刈谷橙一/1

 十年前の話だ。
 妹と、いちばんの親友が同時に誘拐されてしまった。
 その当時の刈谷橙一はまだ物心もつかない幼い子供だったから、誘拐、という言葉の意味もよくわからなかった。周りの大人たち──頼もしいはずの両親や教師、警官たちが口々にその単語を喚き散らし、明日にでも世界が滅ぶかのように慌てふためいているのを見て、幼心にあぁ何かとんでもないことなのだ……と漠然と恐怖するしかなかった。
 人知の及ばぬ、怪異であると。
 実際、後からその誘拐について思いだしてみても──当時、現場にいた人々にそれとなく尋ねてみても、資料を調べてみてもいまいち何が起きていたのかは判然としない。
 当時、まだ両手の指で数えられる年齢だった橙一の妹と親友は、何の予兆もなく忽然と消えてしまった。誘拐犯からの脅迫電話も何もなく、ほんとうに煙のように消えてしまったのだ。神隠しなんて呼ばれて、面白がりの連中に騒ぎ立てられたりもした。
 最初のうちは、単なる行方不明だと思われていたらしい。
 それが誘拐、だと判断されたのは──ふたりが消えた当日、彼らと一緒に遊んでいた橙一の証言があったためである。
 蒼衣と静がどこへ行ったか知っているかと、大人たちに何度も尋ねられて。
 腹芸もできぬ幼い子供だった橙一は、素直に答えたのだ。
 ──髪の長い綺麗なひとが、蒼衣と静の手を引いてつれていった。
 当時の橙一は八歳だ、もう記憶もおぼろげなのだが……。たしかに、そんなようなことを言った覚えがある。その橙一の発言に魔力でもこめられていたかのように、周囲の大人たちが大騒ぎし、駆け回り始めたので強く印象に残ってもいた。
 橙一の証言を裏付けるように、町中で幼い蒼衣と静の手を引き歩いている人物が何度か目撃されて──警察は誘拐事件だと判断し、徹底的な捜査を行ったという。
 だが次第に、状況はますます奇っ怪になってくる。

刈谷橙一/2

 何度も、蒼衣と静をつれさった誘拐犯とおぼしき人物は目撃された。
 警察の捜査を嘲笑するように、それこそ毎日のように──頻繁に。
 だが、奇妙な点がいくつかあった。
 誘拐犯とおぼしき人物が毎回、別人になっていたのである。
 あるときは腰の曲がった老人だった。あるときは汚れきった身なりの中年男性だった。あるときはどこかの学校の制服を着た中高生だった。あるときは見惚れるような絶世の美女であったという──共通点もないような、老若男女である。
 共通点としては、その誘拐犯とおぼしき人物は必ず漆黒の──棺桶めいたギターケースを背負っていたこと。
 橙一の証言と一致するのだが、必ず麗しい長髪であったこと。
 そして、蒼衣と静の手をひいて歩いていたことである。
 行方不明になり、誘拐も疑われて──犯人から警察へ連絡をするな、などという脅迫もなかったため、大々的にふたりは捜索されていた。町中に張り紙がやたらめったら貼られて、蒼衣と静の顔はほとんど町中の人間が知っていたのだ。
 ゆえにこそ、ふたりの手を引いて歩く謎の人物は目立ったし、何度も警察に通報があった。
 それらの通報者の証言や目撃情報のなかにはもちろん面白半分な冗談や嘘、あるいは見まちがいや勘ちがいもあっただろう……。だが総じて毎回、誘拐犯とおぼしき人物についての証言だけが食いちがう。
 老人だった子供だった、男だった女だった。裕福そうだった貧乏そうだった、体格がよかった華奢だった……。これら錯乱したような情報の数々に、警察は混乱した。
 最終的に組織ぐるみの犯行──蒼衣と静を誘拐したのは犯罪結社めいた集団であり、ゆえに毎回、目撃されるたびに誘拐犯の姿が異なっているのだ。そう判断された、可能性としてはぎりぎり現実的な線であっただろう。
 否、そうとでも考えなければ怪奇現象でしかないのだ。だが、警察はそんな判断はしない。組織ぐるみの犯行、あるいは誘拐犯が変装の達人であるとか──そんな判断をくだし、捜査を続行した。
 だが何度も目撃されるわりに、誘拐犯はまるで捕まらなかった。目撃され現場に警官が急行する、あるいは警邏中に運良く発見して逮捕しようと迫ったが──そのたびに誘拐犯も、蒼衣と静も夢幻のように消えてしまうのだ。
 走って追いかけても、無駄だった。苛立った警官や勇敢な市民が接近し、強引に捕まえようとしてもすんでのところで取り逃がす。なぜか、誘拐犯は監視カメラや写真などにも撮影されなかった。完全に幻覚か、お化けのようであった。
 不可思議なことに、蒼衣と静もなぜか誘拐犯を振りきって逃げだしたりせず、付き従っていた。むしろ歌ったり笑ったりして、楽しそうにしていたという。
 彼らの名前を呼んでも、返事もなかったそうだ。別の次元に存在しているみたいに。
 橙一と蒼衣の両親が町に影響力のあるお大尽だったことも手伝って、警察は威信にかけて捜査をつづけたが──成果はなかった。神隠し、現代の笛吹き男などと騒ぎ立てた怪奇現象マニアが町に押しかける段に至り、事態はさらに混迷を極めていく。

刈谷橙一/3

 今から思いだしてみても、常軌を逸した日々だった。
 麻薬中毒者の幻覚じみた不可解な毎日はある日、不意に蒼衣と静が自宅の庭でかなり衰弱した状態だったが発見され──保護されるまでつづいていく。
 ふたりは誘拐されていた間の記憶を失っていたし、とくに蒼衣は人格にだいぶ変調をきたしていた。最初のうちは、橙一や両親の顔や名前すら思いだせなかったのだ。
 誘拐された恐怖から一時的な記憶喪失になった、あるいは誘拐犯が何らかの薬物を用いたためである。などと、警察および医者などは判断したようだったけれど。
 そんなふうに、ふたりが何も覚えていなかったため、現在でも誘拐犯の正体は不明のまま──その目的も何もかも、判然としていない。もちろん誘拐犯は逮捕もされておらず、ほぼ迷宮入りである。
 蒼衣と静が無事に帰ってきたため(記憶を失い、かなり弱ってはいたが命に別状はなかった)、どうにか警察は最後のプライドを守りとおしたかたちになる。
 だが、このときの警察の情けない仕事ぶりから、橙一の両親は警察や公権力をあまり信用しなくなり──自宅でもある教会の関係者、同じ教義をもつ宗教団体などのみに頼るようになってくる。
 最近も、その関係で海外に出張していることがおおかった。
 そんな具合に内外に決して癒やせぬ傷は残したものの、蒼衣と静は帰ってきた。それから十年、ずうっと平穏な日々がつづいていたのである。
 これから先はもう二度と、あのような珍事に巻きこまれることもあるまい。ふつうに学校に通い、進学し就職し、結婚でもして平々凡々な人生を歩むのだ。
 そのはずだったのだけど、どうも近ごろ橙一の周囲は様子がおかしい。
 またあの奇妙な誘拐事件のような、狂乱めいた出来事が発生し始めている。
 否、あの程度は単なる前哨戦、序章だったかのように……。とうてい現実とは思えない、非常識な事態が巻き起こり始めていた。
 だからこそ。
 今度こそ──もう自分は、十年前とはちがって無力で幼い子供ではないのだから。
 せめて抗い、戦い、大事なひとたちを守れる自分でありたいと──刈谷橙一は思っている。
 あのころのように無力感にうちひしがれ、泣いてばかりいるのは御免だった。

