スワシワラ/1

 女は絶望していたので、いつでも啜り泣いていた。
 喉を肩を、震わせて。涙と洟ともろもろの体液でくちゃくちゃになった顔を、骨っぽい両手で覆って。蹲ったまま、針金じみて細長い身体を窮屈に丸めて──折り畳んで、そのまま消えてしまいたいのだというように。
 涙で頬に貼りついた髪の毛に隠された美貌を台無しにして、目元を腫らし、嗚咽をあげている。建物に取り憑いた地縛霊じみて、いつまでもいつまでも──。
 泣いても、何も変わらない。水分の無駄でしかない。そんなのは、思い知っている。けれど涙を流すという行為は、ほんのすこし涙とともに感情を体外に排泄して──心を楽にしてくれる作用がある。あくまで、ごく些細な、気持ち程度だけれど。
 そんな程度の気休めすら痛切に求めて、麻薬中毒者めいて──女はひたすら噎び泣いている。深夜の、どこかの建物のなか。真っ暗闇の、どん底で。
 いつから、こうしていたのかは覚えていない。精神が、記憶が摩耗するほど遠い遠い昔から、飽きもせずに泣いていた気がする。そういう機能だけをもたされた、安っぽい玩具みたいに。
 女は、自分の名前を覚えていない。擦り切れて、ほとんどの記憶は失われている。組織──と呼ばれる、女を確保した奇妙な集団は彼女をスワシワラと呼称していた。
 その名前と、異様に細長い肉体と、暗闇と涙だけが女の持ちものだった。それ以外の一切がない、死後の世界のような静寂のなか──永遠に涙を零しつづけていた。
 それでいいのだ。相応なのだ、自分など……。もうその『自分』すら曖昧なのだけれど、自分はこんな暗闇のどん底に蹲っているべき生き物なのだという、自覚だけはあった。だから何もせず、誰とも関わらずにいた。
 そんなスワシワラに、世界に突き刺さった怪異そのもの──組織が『聖楽器』と呼称する不可解なもののなかでも、特別に厄介で危険なものが宿っている。

スワシワラ/2

『聖楽器』にはそれぞれ組織がつけた名称があるようなのだが、仰々しく覚えにくい代物なので、スワシワラはそれを見た目どおり──単にオルゴールと呼んでいる。
 その『聖楽器』は、時間に干渉する。
 見た目は地味な色彩の、禍々しい紋様が渦巻くちいさな箱である。それを重たそうに抱えて歩くスワシワラを見れば、誰もが葬列で遺骨を運ぶ哀れな遺族のように思うだろう。
 スワシワラにのみ用いられる、その特別な楽器のようなものは──いまだに人類の科学では干渉できない、時間を操作できる。
 オルゴールは、その側部にハンドルがついている。それを時計回りにひねると時間が進む、反時計回りにひねると時間が戻る。
 そのハンドルはいつでもひとりでに、通常どおり流れる時間にあわせてゆるやかに動いているが……。それを無理やり停止させると、時間まで止まる。
 オルゴールの蓋を開けば、内部にはすべての時間が集合したどろどろとした闇のようなものが渦巻いている。そこに触れることで、過去や未来を書き換えられる。
 あまりにも途方もないちからを秘めたこの『聖楽器』が恐ろしくて、スワシワラは滅多に用いないが──わかっているだけで、それだけの機能がある。他にもいろいろ秘めたちからがあるのかもしれないけれど、試す度胸はなかった。
 このオルゴールが時間に干渉する際、スワシワラだけはその影響を受けない。停止した時間のなかでも自由に動けるし、時間を巻き戻しても(巻き戻された時点から見れば)未来のこともきちんと覚えている。
 魂の深い部分で繋がったそんな『聖楽器』の影響なのか、スワシワラの肉体は老化もせず、寿命もないようだ。すべての生物が、この宇宙のすべての物質が平等に与えられる時間の流れ──そこから、スワシワラだけが切り離されている。
 ゆえに、いつでも彼女は誰にも理解されない孤独感を抱えていた。このオルゴールさえあれば、実際、どんなことでも可能だろうけれど。スワシワラ自身にそんな欲求はなく、持て余すだけだった。
 たとえば時間を停止させているうちに、お金を盗んだり、気に食わないやつをむごたらしく殺してストレス発散したりすることもできる。失敗しても、何食わぬ顔で時間を戻せばいい。やりたい放題だ、酒池肉林だ。けれどそんなことは、考えるだけで虚しかった。
 スワシワラは根本的に優しく、そして無気力な女だった。

スワシワラ/3

 どんなことも心の慰めにならず、神にしか不可能な奇跡を体現できる立場でありながらも──スワシワラは満たされなかった。絶望し、啜り泣いてばかりいた。
 そんな宝の持ち腐れをしている彼女を有効活用しようと、接触してくるものたちもいた。スワシワラは無抵抗に、流されるまま、やがて組織と呼ばれるものたちに確保されてしまう。そして研究施設──だと思われる場所に、隔離された。
 その気になれば、いくらでも脱出できる。危害をくわえられたらすぐに逃げよう、とは思っている。だが時間に干渉するスワシワラの『聖楽器』は、科学的な手法ではそのちからの作用を観測することすら難しく──どうも、実験動物としても扱いに困るらしい。
 放置されることが増えて、退屈ではあったが安らかな時間がただ流れるだけになり、スワシワラはそれに満足していた。
 おとなしく泣いているだけで、基本的にスワシワラは無害だった。悪意あるものたちに奪われることのないよう、隔離されてはいたけれど。組織も、必要以上に接触してはこなかった。
 実際、スワシワラがその『聖楽器』を用いれば──こんな世界なんか容易く転覆させられる。オルゴールはこの世界を構築する大原則、物理法則すら超越したちからをもつのだ。時間への干渉は、それだけ危険な代物なのである。
 触らぬ神に祟りなしと、厳重に保管されるのは必然だった。
 迂闊に刺激し、たとえば危害をくわえてスワシワラの機嫌を損ねたらどうなるだろうか。組織をつぶそうと思えば、組織は攻撃されたということにすら気づかないうちに壊滅する。いくらでも方法はある、スワシワラ以外のものはすべて時間によって縛られている。
 最悪の事態を避けるため、スワシワラを永遠に不発弾のまま厳重に監視し、隔離しておくしかないのだ。組織の連中も、そんな賢明な、あるいは臆病な選択をしたのである。
 スワシワラもとくに抵抗せず、異を唱えずに、言われるがまま従った。
 ひたすら、放置されることを選んだ。
 無限の孤独のなか、ただ泣いて暮らす。退屈で寂しくて、いつもどおりの日々を望んだのである。
 それなのに。

