時任静/1

 僕はもう駄目かもしれない。

 僕はもう駄目かもしれない駄目かもしれない駄目だ駄目だ駄目だ──延々と独り言をつぶやいても、ときとういずみには自分の声が聞こえない。
 静は装着した色と形状の異なる左右非対称なヘッドフォンに特殊な加工を施しており、あらゆる声や音が自分の脳みそまで届かぬように努めている。
 ヘッドフォンの左側は徹底的な防音構造になっていて、聴覚に蓋をした状態。ほとんど耳を切り落としたみたいに、何も聞こえないようになっている。
 右側からは意味のとれない大音量の騒音が止めどなく垂れ流されていて、他の音や声が感じられなくなっている。強い音が弱い音を駆逐し、世界はノイズに満たされる。
 左耳は完全な無音、右耳は無意味で暴力的な騒音。
 そうして意味のある音を完全にシャットアウトしながら──さらに静は狭苦しい自宅の六畳一間にも手をくわえ、壁にも床にも天井にも防音素材を敷きつめている。
 冷蔵庫や洗濯機、TVやPC──あらゆる家電を防壁のように己の周囲に密集させ、その隙間に収まって膝を抱えている。
 もう何日、この状態で過ごしているだろう。
 食事もとらず不眠不休で、ひたすら自分は正気であると思いこもうとしていた。
 けれどもう、空腹も疲労感も限界で──。
「僕は、もう駄目かもしれない」
 同じ言葉を繰り返してみたが、もちろんその声は自分自身には聞こえない。
 当然、返事もない。
 そのはずなのに。
『どうして、駄目だって思うの?』
 無音のはずの左耳から、騒音で満たされたはずの右耳から──。
 あるいは脳に直接、不可思議な声が響く。
『まだ何も始まってないのに?』
 女の子の声だ。
 たぶん、静と同年代かすこし幼いぐらいの。
 誰かの声は一方的に、語りかけてくる。
『それよりも、歌を聞かせてよ』
 お姫さまみたいに、高飛車に。
『あたしね──歌が、だぁい好き♪』
 時任静は音楽が嫌いだ。
 とくに、歌は大嫌いだ。

キャロル/1

 そうね、たぶん順番をまちがえていたんだわ。正しいリズムで、正しい音符を並べて、正しいメロディを紡がなくっちゃ耳障りなだけ──そうでしょう? 名前も知らない、あなた! ううん名乗ってもくれない、意地悪なあなた!
 あたしはあなたとちがって礼節を弁えているから、ちゃんと名乗ってあげる。それが『順番』よ、そうでしょう? お互い名乗りあって、お辞儀をしあって、他愛のない話から初めて、やがて深く理解しあう……。そういうものでしょう?
 まぁ、『あなた』と『あたし』が面と向かってお喋りするのは物理的に無理だから、そのへんは不作法だと思わないでほしいけれど! そこはもう、お互い了承済みのことでしょう? 文句があるならあたしじゃなくて、神さまとかに言ってちょうだい!
 あたしは……そうね、名乗ろうと思ったけれど、よくよく考えてみれば『名前』というものを持ちあわせていないわ。必要がなかったの、あたしのいる場所はとっても寂しくて空虚でぬくもりがなくて、歌もなくて! 独り言しかできない! 他人がいないと『名前』なんてものがあっても無意味だわ、そうでしょう? 
 ねぇ、お返事ぐらいして!
 そうね、キャロル……。キャロルでいいわ、『あたし』の名前ではないのだけど。不作法な連中が、あたしをそういう名前で呼んでいるのを知っているの!
 なぜ知っているかって? 馬鹿ね! 全知全能の神さまとはいかないけれど、あたしはあたしをよく知っている! だからつまり、あたしに関係することは何となくわかるっていうか……『あたし』と『あたしのいる場所』は不可分なの、混じりあっているの、五線譜と音符の関係! この説明でわかる? 『はい』か『いいえ』ぐらい言って!
 まぁいいわ、だからキャロル……あたしはキャロル! そう呼んで! あなたの名前は何ていうの? せっかく他人と巡りあえたのに、お喋りができるのに、名乗ったのに! 相手してくれないと意味ないじゃない、これじゃいつもどおりの独り言よ!
 どうも、あなたのいる場所と、あたしのいる場所は遠いみたいね? 声しか、音しか聞こえないの! ねぇ、さっきから鳴り響いてる耳障りなこのノイズを止めて! それとも、あたしの声もあなたにとっては不愉快なノイズでしかないの? だから、こんな意地悪をするの? この騒音をどうにかして! 気が変になりそうよ!
 あたしを怒らせないほうがいいわよ、これは脅迫じゃないわ! あなたを心配しているのよ? だって、あたしは『あたしの場所』と同じなの、そう言ったでしょう? あたしが怒れば、不愉快になれば、それは『あたしの場所』にも反映されるの! このノイズが、それに対してのあたしの苛々が、あなたに牙を剥かないとも限らないじゃない?