刈谷橙一/4

 ずっと、引っかかっていることがある。
 その疑念、疑問は──夜中に寝床に転がり、眠りに落ちるまでのもやもやとした思考のなかで、必ずいちどは頭に浮かぶ。そのたびに、答えのでない不可解さに、橙一は煩悶する。決して癒えぬ、疵痕のように。
 どうして。
 どうして、蒼衣と静だけが誘拐されたのだろう。
 十年前の、あの日。橙一は誘拐された蒼衣と静と同じ場所にいたのに、一緒に遊んでいたのに……。奇妙な誘拐犯は、蒼衣と静のみを攫っていった。
 橙一は、置き去りである。
 どうしてだろう、犯罪者の気持ちなんてわからないが。単なる気まぐれか──当時は十歳にも満たない子供だったとはいえ、同時に三人も攫うのは難しかったのか。何か理由でもあるのか、誘拐犯が逮捕されてない現状では、推測すらできない。
 けれど、どうしても気になる。なぜ、自分は見逃されたのか。あるいは、どうして静と蒼衣だけが選ばれたのか。彼らと自分の、何がちがっていたのか。
 何度も思いだし、警察や周囲の人間に当時の状況をうんざりするほど説明したから──克明に、覚えている。橙一のなかで、その日は人生でいちばんはっきりと記憶に残っている。ゆえにこそ、魂に深く根を張っている。
 あのころ、橙一は家が近所だったこともあり──毎日、静と一緒に遊び回っていた。どこにでもいる少年らしく、虫取りやキャッチボールに興じたり、むやみに走り回ったり馬鹿な話をしたり……。当時から忙しかった両親に世話を押しつけられ、たまに妹の蒼衣も同伴することがあった。
 他の友達も顔ぶれを変えながら集まり、人数はまちまちだったが──必ず静は一緒にいた。それだけ、いちばん近しい間柄だったのだ。
 幼いながらに、妹とはいえ何だか女の子と遊ぶのは男らしくない感じがして気恥ずかしかった。だから橙一はあまり蒼衣に構ったりしなかったけれど、彼女の相手はたいてい静がしてくれていた。
 あのころの静は社交的で優しく、わりと乱暴な橙一よりも人気者だった。
 当時の蒼衣は極度の人見知りで、おとなしかったこともあり、男の子の遊びを嫌がっていた。そのため、おうちでお人形遊びだのボードゲームだのトランプだのをすることになるので──橙一は、それが不満だった。
 あの日も──妹なんか置いてどこかへ遊びに行きたいなと、窓の外ばかり見ていた。
 ちまちまと当時、流行していたカードゲームなんかをやっていた静と蒼衣を置いて、家から抜けだして外に遊びに行く口実を考えていた気がする。
 子供のころ、もっぱら遊び場にしていた自宅の教会。たくさん並んだ座席のひとつに寝転がって、橙一は室内だというのにサッカーボールを足の裏でもてあそんでいた。
 夏だった。外から、みんみん蝉の鳴き声が聞こえてきていた。教会の礼拝堂は薄暗く──ことさら外が眩しく、明るく楽しそうに思えたものだ。
 そう、夏休みだった。
 つまらない勉強もせずに、外を思いっきり走り回れるというのに──何が哀しくて、屋内で寝転がっていなくてはいけないのか。不健康だ、もっと日焼けしたい。むかしから、橙一は身体を動かすのが大好きだった。
 蒼衣と静は放っておいたらいつまでも室内での遊びを楽しんでいるのだが、飽きっぽい橙一には耐えがたかった。たしょうは頭を使うトランプなどでは、年下の静や妹にも勝てなくて面白くないし。
 つまんないなぁ、外で遊びたいなぁ、静はよく平気だなぁ……。でも妹を置いて外に遊びに行ったら、両親が怒るからなぁ──などと考えながら。有り余った体力を発散するために、寝転がったまま器用に、サッカーボールを蹴ったり投げたりしていた。
 そんなひとり遊びにも飽きて、退屈を持て余すよりましかなぁと──静たちの遊びに交ざろうかと考えた。静や蒼衣を、ふつうに愛してもいた。彼らと同じ時間を共有できることは、嬉しくはあったのだ。ただ、できれば外で遊びたいだけで。
 年上の橙一を頼りにして、お兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってくるふたりをかわいく思っていたのだ。仕方ないなぁ──大人の態度で、構ってやるか。遊んでやるか。
 ……俺、お兄ちゃんだもんな。
 そう思って、サッカーボールを小脇に抱えて、蒼衣と静が座りこんでいたはずの方向を見た。礼拝堂の最奥──豪華な十字架の、真正面だ。
 ステンドグラスから差しこんだ七色の光の、真ん中。
 そこで天使のように戯れていたはずの静と蒼衣の、先ほどまではうるさいくらいに響いていた笑い声がやんでいた。
 教会が公開されている時間帯ではなかったし、橙一たちの他には誰もいなかったから──異様に静かだった。ぞくりとして、橙一は冷や汗をかいた。
 いつの間にか。
 十字架の前で、祈っているものがいた。
 先ほどまでは、絶対にいなかった人物である。礼拝堂の扉は開け放たれていたが、誰かが入ってきたなら橙一が気づかないわけがなかった。橙一は、入り口付近の長椅子に寝転んでいたのだ。
 なのにその奇妙な人物は忽然と、空気からにじみでるようにして出現していた。
 なぜか、間近で遊んでいる静と蒼衣はその人物に気づいていないようだった。呑気に、無邪気に──トランプで七並べなんかをしている。
 宗教画のようだった。
 戯れる子供たちを、不思議な人物は振り向いた。
 逆光になっていて、その人物の顔は見えなかった。ステンドグラス越しに差しこむ着色された光で彩られた長い髪だけが、異様に印象に残っている。男だか女だかもわからない──年齢も不明のその誘拐犯、とおぼしき人物は恭しくその場に跪いた。
 そして静と蒼衣の顔を、覗きこんでいた。間近まで迫っていた、吐息すら触れる距離だった。気づかないわけがないのに、静も蒼衣もその人物に反応を示さなかった。
 だから橙一は、自分だけに見えている幻覚なのではないかと疑った。場所が場所だけに、ほんとうに救世主か天使でも光臨していたのではないかと──。
 その人物は静と蒼衣をしばし見比べて、何かを納得したように頷くと、そっとふたりの頭を撫でた。そこまでは、鮮明に覚えている。
 そこから先は、奇妙なことに──橙一は記憶していない。気づいたら周りは大騒ぎで、静と蒼衣が消えた、誘拐だ行方不明だ、などなど両親も含む大人たちが喚き散らしていた。すべてが、微睡みのなかで見た夢だったのではないかと疑わせた。
 橙一はどうも、長椅子に寝転がったまま熟睡していたようだった。静と蒼衣が誘拐された現場にいながら、おめおめと……。自分は、お兄ちゃんなのに。
 今でも、そのときのことを思いだすたびに橙一は悔やむ。後悔しても仕方ない、当時の橙一では誘拐犯に食ってかかっても何もできずに蹴散らされただけだろう。それでも歯がゆく、また攫われた静や蒼衣に申し訳がなかった。
 橙一が今、できるかぎり身体を鍛えているのも──すこしでも強くなろうと足掻いているのも、あのとき何もできなかった事実が影響しているのかもしれない。
 同時に、やはり不可解だった。
 どうして、静と蒼衣だけが攫われたのか。
 なぜ、自分は見逃されたのか。
 まるで、ふたりにだけ誘拐という重罪を犯してまで手元に置いておきたい価値があり──自分は取るに足らない、どうでもいい存在なのだと誘拐犯に嘲笑われているみたいだ。悔しく、言いしれぬ怒りや哀しみすら湧いてくる。
 どうして──自分だけ、置き去りにされたのか。
 そばにいたのに。攫われたふたりにあって、自分になかったものは何なのか。ただの偶然、誘拐犯の気まぐれ、などと片付けられたら簡単だったのだけど。
 もしかしたら一生、答えを見いだせないかもしれないその疑問は──今日もじくじくと古傷のように痛んで、橙一を責め苛むのだ。

