひとつ。だいたい静の通う私立信乃芽高校の敷地がすっぽり収まる程度の面積の島で、狭苦しい印象。元からなのか大工事を行って山などを削ったのか、凸凹しているもののほどよく平らな土地で、そこを埋め尽くすように大量の家屋が並んでいる。
 周囲の島にある工場へ出勤する人々が生活を送っている、妙な表現だがベッドタウンめいた島らしい。並んでいるのはほとんどが単なる住居と倉庫で、ごくたまに島の人間が生活用品などを購入するのだろう雑貨屋や食料品店がある。
 すべての建物が経年劣化してひび割れこけむしていて、今にも倒れそうだ。長年、潮風に晒されたのか樹木どころか電信柱や建築物まで斜めに立っている気がする。あちこちの家の軒先に吊された洗濯物が、生者を手招きする亡霊めいてはためいている。
「陰気な場所――」
 思わずつぶやいてから、誰かに聞かれたら怒られるかもしれない、と無意味にびくびくして静は身をちいさくした。人通りは皆無なので、独り言を聞かれた心配はなさそうだが。
 基本的にごみごみした町中で育った静にとって、海とはもっと美しく、どこでも観光地のビーチみたいに整備されているものだと思っていた。けれど、この海は汚い。淀んでいる。排水溝か、下水道みたいだ。
 もともとは自然豊かな島嶼だったのだろうけど、工場が垂れ流す排水で汚染されてしまったのだろうか。羽毛が汚れた海鳥が、赤ん坊の泣き声じみて鳴いている。
 先ほどまではほぼ無音の不思議空間にいたため、急に周囲に生活音や自然音が溢れてきたようで、うるさく感じる。眉をひそめ、静は深呼吸して全身をかつさせた。
 まったく状況はわからないが、先ほどまでいた空間に比べれば現実味のある場所である。変な表現だが、現実に帰ってこれた――夢から覚めたような実感がある。ここが静のいつもの日常と地続きの、ごく当たり前の世界なら、交通手段などを利用して帰れる可能性がある。とくに愛してはいないけど、静がずっと生活していた信乃芽の町へ。
 どうも見た感じ周囲は島なので、帰るにしたって船などを利用するしかないし(こんな黒ずんだ海を泳ぐのはやや嫌である)、着の身着のままで無一文なので大変そうだが。
 警察なんかに事情を話せば、怪しまれるかもしれないが、自宅や刈谷兄妹などと連絡がとれるかもしれない。時代は二十一世紀なのだ、こんな島にだってネットや電話が通っているはずである。
 当面の目的を定め、静は歩きだす。ぼうっと、突っ立っていても仕方ない。
 先ほどまで自分がいた謎の空間や、黒い獣についてはやや気になってはいたが、今はそれよりも安心できる居場所へ――日常へ帰りたい。
 とりあえず、先ほどから聞こえてきている歌声のもとへ向かうことにする。声からしてひょっとすると幼児かもしれないが、歌っている誰かがいるはずである。他人に喋りかけるのは苦手だが、背に腹は代えられない、がんばってコミュニケーションして交番の場所などを聞こう。静は、そんなことを考えたのだ。
 常に流されるままで成り行き任せ、自発的な行動はほとんどできない静にしては、なかなかナイスアイディアといえた。
「ふう、ふう――」
 普段あまり運動しない静は、ちょっと歩くだけで息切れする。情けなく思いつつも、歌声が聞こえてくる大元へと辿りつく。
 ちょっとだけ他の住居と離れた位置に立っている、建物というより瓦礫の山みたいな掘っ立て小屋である。ベニヤ板を無理に箱のかたちに組み合わせたみたいな、安っぽいつくり。周囲には廃材が山と積まれており、よれよれにたわんだ電線が一本だけ通じている。剥き出しの水道管。ゴミ捨て場なのか、黒いゴミ袋がいくつも転がっている。
 とても人間が生活できる場所ではない気がするが、歌声はそちらから聞こえる。静はちいさな掘っ立て小屋のすぐ間近で足を止めると、なかの様子をうかがった。
 窓みたいなものはないが、壁は薄っぺらいしあちこちひび割れや穴があって、なかからの声が丸聞こえだ。気配もする。誰かが、この小屋のなかにいるのはまちがいない。
 静は出入り口らしきもの――縦に細長い、腐りかけの木材みたいな扉の前で、ごくりと生唾を呑む。やはり、知らないお宅を訪問するのは緊張する。
 すこしでもこの小屋の住民に対面する前に事前情報を得ておきたい、と思って扉のそばにかかった表札を見た。判読しづらい文字で、天里、と書いてある。『あまさと』だろうか『てんり』だろうか、あんまり見かけない苗字だ。
「すみません――」
 静は長い間、その場に突っ立っておうのうしていたが、それも時間の無駄なのでありったけの勇気を振り絞って声をあげる。インターフォンみたいなものが見当たらないので、呼びかけるしかないのだ。
「あのう。ちょっと、道をお尋ねしたいんですが」
 交番の場所を聞きたいわけだから、発言はこれで大丈夫なはずだ。怪しげな訪問販売などと思われて、扉を開けてもらえないのは困る。