スワシワラ/4

 不意に、痛いほどに眩しい輝きがスワシワラの全身を打った。
 ずうっと暗闇にいたので、まるで光に目が慣れない。単なる懐中電灯の輝きのようだったが、スワシワラにとっては全身をいきなり紅蓮の炎に焼かれたみたいだった。
 あんまりにも驚いてしまって、悲鳴すらだせなかった。全身が引きつり、いつまでも流れつづけていた涙まで引っこんだ。身体を過剰に、団子虫のように丸めると、スワシワラは何度も瞬きをする。
 ……何?
 ……何なの?
 そう誰にともなく問おうとしたが、声のだしかたすら思いだせない。いたずらに、ぱくぱくと口を開閉する。いつの間にか長くのびていた前髪をどうにかかきわけて、目の前を凝視する。
「ひっ、ひぃいっ──お化け!?」
 そこで、ちいさな男の子が喚いていた。尻餅をつき、こちらに向けた懐中電灯を武器のように振り回している。
「こ、怖くねェぞ! お化けだから何だっていうんだよォ、おれを誰だと思っていやがる! ぶぶぶ、ブッ殺してやんよ……!」
 お化けだったら、殺せないんじゃないかなぁ……。などと、スワシワラはあんまり関係ないことを考えてから、ようやく明度に対応し始めた頼りない視力でその男の子を眺める。
 かわいらしい顔立ちの、まだ小学校にあがりたて──ぐらいの年頃の少年だ。灰色の外套。頭にかぶったフードの隙間から覗く髪は、月光を固めたような銀色。野兎めいた、深紅の瞳。異相である、古風な戯曲に登場する悪戯好きの妖精みたいだ。
「ドグモ、くん」
 スワシワラはぽつりと、その男の子の名前を呼んだ。
「攻撃、しないでね──意味、ないし……。わたし、あなたの敵じゃない。それは何だろう、銀色の──それで、刺そうとか、殴ろうとかしないでね。怖い、から……」
 あまりにも久しぶりに喋るので、たどたどしい口調になってしまう。
 けれど、ドグモは会話が交わせるらしいことにすこし安堵したようだ。涙すら浮かべて怯えていた彼は、やや平静を取り戻し、でんぐり返りしてから立ち上がる。
 そして、おっかなびっくり歩み寄ってきた。
「おいおい、よォ──あんたがスワシワラってやつか? 神さまみたいなもんだって聞いてたのによォ、みすぼらしいフツーの女じゃねェかよ? がっかりだなァ!」
「ご、ごめんなさい──」
 怒られたようなので、スワシワラはとりあえず謝った。事なかれ主義なのだ。
 相手が見るからに貧相な、戦うちからもなさそうな痩せた女だと見て取って、ドグモは安心したようだ。その足下に銀色の液体めいたものが噴出し、椅子のかたちになる。そこに、彼は傲岸不遜に腰掛けた。
 そこで、今さら違和感をおぼえたらしい。
「おい……。女、てめぇ、スワシワラ──どうして、おれの名前を知ってるんだよ?」
 ふたりは、初対面だ。すくなくとも、ドグモにとってはそうだろう。
 説明が難しいことだったので、スワシワラは「あう、あう」と返答に困った。
 それを見て苛立ったか、名前を知られていたことを警戒したか──ドグモが気色ばむ。その腰掛けた銀色の何かからいくつもの触手めいたものがのびて、先端を鋭利に尖らせた。
 彼も、『聖楽器』を有している。神々のごとき、異能をもっているのだ。それもまた、スワシワラはすでに知っている。危険なちからだが──ドグモの『聖楽器』は、スワシワラのそれよりは物理法則などに反していない。使いかたも、まだまだ下手だ。
 ゆえに異能力者への対応に慣れている組織にあっさり制圧され、捕獲され、この隔離施設につれてこられた。身にまとっているのは、彼のために用意された拘束衣だ。
 それもすべて、知っている。
「質問に答えろよ、あぁん? てめぇ、おれのことを知ってんのか?」
「知ってる……。ていうか、調べたっていうかね。あのう、どうしてそう口が悪いのかなぁ──わたしのほうがお姉さんだよ……。あぁ、わかった、そっかぁ──突っ張ってないと舐められて、馬鹿にされて、虐げられる。そんな治安のよくない、弱肉強食の環境で、育ったから? じゃあ、あなたを叱るのは筋違いだねぇ──」
 ぶつぶつ言っているスワシワラの眉間に、弾丸の速度で銀色の尖った触手が迫る。幸い寸止めされたが、スワシワラのおでこにわずかに先端が食いこみ──皮が破れて、出血が垂れる。久しぶりの痛みだ、とスワシワラはやはり惚けたことを考えている。
 痛いのは好きじゃない、けれど。
「あのね……。説明するの、難しいんだ。わかりにくいんじゃないかなぁ、ドグモくん学校にも通ったことがないみたいだし──わかるかなぁ? むしろ科学的なこととか、お勉強してないほうが、わかるのかなぁ……?」
「何を言ってんだよ、何なんだよおうおうおうッ? はっきり喋れ、わかるように説明しろ! ブッ殺すぞ、おれは『やる』っつったら『やる』んだよ!」
 むしろ怯えている様子のドグモを、どうやったら安心させてあげられるかわからない。スワシワラは瞑目し、いつの間にか膝の上に抱えていたオルゴールを撫でる。何度かいろいろ試して、ぎこちなく微笑んだ。
「この施設から、脱出したいんだね……。あなたが育ってきた下水道に、大事なものを、残してきているから。でも、組織の着せた拘束衣のせいで、『聖楽器』を用いるごとに激痛が走るし──無茶はできない。だから、わたしの噂を聞いて会いにきたんだ……?」
 ドグモがこの場にいる理由を、経緯を、スワシワラは把握していた。
 調べてきたのだ、ちょっと過去に戻って。
「いいよ。出たいなら、出してあげる。だから、痛いことはしないでね──治るけど、時間を戻せば。痛い、っていう感覚がずっと残るから。あんまり、好きじゃないの……」
 語りながら、ゆるやかに起き上がる。
 スワシワラは、かなりの長身だ。立ち上がると──ドグモが幼くちいさいせいで、さらに巨体が強調される。骨格は華奢だし、痩せているので、威圧感はないはずだけれど。
 ドグモには怖かったらしく、わずかに後ずさった。
 ちょっと、微笑ましい。スワシワラは久しぶりに起き上がったので、全身がぎくしゃくしている。腰とか関節が痛くて、しばし柔軟運動などをして馴染ませた。
 身体の先端まで血が巡り、何だか気分がよくなる。泣いているよりも、動いたほうが──よっぽど健康的である。あまり、疲れたくはないのだけど。
 疲労感も痛みと同様に、巻き戻して消せる。だが疲れた、という感覚だけは残ってしまう。だからスワシワラは、そういうものを蓄積させきって──くたくたになっている。絶望して、蹲って泣くだけの生き物になっていたのだけど。
 誰かに求められたのは、久しぶりだった。
 ちょっとだけ嬉しかった。ドグモは、かわいい顔をしているし──ただの気まぐれだけれど、ほんのすこし動いてもいいかなとスワシワラは思ったのだった。
「行こっか、ドグモくん」
 何だかわくわくしてきて、スワシワラはドグモに手を差し伸べる。
「おれ、まだ何もわかんねェんだけど……。あんた何者なんだ、マジで?」
 ドグモは困惑しながらも、反射的にだろうが、こちらの手を取ってくれた。人肌のぬくもりが何だか懐かしくって、スワシワラは彼のちいさな手のひらを抱き寄せる。
 この熱をくれただけで、有り難い。
 すこしぐらいだったら、お礼をしてもいい気分だった。