刈谷蒼衣/1

 最悪の一日になりそうだった。
 どうしてだろう。意味がわからない。理不尽だ──そんな感覚がある、刈谷蒼衣は不可解な苛立ちを腹の底に抱えている。
 ずっと食べるのを楽しみにしていた自分へのご褒美のプリンか何かを横からかっ攫われたような、幸せな夢を見ていたのに目覚まし時計に叩き起こされたような……。ひどく理不尽な不幸を、味わっている気がする。
 平日の、早朝。制服姿で礼拝堂の掃除をして、気分をしゃっきりさせてから、朝ご飯の仕度などをするのが蒼衣の日課だった。
 両親は出張中だし、橙一はちょっと事情があって眠りが浅く寝起きだと非常に不機嫌になる。朝の細々とした家事は、自分でやったほうが早いしスムーズだ。無理に橙一にやらせると、ドジるか怒るかする。
 それを経験から学んでいる蒼衣は、朝のおさんどんを一手に引き受けている。
 掃除をひととおり片付けて、さぁ次は朝ご飯の用意だ──などと考えていたら、非常に厄介な事態に遭遇してしまった。
 いつもどおりの蒼衣の日常が、朝の光景が、脆くも崩れ去った瞬間であった。
 蒼衣はそれを目撃してから、瞬時に踵を返し──猛烈に走った。
 正体不明の怪物に出会でくわして、大慌てで逃げるみたいに。
 礼拝堂の奥にある、刈谷一家の居住スペース。主に物置や急な来客の寝室として利用している地下室および屋根裏部屋などがある区域から、さらに進むと裏口がある。
 すっかり立て付けが悪くてやたら開くのに体力のいる裏口の扉からでて、ほんのすこしの裏庭を歩くと、もうひとつこぢんまりとした建物がある。教会の美観を損なわない程度の飾り気のない一軒家で、ここで蒼衣たちは日常生活を送っている。
 その建物は立派な礼拝堂に比べて背が低く、おんぼろに老朽化している。そろそろ改修が必要なのだが、教会の予算はおもにこちらも経年劣化した礼拝堂の修復などに用いられている。刈谷一家の暮らす建物については、どうしても後回しにしがちだ。
 一軒家の扉を開け放ったまま、靴をてきとうに脱ぎ捨て、すこしも動きを停止させずに──蒼衣は一直線に駆ける。朽ちかけの廊下が不確かにたわみ、ぎしぎしと軋んだ。
 蒼衣は文武両道、才色兼備な美少女と学校の皆さんには評判である──おとなしそうな外見に反して、身体能力は低くない。飛ぶように走って、あちこちささくれができた木造の階段を駆け上がる。その衝撃と風圧に、溜まっていた埃が舞った。
 目を閉じてもどこに何があるかわかる自宅の気安さで、蒼衣はあっという間にひとつの扉の前に到着する。やや勢いよく行き過ぎてから、おおきく深呼吸。
 さすがに乱れた呼吸を整えると、思いっきり目当ての扉を開いた。

刈谷蒼衣/2

「橙一!」
 兄を呼び捨てにして、蒼衣は許可も得ずにずかずかと入室する。
 橙一は基本的にアウトドア派だからか、室内は意外なほどに殺風景だ。木製の床にはカーペットも敷かれておらず、脱ぎっぱなしの服や読みかけの雑誌が散乱している。それでも小汚く見えないのは、根本的にものがすくないためだ。
 橙一は、なぜかは知らないが──ほんとうに気に入ったもの以外は自分のものにしたがらない。失うことを、恐れているみたいに。
 かなり広い一人部屋の空間を持て余しているらしく、家具などを部屋の半分ほどに集めてそこでいつも寛いでいる。家具といってもベッドがあるだけで、服などは壁に吊るすか部屋の隅っこに重ねて置かれているだけ。
 勉強机らしきものもなく、橙一が好きで読んでいるバイクの雑誌などと一緒に学校で使う教科書などがぞんざいに積まれている。その横にクッションが置かれているので、何か読んだりするときはそこで寝転がっているのだろうか。
 残りの半分のスペースにはダンベルやら鉄アレイやら、蒼衣にはよくわからない身体を鍛えるための器具などが配置されている。橙一は夜中でもそこで何かに取り憑かれたみたいに運動をしていることがあり、蒼衣もたびたび安眠妨害だと文句を言っている。
 男の子の部屋というものを、蒼衣は兄のそれ以外はよく知らない。なのでこんな空間が、普通なのかどうなのかも判断できない。
 まるで、どこか遠くから旅行にきて短い間だけ暮らすペンション、みたいな感じだ。生活感があまりない──居心地をよくしよう、あるいは来訪した客を喜ばせるために室内を飾ろう、みたいな発想が欠けている。男の子って、そういうものかもしれないけど。
 今は、そんなことはどうでもよい。
 蒼衣は部屋の片隅、簡素な室内のなかでは浮いているやけに豪華なベッドまで駆け寄る。橙一はどうも不眠がちなようで、寝心地のいい高級なベッドなどを珍しく親にねだって買ってもらっていた。枕なども、上等な代物である。
 体格のいい橙一だが、眠るときはいつも胎児のように身を丸めているのでベッドからずり落ちることもない。布団を頭からかぶり、うんうんと魘されている。
 また、悪夢を見ているらしい。
「橙一」
 いつも恥知らずなほど元気で、それなりに頼もしい橙一だからこそ……。夜に怯える幼子のようなこの寝姿を見るたびに、蒼衣は何だか儚い気持ちになってしまう。
 彼は何か深い傷を抱えているのに、普段はそれを見せないようにしている。否、せめて痛みを必死に我慢して剛健に振る舞っているのだ。
「起きなさい。橙一、この寝坊助。もう朝ですよ──ううん、緊急事態です」
 必死にまくしたてながら、蒼衣は兄をどうにか起こそうとがんばった。
 最初は揺すっていたが、まるで反応がないので両手で「ばんばん!」と駄々っ子のように橙一を叩いた。毎朝こうなのだが、今は一刻も争う事態なので──さすがに焦れる。
「起きなさいと言っているでしょう、橙一。言うことを聞きなさい、こら」
 橙一は卵のように丸まって、布団にすっぽり収まっているので、どこに頭や足があるのかもわからない。みょうな場所に触れても気まずいし、どうしよう、勢いよくベッドから転がり落とせばさすがに起きるだろうか。などと、蒼衣が物騒なことを考えていると。
 不意に、布団のなかから橙一の鍛えあげられた両腕がのびてきた。
 獲物を捕食する、蛙の舌みたいに。
「きゃっ──」
 咄嗟に反応できず、蒼衣は橙一の手に掴まれてそのまま引っぱられる。急だったので踏ん張ることもできなくて、蒼衣はそのまんまベッドに倒れこんだ。
 そして思いっきり、寝転がったままの橙一に抱き寄せられてしまった。