 しばし待ったが、返事はない。歌声は途切れず、響いている。
 静はぼそぼそと小声で喋りがちなので、室内まで聞こえなかったのかもしれない。もういちど、もっとおおきな声をだそう――と息を吸って。
「はいはい~?」
 不意に歌声が途切れて、あっさりと扉が内側に向かって開いた。奥から、ぴょこん、と小柄な少女が顔を覗かせる。
「あっ、やっぱり勘違いじゃなかった。声がすると思ったんだよねぇ――えぇっと、何か用? どちらさま? 島の人間じゃないよねぇ、知らない顔だし!」
 かなり気さくに語りながら、あはは、と朗らかに笑っている。
 その顔を見て、静は仰天した。
 貧乏なのかそういうファッションなのか、ボロ布みたいなものを身にまとっている。文明人らしからぬ、そのへんの浮浪者みたいな身なりだ。焦げ茶色の髪は長く、結わえもせずに垂らしている。小学生ぐらいだろうか、声の印象通りに幼い。
 その顔立ちに、見覚えがあった。
 特徴的な、その濃い蜜色の肌にも。
「あなたは、えっと――」
 静は記憶を辿って、いちど耳にしたその奇妙な響きの名前を口にする。
「たしか、アマボンズ、さん?」
「あまぼんず?」
 きょとんとして、アマボンズ――高速道路を爆破し、信乃芽学園でも宙を飛び回り大暴れした謎めいた存在、にしか見えない少女は小首を傾げた。
「それって、名前? そんな名前じゃないよ、あたしは――んっと、おにいさんは誰なの? あたしのこと、知ってるのかなぁ?」
 じろじろと不躾に静を眺めながら、彼女は無垢に微笑んだ。
「あたし、朱紗。あまさとあかしゃっていうの、おにいさんは……だぁれ?」

アマボンズ/1

「トッちゃ~ん? どこ~?」
 A・B・アマボンズと名乗る少女は、所属する不思議な組織の施設――図書館と呼ばれる建物のなかを歩いていた。その名の通り一般的に図書館として公開されている施設であり、大量の書架が並んでいる。
 信乃芽の町の片隅にある、いちおう市が管理する公的機関である。何をどうやったものか、組織が裏から手を回して我が物とし、この町における派出所のようなものとして活用している。全国津々浦々に、似たような組織の関連施設が存在するらしい。
 アマボンズは任務のためにこの町に派遣されてきただけであり、普段は全国を飛び回っている。この図書館にもまだ数度しか訪れたことがなく、勝手がよくわからない。中途はんぱな田舎のため土地が余ってるのか、それなりに敷地は広く、軽く迷子になってあっちこっち行ったり来たりしてしまった。
 ネット全盛の時代なためか、普段から利用者はすくない。今は平日の真っ昼間だし、暇な近所の老人などがちらほらいる程度。しんと静まり返っていて、窓から差しこむ日差しが舞う埃をむやみに輝かせている。
「あたし今日から謹慎処分が解けて、任務を再開することになったからさぁ――あたしが不在だった間はどんな感じだったのか知りたいし、いろいろ話を聞かせてよ。ごめんねぇ、あたしが無茶やらかしたせいでトッちゃんも怒られちゃったっしょ?」
 申し訳なさそうに言いながら、アマボンズは誰に聞かれているかわからないのに開けっぴろげに発言する。
「調べといてって頼んどいた、スワシワラちゃんについての情報とかも聞きたいしさ。いやあの子は神さまみたいなもんだし、調べろって言われても困るんだろうけど……。あの子が本気で逃げ隠れしようと思ったら、誰にもどうにもなんないもんね」
 感覚の優れたアマボンズは、すでに目当ての人物の所在を何となく掴んでいる。利用者はすくないし、施設内の気配をひとつひとつ見ていけばそのうち当たりを引く。のんびり読書を楽しんでいた老人やちいさな子供づれの主婦の横を素通りし、いくつかの書架が並んだ隙間に、目的の人物を見つけた。
「あっ、いたいた。すぐに返事してよ~、無駄に歩き回っちゃったじゃん」
 呼びかけると、こちらに背を向けて立っていたその人物はゆっくり振り向いてくる。
「アマボンズちゃん……。堪忍なぁ、来客の相手をしとったんよ」
 関西弁である。この図書館――信乃芽の町における組織の派出所はいちおう関東圏なのだが、組織は人手不足なのである。優秀な『聖楽器』の使い手として、関西のどこかから派遣されてきたのだろう。
 それだけ今回の任務――『お姫さま』と呼称される特別な存在の調査などなどは、組織にとって重要なのだ。全国から腕利きが集められて、各々、活動している。無論、『お姫さま』にまつわるものだけでなく全国で『聖楽器』に関連する事象は発生しているので、おおくても数人程度だろうし、アマボンズに面識があるのは図書館で全体の統括をしているこの人物だけであるが。
 組織内の地位でいえばアマボンズのほうが高いのだが、みんなのまとめ役、現場指揮官のようなものなので――いちおう尊重することにしてはいる。