挿絵4

スワシワラ/5

 ほんのすこぉし──オルゴールのハンドルを回して、時間を操作する。
 ドグモはスワシワラと接触するために、拘束衣が与えてくる発狂しそうな激痛に耐えて……。己の『聖楽器』を用いて、研究施設のあちこちを穴だらけにして、強引にスワシワラが隔離されていた一室に侵入してきたようだった。
 当然、その乱暴な行動は察知されており、警備の人間──『聖楽器』を有する異能力者まで派遣されていた。あとほんのわずかで彼は制圧され、再び拘束されるはずだった。
 だがスワシワラは、時間を停止させた。そしてドグモを抱っこして、停止した他のものたちの目の前を悠々と素通りする。ドグモのあけた穴を通り、警備のものの鍵を拝借し、苦労して自分でも壁に穴をあけたりして……。停止した時間のなか、ひとりだけ自由に動けるスワシワラは、その気になればいつでも施設を脱出できたのだ。
 ドグモが幼くて、助かった。スワシワラの腕力でも、どうにか運べた。さすがに、くたびれたけれど。スワシワラの体感ではたっぷり一日ぐらいの時間をかけて、研究施設から脱出──ちょっと離れた町中まで移動した。真っ直ぐに、駅までドグモをおんぶして歩く。
 そのまま、駅のホームに到着していた電車に乗りこんだ。席が埋まっていたので、悪いなと思ったものの先に座っていたひとをどかして、ドグモと並んで腰掛ける。
 久しぶりに運動して疲れたので、もう歩けそうにはなかった。
 そのへんで、再び時間を動かした。世界が、通常どおりに廻り始める。
 スワシワラの『聖楽器』はどうしようもなく、時間を停止させている間は、オルゴールのハンドルをずっと動かないように押さえておく必要がある。片手、あるいは両手が塞がるのだ。人間ひとりを背負って移動などするのに、だいぶ手間取ってしまった。
 あぁ疲れた、とスワシワラは電車の座席──背もたれに体重を預ける。
 その直後である。
「おっ……おおお!?」
 横に座っていたドグモも再び動き始め、彼の感覚では刹那のうちに見知らぬ場所に移動していたわけで、さすがに魂消ていた。
 錯乱したように周囲を見て、電車にいたほかの乗客の視線を一身に集めていた。
「な、何だこりゃあ!? ここ、どこだっ──何だ、何が起きたんだよ! あれぇっ、あれぇええ……?」
 あんまり騒いで目立つのは、よくない。施設から逃亡したのだし、すぐに追っ手もくるだろう。そう思って、スワシワラは「しぃっ」とくちびるに指を添える。
「落ちついて……。ドグモ、くん。あのね、とりあえずね、研究施設からいちばん近い町の──駅まで移動したよ。そこに止まってた電車に、てきとうに乗ったから」
「んぐ!? スワシワラ──てめぇが、何かしたのかよ?」
 そこで初めて、ドグモは横にスワシワラがいることに気づいたのだろう。彼はおおげさに仰け反って、驚いていた。スワシワラの感覚では一日ぐらい、ずっと密着していたわけで……。親近感すら覚え始めていたので、その他人行儀な態度はちょっと寂しい。
「そのために、わたしに会いにきたんでしょう……?」
「そ、そうだけどよォ? ま、マジでここは忌々しい施設の外か? げ、幻覚とかじゃなくて? どうやって脱出したんだよ、厳重な警備体制だって聞いてたんだぞォ! おれも何度も脱出しようと挑戦してたのに──いちども、成功しなかったのに?」
 喚くドグモを、周りの乗客が何事かと見てくる。異様に長身なスワシワラと、拘束衣を着たままのドグモの二人組はただでさえ目立つ。躾の悪い子供をもつ若い母親、みたいに見えないだろうか……。無理かな、とスワシワラは恥ずかしくなって俯いてしまう。
「聞いてんのか、おい! ブッ殺すぞ、質問に答えろ!」
 ことあるごとに殺す殺すと──子供っぽくはあるが、実際にドグモには危険な『聖楽器』が宿っている。痛めつけられるのは嫌だ、スワシワラは彼の頭をそっと撫でた。
「わたしね、時間を、止められるから……。だからそのう、色々やって──脱出したの。わたしの『聖楽器』について、何か聞いてたりしない?」
「あ、あぁ──そっか。いや、てめぇの話は施設でも禁忌タブーだったからよォ……。どんな能力の『聖楽器』とかまでは、知らなかったんだけど。施設の連中ですら隔離するしかなかったっていうから、何かすっげぇ『聖楽器』なんだろうとは思ってたよ?」
 時間を止められンのかぁ、すげェなぁ無敵じゃん──などとドグモは男の子らしく感心してから、くちびるを尖らせる。
「てめぇ、何でそんなすっげェ『聖楽器』をもってんのに、施設の──組織の連中の言いなりになってたんだよ? 弱みでも、握られてたのか?」
 施設から脱出できた喜びがようやく湧いてきたのか、ドグモは無邪気に笑っている。相変わらず不審そうに見てくる周りの目は気にせず、やたら話しかけてきた。
 そろそろ電車の乗務員でも呼ばれそうだが、まぁいいかとスワシワラは思った。
 何だか、良いことをした気分だった。一仕事を終えた、達成感もある。なので急に、眠気をおぼえてしまった。瞼が、とろりと落ちてくる。
「ごめん。ドグモくん、すこし寝るね……。わたしの意識がないときとか、緊急のときは、わたしの『聖楽器』が勝手に反応して──動いちゃうかもしれないから。何が起きるかわからないから、あんまり刺激しないで……ね?」
 最後にぽんぽん、とドグモの頭を軽く叩いて、数秒もしないうちにスワシワラは深い眠りについた。久方ぶりの、夢も見ない、幸せな睡眠を心ゆくまで味わった。
「お、おい。何だよ、寝ちまったのか? まぁ、『聖楽器』って使うたびにけっこう消耗するけどさァ。おれのために、無理してくれたんだよな? 初めて会った他人のためによォ、わけわかんねェな……ほんと変なやつ♪」
 苦笑いして──ドグモも緊張が解けたのか、そっとスワシワラの胸元あたりに頭を寄せてきて目を閉じる。愛する母親に甘える、幼子そのものに。
 まるで似ていないふたりだけれど、そうしていると親子か姉弟のようだった。
「おい。おれ、まだお礼も言ってねェんだけど──スワシワラ?」
 短くそう独りごちてから、ドグモも穏やかな眠りにつく。
 たとえ、これから先にどれだけ過酷な運命が待ち受けていようとも……。この瞬間のぬくもりと幸福だけは、ふたりにとって永遠だった。
 電車が動き始める、車内アナウンスが流れる。熟睡したふたりは、ふたりが名前も知らない駅へと運ばれていく。
 平和に、緩慢に、未来へと。