「きゃあああっ!?」
 悲鳴をあげるしかない。じたばたと手足を動かしたが、どうにもならない。蒼衣も運動は不得意ではないが、単純な膂力ではさすがに兄とは比べものにならない。
 布団のなかに引きずりこまれて、むやみに密着された。
「こ、こら! 橙一、寝惚けないでください! ちょっ──呼吸が、できない!?」
 ごつごつした橙一の胸板に、顔面を押しつけられる。口元が塞がれたうえ、布団のなかなので息苦しすぎる。動揺しながらも、蒼衣は橙一をやたらめったら殴った。
 だが、離してくれない。ほとんど絞め技を食らっているようなものだ、酸欠で頭がくらくらしてくる──いったい何がなんだか?
「蒼衣──」
 情けないほど弱々しい声で、橙一が呻いた。
「蒼衣、蒼衣だよな。よかったぁ、蒼衣がいる──もうどこにも行くなよ」
 大事そうに、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。頭まで撫でられる、ぬいぐるみみたいに。兄妹とはいえ異性である、変な気分になりそうで──蒼衣は夢中で暴れた。
「はい、蒼衣です。あなたの妹です、大丈夫ですから……。どこにも行きませんから、無体な真似をやめなさい! 橙一、怒りますよ!」
 突然だったのでこちらもパニックになりかけていたが、考えてみれば、橙一がこんなふうに寝惚けることは珍しくなかった。
 むかし、蒼衣と静は誘拐されてしまった。それは、橙一のなかでトラウマのようになっているらしい。頻繁にそのころの無力感を思いだして、橙一は悪夢に責め苛まれる。同時に、蒼衣がまた消え失せてしまわないように、抱き寄せようとする。
 その気持ちを慮ると、さすがにすこし同情してしまうので……。蒼衣は、必要以上には怒れない。目元に涙すら浮かべている橙一を、間近から睨んだ。
 目と目をあわせて、その頬に手を添えて、一喝する。
「わたしは蒼衣です、ここにいますから」
 それだけ、はっきりと告げておく。ともあれ、さすがに強く抱きしめられすぎて背骨など折れるか痛めそうだ。蒼衣は橙一のほっぺを、強くつまんで引っぱった。
「気安く抱きしめないでくださいね、こちらもお年頃なのですから……。制服や髪も乱れます、わたしが学校の皆さんに慕われるために毎朝──どれだけ時間をかけてセットしているかご存知? 苦労を増やさないでください、お願いですから」
 必死になっていろいろ言っているうちに、橙一もようやくちゃんと目覚めたらしい。何度か瞬きをしてから、大袈裟に仰け反った。
「おぉ、蒼衣! おまえ、何で俺のベッドに忍びこんでるんだよっ?」
「あなたが引きずりこんだのでしょう──寝惚けるのも、大概にしてくださいね。あんまり酷いようだと、次からはお医者さんか警察に相談しますよ?」
 ようやく手をはなしてくれたので、蒼衣はどうにか身を起こす。全身、痛い。橙一は無駄に鍛えているので、ふつうに全力で抱きしめられるとダメージが残るのだ。
 乱れた制服と髪をぞんざいに整え、蒼衣はベッドのそばで腕を組んで仁王立ちした。
「起きましたか、橙一……。次はありませんからね、反省してください」
「お、おう。ごめんな、俺──また、やっちまったのか」
 橙一が寝惚けて抱きしめてくることなど、これまでにも何度かあったことだ。橙一はそのたびに、こっちが恐縮するほど平謝りしてくる。
「ごめんな、蒼衣。俺──やっぱりまだ、いろいろ引きずってるんだなぁ?」
 不甲斐なさそうに、橙一はベッドの上で身を起こして頭を振る。気つけのためにか、自分の頬を両手で叩いていた。ほんとうに悪気や、ましてや妹へいやらしい真似をしようという気持ちはないのだ。寝ぼけただけなのだ、だからこそ厄介なのだけど。
 頭ごなしに、怒れない。橙一が悪夢を見るのも、蒼衣に原因があるともいえる。誘拐だ、事件だ──蒼衣も橙一も悪くはないのだけど。疵痕は、残ってしまっている。
 溜息をつき、蒼衣は努めて冷淡に告げる。
「さっさと身支度を調えてくださいね、橙一。いいえ、着替えなどは後回しでもよろしい──急いで、わたしと一緒にきてください。緊急事態が、発生中なのです」
「あぁん? どういうことだよ──ちゃんと説明しろ、蒼衣」
 すぐに精悍な表情になると、橙一はかるく柔軟体操をしていた。ちゃんと目覚めてくれれば、それなりに頼もしい兄なのだ。
 真っ直ぐにこちらを見て、問うてくる。
昨日のあれが関係してんのか──ってか、時任のやつが、また何かトラブルでも起こしたのか? おまえがそんなに血相を変えるなんて、ただごとじゃねぇよな?」
「トラブルは、おにいさんが起こしているのではありません……。とはいえ、無関係ではないでしょう。わたしにも、いまいち状況が把握できていないのですけど」
 蒼衣は異常事態を目撃してから、大急ぎで橙一を起こしにきたのだ。悔しいことに、身体が勝手に動いていた。蒼衣はむかしから、何か困ったことがあったら橙一に泣きながら頼んで解決してもらうような──自主性のない、依存的な、子供だった。
 複雑な気持ちになりながらも、蒼衣は橙一を待たずに部屋の出入り口へと向かう。
「口で説明するより、見たほうが早いです。橙一、急いで一緒にきてください」
「あいよ。ふあぁふ──何なんだよまったく、しばらく平穏な毎日だったのにさ。時任に関わってから、毎日てんてこまいだよなぁ?」
 大欠伸をしてから、橙一は身軽にベッドから飛び降りる。冬眠から覚めたばかりの熊みたいに、のっそりと蒼衣の後ろからついてきてくれた。
 蒼衣も同年代の女子に比べれば背が低くはないのだが、それでも橙一は見上げるほどおおきい。彼がバイクを愛好するのがわかる気がする、頼もしく力強いものに身を任せたいと思うのは人間の本能だ。
 ちょっと見とれていると、橙一はそれに気づいて茶化してきた。
「ったく。蒼衣は昔っから、何かあるとすぐ『お兄ちゃ~ん』って呼びにくるのな」
「ひとりで対処するより、あなたを用いたほうが効率的なのです。わたしは非力な女子ですよ、体力だけが取り柄の穀潰しに代わりに働いてもらわないとね。立ってるものは親でも使えというでしょう──それだけのことですよ、お兄ちゃん
 嫌味として口にしたその呼称を聞いて、なぜか橙一はこれ以上なく嬉しそうに笑っていた。不可解である、やっぱり今日は最悪の一日になりそうだった。