 言っている意味がわかる? あぁ、遠すぎてわからない! あなたが何を知っていて、あたしが何を教えられるのか、それが把握できないと何も意味のあることを言ってあげられない! あなたが心配なの! あなたは、ひとり寂しく膝を抱えているしかなかったあたしに喜びを、歌を、他人を、広がりを、何て表現しましょう? すべてをくれたのよ、わかってくれる?
 だから聞いて! お願いだから! 聞かせて! あなたのこと!
 どうして、ずっと黙っているの?
 あたし、あなたのことが好きになれると思うの! なのに嫌いになりそうで、意地悪ばっかりするから、だから怒っちゃいそうで! でも、怒りたくないのよ!
 ねぇ、あたしの言いたいことがわかる?
 まずは、とにかくこの耳障りなノイズを止めて!

刈谷橙一/1

「橙一。わたし、だんだん苛々してきました」
「蒼衣。どうでもいいけど兄を呼び捨てにすんな、『お兄ちゃん』とか呼べよ」
 かりとういちは自分より頭ひとつふたつ背の低い妹の背中をぼんやりと眺めながら、これまで何十回も繰り返してきた提案をしてみた。
 血の繋がった家族に、しかも幼いころは甘えるように『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と呼んでくれたかわいい妹に、赤の他人を呼ぶように名前で呼ばれるのは嫌な感じだ。世間にはそういう家庭もあるのだろうけど、すくなくとも五年前までは──いまだに橙一にとってよくわからないあの奇妙な誘拐事件の前までは、『お兄ちゃん』と呼んでくれたのに。
「わけのわからないことを言わないでください、橙一」
 こちらを振り向きもせず、妹──かりあおは吐き捨てるように言った。
「今はそんな、どうでもいいことに言及している場合ではないでしょう。危機感をもってください、ほんとに橙一は愚図ですね。何の役にも立ちません、あなたが一緒にきたいとさんざん言ったから仕方なくつれてきてあげたのに。あまり鬱陶しいようですと、そこから突き落としますよ」
 蒼衣は淡々と語りながら、顎をしゃくった。誰も住んでいないのではないかと疑わせる築十数年らしき廃アパートの、三階。ごみが散乱する通路。蒼衣の示した先には、錆が浮いた手すりがある。
 橙一はその手すりにもたれかかって、体重を預けようとしたが──錆びついたそれが呆気なく折れてしまいそうだったので、慌てて身を起こす。振り向くと、手すりの向こうには何らかの工業廃水でも流れているらしい、どす黒い小川が見えた。
 陰気な場所である。
 突き落とされてはたまらないので、橙一はくちびるを引き結ぶ。元来、べつにお喋りなほうではない。妹の蒼衣も無口なので、会話もなく、静まりかえる。蒼衣が、さっきから取っ組みあっているドアノブを、がちゃがちゃ鳴らす音のみが響いた。
 蒼衣はちいさなころは病気がちで痩せっぽっちで、発育も遅れていた。だがあの誘拐事件からこっち、五年間でえらく背が伸びて美人になってしまって──橙一としては、『ちいさい蒼衣』の印象が強いので、ときどき妹が誰か知らないひとのように見える。
 肩よりすこし長めの、艶やかな黒髪。同年代の女の子に比べてかなり立派な胸元が窮屈そうな、私立しな高校の女子制服。スカートの丈も、校則をきっちり守っている。優等生然としていて、軽薄なファッションを好む橙一の妹のようにはやはり見えない。
「ほら、橙一も手伝いなさい」
 他人のような妹は、歯軋りしてから振り向くと、八つ当たりめいて唸った。
「ぼけ~っと、突っ立っていないで……。手伝いなさい、何とかしなさい、すくなくとも一生懸命なふりぐらいしてはどうですか。苛々します、『おにいさん』は──あなたにとっても親友でしょう、すくなくとも五年前までは」
「おまえさぁ……。俺は『橙一』って呼び捨てなのに、時任のことは『おにいさん』なのな。これじゃ、どっちが兄かわかんねぇよ」
 これもまた、数えきれないほど繰り返した言葉だ。なぜか蒼衣は、血の繋がった兄には他人行儀なのに、先ほどから彼女が親の仇のように睨んでいるアパートの一室──そこで一人暮らしをしている、時任静を家族かそれ以上の存在として愛している。