ドグモ/1

 組織によってドグモと名付けられた少年の人生は、下水道から始まった。
 汚物が、生活排水が、近所にあるらしい工場が垂れ流すヘドロが……。混ざりあい腐臭を放つ──とうてい人間が暮らしていける環境ではない、地獄めいた渦のなか。
 そこには暗闇と、汚水と、静寂があった。鼠や蛆虫、細菌やバクテリアなどの下等な生き物がかろうじて蠢いているだけ。ドグモも己がそんな誰もが目を逸らすような生物たちの一種だと思いこみ、疑いもせずに、汚れながら腐りながら育っていった。
 だからドグモは、己の本当の──つまり戸籍などに登録された名前を知らない。下水道には対話ができるほどの知能があるものがいなかったし、名前などなくても不都合はなかったのだ。
 後にドグモが組織に捕獲され、もろもろの常識や言語などを教えこまれるまで……。まったく下水道での暮らしに疑問をおぼえずに、ただ寝て食べて這い回って生きていた。
 当然、人間がまともに生きていける場所ではない。組織の調べによると、ドグモに宿った『聖楽器』が彼を最底辺の環境にすら順応させ、生き延びさせたのだという。ドグモは諸事情あって、ほぼ『聖楽器』と肉体的にも混じりあっている。
 下水道での記憶は、母の胎内で微睡んでいたころのように──今では不明瞭である。当時のドグモはほとんど単なる動物、あるいはもっと下等な虫のようなものだったし、記憶や思い出もほとんどない。
 腐臭のみが、脳の奥にまで染みこみこびりついている。
 ドグモは奇妙な偶然から、あるとき初めて外界と接した。後から聞いた話によると、下水道の定期的な清掃やメンテナンスのために、業者が立ち入ったのが契機だったという。
 まさか下水道に、怪奇小説の化け物めいたものが生息しているなどとは、地上の人々は夢にも思っていなかった。ろくな警戒もなく、ドグモの縄張りへ安易に踏みこんできた。
 下水道には、ほぼ動物がいない。最初のうちは自分より巨大な生き物──人間たちをドグモは怪しみ、警戒して近づかなかった。
 だが下水道では、あらゆる生き物は補食対象──栄養源である。
 無警戒にうろつく彼らを捕獲しやすい餌だと判断し、ドグモは何度も襲撃した。
 おそらく彼ら、つまり清掃業者か何かが入ってくるために開け放した出入り口──マンホールから、ドグモはたまに出入りするようになった。外の世界の広大さ、不可解さにおののきながらも、通りすがる生き物を襲いつづけた。
 下水道で育ったドグモにとって、外の世界は意味不明な異世界そのものだったし、怯えて滅多に遠出はしなかった。たまたま運悪く通りがかった人間や動物や虫、そのへんに生えている植物……。下水道ではありつけない豊富な栄養を果敢に口に詰めこみ、胃袋に収めて栄養とし、ドグモはすくすくと育った。
 当然、清掃業者が帰ってこなかったり、たびたびドグモが目撃されたりして噂になったのだろう──調査隊が、警察が派遣された。最終的にあの組織が動いて、ドグモは捕獲されることになる。危険な怪物として、射殺などされなかっただけ幸運ではあったのだろう。
 組織によって名前を与えられ、ある程度の教育を施されて、ドグモは世界の広さを知った。己が人間で、他にも自分の同種は数多くいて、社会を形成している。
 しばらく夢中で、ドグモはそれらの知識を好奇心のままに摂取していった。
 最初は会話することすら不可能で──組織の教育係にやたら噛みついたりしていたので、忌々しい拘束具を嵌められることになったりはしたが。
 ドグモは元来、自分のちからだけで下水道を生き抜いてきた強かな子供だった。生まれつき頭が良かったのか、『聖楽器』を宿しているためか、まだ幼く脳みそがまっさらな状態だったためか……。ドグモは与えられた知識を急速に吸収し、組織が驚くほどの短時間で社会性を、言語を、人間らしさを身につけていった。
 今ではすっかり、ドグモは見た目と同程度の知性を備えている。初対面のものには、彼が下水道で虫けらのように生きていたことなど、想像もできないだろう。
 生まれてからずっと下水道──その後も組織の隔離施設で育ったためか、奇妙に色素が乏しい毛髪などにその片鱗がわずかに残っているだけである。怪物は人間になり、ドグモというひとつの人格を形成し、今もこの世界で生きている。
 だが知性を身につけたことは、不幸でもあった。長じるにつれて、ドグモは疑問を抱き始める。自分は何者なのか──どうして下水道で汚水にまみれ、生きていく羽目に陥ったのか。両親はいるのか、いたとしたらなぜ自分を下水道へ捨てたのか。
『聖楽器』とは何なのか、なぜそれは自分を地獄のような環境においてもなお生かしつづけたのか。誰でも思春期に直面するような、根本的な疑念があった。生命とは、世界とは、自分とは何なのか……。ドグモは、その答えを下水道育ちの貪欲さで知りたがった。
 ドグモは、すべての疑問に答えを見いだすため──噂話として聞いていた神さまみたいな存在=スワシワラを探し当てる。そして、ともに手を取りあって組織から逃れた。隔離施設から脱出し、逃避行をつづけ、組織の追っ手を何度か返り討ちにしながら。
 ──己は、何者なのか?
 おおくの人間は生涯、そんな疑問の答えを見つけられない。だがその解答も、スワシワラに問えばかんたんに教えてくれる気がした。彼女は実際、噂どおりに神さまのような存在なのだから。
 時間に干渉する彼女ならば、たとえば過去に移動して……。ドグモが生まれた瞬間を、あるいは下水道に流された瞬間を、まさに見てきたように語れるはずだ。
 彼女は物理法則に支配されたこの世界において──全知全能にかぎりなく近い、超越的な存在なのだ。
 けれどドグモは、いまだスワシワラにその答えを求められずにいる。
 尋ねて、答えを教えてもらったら。彼女とのそれなりに退屈はしない──幸せですらある生活に、終止符が打たれそうで怖かった。
 ドグモにとって、スワシワラは生まれて初めて同じ時間を、平和な空気を共有する他人である。いわば、家族のような存在になっていたのだ。
 たまに彼女をお姉ちゃん、あるいはお母さんなんて呼びそうになってしまって──そのたびに、ドグモは無性に苛々する。ただの拾いものに、感情移入してしまっている。
 ずうっと、独りぼっちで生きてきたのに。

