刈谷蒼衣/1

 おにいさんの寝顔が宇宙一かわいいので、今日のわたしは有頂天♪
「おにいさん」
 かりあおは実の兄には決して見せないだらしなく弛緩した笑顔で、浮き浮きと小躍りしながら、馬手にフライパン弓手にお玉を構えたエプロン姿で入室する。
 刈谷兄妹が住み処にしている教会の、居住区。その天辺にある、昨日までは空き部屋だった天井裏である。もともと物置だったのに無理やり荷物を余所へ移動させ、粗末な木組みのベッドや布団などを運びこんだだけなので、殺風景。
 ステンドグラスによって七色に変換された朝陽が、ゆるやかに差しこんでいる。
 女子高生としてはそれなりに発育がいいとはいえ、さほど大柄でもない蒼衣でも身を屈めなければ頭をぶつけてしまいそうに天井が低い。嫌な音をたてて軋む床を一歩一歩、跳ねるようにして移動すると、蒼衣はベッドで身を丸めて眠るときとういずみを覗きこんだ。
「おにいさあん、朝ですよ──」
 蒼衣の髪が垂れて眠る静の頬を撫でるほど、大胆に顔を近づけて。
 幸福感に打ち震えた。あぁ、まるで幸せな夢そのもの。
 恍惚としながら、指先で撫でながら、蒼衣は静の寝顔を愛おしく眺める。
 静は蒼衣の兄の橙一に比べてずいぶん筋肉もなく繊細そうな細面で、悪夢にでも魘されているのか、気難しい芸術家のようにむっつりと顔をしかめている。橙一が貸した男性用パジャマを身にまとっており、サイズがあわずにだぶだぶで、たいへん愛らしい。
 耳を隠すようにして伸ばされた髪の毛の隙間から、てこでも外そうとしなかった左右色ちがいのヘッドフォンが覗いている。つけたままなので、さすがに寝苦しいようだ。蒼衣が見ているうちにも数回、寝返りを打ち、不明瞭な寝言を漏らしている。
 寒さに凍えるみたいに身を丸めて、か細く震えている。
 あぁ、抱きしめてあげたい。
 蒼衣は当たり前のように寝床に腰掛け、いそいそと布団をめくって同衾しようとしたが──そこで、ふと顔をあげて忌々しく舌打ちした。
とういち
 ステンドグラスの下部についている、通気のために設けられたちいさな物見窓の向こう──教会の庭で、兄の橙一がバイクに跨がっている。
 季節の花が慎ましく咲く平和な光景に不似合いな、無骨なシルエットの二輪車である。昨日──高速道路や静の古アパートを大破させた騒動のなかで、蒼衣が橙一に与えた代物だ。
 非現実的な、肝心な機能がついていないように見える、空想上の乗り物めいた造形デザイン。巨大で、どこか禍々しい、冒涜的なマシンである。
 橙一は気にせずそのバイクに跨がり、庭をぐるぐる耕すようにして乗り回し、ときどき何かを確かめるみたいに車体を撫でている。どうも、走行の練習をしているのか。
 兄は、むかしから乗り物が好きだ。あのバイクも気に入って、わざわざ大事故の現場となった高速道路まで取りに戻り、自宅である教会まで引きずって帰ってきた。
 馬鹿なことをする。蒼衣はそう思う、あんなバイクはいくらでもつくれるのに。
 耳障りな排気音、エンジン音に眉をひそめて──蒼衣は、窓から顔をだすと文句を言う。
「うるさいですよ、橙一」
 こちらに気づいた橙一が元気よく手をふるのを、無視するように淡々と告げる。
「存在じたいが不快なあなたに何を言っても無駄かもしれませんが、おにいさんが寝ているのですから気を遣ってもっと静かにしなさいよ……。わたしとおにいさんの平和な朝のいちゃいちゃタイムを邪魔するならば、頸動脈を噛みちぎってやりますよ」
「何? ぶつぶつ言うなよ、聞こえねぇよ!」
 たしょう距離があるのと、バイクのたてる騒音のため声が届かないようだ。
 橙一は耳元に手を添えてから、上機嫌に笑った。
「こいつにも、だいぶ慣れてきたからな……。今日は俺、このバイクで登校するわ。もうちょい走って慣らしておきたいから、遠回りして町内一周してくるつもり。だから先に行っちまうけど、時任の世話はよろしくな~?」
「どうぞどうぞ。お好きになさってください、橙一がいても何の役にも立ちませんからね。まったくもう、新しい玩具を与えられた子供じゃあるまいし」
「だから、そっちの声が聞こえねぇんだけど……。何かあったら電話しろよ、あと俺がいないからって時任に変なことすんなよ。そんじゃな、ひゃっほう~☆」
 橙一は一方的に告げると、教会の敷地外へ向けてバイクを発進させる。早朝である、町の大通りは人気がなく、走っている車もすくない。昨日、あんなに奇妙な大惨事が起きたとは思えぬ呑気な風景のなかを、バイクに乗った兄が進んでいく。
 あっという間に、見えなくなった。
 あのバイクは、エンストも起こさずに急発進・急加速ができる。橙一はすっかり気に入ってしまったらしく、静の世話も何もせずにずっと昨夜からバイクに触っていた。
 たんじゅんにバイクいじりが好きなのか、他に理由でもあるのか──。
「まぁ……。どうでもいいですけど、橙一のことなんて」
 冷たい態度とは裏腹に、しばし橙一の去っていったほうを寂しげに眺めてから、蒼衣は髪とエプロンを華麗に舞わせて振り返る。
 すると近くで声などをあげて騒いでいたせいか、いつの間にか静が目覚めていた。
「えっ、と……?」
 彼は身を起こし、状況が理解できないのか、泡を食った様子で周囲を眺めて──。
「おはようございます、おにいさん♪」
 とびっきりの笑顔で挨拶してみた蒼衣に気づくと、蒼衣としてはこれ以上なく心外なことに、怪物にでも遭遇したかのような絹を劈く悲鳴をあげた。