「ごめんなぁ……。うち集中力あらへんから、たくさんのことを同時にでけへんねん。何かひとつしてると、いっぱいいっぱいになってまうんよ。ふたつも『聖楽器』を使ぉてるアマボンズちゃんは偉いなぁ、尊敬するわぁ♪」
 ほんわか微笑んでいる、彼女の組織におけるコードネームはトッペキ。変な名前だが、アマボンズだってひとのことは言えない。組織のネーミングセンスはかなり酷いのだ。
 ともあれトッペキは、まだ高校生ぐらいに見える年若い女性である。『聖楽器』の持ち主は、アマボンズのように肉体まで変化して成長が止まっているものなどもいるので――見た目どおりの年齢ではないかもしれないが。
 彼女も派遣されてこの町にきたので、本来、通っているらしいどこのものかもわからぬ高校の制服を着ている。格式高い宗教学校の、質素で禁欲的な仕立ての衣装である。
 整った顔立ちをしているが、それを隠すように片目に治療用の眼帯をつけており、あちこちに包帯を巻いている。肌の露出した部分がほとんどなく、包帯の上からさらに絆創膏まで貼っている。何だかまんしんそう、という感じの見栄えである。
 過酷な任務に従事して負傷した、というわけではない。彼女には自傷癖があるのだ、今もどこか痒いみたいに二の腕のあたりを伸ばした爪で引っ掻いている。どうもその身に宿す『聖楽器』のために、そういう見ていて痛々しい悪癖ができたらしい。
「トッちゃん、しばらく見ないうちにまた包帯増えてない?」
「いやぁ……。あはは、お恥ずかしいわぁ♪」
 平和的に微笑みながらも、トッペキは今度は爪をいじましく噛み始めた。何だか精神に失調を抱えているみたいな様子だが、『聖楽器』を身に宿すとおおかれすくなかれ心と身体に変化がある。彼女のように、ちょっと変わった様子になるものが大半である。
 物珍しいものでもないし、今さら驚かない。所詮、仕事だけの付きあいでもある。アマボンズだってふたつの『聖楽器』を身に宿しているためか、カロリーの消費が激しすぎて、常に甘いものなどを食べてそれを補っている。今もコンビニで買ってきたシュークリームの包装を剥いでぱくついている、図書館は飲食厳禁だろうが知ったことではない。
 奇妙な歪みを抱えた少女たちは、せいひつな図書館で向きあった。
「頼まれてた件については、いちおう組織が総力をあげて調査してんで。時間を操る『聖楽器』の使い手、組織からの脱走者スワシワラちゃんについて……。まぁ、いちおうファイルにまとめといたから目ぇ通しといて」
 重たそうにしながら、トッペキが分厚いファイルを差しだしてくる。アマボンズはいちおうそれを受け取りながらも、あっかんべ、と舌をだした。
「うえ、こんなにたくさん読んでらんないよ……。トッちゃん、端的にまとめて口頭で説明してくんない?」
「『トッちゃん』って呼ばんといてや~、『お父さん』みたいで嫌やわぁ?」
 あんまり関係ないようなことを言いつつ、トッペキははにかんだ。
「つい今さっきも、他のひとに説明したばっかりやからなぁ……。何度も同じことすんの面倒やわぁ、アマボンズちゃんもうちょい早ぉきてくれたら一度に済んだのに」
「ごみんごみん。先に発見されたドグモくんを捕まえて尋問しようと思ってさ、ちょっとバトルしてたの。逃げられちゃったけどねぇ、あの子は逃げ足だけは速いから」
 苦々しげな口調とは裏腹に、むしろ何だか誇らしげな笑顔でアマボンズは言った。

アマボンズ/2

 アマボンズは目を丸くして、ふと気になったことを問いかける。
「あれ? スワシワラちゃんについては優先度が低めなんじゃないの、あたしの考えすぎかもしれないって話でさ……。あたし以外にも、誰かが彼女について聞きにきたわけ?」
 トッペキは先ほど他のひとに同じ説明をした、と言っていた。自分が口にしたことのはずなのに、何だか意外そうに目を丸くしてから、彼女は頬をかなり強めに掻いた。
「あぁ、言われてみれば変な話やね。でもよく知ってるひとやったから、普通に情報提供したで。基本的に、うちはわれたら必要な情報を提示すんのが仕事やもん」
「うん、お仕事お疲れさま。組織の誰が聞きにきたの? 顔見知りかもしんない――同じ目的のために動いてるなら協調したほうが効率的だけど。ついさっき訪問したんだよね、まだそのへんにいる?」
「ん~……。さっさと帰ってしもたからなぁ、でもほんとつい数分前やし。まだ、そのへんにいるかも。あっ、ここの窓から見えるで」
 本が日焼けすると困るため、図書館には窓がほとんどない。消防上の観点から、最低限のそれが備わっているだけである。そんな窓のひとつにかかった暗幕を手でどけて、トッペキは外を示した。
 アマボンズも、何気なくそちらを見る。
「ん……?」
 たしかに言われたとおり、窓の外を誰かが歩いている。ふつうの歩調だが、もうだいぶ遠くにいるし後ろを向いていて人相は判然としない。
 やけに長い、麗しい髪だけが印象に残った。