刈谷橙一/5

 教会の敷地内、刈谷兄妹の居住スペース。
 三階建ての一軒家、その二階と三階は主に寝室として利用されている。一階に台所や食事をとるためのダイニングがあって、家族が寛ぐためのテレビなどが置かれたリビングもある。両親が出張中とはいえ、暮らしている人数に比して広すぎる気もする。
 礼拝堂には一般客なども訪れるため、おおむね橙一はこの一階か自室で過ごすのが常だ。なので慣れ親しんだ空間ではあるのだが──そこに、奇妙なものが混ざっている。
 他のすべてが日常的に見ていたものなので、その不自然な存在は殊更に目立った。名画にくわえられた落書きみたいに、室内の光景から浮いている。
 それは、お姫さまみたいな少女だ。
 自ら輝きを放つような、麗しい白金色の長髪。あまり普通の町中では見かけない、絵本のなかの登場人物じみた豪奢なドレス。気の強そうな眉が目立つ、高貴だが幼気で、愛らしい顔貌。一見してどこの国の人間かわからない、けれど美しい女の子である。
 彼女は何をしているのだろう──ソファなどがごく平凡に配置されたリビングに、しゃがみこんでいる。そして物珍しそうに、ソファの正面に置かれた大型のテレビを恐る恐る撫でていた。
 その指先が偶然、テレビの電源スイッチに触れたのだろう──画面のなかで、朝のニュース番組が流れ始める。少女はギョッとして、おおげさに後ずさった。
 そのせいでソファの前にある背の低い硝子製の机に頭をぶつけて、そこに置かれていた蜜柑や新聞がどさどさ床に落ちる。
 どう見ても不審者というか、初めて室内につれてこられたペットの動物みたいな感じだが……。所作のひとつひとつが美しく、崇高な儀式のようで、橙一は何も言えずにただ呆然と見惚れてしまった。
 蒼衣に無理やり叩き起こされ、引きずられるようにして先導されて歩いている途中で……。橙一は、そんな不可解な光景を目撃した。
 蒼衣が言うには、最初──この謎の少女は礼拝堂にいたらしい。
 掃除中に彼女にふつうに挨拶されたので、蒼衣は慌てて、ダッシュで橙一を起こしにきた~という流れのようなのだが。奇妙な少女は当たり前のように移動し、我が物顔で居住スペースの建物に踏みこんでいた。そして、あちこちを泥棒みたいに物色している。
 彼女が礼拝堂にいると思っていたらしい蒼衣も、かなり驚いているようだった。そりゃあ置物でもあるまいし、礼拝堂で待っていてと告げたわけでもないようだから、少女だって自由気ままに動いていたって変ではない。
 それにしたって、傍若無人だ。刈谷兄妹のいわばプライベートな空間に、まるでこの家の主のように居座って、床に落ちた蜜柑を拾いあげて小首を傾げていたりする。
 何だろう、この少女は。
 あまりにも予想外な光景だったし、寝起きで頭が働かなくて──橙一はしばし唖然として突っ立っていた。
 だがやがて、その少女に見覚えがあることに気づいた。どうして、すぐに思いだせなかったのだろう……。脳神経が混線しているような、偏頭痛と違和感があった。
 忘れられるはずもない、橙一のそれなりに平凡な人生に突如として舞い降りた美しい少女──その名前は。
「キャロル!」
 思わず自分でも驚くほどの大声で、橙一は呼びかけた。
 そうだ。キャロルだ、彼女はそう名乗っていた。昨日、高速道路を壊滅させた不可解な出来事の中心にいた、正体不明の少女。
 ……昨日?
 ……高速道路で騒動に巻きこまれたのは、昨日だっただろうか?
 何かを忘れている。否、書き換えられているような奇妙な感覚に──橙一が顔をしかめているうちに、キャロルは何拍か遅れて反応した。
「キャロル! そうね、そう名乗ったわ!」
 相変わらず元気よく、橙一たちを振り向いてくる。
 無邪気な、笑顔だ。
 床に座りこんだままの姿勢で、謎の少女──キャロルはかるく会釈してくる。
「ごめんなさいね、名前を呼ばれることに慣れてなくって。というか会話なんてものにとんと縁がなくてね、不作法があったら申し訳がないわ」
 不作法といえば、勝手に家に上がりこんでいることがまず大問題ではあるのだけど……。キャロルはその点についてはさも当然のように、言及しない。
 目を輝かせて、呆然としている刈谷兄妹を眺めている。
「あなた、そっちの男の子──橙一よね。橙一! すてきな名前ね! 交換してほしいぐらいだけど、名前ってそういうものじゃないのよね? 知ってるわ、その程度の常識はあるのよ? 静が意地悪だから、あんまり共有してくれないのだけど」
 指先でくちびるをなぞる、ちょっと子供っぽい仕草をして──。
 キャロルは魅力的な、宝石箱みたいな笑みを浮かべた。
「そっちの女の子は、蒼衣? そうよね、蒼衣! 橙一、蒼衣……異国的! ううん、音楽的ね? 兄妹だったっけ──ごめんなさい、筋道立てて喋るべきよね? まだ不慣れだから不躾なのは勘弁してね、……お返事ぐらいして!」
 なぜか機嫌を損ねたように、キャロルはしかめっ面になると立ちあがる。そして、大股でこちらに歩み寄ってきた。
 近くから見ると、ことさらに小柄である。蒼衣よりも、さらに頭ひとつぶんほど背が低い。体型もあまりにも華奢で、お人形さんめいている。生きて動いて喋っているのが不自然に思えるほどに、非現実的な少女だった。
「ふふ。昨日はちょっと静にばかり負担をかけてしまったからね、今日はぐっすり眠ってもらっているの。でもねぇ、熟睡しているあの子のそばで一日中──何もせずに侍っているのも退屈だわ、そう思うでしょ? 子守歌は、あたしの仕事じゃないものね?」
 相変わらず、小鳥のようによく喋る。なのに内容がまったく意味不明で、橙一たちは返事に困った。詰め寄られて、ちょっと後ずさる。
 だが蒼衣が、静、という名前に反応した。彼女にとって、それは世界でいちばん価値のある、重たい名前なのだ。決して、彼女はその名前を無視できない。
「おにいさんは、どこに? 眠っている──だけ、なのですか? ほんとうに?」
「そうよ。あたしもこういうのは初めてだし、とても感覚的なものだから伝わるかどうかはわからないのだけど。色々あって、あたしと静の生活時間はずれちゃってるの。どっちかが寝ている間は、どっちかが起きているふうになっちゃってる」
 困ったものね、とキャロルは悪びれずに肩をすくめた。
「そんなに心配しなくても、一時的なものよ。静も、ちょっと消耗してるけど元気なものだから。むしろ、あたしが一昨日の騒ぎでちからを使い切っちゃったせいでね……。回復するために熟睡しちゃったから、そのせいで生活時間のずれが生じちゃってるのよ」
 よくわからないことを一方的に喋ると、キャロルはそこで思いっきり後ろを振り向く。あまりにも突然だったので、橙一は仰天してしまった。
「ど、どうした?」
「あれぇ──」
 思わず問うた橙一を、聞こえてるわよ、というふうにキャロルは肩越しに振り向いて片目を瞑った。無駄な動きをしてから、彼女は先ほど電源が入ったテレビに歩み寄る。
「このひとは何を言っているのかしら、おかしいわ。日付がずれてる──こっちでは時間の流れが異なってるのかしら、そんなことはないわよね?」
 キャロルは画面を食い入るように見てから、違和感をおぼえたように「?」と首を傾げてテレビの後ろに回ると、跳びあがって驚いた。
「何これ、人間じゃないわ! あぁ、わかるわ──大丈夫、テレビってやつよね? この機械のなかに誰かがいるんじゃなくて、どこか遠くから映像だけ送っている? 静と知識は共有しているはずだけど、実際に見聞きしないとわからないものね?」
 テレビを初めて見たのか、興味深そうに電源を入れたり消したり、キャロルはしばらく奇行じみた振る舞いを見せていた。
 だが「はっ」と顔をあげて、首を振ると──驚くほど真剣に橙一へ問うてきた。
「ねぇ、橙一。冗談も嘘もなく答えてくれるって信じてるわ、今日って何月何日かしら?」
「はい? えぇっと……?」
 まだろくに挨拶もしていないのにいきなり問われて、不躾ではあるけれど。不思議と、橙一はキャロルに親近感をおぼえている。
 まるで家族か、幼いころから交流のある友達のように。
 そんなわけがないのだが──だから不思議と、警戒心もなく素直に答えてしまった。
「十一月二十六日、だよな? そうだよな、蒼衣?」
 日付を答えるとキャロルが目を見開いて意外そうにするので、不安になって、橙一は思わず妹にも確認をとった。蒼衣は「ええ」と頷き、不審そうにキャロルを見ている。
「それが何か? えぇっと、キャロル──あなた、ちょっと不調法ではありませんか。人様の家で、我が物顔で振る舞って……。警察を、呼ばれたいのですか?」
「失礼があったなら謝るわ、蒼衣」
 意外と素直に頭をさげて、キャロルは眉をひそめる。
「変ね。一日ぶんの時間が、欠落している。ううん、あたしだけがそれを覚えている──と推測できるわね。蒼衣も橙一も、嘘をつくような子じゃないものね」
 床に散らばった新聞を拾いあげ、その日付も確認している。
「世界も、今日が十一月二十六日だと認識している。大がかりな悪戯である可能性もあるけど、意味がなさすぎるわ。むしろ、あたしが昨日の出来事を覚えていることが──日付をずらしたものにとって、予想外だったと考えるべきよね?」
「あのう。あなた、さっきから何を言っているのですか……?」
 蒼衣がだんだん腹が立ってきたのか、険悪な口調で問う。今にもほんとうに警察でも呼びそうで、橙一は横で見ていてハラハラした。
 だが不思議と、蒼衣は複雑そうな面持ちでキャロルを見ているだけである。
「あまり、好き勝手に行動されては困ります。おにいさんを傷つけたり、迷惑をかけたりするような振る舞いは──わたし、許しませんから」
「そうなの? ふぅん、静ったら人見知りの口べたのわりに意外とやるじゃない。こんなかわいい女の子に好かれてるなんてね──妬けちゃうわ、ちょっぴり♪」
 やはり噛みあっていないような返事をして、キャロルはお腹を切なそうにさすった。
「それよりも、朝ご飯の時間じゃないかしら。食事、というものをしてみたいわ。あなたたち、毎日それをしてるんでしょう? つまり、きっと楽しいことなのよね? あたし何だか空腹みたいだから──てきとうに用意しなさい、堪能してあげる♪」
「あなた、不法侵入だけでは飽き足らずに食事まで要求するのですか? 居直り強盗にしても、大概ですね?」
 蒼衣は何とか、キャロルと会話を成立させているように見える。橙一にしてみたら、何もかもさっぱり意味不明なのだが。蒼衣には、橙一よりもすこしばかり──キャロルという謎めいた存在についての知識があるようだった。
 だが、どうして? 蒼衣は、いったい何を知っているのだろう?
 不安ばかり増していくが、蒼衣はこれ以上──会話を交わしていても無意味だと思ったのだろう。さっさと、台所に向かってしまう。
「仕方ありません。わたしたちも、早く食事をとって登校しなくては遅刻してしまいます。料理してきますので、橙一はキャロルの相手をお願いします」
「はい? 何で俺が──いやべつに構わないけどさ、う~ん? おい蒼衣、おまえ何を知ってる? ちゃんと説明しろよ、何もかもわけがわかんねぇよ?」
 すでにこちらに背を向けている妹に呼びかけたが、蒼衣は素っ気ない。
「いいから、言うとおりにしなさい──橙一」
 何もわからぬ未熟な子供に親がそうするように、一方的に、命じてくる。橙一は何だか寂しくなって、そっとキャロルを眺めた。
「~……♪」
 彼女はまたテレビに興味をもっていかれたようで、画面のなかで流れているよくあるCMソングに──うっとりと、聞き惚れている。
 床に座りこんでいるので、ドレスの裾がふわりと膨らんでいる。小刻みに、ゆるゆると音楽にあわせて肩が、頭が揺れている。
「ほんと、音楽に満ち溢れたところね。あたし気に入ったわ、とっても♪」
 その姿は、橙一の日常を侵略しにきた怪物なんかではなく──ほんとうに、どこかから迷いこんできた野良猫のようであった。