時任静/1

 僕はもう駄目かもしれない。
 頭のなかでいつもの音節フレーズを何度も何度も繰り返しながら、冷や汗をかきながら、静は蒼衣とふたりで仲睦まじいカップルのように歩いている。
 刈谷蒼衣は、私立しな高校のスーパースターだ。眉目秀麗。文武両道。まだ一年生ながら生徒会長を務めており、毎朝のように彼女の下駄箱は無謀な男どもからの恋文で溢れかえる。
 わりと薄暗い青春を送っている、というか最近は例の奇妙な声のために不登校ぎみだった静にとって……。そんないつでも注目の的になるお姫さまのような少女と並んで歩くだけで、肝が冷える。忠実な鞄持ちのように、蒼衣のすこし後ろを、のろのろと進んだ。
「おにいさん?」
 気づいて、蒼衣が嬉しそうに寄り添ってくると、あろうことか手を握ってきた。
 それどころか、蒼衣は静の指に愛おしげに己のそれを絡めて、自らの頬に静の手のひらを押し当てる。はぁ、と吐息を漏らし、蒼衣は恍惚としてさえいた。
 何だこの子は、怖い。たしかに幼いころから、甘えん坊ではあったけれど……。静は登校中の生徒たちから注がれる視線と、たしょう含まれている男たちからの殺意に、怯む。
 注目されず、薄暗いところでひっそりと、物言わぬ貝のように生きてきたのに。
「あぁ、聞こえていないのですね……。ヘッドフォン、外してくれませんか?」
 顔を覗きこまれ、静はあうあうと不明瞭に声をあげる。身を固くして、通学鞄を抱き寄せた。この鞄や、多少の生活用品は、昨夜のうちに橙一が倒壊した静のアパートを探索して見つけてきてくれたらしい。
 制服は場当たり的に、橙一が自分のものを貸してくれた。彼自身は見た目に頓着しないのか、ジャージ姿で登校したようだ。まだ、そのへんのお礼も言っていない。
 まったく、経緯がわからぬまま……。静は彼女の、というか刈谷兄妹の自宅で寝泊まりさせてもらっていた。そのまま蒼衣は静を着替えさせ、あったかくておいしい食事を振る舞ってくれたり、朝の仕度をすべて整えたうえで並んで登校させたのだ。
 静は疑問を差し挟む余裕もないまま、流されるまま蒼衣に従うしかなかった。
 元来、静は従順で、押しに弱いである。
 何でここまで、ずいぶん疎遠だった幼なじみに刈谷兄妹が親身に接してくれるのか──理由がわからなくて、気味が悪い。昨日、何か普通ではない出来事があったようなのだが。
 静はほとんど、覚えていない。まるで静以外の誰かが、静の身体を勝手に乗っ取って行動して、そのために自分の人生が奇妙な流れに切り替わったみたいだ。
 昨日のことで、ぼんやりと覚えているのは……。自宅に引きこもり、頭に鳴り響く奇妙な声を無視していたあと、意識が飛んで。なぜか、病院の中庭で目覚め、すぐそばで失神していた刈谷兄妹をどうにかお医者さんに預けたところまで。
 なぜか疲労困憊していて、その後──静は泥のように眠ったのだ。
 そして目覚めたら、刈谷兄妹の自宅である教会の、寝床だった。人生が、記憶が途切れ途切れのブツ切りで、わけがわからない。ほんとうに、頭が変になってしまったのか。
「蒼衣ちゃん」
 むかしと同じ呼びかたでいいものか迷ったが、とりあえず声をかけてみた。
「いったい、何がどうなってるの……。僕、さっぱり状況がわからないんだけど」
「はい、でしょうね。けれど安心してください、わたしがおにいさんを守ります」
「あの。どうして、『おにいさん』って呼ぶの……?」
 幼いころ、仲良く一緒に遊んでいたころは『静さん』だったような。まるで別人のように美しく成長した幼なじみを、静はついじろじろと観察してしまった。
 ずいぶん、背がのびた。高校生になったのだ。五年前、静と蒼衣が巻きこまれた誘拐事件からは何となく気が咎めて、会うこともなくなり、縁遠くなっていたのだが──。
 どうして今ごろになって、こんなに関わってくるのだろうか。
 気の利いた返事もできないまま、すっかり冬枯れした並木道を通って私立信乃芽高校の正門を通過する。ごく平凡な外観の校舎が並んでおり、グラウンドは広くも狭くもない。
 平和な、朝の風景。姦しくお喋りする生徒たちの群れ。朝練をしている運動部たちの掛け声。校舎の窓で揺れる、クリーム色のカーテン。屋上でくるくる回転する、発電風車。
「詳しくは、わたしの知るかぎりのことは、ここに書き留めておきました。授業の休み時間などに、ご確認ください」
 蒼衣は愛らしい、女の子らしい封筒を取りだしてそっと静に押しつけてくる。用意周到だ、むかしはどこか抜けたところのある子だったのに。
「もう始業のベルが鳴ってしまいます、まずは教室に向かいましょう。お昼休みにでも会いにきますので、また後ほど……。では失礼しますね、おにいさん」
 過剰なぐらいおおきく頭をさげてから、蒼衣は一年生の下駄箱へと向かってしまった。すぐに彼女は有象無象の生徒たちに取り囲まれ、近づけなくなる。人気者なのだ。
 迂闊にもこんな公衆の面前で男に、異性に手紙のようなものを渡したのだ、すわ告白かと色めき立った他の連中に蒼衣は質問責めにされている。朗らかに、優雅に、蒼衣はひとりひとりに柔和な笑みを浮かべながら対応し、追求をかわしていた。
 蒼衣とひとつ屋根の下で眠った、どころか手料理まで振る舞われてしまったことを知られたら、彼女のファン(?)に嬲り殺しにされるかもしれない。
 変わり果てた幼なじみの後ろ姿を、ぼんやり眺めて……。
 静は溜息をつくと、頭をがしがしと掻いた。
 よく考えてみれば、二週間ぶりの登校だ。どうしよう、教室に顔をだしづらい。済し崩し的に登校させられたが、このままUターンして帰ってしまいたいぐらいだ。
「でも帰るって、どこに……?」
 それとなく聞いた話によると、静の住居だった古アパートは完全に瓦礫の山と化してしまったらしい。どういうことなのか意味がわからないが、もう帰る場所などないのだ。
 刈谷兄妹は、行き場のない静を保護して、自宅に泊めてくれたようだが……。むかし仲がよかったというだけの幼なじみに、これ以上の迷惑をかけるのも心苦しい。
 教会に戻るわけにもいかず、教室には行きづらく、静は立ち尽くす。
「……うん?」
 仕方なく、とりあえず自分のクラスの下駄箱に向かう途中で、静はなぜか地べたに座りこんでいる女生徒を見つけた。
 気分が悪いのか、立ちくらみでもして動けないのか。
 女子にしては、かなり大柄だ。なのに不健康に痩せているので、ひょろひょろとした針金のようである。髪は短めだがなぜか一房だけ切らずに伸ばしっぱなしにしていて、それをもっと他に何かなかったのかという髪留め──腕時計で、ぞんざいに結わえている。
 こちらに背を向けているので、顔はよく見えない。
 だが彼女はしきりに、大事そうに握りしめたスマホの表面を、忙しなく指先で撫でていた。あまり関わりたくない感じだが、どうにも無視できない。何かが、引っかかる。
「あのう、大丈夫ですか?」
 恐る恐る、静は彼女に歩み寄って声をかけてみた。
 女生徒はしばし無反応だったが、やがて自分が声をかけられたのだと察したのか「びくう!」と電撃でも食らったかのように反応し、こちらを見上げてくる。
 前髪が長くて、やはり表情は判然としない。くちびるが、不安げに戦慄いている。
「あっ、と、時任くっ……。ひ、久しぶり、です。学校、きて、きたんですね?」
 どもりながら、でもたしかに静の名前を呼んだ。
 知りあい、ではないと思うが……。そういえば、どことなく見覚えがある。クラスメイトだったかもしれない、あまり登校していない静にはちょっと判然としないが。
 当惑していると、彼女はおおきな図体に似合わぬ小動物めいた態度で、身を揺する。
「あの、えっと。あぁ、だから……。どうしよう、どうしたらいいのかな」
 ぶつぶつ言いながら、意を決したように彼女は立ちあがる。
 静は男子としては平均的な背丈だが、ちょっと見上げるほどに彼女は長身だ。おどおどした態度なので、あまり威圧感はないが。それでも多少はギョッとしてしまった。
 この気弱そうな少女は、どこか非人間的なのだ。
「あの、こういうこと言うの、よくないんだけど、ですけどね……。に、にに、逃げたほうがいいのかなって。わ、わたしがこんなこと言ったなんてドグモには言わないで」
 不明瞭な口調で、意味のわからないことを言うと──。
「あう、ごめんなさい。ごめんなさい、いきなりこんなこと言ってもわかんないよね、きもいですね……。わた、わたし、スワシワラっていいます」
 それは名前なのだろうか、どこの国の人間なのかもわからぬ不思議な名称を口にすると──スワシワラ、と名乗った彼女は怯えた目つきで周囲を眺める。
「逃げて。ドグモが、お姫さまを狙ってる」
 その瞬間、思わず足が宙に浮くほどの衝撃が走った。
 竪琴の音色とともに、私立信乃芽高校の昇降口に巨大な何かが突っこんで、ぼんやり突っ立っていた静の周囲をめちゃくちゃに粉砕した。