ドグモ/2

 ドグモはいつもどおりの不愉快で堪らないという、愛らしい顔貌を台無しにするしかめっ面をしている。近ごろ寝床にしている屋敷の廊下を、荒々しい足音をたてて走っていた。
「おい! おいって言ってんだろ、返事ぐらいしろよォ──スワシワラ!?」
 身にまとっているのは、薄汚れた拘束衣である。組織が仕込んだ、『聖楽器』を用いるたびに激痛を生じさせる仕組みは、苦労の末に取り除かれている。だが幼子がお気に入りの毛布を決して手放さぬように、基本的にドグモはこの衣装を好んで身にまとう。
 外套めいたそれのしたは、ほぼいつも下着だけだったのだが。やや肌寒い季節なので、風邪をひいてはいけないからと、スワシワラがどこからか調達してきた小綺麗な衣服を着ていたりもする。彼女はなぜか、いつもドグモをかわいらしく着飾らせようとする。
 反抗期でもないが、何だか馴れ馴れしくされるのが嫌で……。ちょっとそういうふうに親しげにされるのを喜んでしまう自分も腹立たしく、可憐な装いを隠すように、かたくなにドグモは拘束衣でそれを覆っている。
 瀟洒で華美な屋敷の廊下に、どこの浮浪者かと思うようなドグモの薄汚れた姿は浮いている。だがそんなことには頓着せずに、清潔な廊下にべたべたと足跡を残しながら、何かに挑戦するようにドグモは肩を怒らせて突き進む。
「スワシワラ! どこに行ったんだよ間抜けがっ、おれが呼んだらすぐに出てこいよ! どうせどっかで聞いてんだろ、神さまってのは覗き魔みてぇなもんだしなァ?」
 育ちの悪さのためか、ドグモの口調は下品で乱暴である。組織の教育係は、丁寧な喋りかたなどを教えようとしたようだが。ドグモが反抗して、できるだけ自分を上位に──偉く見せられるような言い回しを好んで選ぶため、こんな口調になっている。
 独りで、生きていく。そのためには、他人に舐められたらお終いである。だからこんな不良じみた、ひとを不機嫌にさせるような生意気な態度と、口調になる。
 決して消えぬ、下水道の腐臭……。その残り香のように──ドグモは着飾ればどこの名家のお坊ちゃんかと思う愛らしいかんばせを、むやみに引きつらせながら喚いている。
「チッ──どこに行きやがったんだ、あの馬鹿……。あんまり、おれを不機嫌にさせんじゃねェぞ! おう、スワシワラ!?」
 むやみに凄んだものの、走りながら叫んでいたので息切れする。しばし、膝に手をついて喘いだ。ドグモには見た目どおりの、小学生程度の体力しかないのだ。
 だが弱っているところを決して見せない野生動物のように、強引に呼吸を整えると顔をあげる。流れた汗を、そっと拭った。屋外では身も竦むような空っ風が吹いているが、屋内は暖房がきいているので、こんな厚着をしていると暑かった。
 歯軋りし、ドグモは周囲を見回した。
 スワシワラとともに組織の研究施設──隔離施設を脱走してから、ドグモの体感では数ヶ月が経過している。時間に干渉しいろんな時空に跳躍するスワシワラにとっては、何ヶ月も、いいや何年も何十年も経っているのかもしれないけれど。
 彼女は実際、神さまみたいなものだ。そしてどんな気まぐれなのかは知らないが、ドグモに協力的ではある。つまり、向かうところ敵なしだった。恐ろしい組織の追っ手も振り払い、無事に逃げ延びて、今日も悠々と暮らしている。
 もちろん逃避行ちゅうの身の上だ、住み処はたびたび変えている。今は、とある地方都市の一角にある屋敷に潜伏していた。あの時任静や刈谷兄妹が暮らしている町からほんのわずかに離れた、それなりに発展している区域である。
 平凡な住宅街の片隅に、どこかの時空から継ぎ接ぎしたみたいに不自然な、やけに立派な屋敷が建っている。そこが、現在のドグモたちの住まいだった。
 下水道育ちのドグモにとっては、住み処はどこでもいい。アパートの一室だろうが、橋の下だろうが、山奥だろうが平然と暮らしていける。むしろ、この屋敷は広すぎて綺麗すぎて、落ちつかなくて嫌だ。可能なら、さっさとねぐらを余所に移したいぐらいだが。
 なぜか、基本的にこちらの言うことには唯々諾々と従うスワシワラが──強硬に、ここでの生活を望んだのだ。逃避行は、彼女がいないと成り立たない。ドグモだけでは、すぐに組織の追っ手に捕縛される。なので仕方なく、その意見に従っている。
 あんなのでも女性だし、優雅な暮らしがしたいのだろうか──などと、最初は思ったものだが。どうも、そうではないらしい。望めばすべてを手に入れられるような存在なのに、あるいはそのためにか、スワシワラには基本的に人間らしい欲求や願望がない。
 何を考えているのか、まったくわからない。
 どうも、この屋敷で先に暮らしていたあの奇妙な人物に──ご執心のようなのだが。
 それを考えると、ドグモはやけに不愉快になる。暗闇の底で泣いているだけだったスワシワラを見いだし、役目を与え、この世界と関わらせてやったのはドグモなのに。
 それを感謝し、ドグモのことだけ見ていればいいのに。
 それが幼い子供らしい、甘ったれた感情だと自覚はしている。
 だからこそ、ドグモはかたくなにそれを認めない。強くなければ、生きていけなかった。下水道では、子供とは──未熟な生き物とは、ただの餌でしかなかった。
 強くなりたい。早く成長し、大人に──屈強な生き物にならなくては。
 そんな強くなりたいなんて望みすらも、男の子にありがちな凡庸すぎる思考であることに──人生経験のすくないドグモは、まだ気づいてもいなかった。