刈谷橙一/6

 橙一は、困惑している。
 目の前──平凡なダイニングの椅子にちょこんと腰掛けて、ドレス姿のお姫さまが興味深そうに湯飲みを指で撫でつつ、間近から観察している。においを嗅いだりしている、赤ん坊みたいに。
 その動きを見ているだけで微笑ましいというか、何となく幸せな気分になってしまうが──呑気にしている場合でもない。
 蒼衣が、朝食の仕度をしてくれている間……。橙一は、この絵本から抜けだしてきたみたいなお姫さまとふたりきりなのだ。
 てきとうにいれたお茶を振る舞ってみたものの、キャロルの異国風の外見に、純和風の湯飲みもお茶もあまり似合っていない。ちぐはぐで、現実感がなかった。
 どうしたものか──橙一は困り果てながらも、沈黙に耐えきれず声をあげる。
「えっと、キャロル?」
「なぁに、橙一?」
 物珍しそうに周囲をきょろきょろしていたキャロルは、朗らかに応えてくれる。好意的な反応ではある、何をされてもゆるしてしまいそうな愛らしい仕草と笑顔だ。
 けれど、それを眺めて和んでいても仕方がない。
「えっと。質問とかしてもいいか、俺ちょっと状況がわかんねぇんだよ」
「当然ね、どんどん質問して! 質問し回答することで両者の思考を──知識を、情報を擦りあわせるのが会話というものよね。あたし、ちょっと興味あったの♪」
 やはり不思議な返事をしてくるキャロルに、どんな質問を投げるか考えつつ……。橙一は、自分用のお茶をいれて啜った。緑茶の苦みとカフェインが、寝起きのよくない橙一の頭を活性化させてくれる。
 それを見て、キャロルも真似をした。
 橙一の行動を観察し、ようやく目の前にあるものが飲み物なのだと理解したみたいだ。ほんとうに何もかも文化が異なる、遠い国からやってきたお姫さまじみている。
「熱っ──あぁ、熱い。知ってたけど、やはり驚いちゃうわね。これが『熱い』ね、これが『飲む』ね、これが『お茶』ね! あはは、何もかも未知ね♪」
 いれたてのお茶が熱かったようで、キャロルは舌をかるく火傷したようだ。だが彼女はそれすら嬉しいのか──上機嫌に、ちびちびとお茶を飲んでいる。
 こちらを惑わすために、奇怪な言動をしているという感じでもない。演技とも思えない、ほんとうに生まれて初めてお茶を飲んだみたいだ。
「もちろん。静もお茶ぐらい飲んだことがあるから、厳密には初めてではないけどね。あたしとあの子は繋がっている──とはいえ、前世と来世ぐらいの隔たりもあるのよ。この表現で、伝わるかしら?」
「おまえ、時任とどういう関係なんだ?」
 ずっと気になっていた疑問を、橙一は思いきって口にしてみた。
「トキトウ? あぁ、それって静のことね──苗字と、名前ね。時任が苗字で静が名前なのよね、あたしにも苗字ってあるのかしら?」
 キャロルはびみょうにずれた返事をすると、しばし眉根を寄せて思案していた。
「う~ん、どういう関係って……。難しいわね、意外と。ちょっと待ってね、伝わりやすい説明を考えてみるわ。実演して見せられたらよかったのだけど、静は寝ちゃってるから」
 どうも橙一とキャロルには前提条件というか、事前の知識に差異があるような気がする。橙一の記憶では、キャロルとは昨日、初めて出会ったはずである。
 あらためて、思いだしてみる。
 昨日──橙一の幼なじみ、時任静が不登校になっていたので、彼を過剰に心配した妹の蒼衣とともに様子を見に行った。そして、奇妙な出来事に巻きこまれたのだ。
 わけのわからぬうちに、静が暮らしていたアパートは倒壊。怪物が暴れ回り、橙一が状況についていけないうちに──優雅に、物語の主人公みたいに登場したのがキャロルだった。
 彼女はおそらくアパートを壊滅させたのだろう怪物と、不思議な楽器めいた武器でやりあって、そのまま怪物に引きずられてどこかへ行ってしまった。
 その後は蒼衣に促され、橙一は出現した奇妙なバイクに乗って怪物たちを追いかけた。そして狂乱の坩堝と化した高速道路で、キャロルと短い会話を交わしたりして……。その直後、不意に現れた褐色の肌の少女が爆弾めいたものを放ってきて、すべてが爆炎に包まれた。
 そこまでは、覚えている。
 それから、何がどうなったものか……。橙一は、どうも誰かが運びこんでくれたらしい病院のベッドで目覚めた。治療を受けて、幸い蒼衣も含めて無事だったため自宅へと帰った。
 住み処を失い行き場のなかった静も、一緒に。その後は疲労もあって、たっぷり熟睡し、目覚めた翌朝……。今、こうして自宅の食卓でキャロルと向きあっている。
 あらためて思いだしても、意味がわからない。すべては夢だった、として片付けたほうが現実的ですらあるけれど。目の前にいるキャロルは、夢でも幻覚でもなさそうだ。
「ふぅむ──」
 キャロルはやけに愛らしく、唸った。
「やっぱり、飛んでるわね。それって、あたしとしては一昨日の出来事なのだけど。あなたたちにとっては、昨日なのね? あなたたちから昨日が奪われたのか、あたしに偽物の昨日が植えこまれたのか……。どちらにせよ、難儀な話よね」
 さっぱり意味のわからないことを独りごちて、キャロルは腕組みする。
「まぁいいわ。まずは、質問に答えるのが礼儀よね。あたしと静の関係が知りたいんでしょ──ねぇ、橙一?」
 幼く見えるのに、やけに艶然とキャロルは微笑む。
 橙一は、どきりとする。昨日、初めて遭遇してから──橙一はこのキャロルという奇妙な少女に魅入られてしまっている。目が逸らせない、ずっと見ていたい。心を、鷲掴みにされている。まさか一目惚れでも、ないのだろうけど。
 そこまで、純情ではない。そのはずだけど、自分の心に渦巻き始めた感情の正体がわからなくて、橙一は気の利いた返事もできない。
 静と、キャロル。無関係とは思えない、ここで恋人だとか告げられてしまったらどうしたらいいのだろうか……。自分がどういう反応を示すのかわからなくて、やはり戸惑う。傷つくのか、困惑するのか、やきもちを妬いてしまうのか。
 まごついている橙一を楽しそうに眺めつつ、キャロルはあっさりと告げてくる。
「そうね。この表現で伝わるかはわからないけど、あたしと静は同一人物よ」
「えっと──」
 まったく意味がわからずに、橙一はまじまじとキャロルを見た。
「同一人物って……。つまり、おまえは時任なのか?」
「そうよ。静でもある、という感じだけど」
 うまく諒解できずに、橙一はキャロルを上から下まで眺めてしまった。同一人物ということは──このキャロルという人物は、静の女装した姿だったりするのだろうか?
 たしかに静とはしばらく疎遠だったし、彼が今現在、そういう趣味に目覚めていたとしても橙一が知るよしもない。しかし化粧や、女装だけで、こうまで変わるものだろうか。
 現在の静の姿も、橙一は昨日──ちらりと見ている。だがどう考えても、目の前にいるキャロルとは体格がちがう気がする。橙一が知らないだけで、そういう技術があったりするのだろうか。整形や、お化粧といった技術の進歩は目覚ましいと聞くし。
 だとしたら。橙一は仮にも一時期は家族のように近しかった男友達を見て、どぎまぎしていたことになる。それは何だか悔しい、というか身悶えするような事実だった。
 思わず、キャロルの胸元の膨らみを凝視してしまう。視線に気づいて、キャロルは恥じらうように、そっと両手でそこを覆った。
「んもう、変な勘違いをしているようね。橙一、悪い子ね……。ううん、あなたたちにとっては不可解な事象なのでしょうね。理解できないのも、仕方のないことだわ」
 慌てて目を逸らした橙一に、キャロルはちいさな子供にするように丁寧に語った。
「喩え話をしたほうが、伝わりやすそうね」
 キャロルはすこし考えてから、自分のものと橙一のもの、ふたつの湯飲みを目の前に引き寄せる。
「ちょっと語弊があるかもしれないけれど、理解しやすいかたちで説明するわ。そうね──あなたたちの暮らしているこの世界とは異なる、別の時空に存在する、もうひとつの異世界があるの。あたしは、そこの住民ってところね」
 キャロルは、ふたつの湯飲みを並べている。同じ種類の安物だ、ぱっと見ただけではどちらの湯飲みが橙一のものか、もう区別がつかない。
「通常では、ふたつの世界には接点がない。まったく異なる次元に、文脈に、物語のなかに存在しているわ。けれど、これはあたしにも理由がわからないのだけど……。このふたつの世界の接点に、穴のようなものがあいて、互いにちょっぴり入り交じり始めてるのよ」
 例示するみたいに、キャロルが湯飲みのひとつを傾けて、なかみをすこしダイニングテーブルに垂らした。
 垂れたお茶の雫を指先で拭って、もうひとつの湯飲みのなかに入れる。
「こんな感じにね。まだ、この事実に気づいているものはすくないと思うわ。昨日、あたしたちを襲撃してきたあのおかしな格好をした女の子とかは──何やら訳知り顔だったけど。あたしにも、ふたつの世界が入り交じり始めた理由はわからないのよ」
 おかしな格好の女の子、というのは……。高速道路で爆弾めいたものを炸裂させ──危うく橙一たちの命を奪いかけた、あの正体不明の褐色の肌をした人物だろう。
 高速道路は大破し、いくつもの車が玉突き事故などを起こしていた。怪我人などもでただろうに、あまりニュースになっていない。情報が隠蔽されている──それを可能とする、政府とかの人間なのだろうか。公権力、あるいは巨大な組織の一員だったのか。
 平凡な高校生でしかない橙一には、推測することもできないけど。
「あたしはね、あたしの世界に退屈しきってたの。何も変化がなくって──刺激がなくて、面白くなくってね。いつまでも昨日と変わらない今日がつづくだけの、あの世界にね。だからこそ、あなたたちの世界に憧れたの」
 キャロルは湯飲みを傾けて、お茶をすこしだけ口に含んだ。
「だから、あたしはこの状況を歓迎しているのよ。あたしの世界にはなかった輝きが、刺激が、音楽が──この世界には充満している。すべてが真新しくって、興味ぶかくて楽しいわ。幸せよ……。いつまでもお邪魔しても、あなたたちには迷惑だろうけど」
 くちびるを湿らせて、饒舌に語る。
「最初のうちは、我慢していたのよ。あなたたちの世界と繋がった、世界の接点に穿たれた穴から漏れ聞こえてくる音楽を、ただ聞いているだけだった。それだけで、満足できていたの。あたしはね──あなたたちの世界の歌が、音楽がだぁい好き♪」
 夢見るように手のひらをあわせ、指を絡めて、キャロルは陶然とする。
「けれどね、橙一。不幸なことに、静はそうではなかったの。ふたつの世界の接点たる穴はね、静の耳にあいているのだけど……。静は、それを躍起になって塞ごうとしたわ。あたしが何を言っても聞く耳をもたずに、無視して、拒絶していたの」
 心底、腹が立つのだろう、キャロルは子供っぽく頬を膨らませた。
「まぁ仕方ないけどね、未知を恐れるのは当然だわ。それにしたって、臆病すぎるけど。静はほんとうに、橙一を見習わせたいぐらい、臆病で繊細な子なのよね」
 何だか、出来の悪い息子について語っているみたいだ。