 理由は知らない。何となく、気に食わないが──かわいい妹が、静に取られてしまったようで面白くはないが。どうして蒼衣がそんな態度をとるのか意味がわからず、戸惑いのほうがおおきい。
 刈谷橙一・蒼衣の兄妹と時任静は幼いころ家が近所だったこともあり、毎日のように一緒に遊んでいた。幼なじみである。ほとんど家族のようだったから、蒼衣が静を『おにいさん』と親愛をこめて呼ぶのもわからないでもない。
 だが何だか、本能的な感覚ではあるが──蒼衣が静のことを『おにいさん』と呼ぶ口ぶりには、もっと深い意図、特別な気持ちがこめられている感じがする。熱っぽくて、橙一には理解できない、ほの暗い感情が秘められているような……。
 そのへんを追求しても、蒼衣の返事はいまいち要領を得ないので、あまり突っこまないようにしている。五年前、蒼衣と静は同時に誘拐された。そのときにふたりの間に特別な何かがあったのかもしれないが、いまだにそのへんは触れるのを躊躇うナイーブな話題なのだ。蒼衣も、五年前のことについてはかたくなに口をつぐむ。
 橙一もあえて地雷を踏みたくはないのだが、かわいい妹のことだ──そして今は疎遠とはいえ、むかしは親友だった静のことだ。一生、知らぬ存ぜぬではいられないのだろうけれど。
 何だか切なくなってきて、橙一は耳たぶに触れる。そこには、ピアスが光っている。ちいさな子供のころ蒼衣が『お兄ちゃんにあげる』とプレゼントしてくれた、河原で拾った綺麗な小石を加工したものだ。だが、蒼衣はそのことを覚えていないという。
 蒼衣には、幼いころの記憶がない。正確にいえば誘拐されて、橙一たちのもとに戻ってきた直後から以前のことを忘れてしまっている。医者は、誘拐のショックで記憶喪失になったのだと説明していたが……。
 いまだに橙一は、たまに本物の蒼衣はいまだに誘拐されてどこか知らない世界で兄の助けを待っていて、目の前にいるこの蒼衣を名乗る少女はまったくの別人なのではないか──という、よからぬ疑いを抱きそうになる。そんなわけがないのに。
「蒼衣」
 思考が暗い方向に流れている気がして、橙一は努めて明るく言ってみた。
「時任のやつ、どっかに出かけてるんじゃねぇのか。部屋のなかに誰かがいるなら、わかるだろ。物音とか、気配とかするだろうし。でも何にも聞こえないじゃん──不在なんだよ、たぶん。居留守だとしても静かすぎる、まさか死んでるわけでもあるまいしさ」
「縁起でもないことを言わないでください、怒りますよ」
 蒼衣は忌々しそうに、こちらを横目で睨んでくる。その表情も、堅苦しいというよりも冷たい印象すらする丁寧語も、やっぱり何だか家族に向けるものではない。
 橙一はちょっと怯んでしまって、誤魔化すみたいに咳払いした。
「とにかくさ。ここで、こうやって扉の前でウロウロしてても仕方ねぇだろ──警察を呼ばれるぞ。ってか、本気で心配ならそれこそ警察の出番じゃねぇのか。部屋のなかで死んでる、とかだったらもう事件だしさ。警察じゃなくても、アパートの管理人とかに事情を説明してさ、鍵を開けてもらうとかしようぜ」
 学校の授業が終わってから、蒼衣に付き添って静のアパートを訪れてからもはや五時間以上は経過している。もうじき陽も完全に沈み、暗くなってくる。このへんは治安もあまりよくないので、できれば早めに帰りたい。
 正直、橙一はうんざりしてきていた。
「そもそも何で、今さら時任に会いにきたわけ? そりゃあ、むかしは仲良かったけどさ……。俺、もう何年も喋ってねぇんだけど。おまえも学校でも、べつに親しくしてたわけじゃないよな。俺なんて時任が同じ学校だって今日、初めて知ったぐらいだし」
「そうですね。わたしも、おにいさんとは学年もちがいますし、交流はありません。学校で何度かお見かけして、声をかけたのですが、なぜか逃げられてしまいますし」
 そうだろう。蒼衣は、まだ高校一年生なのに生徒会長を務めている。美人で人当たりがよく、文武両道、男女問わず好かれている。学校一の有名人、あるいはアイドルのようなものなのだ。畏れおおくて、橙一も妹でなければ声をかけられない人種である。