刈谷蒼衣/2

 ご機嫌すぎて、鼻血がでそうだ。
 だって、おにいさんと一緒に登校できた。短いながらも会話ができた、蒼衣ちゃんなんて呼ばれてしまった……。あぁ幸せ、と蒼衣は狂喜乱舞する内心をいつもの優等生然とした微笑で覆いながらも、喜びを隠しきれずに浮き浮きと小躍りするように歩いた。
 すぐに辿りつく、見慣れた蒼衣のクラス── 一年C組の教室。
 周りで姦しくお喋りしている取り巻きたちに上の空でお返事をしながらも、蒼衣は引き戸に指をかけ──ふと、違和感をおぼえた。
「……ふむ?」
 戸惑いの吐息を漏らし、蒼衣は笑みで固定した表情の裏で思案する。
 教室のなかが、どうも騒がしい。いつも授業が始まる前のこの時間帯は学校ぜんたいが賑やかなものだが、それにしたって度が過ぎている。私立信乃芽高校は比較的おとなしめな校風だし、とくに成績優秀な進学志望者が集められたC組は真面目な気風だ。
 なのに今日は、何だろうか──まるでお祭り騒ぎだ。
「おはようございます」
 不審に思いながらも、蒼衣はそろりと引き戸を開いた。
 清潔で、お上品な雰囲気の教室。都市開発とともに建てられた私立信乃芽高校は新設校で、校舎も備品も何もかも真新しい。窓から差しこむ朝陽で、光り輝いている。
 そんな教室の片隅に、ひとだかりができている。
 騒がしさの中心はそこだ。蒼衣は眉をひそめ、そっと歩み寄りながら呼びかける。
「失礼。何の騒ぎでしょう?」
 丁寧に問うと、蒼衣の声に魔術的な効果があったみたいに──人垣が崩れ、慌てて生徒たちが横にどいた。その奥まで、見渡せる。
 聖者の奇跡みたいに。そのぐらい刈谷蒼衣の私立信乃芽高校における権力は、発言力はおおきい。誰もが蒼衣を愛し、傅き、従う。そのように仕向けるため、蒼衣も努力は怠らなかった。この学び舎は、蒼衣という姫君を飾り立てる豪華絢爛な王城である。
「やっほ」
 窓際の席、人混みに取り囲まれた座席に──不思議な女の子が座っている。
 どう考えても高校生には見えない、未発達な幼気とすらいえる肢体。だが、私立信乃芽高校の女子制服を身にまとっている。
 椅子になぜか胡座をかいて、彼女はだらしない感じに笑っていた。
「遅かったね。ちょっと待ちくたびれちゃったよ──どもども、おはようさん♪」
 一方的に語るその少女を一目見た瞬間、蒼衣は思わず後ずさってしまった。
 見覚えのある、というか忘れがたい人物だったのだ。
 特徴的な、あっかんべが描かれたバンダナ。異国風な、濃い蜜色の肌。幼い風貌に似合わぬ、どこか老獪な猫みたいな目つき。胡座をかいた足の裏にはいくつもの奇妙な形状をした鐘が接続されていて、ローラースケートのように見える。
 それは昨日、わけのわからぬ高速道路での騒動の最中に姿を見せた──不可解な存在。正体不明の少女は気さくに笑いながら、季節外れのアイスバーを口にくわえる。
「あなたは──」
 蒼衣は警戒し、後ずさった。彼女は昨日、どういう理屈なのかはわからぬが謎の爆発を発生させ、危うく蒼衣たちを消し飛ばしかけたのだ。
 とても友好的な態度はとれずに、蒼衣はじりじりと後退しながら少女を睨む。
「……何者ですか?」
「んっと。ざっくばらんに言うと、転校生ってやつ?」
 転校生?
 そんな話は、聞いていないが……?
 教室がやけに騒がしかったのは、この奇妙な転校生(?)が原因らしい。
「仲良くしてね。これから、クラスメイトになるんだし」
 少女は蒼衣の険悪な態度もどこ吹く風で気にせずに、ゆっくり教室の床に足をつけた。そして浮遊するみたいなふわふわした歩調で、こちらを注目する生徒たちの人垣を抜けて黒板の前まで移動。あまりにも素早くて、蒼衣は一瞬だけ彼女を見失ったぐらいだ。
「まずは、自己紹介しとこっか?」
 くるりと回転し、少女は黒板にチョークを叩きつけるようにして文字を記した。
【ABA】
 無駄におおきくアルファベットをみっつ並べて、少女はお日さまみたいに笑った。
「どうもどうも、初めまして──でもないのかな、今後ともよろしく? あたしの名前はアサルト・ボーン・アマボンズ、まぁアマちゃんとかてきとうに呼んでね~?」
 名前というより何かの化学記号みたいな単語の並びを口にして、アマボンズと名乗った少女はチョークの粉が付いた両手を「ぱっ、ぱっ」とスカートに擦りつけた。
「そういう渾名とかさぁ……。青春っぽいのさぁ、ちょっと憧れてたんだぁ♪」
 一方的に名乗られて反応できない蒼衣に、またアマボンズは浮遊するように、というか不自然に滑るようにして近づいてくる。
 彼女は足もほとんど動かしていないのに、一瞬で懐深くまで飛びこんでこられた。
「刈谷蒼衣ちゃん、だっけ?」
 こちらの名前を口にして、ほぼ密着している至近距離で──。
「ちょっと話があるから、付きあってよ。愛の告白とかじゃないから大丈夫~、そんなに警戒しないでね?」
 片目を瞑ってバンダナと同じあっかんべの表情をつくると、アマボンズは蒼衣の手のひらをぎゅっと握って、教室の外を顎で促した。