 なぜか棺桶のような、ギターケースみたいなものを背負っている。
「誰だ、ありゃあ……。あたしは知らないひとだなぁ、でもトッちゃんの知りあいなんだよね? コードネームとか、わかる? あとで連絡を取って、できれば共同戦線とか張りたいもん。スワシワラちゃんを相手どるには、準備をしすぎってことはないだろうし」
「ん~……。あれ、コードネームとかど忘れしてもたわぁ?」
「しっかりしてよ。よく知ってるひとなんでしょ、そう言ったよねトッちゃん?」
 呆れて、アマボンズは溜息をつく。トッペキはぼうっとした子なので、こういううっかりは珍しくないものの……。何だか、ちょっと引っかかる。
 とはいえ去りゆくものを追いかけて声をかけるなどするのも、なぜだか億劫に思えて、アマボンズは本来の自分の目的を優先する。それっきり、正体不明の長い髪の人物についてはすぐに忘れてしまった。不自然なぐらい、あっさりと。
「ともかくまぁ、端的に説明すると……。スワシワラちゃんの所在は、よぉわからへんねん。せっかく調査を頼まれたのに、申し訳あらへんけど」
 トッペキも応じて、話を本筋に戻した。
「うちの『聖楽器』の能力なら、他の『聖楽器』の所在はけっこう正確に感じることができるんやけど。ぜんぜん、スワシワラちゃんは引っかからへんな。けっこう広範囲で感知できんのやけど、まるでヒットせぇへん。スワシワラちゃん、死んでしもた――わけとちゃうよな? 何か、怖いぐらいに気配が掴めへんねん」
「ん~……。そりゃ変な話だなぁ、あの子の『聖楽器』は最強に近い。簡単に殺されるわけがないと思うけどねぇ、死んでくれてたら話が簡単ではあったんだけど」
 スワシワラは組織の裏切り者、脱走者である。べつにお友達ではないし、生きていようが死んでいようが普段ならばどうでもいい。彼女の所在について調べていたのも、スワシワラが動いている痕跡を察して――アマボンズの本来の目的である『お姫さま』の調査と捕獲を邪魔されたら困るな、という感じであった。
 彼女が死んでくれていたなら、余計な手出しをされなくて済むから安心ですらある。とはいえ、神さまにも等しい『聖楽器』使いの所在がさっぱりわからない、というのは逆に不安だった。殺して死ぬような、やわな使い手ではないだろうし。
 むしろ表情を険しくするアマボンズを怖がるように、トッペキは顔を伏せて言った。
「何やろ、特殊な気配を消すような『聖楽器』の持ち主に保護か隔離されとんとちゃうやろか。えっと、スワシワラちゃんは他の脱走者と一緒に行動してんねやろ?」
「あぁ、ドグモくんって子と一緒に動いてるはず。でもあの悪ガキはさっきしばき倒してやったし、『聖楽器』の使いかたも未熟だからねぇ……。気配を消したりとかの小器用な真似はできなくって、単に武器みたいに使ってるだけの子だよ。まぁ、逃亡生活のなかで『聖楽器』に真のちからが芽生えた~、みたいな可能性もないこともないだろうけど」
 それでも、アマボンズにはいまいち釈然としない。先ほど接触したドグモの口ぶりや『聖楽器』の使いかたから考えて、彼がスワシワラを隠している可能性は薄い気がした。
「ん~……。そうと知ってりゃあ、あの子をもっとしつこく追い詰めて捕まえとくんだったな。駄目だなぁ、あたし。ぬるくなっちゃってる。下水道からあの子を拾って育てたのはあたしだからね――何か、対応が甘いっていうか情けをかけちゃいがちだよ」
「あはは。アマボンズちゃん、優しい良ぇ子やね♪」
「子供扱いしないで~。これでも、たぶんトッちゃんの三倍ぐらい長生きしてるから」
 アマボンズはシュークリームの残りを平らげると、指先についたクリームを舌で舐めとる。深々と吐息を漏らし、あらためてファイルを受け取るとぺらぺら眺めた。
「まぁ、でも引きつづき情報収集をしといてね。スワシワラちゃんの気配を察知したら、連絡して。黙って不干渉でいてくれたら、それがいちばん良いんだけどねぇ」
「うん。定期的にうちの『聖楽器』で、気配を探ってみる。そのファイルにもこれまでのスワシワラちゃんの痕跡とか、それっぽい情報とかいろいろまとめてるから。ついでにアマボンズちゃんの本来の任務、『お姫さま』にまつわる情報も綴じてあるで」
「あぁ、だからこんなに分厚いんだね。ん~……いまだに、『お姫さま』については正体不明すぎるね。何なんだろうね~、実際。あの子が認識されてから、何もかもが調子狂っちゃってる感じ。組織の対応も、後手後手に回ってるしさ」
「さぁねぇ……。うちはただ、自分の周りが平穏であれば良ぇんやけど」
 トッペキは眉尻を垂らすと、顎で図書館の奥を示した。
「アマボンズちゃん、時間あるんやったらお茶でも一緒にどや? さっきの髪の長いひとがお土産をくれたんよ、クリスマスはまだ先やのにブッシュ・ド・ノエルをな~♪」
「う~みゅ。甘いもんは大好きだけど、遠慮しとく~。のんにお茶とかケーキとかを楽しむのは、ちゃんと世界が平和になってからね」