 橙一とふたりきりのときは、学校での様子が嘘のように無愛想になるのだが──蒼衣は高校におけるスーパースターだ。一般生徒からしたら、高嶺の花だ。静は聞いた話、根暗な、教室の隅っこで本を読んでいるようなタイプだったようだし……。接点があるとも、思えないのだが。
 実際、蒼衣も『交流はない』と言っている。
 ではなぜ、今になって突然に──ちいさな子供のころすこし仲が良かっただけの、年上の少年が一人暮らしをするアパートに押しかけたのか。その不審な行動が気になって橙一は嫌がる蒼衣を説き伏せて同行しているわけだが、いまだに経緯がよくわからない。
 橙一は何だか疲れてきて、軋む手すりに背中を預けて空を見上げる。
 どこからともなく、帰宅を促す物哀しいメロディが聞こえてくる。

刈谷橙一/2

「面倒なようなら、橙一は先に帰っても構いませんよ。わたしは──おにいさんの無事を確認するまでは断固として、諦めません」
 蒼衣は恨めしそうに、目の前の扉を爪で引っ掻くような仕草をしている。締めだされた飼い猫のようだ……。橙一は腕組みして、そんな妹をぼんやり眺める。
「おまえを置いてけるかよ、けっこうウチから遠いだろこのへん。バイクの後ろに乗っけてやるから、今日はもう帰ろうぜ」
「いいえ、橙一の世話にはなりません。さいあく、終電まで粘るか……。あるいはタクシーを拾いますので、お気遣いなく。橙一と二人乗りなど、ぞっとしません」
「電車に乗るにしてもタクシー拾うにしても、ひとりで夜道を歩くことになるだろ。このへんタクシー走ってないから繁華街まで出なくちゃいけねぇし、最寄りの駅から家までも遠いしさ。わけわかんねぇ駄々こねてないで、もう一緒に帰るぞ」
 面倒になって、橙一は蒼衣の手首のあたりを掴んだ。
 蒼衣は嫌がって、身を揺する。だが、腕力では兄にかなわない。
「……おにいさん、もう二週間も学校を休んでいるようなのですよ」
 しばし不満げに唸ってから、蒼衣は観念したように俯いてしまった。
「心配です。わたし、それだけなんです。どうして、そんな簡単なこともわかってくれないのですか──橙一。わたし、何かまちがった行為をしていますか?」
「いや、まちがっちゃいないけどさ。何で、今さら、おまえが時任をそんなに心配すんのか……。しかも、形振り構わないっていうか、やけに意固地になってさ。そこが、よくわかんねぇんだよ。おまえと時任は、他人だろ?」
「ちがいます。わたしとおにいさんは『おなじいのちの、かたわれ』なんです」
 不可解なことを言われたので、橙一には一瞬、意味がわからなかった。おなじいのちのかたわれ──同じ命の、片割れ? どういうことだ?
「しかしまぁ、二週間も不登校ねぇ……。あいつ、いじめられてたのかな。何か暗い青春を送ってるっぽいしなぁ、よく知らんけど。それこそ嫌なことがあって引きこもってるとかだったら、俺らが押しかけてどうにかなるもんでもねぇだろ。お医者さんとかさ、学校の先生とかにさ、任せるべきなんじゃねぇの?」
「事情はわかりません、わかりませんけど……。そういう『ふつう』な理由で不登校になったのではない、かもしれません。うまく言えませんけど、嫌な予感がするんです」
 蒼衣は胸元に手を添えて、泥のような吐息を漏らした。
「もしかしたら、また五年前のように──」
「すみませ~ん♪」
 唐突に、素っ頓狂なぐらい明るい声が響いた。
 蒼衣が「ぎくり」と背筋を強ばらせ、橙一もびっくりして慌てて顔をあげる。とんとんとん、と軽快な足音。アパートの汚れきった階段をのぼって、誰かが顔を覗かせる。
 宅配業者のようだった。両手に、重たそうに段ボールを抱えている。段ボールには見慣れた、ごくありふれたロゴ。着ている業者の制服も馴染み深いものだ、顔は帽子が邪魔でよく見えない。
 小柄だ。中学生、否──ひょっとすると小学生にも見える。高校生としては平均的な背丈の蒼衣の、胸のあたりに頭がくる。子供が、宅配業者のコスプレをしてるみたいですらあった。まだ性が未分化な年代に思えるが、胸元がわずかに膨らんでいる。たぶん女性だ、というか『女の子』である。
 力仕事だろうに、こんな腕力のなさそうなやつが宅配業者を……?