時任静/2

 静は、死を覚悟していた。
 左右色ちがいの防音対策を施したヘッドフォンすら貫通する荒れ狂う爆音のなか、青ざめて、雨の日に捨てられた子猫のように震えている。
「──僕はもう、駄目かもしれない」
「あぁ? 駄目なわけがあるかっ、いいから余計な口を叩かずにしっかり掴まってろよ!」
 いつもの弱音を吐いた静に応えたのは、こちらはむしろ大事な我が子を守る親猫のような形相の橙一だ。逞しい両腕で異様な形状のバイク──のようなもののハンドルをしっかり操作し、片足を前方に突きだして目の前の壁を蹴り、無理やり方向転換。
 減速せずに、私立信乃芽高校の廊下をバイクで疾走している。
 分厚い車体は小綺麗な学び舎のなかには収まりきらず、壁やあちこちに配置されたロッカー、無精な誰かが置き去りにした空き缶や紙パックを蹴散らしながら駆け抜けている。その衝撃で校舎のすべてがびりびりと震撼し、古ぼけた蛍光灯が落下して火花をあげながら派手に砕けた。
 悲鳴すらあげられずに、静はひたすら振り落とされぬように橙一の背中にしっかりと抱きついている。久方ぶりに触れる、幼なじみの体躯。むかしよりずいぶん背が伸びたし、鍛えられている──ひ弱な静とはおおちがいだ。
「あのう、橙一くん」
 恐る恐る、静は橙一の背中に顔面を押しつけるようにして密着しながら問うた。
「ど、どうして、どういう──」
 状況が、さっぱり理解できない。
「何なの、いったい……?」
 先ほど、橙一はこの奇妙なバイクで下駄箱に突っこんできた。昇降口の硝子扉を粉砕し、無数の靴を舞い踊らせ、まるでB級アクション映画みたいに。
 そんな彼に首根っこを引っ掴まれ、無理やりバイクの後ろに座らされ──そこからノンストップで、校内を縦横無尽に駆け回るこの荒々しいツーリングに同伴させられている。
 平凡な学校のなかを、バイクで駆け回る。非常識にも程がある、ぜんぜん理解が追いつかない。橙一はたしかにすこし昔に比べて不良っぽくなったが、ここまで一般的な良識を度外視した行為をするひとだっただろうか。
 もちろん、静としてはこんな危険な状況に相乗りする義務はないのだが。バイクは不自然なほどの加速をつづけていて、今から飛び降りても床に叩きつけられて大怪我する。
 なので仕方なく、かつての親友に必死な思いで抱きついているしかない。
「さすがにちょっと、学校んなかを走るのは無茶だったか!?」
 バイクの猛烈な排気音が響いているため、静の弱々しい問いなど聞こえていないのか──聞くつもりがないのか、橙一は構わず運転している。
 たいした運転技術だ。壁に激突することもなく、転倒することもなく入り組んだ校内を走りつづけている。だが限界はある、騒ぎに気づいてあちこちの教室から生徒や教師が顔を覗かせ始めたのだ──それを避けようとして、橙一はおおきくハンドルを切った。
「うおっと!?」
 橙一が舌打ちし、校舎の壁に正面からぶつかりそうになったのを間一髪でおおきく身体を傾け、バイクを急制動させて回避。
 だが勢いを殺しきれずに、バイクの車体が廊下の窓を擦る。
 硝子片が乱舞し、そのままバイクは屋外に飛びだしていく。
 衝撃で、無数の花びらが舞い上がる。昼休みにはお弁当を食べる生徒たちで賑わう、中庭である。等間隔に配置された花壇と、今は明かりが消えている水銀灯。平和な光景のなかを、黒塗りの禍々しいバイクが横滑りしていく。
 地面をおおきく蹴りつけて、橙一がどうにか転倒を避けた。
 その顎に、たらりと汗が伝う。
「やっべぇ、外にでちまった!?」
 彼が何に対して危機感をおぼえているのか、静には推測もできない。
 バイクは何度かちいさく跳ねて、橙一の制御を離れて慣性と勢いのままに動く。硝子片などで切ったのか、橙一の頬に血の雫が垂れていた。
 それを乱暴に拭い、橙一は太陽を睨みつけるようにして精悍な顔をあげた。
 その視線の先に、何か得体の知れないものが浮遊している。
「待ってましたァ♪」
 独特な抑揚の、まだ声変わりをしていない幼い少年の声が響いた。
「ちょこまか逃げ回ってんじゃねェよ、面倒くせェじゃんよ……。そのバイク、やっぱり移動用の──っていうか乗り物としての『聖楽器』って感じ?」
 ぺちゃくちゃと小鳥のように喋っているのは、声の印象どおりの愛らしいとすらいえる少年だった。まだ小学校低学年ほどだろうか、肉付きのすくない体躯。薄い胸板と、細い手足。月光を固めたような銀色の髪と、兎のような血色の双眸。
 長い鼠色の布をてきとうに全身に巻きつけていて、それを大雑把に金属製の帯でまとめている。異国の民族衣装にも、重罪人の拘束衣にも見えた。
 全体的に薄汚れていて、まるで親に捨てられて路上で暮らす哀れな少年のようだ。
 何もかもを怨んでいるみたいな、嫌な目つきをしている。
 異様な風体の少年は、半月状のベンチ──のようなものに腰掛けている。
 巨大な分度器のような形状の、水銀めいた光沢のある不可思議な物体である。しかも、それは宙に浮遊している。中庭の真上に、どこかから糸で吊り上げられているみたいに。

挿絵2

 静は何となく場違いなことに、酔狂な結婚式の際に見られるゴンドラを想像した。
「まァ、いいんだけど──妨害が入るのは織り込み済みだしよォ? そういう面倒な邪魔者は排除しとけって命じといたスワシワラの馬鹿が何もできない役立たずなのも、想定どおりだしィ? だからね、おれはべつに怒っちゃいないのよ!」
 見た目どおりに子供っぽく、コミュニケーションをとるためというよりも──ただ一方的に、言いたいことだけを言っている感じだ。
「怒っちゃいないけど殺す、殺す理由があるからさァ! お誂え向きに、お姫さまを宿してるっていう何かほらあれだ誰だっけ? 名前? あ~、思いだせないけどさァ!」
 奇妙な物体に無造作に腰掛けた少年は、こちらを居丈高に見下ろしている。
 なぜだろうか──ただ震えているだけの静を、真っ直ぐに。
「とりあえず、ブッ殺す! あれっ、殺しちゃ駄目なんだっけ? あ~、あ~……わっかんねェ! いいよね、あとで謝れば! 『それ』が欲しいのは、おれじゃねェし!」
 なぜか指揮者のように、少年はどこか優雅に両手を振りあげた。
「おれの名前を教えといてやるよ、ドグモっていうんだ! ぎゃはは! 冥土の土産ってやつだ──あっれ、リアクションしろよ! つまんねェな、つまんねェんだよ!」
 子供っぽく地団駄を踏むみたいに、ドグモと名乗った少年は両手を何度も己が座した奇妙な物体に叩きつけるようにして、かなり野蛮に動かした。
「いいけどねッ、とりあえず死んじゃえよ……!」
 瞬間、無数のきらきらと輝く光の線が、静たちに向かって降り注いでくる。