ドグモ/3

 くたくたになるまで屋敷内を歩いてから、ドグモはようやくスワシワラを発見した。
 不気味に細長い女は、奇形に育った植物のように──広大な屋敷の庭園、その片隅にぼんやりと立っていた。
 薔薇園である。朱色、黄色、不可思議な青や虹色の薔薇が咲き乱れた神秘的な空間だ。風に散らされた色とりどりの花びらが、妖精じみて舞っている。
 目に痛いほどの色鮮やかな空間で、好んで質素な衣装を身にまとうスワシワラは、違和感をおぼえるほど地味な佇まいだ。庭師が伐採し忘れた、痩せた枯れ木のようである。
 背が高い女なので、遠目でも発見しやすい。屋敷のなかを漫然と彷徨っていたドグモは、廊下の窓から、それなりに遠くにいた彼女の姿に気づくことができた。
 あっさり窓から飛び降り、ドグモはその身に宿した『聖楽器』のちからを発現させる。銀色の階段をつくり、てくてくと降りた。あまり急ぐのも、何だかスワシワラに会いたくて仕方がなかった甘えん坊みたいで嫌なので、ゆっくりと。
 歩くのを億劫がって、ドグモはそのまま銀色のものを円盤状にして宙に浮かせ、自分の身体を運ばせる。空飛ぶ円盤に危うげなく立ったまま、ふわふわと移動。
 ドグモは生まれたときから過酷な地下道で生き延びるため、『聖楽器』を己の手足のように扱う術を習得していた。そうでなければ生きていけなかった、ともいえる。
 この『聖楽器』の能力については、研究所が解析している途中だったこともあるが……。教育係もドグモにあまり説明してくれなかったため、未知数な部分がおおい。
 基本的な形状から、ハープと呼ばれることがおおい。ドグモ自身も、そう呼んでいる。組織がつけた大仰な名前もあるようだが──昆虫の学名のような小難しいものなので、ちゃんと記憶してはいない。蝶々で通じるなら、蝶々でいいのだ。
 ハープと呼ばれる『聖楽器』は銀色の本体と、そこからのびた一本の糸で構成される。
 不定形の銀色の本体とドグモ自身は、必ず糸で結ばれている。
 糸が断ち切られたとき、銀色の本体がどうなるのか──ドグモにも判然としない。
 試したことがないのだ。糸が切れれば、ハープは楽器として成り立たなくなる。
 この糸は、文字どおりの生命線なのだ。
『聖楽器』は楽器と名前がついているのだから、楽器と同じ性質をもつのかもしれない。糸が切れることでハープがちからを失うのを、ドグモは恐れていた。
 こんな便利な道具を、みすみす捨て去るのは惜しい。
 この『聖楽器』は、ドグモに下水道での生活にも耐えうるほどの生命力を与えてくれている。おまけに、肉体とほぼ混ざりあっているらしい。この『聖楽器』がちからを失うことで、ドグモ自身も死ぬ危険性すらある。
 なので慎重に、ひとつひとつ可能なことを確かめながら、ドグモはこれを用いていた。
 ハープは基本的に、ドグモの意のままに変形する銀色の物体である。硬度は、ちょっとした爆発に耐えられるほどから柔らかい半液体まで、これもドグモの意志どおりに変化させられる。さらに物理法則を無視して宙に浮かぶなど、汎用性が高い。
 遠くまで伸びる、自在に変形する手足として……。あるいは乗り物として、ドグモはこの『聖楽器』を有効活用していた。
 時間に干渉するスワシワラの『聖楽器』に比べれば、平凡な代物ではある。人類の用いるふつうの道具と比べてもさほど差異がない、そこまで超常的なちからはもたない。
 他に、使いかたを知らない。
 もっと何か秘められたちからなどがあるはずだと、推測しているが──期待しているが。今のところ、この『聖楽器』は単なる便利な道具でしかない。
 その程度のちからしか発現させられないからこそ、下水道で暮らしていたドグモは、組織にあっさり捕獲されたのだ。
 同じ『聖楽器』なのだし、スワシワラのオルゴールのような、世界すら滅ぼせるような真のちからがあってほしいけれど。今はまだ、それは単なる願望である。
「ん~? あんなところで何してんだよ、スワシワラのやつは……?」
 円盤にしゃがみこみ、コンビニの前でたむろする不良みたいな姿勢で、ドグモは運ばれていく。スワシワラがぼうっと突っ立っている、薔薇園へと。
 こうして高い位置から眺めてみると実感するが、ほんとうに屋敷も庭園も広すぎる。同じ規模の建物は、ドグモには組織の研究施設しか思いつかない。なのにまったく人気がなくて、気味が悪い。
 平凡な住宅地の片隅に、無理に継ぎ接ぎしたように、この屋敷は存在する。ちょっと離れた位置には繁華街やビル街が並んでいるので、この屋敷の周辺だけ異世界のように景色から浮いている。道路も繋がっていないので、車が通りがかることもない。
 世界から、隔離されている。そんな感じがする、鳥や野良猫などが迷いこんでくることもないのだ。スワシワラか、あの奇妙な屋敷の主が結界めいたものを張り巡らせて、この周辺だけを外界から切り離しているみたいだった。
 屋敷も庭園もよく清掃され、管理されているので、誰もいないわけもないのだけれど。ここで暮らし始めてから数日、ドグモはスワシワラとこの屋敷の主人だというあの奇妙な人物の他には、誰にも会ったことがない。
 死後の世界のような、静寂。そこに、ドグモのハープがたてる音色がわずかに響く。『聖楽器』は名前のとおり、楽器の性質を有していて──用いるたびに音が鳴る。
 ドグモのそれは音楽になっておらず、ただいたずらに弦を爪弾いているだけ、という具合だ。遠くまで響く、力強くもシンプルな短音。ドグモは慣れているので、己の心臓の鼓動のように、意識しなければほぼ聞き流せる。
 だが他人はそうもいかないようで、近づくにつれてスワシワラが音に気づいたらしい。顔をあげて、彼女は嬉しそうに手を振ってきた。
「あぁ、ドグモくん」
「気安く呼んでんじゃねェよ、間抜け」
 かわいくない返事をして、ドグモは銀色の円盤ごと彼女の真横に舞い降りる。どうしても身長に差があるので、横に並ぶと彼女を見上げるかたちになり、それが気に食わない。
 円盤をすこし宙に浮かして、スワシワラと同じ目線になった。
「ふふ」
 得意げな顔をするドグモを、愛おしそうに眺めて──スワシワラは微笑んでいた。
 貧相に見えるが、長い髪に隠されたその顔貌は麗しい。昼過ぎの陽光と舞い踊る花びらの色彩を反射して、その双眸が魅惑的に輝いていた。
 間近から彼女を見ると、何だか胸がもやもやする。ドグモはおとなしく円盤を地面に降ろし、自らの両足で立った。『聖楽器』は用いるたびにそれなりに体力を消耗するので、むやみに使うと疲弊してしまうし。
「おまえ、こんなところで何をやってるわけ? ずいぶん探しちゃっただろうがよォ──手間をかけさせんじゃねェよ、あぁん?」
「ご、ごめんね」
 難癖をつけているドグモに、スワシワラは素直に頭をさげる。ほんとうに申し訳なさそうだった、彼女が謝る理由はまったくないのだけど。
 神さまのようなちからをもちながら、スワシワラはそのへんの子供よりも気弱で儚げだ。立っているだけで疲れたのだろうか、その場にゆるゆると座っていた。
 スワシワラは長身なので、それで何となく立ったままのドグモと目線の高さがあった。そのまま、彼女は「い~こ、い~こ♪」というように頭まで撫でてきた。
「んだよ、気安く触ンじゃねェよ?」
 ドグモは首を振って嫌がったのに、なぜかスワシワラはにこにこ笑った。基本的に陰気な女だが、ドグモとふたりだと不思議と表情は穏やかでやわらかい。
「楽しいね、やっぱり……。子供っていいね。ふ、ふふふ♪」
「何だよ、変態かよ。おれみたいな年頃の男の子が好きなのか、あァん?」
「子供はねぇ、いっぱい未来があるからね……。変化が楽しめる、ふふふ。だからドグモくんにも手を貸したし、しばらく見守ってあげるね」
 相変わらず、あんまり噛みあわない会話になる。スワシワラはその『聖楽器』によって、時間軸を超越して存在している。彼女の思考も何もかも、物理法則に──相対性理論に支配されたこの宇宙では、あまりにも遠くて不可解だった。
 抱きしめて、必死に繋ぎとめておかないと、今この瞬間にも消えてしまいそうだ。
 ドグモは何だか無性に不安になって、スワシワラの服の裾をぎゅっと握った。相変わらず安物を着ている、ざらざらしていて手触りがよくない。
 けれど、ほんのりと温もりは伝わってくる。
「もう冷えこむ季節だねぇ、じきにクリスマスだもんね──」
 町中では、陽気なクリスマスソングが鳴り響いている時期だろう。なぜか外界からの音すらも遮断されるこの奇妙な屋敷には、そんな空気も音楽も届かないけれど。
 スワシワラは足を投げだす姿勢になって、のんびりと語った。
「んっとね。わざわざ探しにきてくれて嬉しいけど、えぇっと……。『お姫さま』に手をだすのは、今はやめておいたほうがいいよ。さすがに、ちょっと手強いみたい」
 不意に彼女が口にした言葉に、ドグモは「ぎくり」とする。
 今、ドグモたちには目的がある。当て所なく逃避行をつづける、今の生活に区切りをつけるために、必要なものがあるのだ。
『お姫さま』──キャロル、などと呼称される存在である。それが何なのかは、ドグモは実はあまり詳しくは知らない。だがそれを、猛烈に求める気持ちがある。
『聖楽器』を宿したものに共通する、本能のようなものなのか。それを手にしたものが世界のすべてを掌握できるような、そんな感覚がある。
 曰く、『お姫さま』はあらゆる『聖楽器』の頂点であり、支配者であり、使い手である。
 曰く、『お姫さま』はあらゆる『聖楽器』の源流であり、生産者であり、女王である。
 スワシワラのまとまらない、意味がとりづらい発言などから、ドグモはそんな内容を読み取った。どうも組織もその『お姫さま』を狙っているようだし、信憑性は高い。
 その『お姫さま』とやらを入手すれば、あらゆる願望が叶うだろう。そんな確信があった、あくまで明言できないあやふやな感覚だが。
 もしかしたら。
 その『お姫さま』を有用に活用できれば、時間の流れのなかを永劫に漂う彼女も……。スワシワラもその苛烈な運命から解き放たれて、絶望に泣き暮らすこともなく、ふつうに暮らせるようになるのかもしれない。
 そんな期待も、あった。
 ドグモ自身も、まだ自覚していない感情ではあったけれど。