 すこし気になったが、蒼衣と橙一が通路を塞いでいるので通れないらしく、宅配業者は「すみません、ちょっとどいてください」と朗らかに言ってきた。
「あっ、すみません」
『すみません』に『すみません』を返す日本人らしい反応をして、橙一は何も考えずに蒼衣を引き寄せると、通路を譲った。宅配業者は、ぺこぺこ頭をさげてくる。
「やや、どうも。ごめんなさいね、失礼しま~す」
 口調も、どことなく舌足らずだ。やはり、労働していい年齢とは思えない。子供っぽすぎるのだ、橙一は何だか違和感をおぼえる。
「えぇっと、あぁここだ……。すみませ~ん、お届けものでぇす♪」
 宅配業者は、先ほどまで蒼衣がしゃにむに向きあっていた扉へ──時任静の部屋の玄関ドアへ向き直る。そして、元気よくインターフォンを押した。
 何度か繰り返して、反応がないので「あれ?」と首を傾げている。
「あの」
 橙一は、常識的に声をかける。
「その部屋のやつ、いないっぽいですよ」
「あぁ、そう……。困ったなぁ。あなたたち、この部屋のひとの知りあい? えぇっと時任、静さんってひとの。『静』で『いずみ』なんだ~、ちょっと面白い♪」
 くすくす笑ってから、宅配業者はこちらを見上げてくる。
「あなたたち、知りあいなら荷物を預かってくれます?」
「いや、知りあいってほどじゃ──」
 どうしたもんかと、橙一が対応に困っていると、宅配業者はおもむろに扉のドアノブを握った。そして、くるりと回す。
「じゃあ仕方ない、失礼しま~す♪」
 扉が、呆気なく開いた。
 蒼衣が目を丸くして、「え?」と声を漏らした。先ほどから、何度も何度も彼女がドアノブをひねっていたのだ。だが鍵がかかっていたらしくて、開かなかった。それなのに、どうして──考えている余裕もなく、宅配業者が平気な顔をして入室する。
「あっ、えっと」
 蒼衣が慌てて、手首を掴みっぱなしだった橙一を振り払い、つづけて入室する。咄嗟の行動だろう──彼女はずっと部屋のなかを、静を気にしていたのだ。
 橙一も首を傾げながら、それにつづいた。何だか変な事態が起きている気がするが──べつに、大声で騒ぐような異常事態なわけではない。
 何はともあれ、部屋のなかに入れたのだ。静の状況が確認できる、せめて不在であることがわかれば、蒼衣をつれて家に帰れる。そんなようなことを、橙一は考えている。もっと他に考えることがある気もするが、動転していてうまく頭が回らない。
 先頭を行く宅配業者、追いすがる蒼衣、その最後尾を慌ててついていきながら──橙一が状況をうまく整理できないうちに、さらなる異変が発生する。
 最初に目に飛びこんできたのは、床に蹲った時任静だ。長く疎遠だったが、顔立ちに面影がある──一目でわかった。家族のような、幼なじみだったのだ。そこそこ鍛えている橙一に比べれば、ひ弱そうな見た目。繊細そうな、けれど優しそうな細面。なぜかやや薄汚れた高校の制服姿で、頭から毛布をかぶっている。
 静に目がいって気づかなかったが、どうも室内はおかしなことになっている。隙間がないほどびっちりと、家具や家電が一カ所にまとめられていて、その隙間に静がいる。ジグソーパズルの最後のピースみたいに。
 部屋の壁も、天井も床も、分厚い板で覆われている。それらは急いで打ち付けたような、折れ曲がった釘で留められていた。何だこれは、と橙一は異様なものを感じて後ずさる。
 静はなぜか、頭に奇妙な左右色ちがいのヘッドフォンを装着している。色だけでなく、形状も左右で非対称だ。SF的な、映画の小道具にすら見えた。
 彼は酷い風邪でもひいたみたいに震えながらも、部屋に踏みこんできた闖入者たち──橙一たちに気づいて、顔をあげる。目元に、くっきりと隈が浮かんでいる。
「あ、あぁ──」
 静は怯えたように身を丸めて、不意に信じられないぐらいの大声で怒鳴った。
近づいちゃ駄目!」
 その瞬間だった。
 橙一は、いちばん遠くから事態を眺めていただけなので、判然としないが……。いろんなものが同時に、断片的に視界をよぎったのは見えていた。
「おにいさん!」と叫びながら、一直線に静へと駆け寄ろうとしている蒼衣。そんな彼女を制するように片手を挙げて、床に置いた段ボールを荒っぽく引き裂いてなかみを取りだそうとする宅配業者。
 そして静のヘッドフォンが右耳のほうだけ弾け飛び、その奥から、つまり彼の耳から何か名状しがたい黒くて冷たそうなものが濁流のように溢れだして──。
 その黒いものに全身を洗い流され、覆われて、橙一の意識はそこで途切れる。

刈谷橙一/3

 笛の音が、聞こえる。