刈谷蒼衣/3

「……おわっと?」
 いっけない垂れちゃう、とか言いながらアマボンズは太陽に照らされてわずかに溶けたアイスバーを、真っ赤な舌で舐める。どこか艶めかしく、けれど上品ではない仕草だ。
 喉の奥までアイスバーをくわえこんで、棒だけを「ぷっ」と吐き捨てる。口に残ったアイスを膨らませた頬のなかで、むぐむぐと咀嚼している。
「ごみを捨てないでください」
 無邪気なアマボンズを油断なく睨み据えながら、蒼衣は落ちたアイスバーの棒をハンカチ越しに回収し、ポケットに突っこむ。話しかけようとしたが、まだアイスを飲みこみきれていないのか、アマボンズが「ちょっと待って」と手を振って制した。
 喉を鳴らしてすべて嚥下すると、アマボンズは舌でくちびるを舐める。
「礼儀正しい優等生って感じだねぇ、生徒会長なんだっけ? 憧れちゃうなぁ~♪」
 純朴に笑いながら、アマボンズは名残惜しそうにして自分の着ている制服のポケットを手のひらでさする。チョコバーを見つけて、嬉しそうに目を輝かせると、包装のビニールをびりびりと破っている。どうして、ずっとお菓子を食べているのだろう?
 私立信乃芽高校の、屋上である。本来、生徒は立ち入り禁止の場所だ。だが生徒会長である蒼衣は見回りの際などに必要なため、特別に校内のあらゆる扉を解錠できるマスターキーを預かっている。
 この校内においては、蒼衣に不可能などないのだ。
「平和な学校って感じ……。いやぁ、あたしもこんな青春の舞台っていうかさ、こういう場所を騒ぎに巻きこみたくないんだけど。ごめんね、いろいろ事情があったり?」
 チョコバーをくわえて、アマボンズは屋上の落下防止用の金網に背中を預ける。
 警戒し、一定の距離を置いて立つ蒼衣を楽しそうに眺めながら、彼女は呑気に語った。
「どうも、腰を据えてお喋りできるような状況でもなさそうだし……。ざっくばらんに、ていうか単刀直入に尋ねてみるよ。ねぇ、あなたたちはどこまで知ってる?」
「どこまで、と言いますと?」
 のんびりしたアマボンズの態度に、蒼衣はだんだん苛々してきていた。
 先ほど教室で『話がある』と言われ、邪魔が入らず対峙できる場所としてこの屋上を提案し移動した。だが、それからずっとアマボンズはお菓子を食べているだけだ。
 どうも何か気がかりなことがあるようで、蒼衣に背を向け、金網越しに景色を眺めている。物珍しそうに、何の変哲もない、ごく平凡な学び舎を。どこか恋い焦がれるように。
 その初めて上京した田舎者めいた態度には毒気が抜かれるが、忘れてはならない、彼女は高速道路を爆破し蒼衣たちを困難に追いこんだ危険人物だ……。蒼衣は努めて己にそう言い聞かせつつも、じっとアマボンズを仄暗い双眸で観察する。
 どうも訳知り顔のアマボンズから、昨日から始まった異常な事態の数々についての説明を引きだそうとしている。こちらの情報はなるべく与えず、相手から情報をできるだけ手に入れる。対話の基本だ。
「どうも頭が良さそうだね、蒼衣ちゃん。駆け引きとかしたくないんだけどなぁ……。あたしの専門外だし、できれば仲良くしたいんだけど~?」
 面倒くさそうに眉をひそめて、アマボンズは金網に指を絡めながら、微笑んだ。
「んっとね、最初に言っておくけど。今回は、あたしはあなたたちの味方だから。助けにきたんだよ、ちょっとした悪意と危険からね。だから信用してなんて言えないけどね、誠意を示すために特別サービスでいろいろ教えてあげるべき?」
 チョコで汚れた口元を、手の甲で拭って。
「でも。そっちがどこまで知ってるか、ううん深入りしてるのか……。それが、いまいち不明瞭だからさ。基本的なとこから説明するのも億劫だし──そんな時間もないしさ~、だから『どこまで知ってる?』って聞いたんだけどね」
 今度はどこからか飴玉の包みを見つけて、その包装を破いている。
 口のなかにエメラルドグリーンの飴玉を放りこみ、ころころと転がしながら。
「ちょっと漫画みたいな話だから、嘘くさく聞こえるかもしれないけど。あたしはさ──いわゆる何ていうか、ある『組織』から送りこまれてきたエージェントなんだよね」
 駄菓子を食べながら、荒唐無稽な話をする。
「その『組織』は『聖楽器』って呼ばれてる、とんでもない兵器、っていうか秘宝? みたいなのを回収し、研究することを主目的としてる。なかでも『組織』が血眼になって探してるのが通称『キャロル』と呼ばれる、特別な『聖楽器』──あるいはその持ち主」
 歯が頑丈なのか、アマボンズは飴玉を「がりごり」と音をたてて噛み砕いた。
 あっけらかんとした態度のまま、先ほどから断続的に伝わってくる震動に顔をしかめ──すこしだけ間を置いてから、話を再開する。
「でも今回は、あたしの狙いはそっちじゃないの。もちろん、可能ならゲットしときたいけどね。特別ボーナスがでるから……。でも昨日、やらかしちゃったせいで謹慎中でさ。あんまり、そういうでっかい仕事はさせてもらえない状況なんだ」
 また舌なめずりして、アマボンズは蒼衣を正面から見据える。雄大といえば聞こえはいいが、鄙びた田舎の景色がそんな彼女の後ろに広がっている。学校の周りには、ほとんど何もない。田舎道と、冬枯れした木々と、畑を休めている最中で作物のない田畑。
 透明な青空と、巨大な雲。
「とはいえ、『組織』も人手不足でさ……。呑気に自宅でテレビゲームとかしてるわけにもいかないの、実際。だもんで、今回は別のちょっとした任務を帯びてこの学校にきた」
 嬉しそうに、制服のスカートを指先でつまんで、にっこり笑った。
「どうも、この高校の生徒のなかに『組織』の裏切りものがいるみたい。裏切りものっていうか、脱走者っていうのかな……。『組織』の制御下を離れたエージェントのひとりが、発見されたんだ。そいつを捕まえる、あるいは始末するのが、今回のあたしのお仕事ってわけ」
 さすがにもう駄菓子がないのか、口寂しそうに頬のあたりを撫でながら、アマボンズはにこやかに語りつづける。
「どうも、その脱走者の狙いも『キャロル』らしいんだよね。それだけ、重要な存在なの。脱走者は『キャロル』を入手するために行動を初めて、『組織』の網に引っかかった。そして、あたしが派遣されたわけ。こんなふうに、制服とかも支給されてさ。学校の生徒として潜入して──ほんとはもうちょい、青春っぽいこともしたかったんだけど」
 儚げな笑みを消すと、彼女は真顔になって蒼衣に背を向ける。
 そして、なぜか金網をよじ登り始めた。
「そうも言ってられないみたい、まったく不本意なことに。脱走者も『組織』が気づいたことに、気づいたらしいから。大急ぎで『キャロル』を入手するため、かなり強引な行動をする。その目的を阻止し、脱走者を狩る。そのために、あたしも全力を尽くすつもり」
 金網の頂点まで登ると、腰掛けて、スカートのなかみが丸見えなのも気にせずにアマボンズは「ひらひら」と手を振った。
「だからまぁ、できれば邪魔しないで。それだけ、伝えておこうと思ったんだ。未来のことはわかんないけど、何度でも言うけど──今回は、あたしはあなたたちの敵じゃない。そっちが仕掛けてこないかぎり、こっちから手をだすつもりはないから」
「ほんとうに漫画みたいな話をしますね、それを信じろと?」
 蒼衣は語られた内容を整理し、理解しようと努めながら、高い位置に座ったアマボンズを見上げる。逆光で、その表情は読めない。
「高速道路を爆破してもお咎めなし、逮捕もされずにのうのうと自由に行動してる。学校に転校生として、当たり前みたいに潜入してる。その程度のちからのある『組織』の人間だって、それで証明になればいいなと思うけどさ?」
 アマボンズのみょうに白い歯並びと、真っ赤な舌だけがなぜか印象的に目視できた。
「まぁ、すぐには信じらんないよね。よぉく考えて、できればお友達にも伝えてあげて。あたしは荒事が専門だけど、可能ならなるべく血は流したくないんだよね。必要なら躊躇わないけど、運命的に与えられたちからを、暴力にしか活かせないならもう神さまを怨むしかないから。父と子と聖霊を、呪いながら生きるなんてつまらないじゃない?」
 ぎこちなく十字を切る仕草をしてから、アマボンズは仰向けに倒れる。
 その向こうには、何もない。重力に引かれて、彼女は落下する。
「ちょっ──」
 すわ投身自殺かと、蒼衣が反射的に手を伸ばし、駆け寄ったが間にあわない。制服のスカートを、短めの髪の毛を羽ばたかせて、アマボンズは自由落下していく。
 あくまで太平楽に、母なる海を浮き輪で漂うみたいに。
「ごめん、話のつづきはまた後でね。緊急事態が発生ちゅう~、急いで対処しなくちゃ」
 空中で猫のようにとんぼ返りすると、足を地面に向けて垂直に落ちていく。
 その靴裏に輝きが生じ、麗しい金属の光沢がある楽器──鐘が、生えてくる。ローラースケートの車輪じみて等間隔に配置された鐘が、一斉に音を鳴らした。
 勇ましい、鐘の音だ。
「さぁてと。今日も愛と平和のために、全速前進だぁ~♪」
 気が抜けるような声をあげるアマボンズの靴裏で、鐘が七色の音色と光芒を放った。