 ファイルに目を通しながら、アマボンズはかるく頭を下げて立ち去っていく。それを見送りつつ、トッペキが苦笑いしていた。
「意外と真面目やねんなぁ、アマボンズちゃんは……。うん、世界の平和を守る大事なお仕事、あんじょう気張ってや~♪」
 ひらひらと互いに手を振って、『聖楽器』使いの少女たちは別れた。

刈谷橙一/1

 近ごろ妹の蒼衣が不機嫌すぎて困る。生きた心地がしないぐらいだ。
 料理好きなはずなのに毎食、冷凍食品かコンビニ弁当をだしてくるし、それに文句をつけると包丁を握りしめて「お気に召さないならあなたを料理しますよ」と言わんばかりに睨んでくる。信乃芽高校のマドンナらしからぬことに苛々と貧乏揺すりをし、気づけば猫みたいに壁を引っ掻いている。八つ当たりなのか毎朝、橙一を起こす方法が残虐になってきており、今朝などはダンベルを思いっきり頭に落とされた。
 そろそろ命の危険をおぼえるし、何とか機嫌を直してもらいたいところだけど。
「どうしろってんだよ――」
 うめきながら、橙一は自宅の風呂場――浴槽に肩まで浸かって全身を脱力させる。刈谷兄妹の自宅、教会の傍に建つ居住スペースである。その一階、狭苦しいユニットバス。古い建物なので設備が老朽化しており、蒼衣が神経質に掃除しているもののタイルがいちぶ剥がれていたり水漏れがしたりと、なかなか不便で辛気くさい。
 橙一は汗を流せるなら何でもいいのだが、蒼衣はしつこく両親にせめてお風呂とキッチンだけは最新型のそれに改築してくれないかと、何度も頼みこんでいる。
 基本的に教会の建物のほうを優先して改築などしているため、居住スペースの住環境は後回しにされているのが現状だが。
 長身の橙一にはやや手狭で、浴槽から両手両足がはみだしている。執念深く鍛えられたその肉体は筋肉質で、蒸気や汗の雫が伝っている。濡れた髪が顔に貼りつくのを厭って指先でいじりながら、橙一は熱いお湯にとろけている。
 疲労感がある。自宅の空気が日増しにギスギスしており、気疲れしているのだ。こればっかりは、どれだけ身体を鍛えて体力をつけてもどうしようもない。疲れが溜まりつづけて、神経がいかれそうだ。
 蒼衣が不機嫌になっている理由は、わかっている。
 静が戻ってこないのだ。
 静と肉体を共有している――らしいキャロルは、すぐにでも再び入れ替わって静が戻ってくると言っていたのだが。今のところ、一向にその気配がない。あのわかりづらい不思議な説明を聞いてからもう一週間が経つが、キャロルはずっとキャロルのままだ。
 静と入れ替わって元に戻る気配がないし、キャロルが呼びかけても静は音信不通らしい。すべてがキャロルの口から出任せで、本当は彼女と静が同一人物であるという説明すべてが嘘か冗談だったのではないかとすら疑わせる。
 キャロルもこの状況には焦っているし、静が戻ってこない理由がわからないらしくて目に見えて落ちこみ、戸惑っている様子だけれど。キャロルの説明を信じて静が戻ってくるのを待っている蒼衣は、どんどん苛々している。
 キャロルと静が同一人物、同じ肉体を共有しているという前提を信じたからこそ、蒼衣はどこの何者かもわからぬ異国風の少女――キャロルを自宅で保護し、食事や寝床を与えているのである。だが、待てど暮らせど静とキャロルが入れ替わるそぶりはない。
 いいかげん我慢の限界なのか、蒼衣は何度もキャロルを問い詰め、おにいさんを返しなさい今すぐですさもなければ――と脅迫まがいの言動までし始めている。
 蒼衣は、なぜかは不明だが幼なじみの静にいたくご執心なのだ。
 橙一としては、どことなく心惹かれている愛らしい少女――キャロルとの同居生活をちょっと楽しんですらいるのだが。静とはしばらく疎遠だったし、一緒に一つ屋根の下で暮らすならあの陰気な少年より、明るく愛らしいキャロルのほうが好ましくすらある。
 それを言ったら蒼衣に八つ裂きにされそうなので、言わないけれど。
 もともと不可解な話なのだ。どうやったら静が戻ってくるのかもわからず、遠い異世界とやらにいるはずの静と連絡をとる手段もない。手詰まり、というか打つ手がない。じりじりと、静が戻ってくるのを待つだけの日々である。
 高速道路が爆破されて以来、橙一の認識としてはとくに何事もなく平穏無事な毎日がつづいているし――慌てて何かする意義を感じない。このままでもいいじゃん。
 とはいえ。どうもこの状況はキャロルにとっても不測の事態のようで、めいろうかったつな彼女が一日ごとに消沈していくのを見るのはなかなか心苦しい。蒼衣も怖いし、何とかできるならしてやりたいが。今のところ、暗中模索という感じである。

刈谷橙一/2

 橙一にはうまい考えも浮かばず、ただ淡々と日常を過ごすしかなかった。