 空気を鋭く貫き、震わせて、その麗しい音色は身体の奥──心臓を射抜くようにして弾ける。笛の音は途切れなく響き、そのたびに全身の細胞が賦活していく。力強い、励ますような演奏だった。
 その笛の音に誘われるようにして、橙一は目を見開いた。
 しばし当惑し、ぼうっと流れつづける演奏をただ聞いていた。そこで、ようやく痛みがくる。全速力で走っていた自転車から放りだされた直後みたいに、橙一の全身はぼろぼろだ。高校の制服は擦り切れ、あちこちから出血している。
「痛ぇ──」
 呻いたが、動けないほどの重傷ではない。橙一は学校では不良で通っているため、喧嘩を吹っかけられることもおおい。この程度の生傷をこさえるのは、日常茶飯事だ。
 血の混じった唾を吐き、うつ伏せに倒れていた橙一は地面に手を置いて身を起こす。
「……ん?」
 否、指先に触れたのは地面ではない。何かもっと、やわらかいものだ。
 違和感をおぼえて真下を見ると、橙一の手のひらはぐったりと倒れた蒼衣の胸元あたりを押しつぶしていた。異様にやわらかくも後ろめたい感触に怯えて、橙一はすぐ手をはなした。
「蒼衣。おい、大丈夫か」
 どうも自分は妹を──蒼衣を下敷きにして、倒れていたらしい。よく覚えていないが、咄嗟に蒼衣を庇って身を伏せたのだったか。
 そんな橙一の献身が実ったか、蒼衣には傷ひとつなさそうだ。たしょう制服や顔が汚れ、脳しんとうでも起こしたのか失神しているようだが。
 動かさないほうがいいかと思い、橙一は蒼衣の頬を何度か叩いてから、反応がないのでそれ以上は触れずにおく。ようやく、周囲を見回した。
「何だこりゃ……?」
 だが、視界が判然としない。土煙が濛々とあがり、いつの間にか陽も沈んでいて周囲は真っ暗闇だ。目元を擦ったが、ほぼ何も見えない。
 いったい、何があったのだろうか──。
 手探りすると、周囲には瓦礫が散乱している。コンクリ片に鉄骨、家具や家電の残骸、大量の土砂。古アパートが倒壊したかのような有様だ、いや実際そうなのだろうか……。大災害の直後のような、悪夢めいた光景だった。
「……あっ、起きたの?」
 不意に、流れつづける笛の音を伴奏にして歌うような、楽しげな声が響いた。
「寝坊助ね! まぁでも、良い子は寝る時間かしら?」
 女の子の声だ。
 高飛車で、偉そうで、でもどこか気遣うような優しい響きも含まれている。
「あたしも良い子だから早く寝たいんだけど、このまま寝ないで朝を迎えて『ものすごい早起き』って言い張るべき? すごい良い子ってことになるわよね、どうどう?」
 ようやく暗闇に目が慣れてきて、橙一はその声の主がどこにいるのか察した。
 すぐ間近だ。手をのばせば届く距離に、奇妙な少女が立っている。
「んもう、返事を期待してるのだけど? ううん、冗談を言ったのだから笑ってほしくもあったわ! でも現実ってうまくいかないのね、ようやく対話できるひとに出会えたのに?」
 やはり歌うような、独特な抑揚で止めどなく喋りながら──。
 非現実的な少女が、ピアノでも演奏するみたいに両手を広げて立っている。
「ノイズ! ノイズ! ノイズ! 苛々しちゃう、会話っていう演奏を楽しみたいって願ってたのに! ストレスばかりが溜まるわ、それが重なってノイズになる!」
 その少女は肩越しに橙一を振り向いて、拗ねるようにくちびるを尖らせる。
「……どうしてくれるのよ?」
 橙一は、その少女の非現実的な華麗さに、息をのみ呆然とする。
 目を奪われてしまった。もしかしたら、心までも。
 その少女は、橙一と同年代かほんのすこし幼い程度の年齢に見える。
 気の強そうな、すこし太めの眉。絵本から抜けだしてきたみたいに、愛らしくも豪奢なドレス姿。長手袋で覆われた指先が、繊細に踊っている。
 光の輝きを固めたような白金色の髪は長く、麗しい。瞳の色は、宝石の青。光が溢れる青空に、太陽が輝いているような──陰鬱な周囲の景色を奇跡のように塗り替える、前向きな明るさの結晶のような少女だった。
「えっと──」
 思わず見とれてしまって、橙一は混乱していたのもあって意味のあることを言えない。けれど反応があっただけで嬉しかったのか、少女はとびっきりの笑顔になる。
「そうね、また順番をまちがえたわ。反省しつつ、あらためて自己紹介をしましょう」
 姿勢を動かさないまま、お上品に会釈して。
「そうね、キャロルって呼んで。今はちょっと何ていうのかしら──飼い犬に手を噛まれている真っ最中だから、これ以上の自己紹介は後回しにするけど」
 キャロルと名乗った少女は、上機嫌に微笑みながら問うてくる。
「それで、あなたの名前は?」
「と、橙一。刈谷、橙一」
「ふぅん。橙一、橙一、橙一……。そっちで寝ている、女の子は?」