ドグモ/4

『お姫さま』の居場所は、すでに突き止めている。
 昨日──その不可解な存在はここからそう離れていない町で、正確には高速道路で騒ぎを起こしたのだ。
 高速道路で大事故が発生し、どうも組織がその事実を揉み消したらしい。その中心に、『お姫さま』とおぼしき超存在がいたのだ。それらはすべて、スワシワラが確認済みである。彼女が保証したなら、それはそうなのだ。
 神さまは、真実しか口にしない。
『お姫さま』を組織が確保する前に、こちらが捕獲する。ドグモは短絡的に、そう考えていた。早い者勝ちだ、この世界ではいつだって。
『お姫さま』はどうも『聖楽器』みたいなもので、誰かに宿っているらしい。その誰かは、とある高校に通っているようだ。そこを襲撃する、あるいはスワシワラが時間を改変して生徒として登録され──在籍し、混ざりこみ接触する。
 そういう計画を立てていた──というか思いついて、スワシワラに相談しにきたのだ。ことは一刻を争う、こんなところで呑気に日向ぼっこしている場合ではないのだ。
「うん。でもねぇ、試したんだけどね……。失敗しちゃった、やっぱり組織も絡んでるし難しいみたい。今の、わたしたちじゃね──」
 スワシワラの発言を、何とかドグモは噛み砕いて理解する。
 おそらく、彼女は(現時点の)ドグモから見た未来を経験してきたのだ。ドグモの計画どおりに行動し、結果がどうなるかを見聞きしてきたようである。そして、時間軸を飛び越えて(ドグモから見た)現在に戻ってきた。
 あったかもしれない未来はリセットされ、なかったことになった。
 こういうことは、たびたびあるので──ドグモもだいぶ慣れてきた。
 どうにか彼女の飛び飛びな発言を咀嚼し、会話をつづける。
「ちくしょ、駄目だったのかよ。その『お姫さま』とやらを宿してるやつってのが、抵抗したのかァ?」
「ううん……。いやまぁ、抵抗ぐらいはしてたけどね。ドグモくん、急に問答無用で襲いかかるんだもん。『お姫さま』を宿してるのはふつうの子だし、そんな彼を守ろうとしてる子たちもまぁ──たぶん、ふつうの子だったけど」
 スワシワラは考えながら、途切れ途切れに語る。彼女の頭のなかがどうなっているのかは、ドグモの想像が及ぶところではない。未来と過去の情報を整理し、口にするのは、考えるだけで難儀な話だ。ちゃんとコミュニケーションできるのが、不思議なぐらいである。
「組織も動いてたよ、アマボンズちゃんが介入してきて……。ドグモくんは、目的を邪魔されちゃったみたい。単純な暴力じゃどうにもならないねぇ、たぶん。わかるよね、アマボンズちゃん──始まりの、あの子」
「げっ、アマボンズが?」
 その名前を聞いて、ドグモは顔をしかめる。
 組織に確保された『聖楽器』を宿したものたちは、不思議なコードネームで呼ばれる。それぞれ隔離されているので、あまり個々人の交流はないのだが、アマボンズは特別な存在なのでドグモも見知っている。
 彼女は、ドグモの教育係だったのだ。常識、言語、その他もろもろをドグモは彼女から教わっている。本人もかなり鍛えられた『聖楽器』使いなので、逆らっても無駄というか、どうにもドグモは彼女が苦手だった。やりあって、勝てる気がしない相手である。
「あいつが出てきたのかよ、それじゃ仕方ねェな……。あいつは相変わらず、組織にへいこら頭さげて兵隊やってやがんのかァ?」
「そうみたいだねぇ、まぁドグモくんとは知らない仲じゃないみたいだし……。手加減してくれてたけどね、いちおう。ドグモくんも死ななかったけど、あんなにガッチリ守られてたんじゃあ、『お姫さま』を捕獲するのは難しいかなぁ……?」
 ぼんやりと、スワシワラは近くに落ちていた葉っぱの筋をむしっている。
「そもそも、わたしとしては『お姫さま』に手をだすのは反対かな……。だからまぁ、別の方向からアプローチしたけど。そっちの結果は、どうなるかなぁ。ちょっと連続で時間に干渉したから疲れちゃってね、休んでるの。あとで、結果を見に行くから」
「そうかよ。つうか最初から──おまえが何もかもお膳立てすりゃあ、『お姫さま』ってのもあっさりゲットできんじゃねェの?」
 スワシワラは実際、万能無敵だ。アマボンズも強力な『聖楽器』の使い手だが、邪魔なら時間に干渉して如何様にでも排除できる。過去の出来事を変えて、アマボンズを海外にでも出張させるとか。もっと言えば、彼女が生まれる前にその母親を殺すなりして、歴史から排除することだってできる。
 どうにでもなるのだ。それなのに──ドグモは歯がゆくて、貧乏揺すりをした。
「まぁべつに、その『お姫さま』ってのがどうしても欲しいってわけじゃねェけどよ……。やっぱあらゆる『聖楽器』の支配者、とか呼ばれてるし、おまえでも干渉するのは難しい感じか?」
「ん~……そうだねぇ、前例のないことだけど。『お姫さま』だけは、わたしの時間への干渉を察知してるみたいなんだ」
 その言葉に、ドグモは驚きと興奮を同時に得た。
『お姫さま』は、スワシワラによる時間への干渉を察知できる。場合によっては、対策をとり、回避もできるかもしれない。スワシワラの超越的な『聖楽器』の、その能力の適用外なのだ。それは、とんでもないことである。
 神さまめいたスワシワラのちからと拮抗する、あるいは凌駕する存在──。
 いったい何なのだろう、『お姫さま』というのは。名前からいって人物を想像していたが、もしかしたら『聖楽器』より高次元にある、超兵器みたいなものなのか?
 ますます時間軸から遊離し、ひとり彷徨うスワシワラを──運命の呪縛から解放してくれそうな期待感もでてくる。
「やっぱスゲェんだな、『お姫さま』ってのはよォ──」
 ドグモが前のめりになってそう言うと、スワシワラはうっそりと微笑んだ。何も返事をしてくれない、彼女はどうも『お姫さま』については語りたがらないのだ。
 彼女が見てきた永劫の時間の流れ、過去や未来に、その理由があるのかもしれない。平常な時系列に生きるドグモには、窺い知ることはできないが。
「あんまり、関わらないほうがいいと思うけど……。そうもいかないだろうねぇ、『聖楽器』がこの身にあるかぎり。最悪の事態だけは、避けるために動かなくちゃ」
 スワシワラは独り言のように、そんなことを囁いていた。そしてまた、ドグモの頭を大事そうに撫でてくる。わけがわからなくて、ドグモは機嫌を損ねた。
 いつも、肝心なことは話してくれない。そんな義理はないのだけれど──彼女とは家族でも、恋人でも何でもない。ただの、行きずりの関係ではあるけれど。
 それでも。ほんの短い時間だけでも、ぬくもりを共有したのに。
「ごめんね」
 スワシワラが、小声でつぶやいた。
 彼女はよく謝るので、もはや呼吸音のようなものだが……。なぜかそのときの声だけは、何度も聞いた音楽のように耳にこびりついて残った。