 朝起きて学校に行き、たまにサボってバイクを転がして遠乗りに行ったりしつつ、帰ってきて蒼衣とキャロルの口論を聞く。夜は身体を鍛えて、さっさと寝る。その繰り返しだ――無駄に、足踏みしている感じがする。
 ちなみにキャロルは静の代わりに学校へ行きたがっていたが、どう考えても静ではない――同一人物だ、などと説明しても学校側は納得しないだろう。身の丈にあう制服もないし、生徒ではない彼女を登校させたら騒ぎになる。
 なので日替わりで、橙一か蒼衣が自宅でお留守番する彼女を監視がてら相手をする感じになっていた。静が戻ってきたらいの一番に挨拶したいらしく、たいてい、どうしても学校で外せない用事がある日以外は蒼衣がキャロルの面倒を見ている。
 たまに橙一が相手をする日は、これ幸いにと彼女をつれだしてバイクで町を駆け巡り、何もかもを物珍しがる彼女とデートみたいに遊び回ったりもしている。
 なかなか楽しい。
 とはいえ、このままで良いわけがない。あくまでキャロルは異世界からの来訪者――この世界で、あの肉体で生きるべきなのは静なのである。不自然な状況を終わらせて、静には戻ってきてもらわなくてはいけない。蒼衣も、そろそろプッツンしそうだし。
「時任のやつ、マジでどうしちまったんだろうな――」
 ぼやきつつ、橙一はお湯で濡らしたタオルで目元を覆って、おおきく身を伸ばす。入浴中まで思い悩みたくない、気分良くリラックスしたいのだけど。
 橙一にとってもいちおう、静は昔は家族同然の間柄だった。心配していないわけではない、だが差し迫った危険などがあるわけでもないし――今のところ楽観していた。
 まぁ、そのうち何とかなるだろ。そう思って、あまり深く考えずにいた。たいていの物事は、橙一とは無関係なところで勝手に進行し、解決してしまうのだ。
 十年前の誘拐事件でも。いつだって、そうだった。それを思うと何だか悔しいというか、虚しい気分になってしまうけど。果報は寝て待て、とも言うではないか。
「橙一~?」
 不意に風呂場に甲高い少女の声が響いて、橙一はギョッとした。
「ずいぶん長風呂ね。猫と遊んでいたら汚れちゃったから、身体を洗いたいわ。さっさと出ろとは言わないけれど、せめてお湯を使わせてもらっていい?」
 タオルで視界を塞いでいたのですぐには気づかなかったが、キャロルの声が間近からする――彼女がすぐそばに立っている。まだ、橙一が入浴中なのに。
「いいわよね? むかぁし、静と橙一は一緒にお風呂にも入ったものね。あたしと静は同一人物だから、まぁ問題ないわね。久しぶりに、背中の流しっこでもする?」
 楽しそうな、キャロルの声。ちょっと待て、と橙一は思った。同居しているのだし、風呂場で鉢合わせすることもあるかもしれないが。まさか、普通に入ってくるとは。
 タオルで目元を覆ったままだし、状況を直視する度胸もないが……。どうもキャロルは当たり前のように全裸で、橙一が浸かったままの浴槽から洗面器でお湯をすくうと、自分に浴びせているらしい。そういう物音と、気配がする。
「あぁ、心地良い。お風呂って偉大な文化ね、あたしすっかり気に入っちゃったわ。……橙一? どうしたの、寝ちゃったの? お返事ぐらいして!」
「キャロル……?」
 橙一は指先すら動かせないまま、彼女の名前を呼んだ。どうも身体を洗っているらしく、キャロルは楽しそうに鼻歌を口ずさんでいる。
「~……♪ あら、やっぱり起きてるんじゃない。どうしてタオルを顔に乗せてるの? それ、楽しいの? 何か効果があるの? 蒼衣もお風呂上がりに白いもので顔を覆ってるときがあるわね、あれはいったい何の意味があるの?」
「美容じゃねぇの……。お肌、つるつるにしたいんだろ」
「そんなことしなくても、充分つるつるなのにね。蒼衣は、難しい子よね」
 何だか納得したように返事をしてから、キャロルがいきなり橙一の目元を覆っているタオルを「ぱっ」と取った。
「橙一? 喋っているときは、相手の顔を見るのがマナーじゃないの?」
「ちょっ……。勘弁してくれ、キャロル!」
 思わず大声をあげて、橙一は浴槽のなかでもだえした。すぐに目を閉じたが、一瞬だけとんでもない光景が視界に飛びこんできていた。一糸もまとわぬ、キャロルの姿。泡だらけで、まったく身体を隠しもせずにこちらを覗きこんできていた。羞恥心はないのか。
 人間とまったく同じに見えて、どこかずれている異世界のお姫さまは――どぎまぎしている橙一の頭を駄々っ子のように揺さぶった。
「どうしたの、橙一。困ってるみたいだわ、あたしはまた何か変なことをしちゃったのかしら。問題があったなら言ってね、あたしはなるべく橙一や蒼衣には迷惑をかけたくないのよ。あなたたちのことが、けっこうかなり大好きだから」

刈谷橙一/3

「あのな。キャロル……。何から、説明したら良いのかわかんねぇけど」
 橙一は深呼吸し、パニックになりかけていた頭を平静にする。