時任静/3

 今度こそ死んだと、静は思ったが生きていた。鼓動が脈打っている、それが聞こえている。己の呼吸音と、耳が痛くなるほどの火災の音──。
 私立信乃芽高校の中庭は、炎上している。綺麗に整えられ陳列された花々は火の粉をあげながら黒焦げになり、花の散り果てた桜の木々が燃えてへし折れていく。地獄絵図の真ん中で、不自然に切り刻まれたバイクが囂々と紅蓮の炎を放っている。
 ドグモと名乗った少年が放った光の線を見た瞬間、橙一が静を抱えてバイクから跳躍、緊急回避を行ったのだ。次の刹那、バイクは寸刻みで切断され、ガソリンが引火したらしく周囲を巻きこみ火災を発生させていた。
 濛々とあがる煙のため、視界は不明瞭だ。
「……橙一くん?」
 静は己を抱きしめたまま気絶している橙一に、遅まきながら気づく。静を抱え、庇いながら跳んで地面を転がり、その衝撃で失神してしまったのか。あちこち血と泥と煤で汚れている、静は彼のおかげで傷ひとつない。
「だ、だいじょうぶ?」
 呼びかけながら揺さぶったが、橙一からの反応はない。触れたところから彼の鼓動は聞こえる、生きてはいる。だが、この場に放置しては火災に巻きこまれて危険だ。
 静はそう思い、自分よりも上背がある逞しい橙一を支えながら、立ちあがる。ずっしりと重たい、これではろくに歩けもしない。だが、見捨てて逃げ去るわけにもいかない。
 橙一は、自分を守ってくれたのだ。なぜ、むかしは仲良しだったとはいえ今は疎遠なはずの彼が、そこまで献身的に尽くしてくれるのかはわからない。橙一。蒼衣もそうだが、この幼なじみたちは何か非常に厄介な事態に巻きこまれていて、しかもおそらくその中心には、なぜか静がいるのだ。昨日からずっと、静の周囲には非日常が渦巻いている。
 何ひとつ理解できず、当惑する静に──。
「時任」
 早くも目覚めた橙一が、呻きながら声を漏らす。
 さすがに、掠れきった声だ。
「逃げろ。何かよくわかんねぇけど、あの頭のおかしい感じのガキの狙いはおまえだ──おまえが、狙われてる。逃げないと、殺されちまうぞ」
「な、何で僕なんかを?」
「知るかよ。ぺっぺ、口んなか『じゃりじゃり』いってる」
 血と泥が混じった唾を吐いて、橙一は自分の足でしっかりと立つ。そして静を突き飛ばすようにして、わずかに離れた。不審そうに、かつての親友はこちらを見ている。
「おまえ、何なんだよ……。どうして今さら、俺たちに関わる?」
「こっちの台詞だよ。何でほんとに、今さら──橙一くんも蒼衣ちゃんも?」
 何もかも理解できないまま、けれど呑気に立ち話をしている場合でもない。互いに目配せし、炎が広がっていない方向に視線を向けた。まずは、避難しなくては。
 橙一が先行しつつ、顎で進路を示す。
「よくわかんねぇけど。さっき──俺は自宅からバイクで出発して、しばらくドライブしてたんだよ。運転に慣れようと思ってさ、学校サボってどっか遠くまで遊びに行こうかなって考えてた。まぁ俺、出席日数が足りないから授業はちゃんと出なくちゃいけないんだけど」
 どうでもいいことまで言って、橙一は傷が痛むのか流血しているこめかみのあたりを指先で撫でた。心配して寄り添おうとする静を、邪険に手を振って遠ざける。
「だから、しばらく運転してから学校へ行こうと思ってさ……。バイクを一般道に入れたところで、あのガキが襲ってきた。待ち伏せするみたいに、道路の真ん中に立っててさ、事故ると思って避けようとしたんだけど」
 寒気を覚えたように、橙一は震える。
「超能力みたいにさ、あのガキの周りに並んでた乗用車とか、トラックとかが宙に浮かんでさ……。一斉に、俺に向かって飛んできたんだよ。俺、慌てて避けて、必死になって逃げるしかなくてさ。何なんだよあのガキ、マジで意味わかんねぇ」
 頭を掻きむしって、橙一はもたもたして遅れている静の手を取り、引っぱった。幼いころ、いつも彼がそうしてくれたみたいに。
「あいつさ、おまえの顔写真をもってて──『こいつの知りあいだろ?』とか聞いてきたんだよ。だから、どうも狙いはおまえみたいだ。俺は、おまえの関係者だから襲われたってわけだ。どう責任とってくれるんだ、あぁん?」
「そ、そんなこと言われても……。何で僕を、そんなえっと、超能力者? とかいう、漫画みたいなやつが狙ってるの?」
「だから、知らねぇよ。でも俺、いちおうおまえとは昔なじみだしな……。蒼衣が、おまえのことを心配してたし。だから、危ないやつに狙われてるって教えてやらなくちゃって。それで大急ぎで学校まできたんだよ、これが俺の現在までの状況なんだけど」
 あぁ、と静は推測も交えながら了解する。橙一は、やっぱり優しいひとだ。見た目は怖い、不良じみた方向に変わってしまったけれど。いつも静や蒼衣を導き守ってくれた、頼もしい幼なじみのお兄さんだ。
 だがドグモを名乗る少年はバイクで逃げる橙一を見逃さず、追いかけてきて、学校まできてしまった。橙一は何も知らない静を見つけ、事情を説明する暇もなく、とりあえず逃げることを優先してバイクの後ろに乗せた──という感じか。
 なぜ、静が狙われるのか。ドグモは、いったい何者なのか。それら核心的な謎については答えが見いだせないまま、今はただ逃げるしかない。
「さすがに学校のなかまでは追いかけてこないかも、と思ったんだけどな。あいつ、そんなことお構いなしみたいだ。110番したいとこだけど、警察がどうにかできる相手にも思えねぇし。ほんと、八方塞がりだよ」
「ご、ごめんね。何だか、僕のせいで」
「おまえが謝ることはねぇだろうがよ──うおっと、やっべぇ!?」
 思わず恐縮した静の頭を小突いてから、橙一が青ざめて振り向いた。
「発見~。ちょこまか逃げんなよォ、おれは細かい作業が苦手なんだよ」
 その視線の先、火炎を突破してドグモが姿を見せる。球状に変化した水銀の光沢のある謎の物体を、サーカスのように玉乗りして動かしていた。焼け焦げた花壇などの障害物を踏みつぶし、粉砕して、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「ったく、スワシワラの馬鹿がいれば後先考えずに派手な真似もできんのによォ……。あいつ、どこをほっつき歩いてやがる。この学校にいるんじゃねェのかよ、おれの役に立たないなら生きてる価値はねぇよなァ?」
 ぶつくさ言いながらも、かなりの速度で迫ってくる。
 徒歩では逃げきれない、バイクを破壊されたのは痛かった。背後に近づいてくる重量感に、危険そのものに、静の背筋が粟だった。
「君は──」
 どう考えても年下なので、静はドグモに対してすこし丁寧に問いかけてしまった。
「どうして、僕を狙うのかな?」
「あぁん? 気安く話しかけんじゃねェよ、おまえは比較的どうでもいいんだよ……。用があるのはお姫さまだ、おれもよく理屈がわかってねェんだけどさ?」
 すこしだけ球体の速度が弱まり、ドグモが苛立たしげに歯軋りをした。
「いるんだろ、お姫さまが。おまえの、どっかにさ。どこにいるんだよ、早めにだしてくれよ──腹のなか? 心のなか? 脳のなかなら、耳から指を突っこんで引きずりだしてやんよ! ぎゃはは!」
 ひとつも、言っている意味が理解できない。静のなかに、お姫さまがいる?
 もしかして、と思い当たった。ずうっと、聞こえていたあの幻聴……。だと、静が思いこんでいる、不思議な少女の声。キャロルと名乗った、あの愛らしい女の子の声音に、このドグモとやらは用があるのでは?
 だが今朝、目覚めてからいちどもキャロルの声は聞こえていない。いつも黙ってほしいときには口喧しく喋りつづけるくせに、肝心なときには押し黙っている。あの奇妙な声を、今こそ静は聞きたかった。
 キャロルならば、静が放りこまれたこの非常識な状況についても、なにがしかの解答めいたものをもっているのではないか。そう期待したが、眠り姫は目覚めない。
 彼女の声は、いまだに聞こえてこない。
 つけたままのヘッドフォンに手を添えて、静は縋るようにその名を呼んだ。
「キャロル! 聞こえてるなら返事してっ、おいキャロル!」
 その言葉に、なぜか先行していた橙一が「ぎょっ」として振り向いた。
 だが彼が、何か意味のある言葉を口にする前に──。
「おぉっ!?」
 無意味に汚い感じの笑い声を響かせていたドグモが、はっとして顔をあげる。
 その視線の先に、制服姿の少女がいる。まさか、屋上から飛び降りたのだろうか。遠く──落下防止用の金網越しに、こちらを唖然として見ている蒼衣もいる。
 制服をはためかせ、濃い蜜色の肌の幼い少女は片目を瞑った。
 あっかんべ、と舌をだす。
「やっほうドグモくん、ちょっと背ぇのびた?」
 かなりの高度から落下中とは思えない、のんびりとした問い。同時に、不思議な少女は腰に吊していたちいさなラッパを、まるで拳銃みたいに構える。
「んげっ、アマボンズ!?」
 ドグモが両手で顔を覆うようにして、防御の姿勢。
「名前を覚えていてくれたんだ──まぁ、数少ない身内だったしね。ねぇ、どっかにスワシワラちゃんもいるの? あたしの狙いは、本来そっちなんだけどなぁ……?」
 気安く語りかけながら、重力に任せて落下して。
「まぁいいや。悪い子にはお仕置きするからね、Splash……☆」
 その直後、アマボンズと呼ばれた少女はラッパを両手で握りしめて、引き金を絞るような仕草をする。
 巨大な音が、炸裂した。
 火災に蹂躙された私立信乃芽高校の中庭が、一瞬、暴力的な黄金色の輝きに包まれる。