独奏者/1

 奇妙な屋敷の薔薇園で、『独奏者』は演奏をしている。
 流麗な所作で、ヴァイオリンを鳴らしている。その姿も、脳の奥まで入りこんでくるようなどこか禍々しい演奏も……。親子のように姉弟のように並んで仲良く会話しているスワシワラとドグモには、もちろん見えているし聞こえている。
 けれど、きちんと認識できていない。
 同じ薔薇園、すぐ間近にいるのに。『独奏者』のことも、それが奏でる旋律も、意識の表層を撫でるだけできちんと把握できない。
 人間が普段、毎日、摂取している空気を当たり前のものとして受け入れるみたいに。『独奏者』は──透明で、そこにあると知ってはいても誰も意識することはない。
 ドグモたちにはなぜ自分たちが屋敷で暮らしているのか、筋道立てて、きちんと説明することができる。けれど、その理屈は操作されている。この屋敷で暮らし始めた経緯を、そしてこの屋敷の主人である『独奏者』のことを──彼らは正しく認識できていない。
 変だと、気づかない。意識できない、認識できないのだ。
 それが、『独奏者』の『聖楽器』のちからだった。主にヴァイオリンと呼ばれる、『独奏者』が所有する三つの『聖楽器』のうちのひとつ。
 そのちからは、認識を書き換えること。
 あの神さまめいた存在、スワシワラですらも『独奏者』の紡ぎだす物語に、認識に、搦め捕られてしまっている。その影響下に、支配下にある。どれだけ時間を跳躍しても、歴史を書き換えても、意味はない。現状を変だと思わなければ、おかしな点を認識できなければ、そこに干渉しようという発想すら生まれない。
 これは、そういう種類の蟻地獄だ。決して這い上がれぬ、運命である。
 すべての『聖楽器』のちからは、基本的に同等である(無論、ドグモのようにその能力を万全に発揮できていないものもいる)。上手に用いれば、スワシワラといえどもこうしてそのちからに影響されてしまう。この状態を維持しつつ、丁寧に、目的を果たそう。
 とはいえ、スワシワラのことはやはり無視できない。強大すぎるちからをもっている彼女を常に支配下に置くため、ヴァイオリンの演奏をつづける必要がある。
 目的を果たすまで、だから『独奏者』は自由には動けない。彼らを上手に誘導し、利用しなくてはならない。
 そのための、布石はまいた。
 ついに、念願が叶う。もう、あと一歩で。否、ほんのワンフレーズで──狂おしいほどまでに求めた音色が、この世界に鳴り響く。
 歓喜し、つい熱を入れて演奏してしまう。
 その不可解な存在が独りかき鳴らすヴァイオリンの調べを、今はまだ、誰も気にも留めずにただ聞いているだけだ。取るに足らない雑音として、処理し、聞き流している。
 だがもうすぐ、全人類が──全世界が、その魅惑的な演奏の虜になる。すでに身体の隅々まで、宇宙の果てまでも美しい演奏が染み渡り、広がって溶けこんでいる。
 あとは自覚すればいい、認識さえすれば……。誰だって、神さまだって──ただその演奏に聞き惚れて、拍手喝采することしかできない。
「あぁ……」
 麗しい長い髪を乱して、ヴァイオリンを奏でながら、『独奏者』は空を見上げる。
 地上で渦巻く因縁も何もかも意に介さず、地球は自転と公転をしている。
 季節は、巡っていく。
 ほんのりと、雪が降り始めていた。
「今年はホワイトクリスマスになりそうだね、愛おしいキャロル」
『独奏者』の独白も、そこに含まれるおぞましい感情も、まだ誰も認識していない。

リゾルト-時輪ノ心像-  歌/un:c  曲/西家 諭
【ニコニコ動画でもご覧いただけます】http://www.nicovideo.jp/watch/sm29112419