 彼女は、何もわからないだけだ。野生動物と同じだ。悪意も、当然いやらしい気持ちもない。そんなふうに思ってはいけない、かといってこれ幸いにと彼女のあられもない姿をジロジロ見るつもりもないが。それをしてしまったら、彼女を汚してしまう気がする。
 穢れなきお姫さまに、橙一は丁寧に語った。
「とりあえず、男女は一緒に風呂に入っちゃ駄目なんだ」
「どうして? 何事も一緒にしたほうが楽しいわ、食事も遊びもどんなことでも……悦びは共有すべきでしょう? どうして、順番待ちをしなくちゃいけないの?」
「えっと……。俺は大丈夫だけど、他の男ならおまえに良からぬ考えを抱いて襲いかかったりするかもしれないから。危ないんだ、本当に。こういう行為は、良くない」
「襲われても、あたし強いから対処できるわよ?」
 たしかに彼女は武器のような楽器を用いて、演奏するみたいに戦闘をこなす。でも、問題はそこじゃないというべきか――根本的な常識にがある気がする。
「は、恥ずかしくねぇのか。その、俺に裸を見られても」
「全然? あたしは自分の肉体に誇りをもっているわ、蒼衣に比べたら発育が遅れている感じだけど……。何でかしら、でも未熟であることは劣っているということではないはずよね。そうでしょう、橙一?」
 蒼衣の名前がでたので、妹の裸まで想像してしまい、橙一は罪悪感でいっぱいになって浴槽のなかにぶくぶく泡を吐きながら沈んだ。もはや、面倒くさくなってきた。
「えっと……。とにかく、こういうのは次からは勘弁してくれ。俺、出るから。なるべくこっち見んなよ、俺も見ないから」
 勝手知ったる我が家だ、目をつぶっていても出口までは辿りつける。キャロルのいる位置も声から何となく想像できる、接触せずにこのわけのわからない事態をやり過ごせるはずだ。いろいろ説明とか、常識のすりあわせとかは後でやればいい。
 蒼衣に勘づかれて見られる前に、こんな言い訳が聞かない状況から脱出しなくては。あとでキャロルに口止めをして、全部なかったことにするしかない。
「あらそう……。橙一はときどき、あたしから距離を置こうとするわね。寂しいわ、こんなに自分以外のものがいっぱいいる世界なのに。関われないのは、遠いのは悲劇だわ。そう思うでしょ、橙一?」
「うんうん。そうだな。わかるわかる。じゃあな、また後でな」
 何も考えられずに適当な相槌を打ちながら、橙一が脱衣所を兼ねた洗面所と風呂場を繋ぐ扉に手をかけた――瞬間である。
「橙一!」
 その洗面所に、何者かが駆けこんできた気配があった。足音も荒く、どうやら蒼衣が踏みこんできたらしい。次から次へと……。橙一は硬直し、声もだせない。
「たたた、大変です! ちょっと、よくわかりませんが怪我人が――いちおう救急車は呼びましたけど! すぐに手当てしないとっ、たくさん血が! て、手伝って、早く! わたし、どうしたらいいんだか……!?」
「落ちつけ、蒼衣。大丈夫だから、……怪我人? 近所で、交通事故でもあったのか?」
 蒼衣は珍しく慌てふためいているようで、発言が支離滅裂でよくわからない。とりあえず、のっぴきならない事態なのは何となく察したが。
 橙一は「どうしたの? 何があったの?」と声をだしかけたキャロルの口元を、一瞬だけ目を開けて的確に塞ぐと、「しぃ~っ!」と必死に無言でいるよう促した。
 橙一とキャロルが一緒に風呂場にいることを、蒼衣に知られるのは良くない。倫理上、そして兄の威厳を保つ上で、絶対に秘密にしておかなくてはならない。
 それどころではない状況な気もするが、橙一にとっては切実な問題だった。
「橙一……?」
 なかなか勘の鋭い妹が、ちょっと不審そうな声をだしてくる。橙一はたっぷり入浴したあとなのに冷や汗をかきながら、必死に言葉を紡いだ。
「安心しろ、蒼衣。お兄ちゃんが、何とかしてやる。大丈夫だから――いったん、洗面所から出ろ。どうしても俺の全裸が見たいっていうんなら、仕方ねぇけど」
「ば、馬鹿……!」
 怒鳴ると、蒼衣は大慌てで洗面所から出て行ってくれたようだ。良かった、蒼衣は一般的な常識をわきまえていて。最悪の事態は、とりあえず回避できた。
「どうしたのかしら、蒼衣……。気になるわ、のんびりお風呂に入ってる場合じゃないわね。あたしも行くわ、ちょっと待ってね。泡だけ、洗い流しちゃうから」
 キャロルがそんなことを言うので、橙一は大急ぎで洗面所に出ると着替えとバスタオルを引っ掴んで足早に遠ざかった。まったくもう、最近は平穏無事だと思っていたのだが――何でもない日常にも、トラブルの種はいくらでもあるものだ。

刈谷橙一/4

「橙一、こっちです。ぐずぐずしないでください、鈍間ですね」
 普段の冷徹な態度を取り戻したらしい蒼衣が、自宅――教会のすぐ正面にある車道のそばに立ったまま、こちらを振り向いて手招きしてくる。