時任静/4

 豪快なラッパの音の残響が、黄金色の粒子とともにゆっくりと薄れていく。
 視界が、徐々に晴れ渡っていく。
 思わず頭を抱えて蹲っていた静のそばに、こちらを身を挺して庇うような──けれど同時に疑わしそうに見ている、橙一が立っている。
「おい時任、おまえキャロルって言ったか?」
「えっ、えぇ……?」
 胸ぐらを掴まれ、無理やり立たされる。ほとんど、静の足が宙に浮くほど強引に。苦しくて呻きながらも、静はひたすら戸惑っていた。
 何もかも、意味がわからない。身の回りで秒刻みのように発生する異常事態に、ひとつも理解が追いつかない。涙すらにじんできて、静は怯えるように橙一をただ眺めた。
 橙一は何だかやりにくそうな顔をして、溜息をつくと、いろいろ後回しにしたのか機敏に身構える。彼の見据える先、中庭は月面のように抉れていた。
 花壇も水銀灯も、めらめらと燃えていたはずの火炎もバイクの残骸も何もかも、消失している。ほんとうに、隕石でも激突したような案配だ。
 あるいは、爆撃でも受けたみたいだ。巨大な破壊力が、中庭の景色を抉り取っていた。
「よいしょ、っと」
 宙で何度かホバリングしてから、アマボンズが華麗に着地。その足裏、ローラースケートの車輪めいた鐘が発光し、どうやら浮力を発生させている。
 ちいさく響いていた鐘の音がやんで、静寂が訪れた。
「んん。時任静くんと刈谷橙一くん、ふたりを怪我させるわけにもいかないっぽいしね──威力、控えめにしすぎたかも。これじゃあ、ちょっと物足りない結果かな?」
 アマボンズはこちらを一瞥してから、油断なく中庭にできたクレーターを睨む。抉れた土の中央に、巨大な繭のようなものが転がっている。
 そこから羽化するようにして、手のひらがつきでた。細っこい、少年の腕が、肩が胸元が、頭が。最後に下半身をずるりと引きずりだして──無傷のドグモが、出現する。
 ふらついてから、ドグモは怨みがましい目つきでこちらを凝視した。
「てめぇ……。アマボンズ、いきなり何てことしやがる? 殺す気かっ!?」
「いや全然、殺す気ならもっと強烈なのをお見舞いするってば。ていうか相変わらず年上に対して口の利きかたがなってないよねぇ、もうちょい礼儀正しくしたほうがいいよ?」
「そんなに年齢としが離れてねェだろが、いけ好かないちびすけ! 殺してやる!」
「殺す殺すってさぁ……。ほんと、男の子って乱暴な話が好きすぎるよね?」
 アマボンズとドグモ、奇妙なふたりはすこしの間合いをとって向きあっている。一触即発、という雰囲気だ。すぐにでも、戦闘が再開される気がする。
 巻きこまれても堪らないが、迂闊に動けない感じもする。どうしよう、と静は頼るように橙一を見上げる。だが、橙一は状況を無視してあらぬ方向を見ていた。
「あっれ……?」
 すこし間が抜けた声をあげて、橙一は数歩、移動する。先ほど吹き荒れた破壊力の影響の外、無事に残っていた植えこみの向こうに、見覚えのあるバイクが鎮座していた。
 ぴかぴかの新品同然だ。黒光りする車体。先ほど、切り刻まれ炎上していたはずなのだが……。不思議そうに、橙一はその車体を撫でる。
「あれっ、何で……。でもこれ、びみょうにちがうバイクだな。俺がつけたステッカーがないし、おっかしいな?」
 橙一は首を傾げながらも、静に手招きする。
「まぁいいや。これに乗って逃げんぞ、時任。ぼうっとしてんじゃねぇ!」
「えっ? あっ、うん──」
 無理やり手首のあたりを掴まれ、引き寄せられる。たしかに、呆然としている場合ではなさそうだ。逃げられるなら、そのほうがいい。いまだに状況は混沌としていて、何もかも理解できないけれど。何だか途方もない、先も見えない坂道を転がり落ちている気分だ。
 でも、橙一がいる。逃げられる手段もある。希望は、未来はわずかにでもある。
 ならば、それに必死になって手を伸ばそう。せめて、自分を助け、守ってくれようとした橙一のためにも。その恩義に、なくしたと思っていた友情に報いるために。
「あっ、こら! てめぇら、そこを動くんじゃねェよ!」
 ドグモが野次めいた声をあげたが、アマボンズが片手を挙げてその進路を遮る。肩越しに彼女は振り向き、片目を瞑った。そのまま逃げろ、ということなのか。
 橙一がバイクのハンドルを握り、そんな彼に車体に跨がった静が後ろから抱きつく。一瞬でエンジンがかかり、胸の奥まで染みこむような排気音が響く。
 震動で姿勢を崩し、静は慌ててバランスを取ろうとして、橙一に縋りついた。そして、ほんのわずかに顔をあげる。遠く、私立信乃芽高校の屋上に立つ蒼衣が見えた。
 彼女はなぜか疲れた様子で、こちらに誰かがあけた金網の隙間から手を伸ばしている。静と目があうと、恥じ入るように顔を伏せた。