「あっ、こいつは妹の蒼衣だけど」
「蒼衣……。蒼衣、蒼衣、蒼衣。蒼衣と、橙一。綺麗な響きね、なぜかしらね──知っている気がするわ。あなたたちのことを、守らなくちゃって思うわ」
 問われるがままに名乗ると、キャロルは噛みしめるように何度も口のなかでこちらの名前を反復してから、前へと向き直った。指揮者みたいに手を振りあげ、いまだ土煙でぼやけた空を指さすと、そのまんま振りおろす。
「理不尽でちょっと困った事態が進行中だけど、なぜだか気分は悪くないわ。歌いだしたい気分っていうのかしら、まだ歌はあまりよく知らないけど」
 キャロルの指がおろされた先、そこに奇妙な物体が浮遊している。
「演奏なら、大得意よ。伴奏だけではちょっぴり寂しいから、橙一──初めてあたしと対話してくれたあなた、あなたの歌を聞かせてくれる?」
 それは武器のようにも、楽器のようにも見えた。

刈谷橙一/4

 キャロルの正面に、物理法則を無視して楽器のようなものが浮遊している。
 材質は煉瓦のようだ。粘土に砂を混ぜて焼いたもの──同じかたちをしたそれらが、積み重なっている。それらは各々がジグソーパズルのように連結し、ひとつのかたちを形成していた。
 巨大な、弓矢のように見える。キャロルと、ほぼ同等のサイズ。
 煉瓦のあちこちに高温で融かされた金属──おそらくアパートの鉄骨を加工したようなものが付着しており、やはり弓のように反り返ったかたちに繋がっている。
 闇夜のなか、奇妙な輝きを放出するその弓矢を、キャロルは撫でる。
 鍵盤を奏でるように、指先で触れていく。
「咄嗟だったし、たいした素材がなかったのよね──」
 飾り気のない無骨な、神話の武器めいた弓矢を眺めて、彼女は溜息をついた。
「良い楽器を使わないと、良い演奏はできないわよね。これって気持ちの問題? それとも確定的な事実? 返事をしてよ、拍手だけでもいいわ!」
 キャロルが焦れたように叫んだ瞬間、奇妙な弓矢はひときわ強く輝いた。
 星々が瞬くような輝きは刃のかたちになって、真っ直ぐに射出される。やはり弓矢なのだ、だが同時に澄んだ笛の音もする。楽器なのか、武器なのか。
 先ほどから響いていた笛の音は、キャロルが放つ攻撃の音だったのだ。
正確なテンポイン・テンポで!」
 キャロルが自身の言葉どおり一定の調子で指を振りおろし、そのたびに弾丸のごとき光の矢が放たれる。
 物理的な威力があるようには見えぬ演出的なその輝きの刃は、空気を貫き、橙一たちの周囲を覆っていた土煙を吹っ飛ばした。
 視界が、一気に拓ける。
 やはり周囲は、災害の直後みたいだった。時任静の住居であった古アパートは、紙くずめいた瓦礫の山になっている。近くに見覚えのある汚れた小川が流れていなければ、遠い異世界の荒野に飛ばされたのかと勘違いしそうだ。
 辺鄙な土地柄ゆえに、周囲に人家はあまりない。けれど騒ぎを聞きつけたらしい野次馬たちや救急車、消防車、パトカーなどが遠巻きに取り囲んでいる。ガス管にでも着火したのか、紅蓮の炎が橙一のぎょっとするほど間近でめらめらと燃えている。
 この世の終わりのような光景のなか、熱気で歪む橙一の視界の真ん中に立つキャロルが焦れったそうに身を揺すった。何度も何度も、その指先が奇形の弓矢の表面を撫でる。
 そのたびに射出される光の矢が向かう先に、黒い竜巻が渦巻いていた。
 他に表現のしようがない、ヘドロを集めたような黒いものがぐるぐると旋回しているのだ。それは風圧で周囲のものを巻きあげ、吸引している。聞くに堪えない、異音も響かせている。周りのすべてを捕食しているように見えた。
 何かを取りこむたびに、その黒いものは明確なかたちを形成しようとしている。
「んん、固定される前につぶさないと──半音高くシャープに!」
 力強くキャロルが叫ぶと、先ほどよりも巨大な光の矢が放出される。
 だが黒い竜巻はそれを弾き、まったく勢いを減じることなく周囲の物体を取りこみつづける。
 地上に出現したブラックホールのようなそれを、キャロルはやや下品に歯ぎしりして睨んだ。迷うように指先を左右に動かし、それを恥じるように太めの眉を吊りあげた。
「どうして言うことを聞かないのよ! あたしのノイズ、あたしの感情なのに!」
 その指先が滑るたびに、ちがう音色が響いた。笛の音からピアノの音へ、ギターの音から橙一が耳にしたことのない異国の楽器が奏でるような音へ──そのたびに、射出される光の刃が変化する。氷の矢、炎の矢、物理的な砲弾めいた鋼の矢……。
 ひとつの楽器で、様々な音色を奏でる。電子キーボードのような代物なのだろうか、キャロルの正面に浮遊する楽器のような武器のようなそれは。