 彼女は学校帰りなのだろう、制服姿である。今日はどうしても出席しなくてはならない、他校の生徒会との交流会みたいなのがあったらしい。なのでキャロルの世話を兄に任せて、彼女は登校していたのだ。風呂上がりの橙一は、そんな彼女に歩み寄る。
 生乾きのまま服を着たので、あちこち湿っていて気持ちが悪い。バスタオルでぞんざいに頭の水気を拭いながら、ほかほかと湯気をたてつつ妹へと駆け寄る。
「どうしたんだよ、蒼衣? 何があったんだ?」
「見ればわかります。……どうしました、やけに顔が赤いですけど。のぼせたんですか? ていうかお風呂にはわたしのあとに入ってくださいよ、橙一のあとだとバイクの油汚れとかが浮いていることがあって不快ですから」
「おまえ、いつ帰ってくんのかわかんなかったんだもんよ。気になるなら風呂の栓を抜いて湯を沸かし直せばいいだろ、それはともかく」
 日常的な遣り取りをしてから、橙一は蒼衣の正面を眺める。
 そこそこ立派な教会のすぐ前、車道と歩道を区切るガードレール……。そのそばに立つ電信柱に背を預けて、ひとりの男の子が座りこんでいる。
 橙一には、見覚えのない人物である。奇妙に色の抜けた髪と、特徴的な拘束衣じみた服装。愛らしいともいえる容貌をしている、まだ小学校低学年ぐらいの男の子だ。
 彼は重傷を負っているようで、身体のあちこちから出血している。着ている衣装が、ほぼペンキで塗りたくったように真っ赤だ。脂汗を流し、めいもくして呻いている。
 橙一たちの声に気づいたのか、男の子は意識はあるらしく軽く目を開いた。子兎めいた、真っ赤な瞳だ。どこまでも浮き世離れしている、御伽噺の登場人物めいていた。
 やはり知らない顔である――こんな目立つ風貌の知りあいがいたら、記憶に残っているはずだ。何だか既視感めいた『どこかで見たことある顔だな』という感覚があったが、たぶん錯覚であろう。橙一は、こんな男の子と出会したことはないはずだ。
 悲惨な有様を見て、やや血の気を失いつつ、橙一は男の子を怖々と眺める。
「ど、どうしたんだそいつ……。大怪我してるじゃねぇか、車にでも轢かれたのか?」
「さぁ。わたしが学校から帰ってきたら、家の前にこうして倒れていたのです。とりあえず救急車は手配しましたが、手当てをしてあげなくてはと……。橙一、応急処置のやりかたなどはわかりますか? わたし、わからなくて、だから橙一を呼んだんです」
「あぁ……。任せろ、救急箱を取ってくる」
 蒼衣は成績優秀で博識だが、べつに医者を目指しているわけでもないし治療の心得はないのだろう。橙一はよく喧嘩をしたり、バイクで転んで怪我をしたりするので慣れている。包帯や傷薬のたぐいも、それなりに備蓄があるはずだ。
 見たところ命に関わりそうな重傷なので、橙一がちょっと手当てした程度ではどうにもならないかもしれないが……。見殺しにするのも、可哀想である。
 まだ、こんなに幼い男の子なのだ。
「大丈夫ですからね。気を強くもってください、いま救急車がきますから」
 蒼衣が男の子を励ますように、呼びかけている。男の子は出血しすぎで意識が朦朧としているのか、言葉の通じない外国のひとのように反応を返さなかったが。
「血のにおいは好きじゃないわ」
 何だか哀しそうに言いながら、遅れてキャロルが駆けつけてきた。いつも身につけているドレスは着るのが大変そうだし、着替える手間を厭ったのか、橙一が脱いで洗濯籠に放りこんでいたシャツなどを身につけていた。
 彼女はちいさいので、橙一のシャツ一枚でワンピースみたいにくるぶしのあたりまで隠せている。下着などはちゃんと身につけているのだろうか、と橙一は心配になる。
 だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 ちからなく項垂れていた男の子が、不意に顔をあげる。そして、火が点きそうなほど強く睨みつけてきた。その顔を見て、キャロルが怪訝そうになる。
「あら……。あなた、知ってるわ。たしか――えぇっと、ドグモ? そう呼ばれてたわよね、たぶん蒼衣や橙一は覚えてないんでしょうけど?」
 不思議なことを言うキャロルに応えるみたいに、ドグモと呼ばれた男の子は唸った。
「あんた、『お姫さま』だろ――」
 掠れきった声音で、彼は忌ま忌ましそうに吐き捨てる。
「すげぇ兵器か、神さまみたいなもんなんだろ……。知ってるぜェ、そういう話を聞いたからよォ――じゃあ、助けてくれよ。何でもするから、お願いだから」
 幼い彼の頬に、宝石のような涙の粒が伝って落ちた。
「スワシワラを、助けてやってくれよ……。おれ、まだあいつに恩返しもしてねェんだよ」
 それだけ告げると、限界だったのか失神し、前のめりにゆっくりと倒れていく。
 そのまま、動かなくなった。死んだのかもしれない。
 どこか遠くから、救急車のサイレンが異国の音楽のように響いてきていた。

トロイメライ  歌/+α/あるふぁきゅん。  作曲/れるりり