時任静/5

『何なのよ、もう! ろくに眠れやしないじゃない!』
 突然だった。不意打ちめいたタイミングで、静の脳裏にもはや聞き慣れた甲高い声が響いた。キャロルだ。不思議な、幻聴めいた声音──。
『ちっとも演奏になってない! せっかくの綺麗な音色なのに、楽器なのに! どんな物語めいたすてきな音楽が始まるのかって期待したのにね、夢心地で! 何も始まらないじゃない、指揮者はいったい何をやってるのよ!』
 キャロルはなぜか、えらくご立腹である。肩を怒らせて罵っている、かわいらしい少女の姿を──静は幻視する。静は彼女の声しか知らないので、すべて想像でしかないが。
『ノイズ! ノイズ! ノイズ! 一流の楽器の無駄遣いだわ、ただの目覚まし時計ってこと? これじゃ歌えないのも仕方ないわ、静! 一流の歌い手には一流の演奏家が必要なのよ、つまりあたしってこと! 待たせたわね、何の曲を演奏してあげましょう?』
「キャロル──」
 静はヘッドフォン越しに、声が流れてくる右耳に手を添えた。
「寝てた、の? 君も、睡眠をとったりするんだ?」
『寝るわよふつうに、文句あるの? いつもはあんたと一緒におやすみなさいしてるけどね、だって寝てたら歌えないでしょ? あたしたちは一心同体よ、同じタイミングで寝るのよ──いつかともに歌い奏でる時間を夢見て! ちょっと健気でしょ?』
 キャロルは相変わらず噛みあわない返事をして、どこか得意げに語りつづける。
『昨日、昨日でいいのかしら──新しい楽器を手に入れたじゃない、そいつの調教っていうか、調律っていうか? そういうことをしてたら疲れ果てて寝ちゃったのよ、ぐったり! おかげで、あんたと寝る時間がずれちゃったわ! それを謝ってほしいの?』
「おい、時任。いったい、誰と喋ってるんだ?」
 橙一が振り向いて、気味悪そうに問いかけてくる。
 いけない。幻聴と会話しているなんて知られたら、頭のおかしいやつだと思われてしまう。静は、ぶんぶんと首を振って何でもないという態度を取り繕った。
 かたくなに目を瞑り、顔を伏せる。ずうっと、そうやって生きてきた。
 橙一は物問いたげにしていたが、今は逃走を優先するつもりか──バイクを発進させる。抉れた中庭から遠ざかる方向、あっという間の急加速。
 景色が流れ、何やら喚いているドグモと、ひらひらと手を振るアマボンズがちいさくなっていく。向かう先は学校の外、混沌と理解不能な非常識の向こうを目指して。
『あら、また無視してない? せっかく、すこしは仲良くなれたと思ったのに! どういうことよ、そんなに機嫌を損ねなくてもいいじゃない!』
 慌てたように、ほんとにずっと眠っていたのか状況がわからないらしいキャロルは、戸惑うように懇願するように──しおらしい言葉を並べる。
『次からはちゃんと一緒に寝るわよ、あたしとあなたは夫婦よりも同じだから! だからねぇ、機嫌を直して! 静、大事な静、あたしの歌い手! ねぇ、どうしたら会話をしてくれるの? 好きになってとまでは言わないわ、だからちゃんと相手してよ!』
「ごめん。キャロル、すこし黙って」
『まったくもう! あなた、そればっかりね? いちばん難しい要求なのに!』
 けれどキャロルは以前よりも、静の言うことを聞いてくれる。ほんとうに黙ってしまって、その代わりにピアノめいた演奏が聞こえてくる。キャロルが、どこかで──静の右耳の向こう、彼女がいる場所で演奏しているらしい。
 やはり、喧しいとしか思えない。頭のなかに直接、音楽が響くのだ。脳みそを引っかき回されるような気分だが、べつに思ったほど不愉快ではなかった。
 キャロルの演奏をBGMにして、バイクは進む。
 すぐに、校門が見えてくる。
 その向こうには、無限につづいているような車道があった。
 その先へ。まとわりつく因縁と、優雅なピアノの調べを振りきるようにして──。
 静は、進んでいく。空騒ぎの、向こう側へ。
「あれっ……?」
 校門を通り過ぎる瞬間、静は視界の端に気になるものを見つけて顔をあげる。
 めちゃくちゃに粉砕された、昇降口。下駄箱のそばに、誰かが立っている。見覚えのある、少女だ。スワシワラと名乗っていた、あのどこか陰気で非現実的な──。
 私立信乃芽高校の制服をまとった、昼間のお化けみたいな彼女は。
「あぁ──」
 走り去る静たちをぼんやりと眺めて、申し訳なさそうに頭を揺すった。
「どれだけ巻き戻しても、繰り返しても、けっきょく道筋は変わらないのかなぁ。流れた涙は、蒸発して雲になって、雨になって、川や海を流れて水道管を通って……。また口のなかに入って、消化され濾過されながらも、何度でも涙になるのかなぁ?」
 ぶつぶつと不明瞭な独り言を漏らすと、スワシワラは両手に大切そうに握りこんだちいさな箱のようなものを、ほんのすこし高く掲げる。
 その箱の側面についた捻子のようなものを、ぎこちない手つきで回転させる。
「それでも、わたしは幸せな未来を諦めたくないから。ごめんね、ごめんなさい……。謝っても意味はないよねぇ、わたしの言葉を誰も覚えていないから」
 彼女の抱えた箱から、硬質な音が響いた。金管楽器を奏でるような、分厚い氷が徐々に砕けるような、どこか殺伐としたメロディ。
 あの箱は、オルゴールなのだ。
 お定まりの、誰もが知っているような、長い時間を生きられなかった短命の天才音楽家がつくったそれの変奏曲が鳴り響く。
 物哀しい音色は、騒ぎの渦中から遠ざかろうとしている静を絡め取るように、いつまでも全身にまとわりつくようにして聞こえつづけていた。

流星予報  歌/柊優花  曲/PolyphonicBranch
【ニコニコ動画でもご覧いただけます】http://www.nicovideo.jp/watch/sm28323287