刈谷橙一/7

「けれど。静の意志とは無関係に、彼は事態の中心にいるの」
 キャロルはすこしだけ口調を深刻にして、心配そうに語りつづける。
「ふたつの世界の接点たる穴が、どのぐらいの数、存在するのかはわからないけれど……。そのうちのひとつは確実に、あの子の耳にあいている。あたしの耳にもね、そこであたしたちは繋がってるの」
 長く麗しい髪を、キャロルはかきあげる。穴、というが橙一には確認できなかった。
 ふつうの、耳である。異世界の住民というなら、耳が尖っていたりするのかなと──すこし思ったけれど。外見的には、キャロルはごく普通の人間だ。もちろん衣装などは変なのだが、肉体的には、おおきく人間と異なっているわけではない。
 昨日、わずかに見た彼女の血液も、橙一たちと同じように紅かった。
「静はまだ眠ってるみたいね、寝息が聞こえるわ。あんまり喧しくお喋りしてると、起こしちゃうかしら。あの子は、うるさいのが嫌いみたいだし──ゆっくり休ませてあげたいけど」
 ついでのように耳を澄ませる仕草をしてから、キャロルは髪を元通りに垂らして、指先で撫でる。猫が毛繕いをするみたいに、口元を擦り寄せたりしている。
「どういう理屈なのかは不明だけど、この穴のせいかしらね……。あたしと静は、たまに入れ替わるの。そういう表現で、伝わるかしら。何がスイッチになるかはわからないけど、あたしと静の立ち位置が、逆になってしまうみたいね」
 キャロルが目の前の湯飲みを動かして、位置を入れ替える。
「こういう感じにね。あたしも昨日──あなたたちの認識する昨日よ、昨日が初めてだったから驚いているのだけど」
 うまく説明できなくてもどかしいのか、キャロルはむっつりと顔をしかめる。
「どうも、ひとつの世界にはひとりずつしか存在できないみたい。あたしが向こうにいるときは、静はこちらにいる。静が向こうにいるときは、あたしはこちらにいる。同時にふたりが、ひとつの世界には存在できないみたい。永遠に、すれちがいね」
 声ぐらいは届くけど、とキャロルは寂しそうに言い添える。
「あたし、あの子の顔すら見たことがないのよ。もちろん知識はあるわ、写真っていうのかしら……そういうのが記憶にあるから。でも実際に見ることも、抱きしめあうこともできないのよ。これって悲劇だと思うでしょ、橙一。あたしと静は、同じなのに」
「同じ、ってのは何なんだよ。ここまでの話、まだあんまり整理できてないけど……。丸呑みで信じるとしても、そこがわかんねぇよ」
 橙一はできるだけ真摯に、問うた。キャロルが嘘をついていないことは、何となくわかるのだけれど。どうも当事者のわりに──彼女は、あまり自分の立ち位置について理解しているわけではないらしい。その説明は感覚的で、把握しにくい。
 異世界だの何だのというのは、橙一のそれなりに平凡な日常にはあってはならない単語ではある。昨日、摩訶不思議な出来事に巻きこまれたばかりなので、頭ごなしに嘘や冗談だと否定もできないけれど。
 確実に何かおかしな事態が発生していて、橙一たちはその渦中にいる。
「信じてくれるのね、橙一」
 キャロルは嬉しそうに微笑むと、湯飲みをまた傾ける。どっちの湯飲みだか区別せずに飲んでいるようで、間接キスではなかろうかと──橙一はむやみに緊張する。
 キャロルはそのへん無頓着のようで、喉を鳴らしてたくさん飲んでいた。
「そうね……。この世界にある肉体は、静のものよ。これね、この肉体」
 己の身体をそっと撫でて、キャロルは説明を再開する。
「その脳みそに、静の記憶が、経験が蓄積されている。それを、あたしは閲覧できるわ。自分のことのようにね、知ることができるの。もちろん、静とあたしは肉体を共有しているけど他人でもあるから……。あくまでも他人の知識よ、本を読むみたいなものね」
 うまく伝わらなくて歯がゆいようだが、キャロルはせめて言葉を尽くしてくれている。
「操縦者──肉体を動かす主体にあわせて、肉体は変化するみたい。今はあたしが動かしてるから、あたしの見た目になってるわ。でも基本的には静の肉体よ、こっちの世界にあるのはね。あたしが元の世界に戻れば、この肉体も静の姿に戻るわ」

「じゃあ、さっさと帰ってくれませんかね」

 台所で料理をしていた蒼衣が、冷え冷えとした声とともに姿を見せた。ジャムを塗った食パンとベーコンエッグが並んだお皿を、両手に抱えている。それを、てきぱきと橙一とキャロルの前に置き、いちど台所に戻って──自分のぶんをもってくる。
「橙一、お茶をいれてください」
 兄に気軽に命じて、蒼衣も着席する。
 台所とダイニングは、仕切りもなく繋がっている。声は──キャロルの説明は届いていたのだろう、蒼衣はすんなり会話に参加してきた。
「なまなかには信じがたい話ですね、事実だとしたら大変ですが。おにいさんの肉体を、わけのわからない、異世界からきた寄生虫が乗っ取って動かしているなんてね……。由々しき事態です、あぁ気色の悪い」
「寄生虫とはご挨拶ね、蒼衣。その表現で理解しやすいなら、それでいいけど」
 キャロルは機嫌を損ねることもなく、目の前に置かれた料理を好奇心に輝く瞳で眺めている。作法がわからなかったのか、まだ手はつけていない。
「いただきます」
 橙一が目の前にお茶をいれた湯飲みを置くと、蒼衣はかるく会釈して、礼儀正しく食パンをかじり始める。それを真似たのだろう、いただきます、と囁いてキャロルも食べ始める。
「あなた、当たり前のように食べますね。感謝の言葉も、ないのですか?」
 同じ動きをされるのが不快なのか何なのか、蒼衣は険悪な態度で吐き捨てる。
「おにいさんを、わけのわからない奇っ怪な事態に巻きこんで……。迷惑な話ですよ、まったく。お客さまあつかいされるとは、思わないでほしいところですね」
「おい、蒼衣」
 あまりにも刺々しい態度だったので、橙一は思わず注意を飛ばす。蒼衣は、基本的には外面が良いはずなのだが……。キャロルに対しては、なぜか最初から喧嘩腰だ。
 警戒に満ちた眼差しで、蒼衣はキャロルを睨みつけている。
「いいのよ、橙一。蒼衣の言うとおりだもの、ここは静の世界だわ。これは静の肉体だわ、あたしは不躾にも土足であがりこんだ闖入者だわ──自覚しているわよ」
 度量が広いのかあまり何も気にしない性格なのか、キャロルは平然としている。
 食パンをかじり、これも蒼衣の真似をしてフォークを動かしていた。ベーコンエッグを丁寧に切り分けると、口に運んでいる。

挿絵3

「おいしい! これが『おいしい』ね、素晴らしいじゃない!」
 舌鼓を打っている。生まれて初めて、食事をしたみたいだった。
「蒼衣、ありがとう。とびっきりのご馳走だわ、お礼にあとで演奏を聞かせてあげる。あたしには、それしかできないからね──お礼や謝罪になるかしら?」
「お礼や謝罪がしたいなら、さっさと、おにいさんにその肉体を返してもらいたいところですね。いつまでも、取り憑いていないで」
 蒼衣はやりにくそうにしながらも、キャロルから目を逸らして食事をつづける。
 橙一も慌てて、冷めないうちにいろいろ頬張った。
 蒼衣は実際、料理が上手だ。おいしい。
 むかしは不器用な、ひとりでは何もできないようなやつだったのだが。
 しばし無言で、黙々と食べた。口にものが入っているので、喋れないのだ。誰よりも夢中で素早く、けれどお行儀よく食べ終えたキャロルが、口元を手の甲で拭った。
 そして、またお茶を飲む。残りすくなかったので、橙一が気を利かせて追加で急須からお茶を注いでやった。
「ありがとう」
 きちんとお礼を言うと、キャロルは満ち足りた表情になる。
「ここまでの説明で、何か疑問点があるかしら?」
「疑問点しかない感じですが──まぁ、よろしい」
 食べるのが遅い蒼衣は、ちまちまと、まだ半分以上は残っている食パンをかじっている。不思議と、キャロルにわりと好意的な橙一ですらあんまり納得できていない説明を──蒼衣はすべて、疑わずに受け入れているように見える。
 蒼衣は現実的で、賢明な女の子なのだけど。まるで最初から、キャロルの語った不可思議な事情を知っていたみたいな──みょうな落ち着きがある。
「おにいさんは、ちゃんと戻ってくるのですね? それだけが、重要です。あなたとおにいさんが肉体を共有しているなら、傷つけるのも、外に放りだすのも避けたいところなので……。まぁ当面は、放置してあげますけど」
「そうね。どういう理屈で入れ替わっているのかは、あたしにも判然としないのだけど。本来、この肉体は静のものだもの。静が快復し、目覚めれば、自然とこの肉体に戻ってきて主導権を握るはずよ」
 キャロルは肩をすくめて、蒼衣の刺すような視線を平然と受け流している。
「それまでの束の間、あたしはこの肉体を勝手に動かしているだけ。寝ていてもいいんだけどね──それもまぁ、退屈だし。あちこち見聞したいのよ、何もかも物珍しくって楽しいわ。あんまり無茶はしないから、そう睨まないでね、蒼衣」
 困ったように微笑むと、すっかり慣れた所作でお茶を飲む。
「あたしにとっても、この肉体は大事だわ。傷つけるつもりも、危険のなかに飛びこむつもりもないから。招かれざる客なのも自覚してるわ、大人しくしておくわよ」
「なら、結構。……食べ終えたなら、ごちそうさまぐらい言いなさいね」
「それが作法ね、蒼衣。知っているわ──ごちそうさま、でした♪」
 小姑じみて厳しく言う蒼衣に笑顔で応えて、キャロルは手をあわせる。
 そして機敏に立ちあがると、やっぱり猫みたいに思いっきり背筋をのばして……。
「さてと。朝食は終えたことだし──次は制服に着替えて、学校に行けばいいのよねっ☆」
 ろくでもないことを言い始めた。

アマボンズ/1

「にひひ。いいよねぇ若い子は、いつだって楽しそうでキラキラしちゃってさぁ──」
 のんびり独りごちて、A・B・アマボンズは眠たそうに目元を擦る。
 濃い蜜色の肌。あっかんべのデザインが目立つバンダナ。身体に巻きつけた飾り布。やや冷えこむ季節には寒そうな、露出したお腹や太股。ローラースケートじみて靴裏にいくつも車輪のように鐘が配列された両足を、ぶらぶらと揺らしている。
「大人はつらいね、実際。こちとら徹夜だよ、あんまり面倒をかけるようなことはしないでほしいけど……。それもやっぱり、大人の都合。あぁ世知辛い、大変だなぁ働くのって──生きていくのってさぁ、ねぇ『お姫さま』」
 ドタバタ騒ぎが繰り広げられている、刈谷兄妹の住まい。教会の、礼拝堂の屋根の上である。間近に、シンプルな形状の十字架がある。
 空は、気持ちのいい快晴。
 アマボンズには、教会の横に立つ刈谷兄妹の居住する建物──その屋内での会話が聞こえているのか、うんうんと頷いている。
 盗聴器でも仕掛けているのか、あるいはアマボンズの聴力が常人離れしているのか……。奇妙な少女は、ときおり眉をひそめたり手を打ち鳴らして喜んだり、いちいち会話に反応している。微風に、その焦げ茶色をした短めの髪がそよそよとなびいている。
 アマボンズは『聖楽器』と呼ばれる超越的な物体を蒐集し、研究する秘密組織に所属している。彼女自身も、ふたつの『聖楽器』の使い手である。腰に吊したラッパと、靴裏の鐘だ。この鐘はジェット噴射のような機能をもち、アマボンズは空中でも自在に行動できる。
 それを利用し、教会の屋根の上まで飛翔して腰を落ちつけた。そして刈谷兄妹の自宅を──正確にはそこに混ざりこんだ異物、キャロルを監視している。
「んん。今のところ、平和な雰囲気。個人的には、放置してあげたいけどねぇ。楽しそうだしさぁ、青春ってやつの一欠片でも味わわせてあげたい……。でも、そうもいかないんだろうなぁ。あぁもう、組織の人員不足は深刻だよね」
 不景気を嘆く失業者のように、アマボンズは重々しく溜息をついた。
 どこからか取りだしたオペラグラスで、キャロルたちの様子を窓越しに窺う。まさか、そんなところから誰かが見ているとは思わないのだろう──キャロルたちには視線に気づいている様子はなかった。楽な仕事である、とはいえ油断はできない。
 キャロルたちがどれだけ平和を望もうが、世界は彼女たちを放っておかない。組織も一枚岩ではないし、他にもきな臭い動きをしている連中が山ほどいる。異世界からの客人なんて、前代未聞なのだ。政府どころか、全世界がキャロルの動向に注目している。
「昨日は、下手こいちゃったからなぁ。もう、失敗できないし……。組織も、昨日の高速道路での出来事を揉み消すだけで今は精一杯。ほんと、『お姫さま』も派手に暴れてくれちゃってさぁ? こっちの都合も、ちょびっとぐらいは考えてほしいよねぇ?」
 どこまでが本心かわからぬ、のらりくらりとした口調で。
 アマボンズは楽しそうに独り言を口にしながらも、十字架に背中を預ける。そうしていると、異国の天使みたいだ。
「学校に通いたいとかさぁ──やめてよね、羨ましい。あたしも転校生みたいな感じでさ、潜りこんじゃおうかなぁ……。無理かな。この国の子たちとは肌の色とかがちがうから、目立っちゃうし。でも、たしか学校にはスワシワラちゃんが──」
 そこまで語って、アマボンズは急激に表情を険しくさせる。鋭い目つきで虚空を睨みつけると、こめかみに指を添える。苦痛を堪えるみたいに、唸った。
「ん、んん。スワシワラちゃんが何だって──落ちつけ、やばい。まずいな、これ。スワシワラちゃんの『聖楽器』が干渉してる、あたしは何かを忘れてる。どのぐらい吹き飛ばされた? 一日? もっと? 記憶の整合性がとれてない、いろいろ書き換えられてる……?」
 アマボンズは首を振ると、迅速に立ちあがる。野生児じみた見た目には似合わぬ、近代的な携帯端末を取りだして──組織に連絡をとった。
「はろ~、はろ~……波浪警報♪ こちらアマボンズ、組織から脱走したスワシワラの現状を教えて。あの子、けっこう無茶やらかしてるかも。ここまで、がっつり絡んでくるとはなぁ……。できるだけ関わりたくないんだけどねぇ、あの子の『聖楽器』は強力すぎるんだもん」
 忙しなく指を動かし、組織とやりとりしながらも、アマボンズは歯噛みする。
「一筋縄ではいかないねぇ──まぁ、いつものことだけど。そういう人生を選んじゃったし、あたしはアマボンズちゃんだからねぇ……?」
 バンダナに刻まれているのと同じ、あっかんべの表情をつくると。
 全世界に対して宣戦布告するみたいに──胸を張って、アマボンズは言い放った。
「でもま。あたしも、あたしなりに人生ってやつを満喫させてもらうから」
 祈るように。
 ひたすら平和で賑やかな、輝かしい朝の風景のなかで。

PESANTE  曲/かめりあ
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