 だがキャロルは初心者めいて、それを上手に使いこなせていないように見える。やたら小首を傾げながら、彼女は黒い竜巻に有効な音色を探しているようだったが──。
「あわっ!?」
 不意に、キャロルが足払いをされたみたいにバランスを崩した。暗くてよく見えないが、彼女の愛らしい靴とストッキングで覆われた足に──黒いものが、絡みついている。
「やだもう、リードを引っぱるのね! 躾のなってない犬!」
 顔を真っ赤にして怒鳴るキャロルが宙に浮いて、ふんわりした彼女のスカートがめくれあがる。そのまま、キャロルは黒い竜巻のほうへ思いっきり引っぱられた。
 足首に絡まった黒いものが、触手めいて彼女を牽引している。その怪力に華奢なキャロルは抗えずに、けれど悲鳴をあげることもなく奇妙な弓矢を空中で掴んだ。
「このっ、どっちが主か知らないわけじゃないでしょう!?」
 吠えながらキャロルはまた光の矢を放ったが、弓矢ごと呆気なく黒い竜巻へと吸い寄せられるように舞う。橙一は慌てて、咄嗟に彼女へ向かって手をのばした。
「おいっ、掴まれ!」
 思考は、いまだにこの奇妙な状況に追いついていない。だが目の前で窮地に陥っているキャロルを、本能的に助けたいと思った。また五年前みたいに、妹みたいに失いたくない。
「橙一」
 キャロルはこちらの名前を呼んで、すこし意外そうに愛らしく瞬きをした。
「嬉しいけど駄目よ、演奏者でも歌手でもないものが舞台にあがっては……。あたしは大丈夫よ、だからそんな顔をしないで」
 必死にのばされた橙一の手を、その表面を愛おしそうに撫でてから、けれどキャロルはその指先を掴むことなく遠ざかっていく。
 宙で猫のように身を丸めて、姿勢を整えると、キャロルは弓矢を両手で掴んだ。
「直接! 痛くして躾ける! 即興曲アンプロンプチュで!」
 弓矢が、キャロルの手のひらのなかで大剣のかたちに変形。彼女はそれをしっかり握りしめて、偶然だろうが示現流の蜻蛉の構え。その一撃にすべてをこめる、武芸者の振る舞い。完璧な演奏者である彼女は、最適な動きを教わらずとも的確に選択するのか。
「でぇええい!」
 あまりエレガントではない雄叫びをあげて、キャロルは大剣を黒い竜巻に振りおろした。超重量の太鼓めいた、低く響く打撃音。一度でなく、二度、三度、いつまでも──。
 七色の輝きが、打楽器の音色とともに迸る。
 黒い竜巻が生物のように仰け反り、耳障りな不協和音を放った。
 空気が震撼する。魔物の断末魔の声のようなその音が不愉快なのか、キャロルは眉をひそめて「もういっちょ!」と大剣で斬りつける。
 大剣の刃は黒い竜巻のなかばまで食いこむが、完全に切断するには足りない。引っぱられて宙を舞っているキャロルは、地面を踏みしめることもできずただ大剣の重みのみで斬っている。威力がのせられず、斬撃が軽いのだ。
 彼女の大剣は、黒い竜巻の表面をわずかに削るのみ。だが、わずかでもこの不可解な敵に、災害めいたものに損傷を与えている。
「このっ、壊れた楽器! ノイズ! その耳障りな音を鳴らさないでっ、頭痛がする!」
 ならば数で勝負、とばかりにキャロルは何度も何度も黒い竜巻を打擲する。
 この勢いのままに、黒い竜巻を粉みじんになるまで削り取るか──と思われたが、それを嫌がるように黒い竜巻が動いた。見る間に周囲から引き寄せて取りこんだ瓦礫などが溶けて混じり組みあわされて、ひとつのかたちを形成する。
 その全体像は、禍々しい獣のようだった。狼に似ている。地面を踏みしめる獰猛な四肢。だがその獣には頭部がなく、その表面は生々しい光沢のある黒い金属で覆われている。
 異様な機械の集合体、あるいは全身を鎧で覆われた野獣──。
「生意気! いっちょまえに楽器のつもり? 実体化するなんて!」
 それはキャロルが気にせず打ちおろした大剣の一撃をわずかに凹みながらも耐えて、猛烈に駆けだした。いまだ遠巻きにこちらを見ている野次馬たちとは逆方向を目指して、積み重なった瓦礫を枯れ葉のように散らして──前へ前へ。
 黒い小川をひとっ飛びで跳び越して、どこへともなく走り去っていく。
「わっ、このっ? どこに行くのよっ、さっきからあたしを無視してる!」
 黒いもので繋がったキャロルは、まさに散歩ちゅうの飼い犬に引っぱられるみたいに黒い獣に道連れにされている。宙を右へ左へ振り回されながら、海で溺れたものが流木に縋るように、自身の大剣に必死にしがみついて……。
 騒がしい黒い獣とお姫さまめいた少女──キャロルは、そのまま橙一たちを置き去りにして遠ざかっていった。
 一瞬だけ、耳が壊れたのかと思うほどの静寂が充ち満ちた。

刈谷橙一/5

 橙一は、呆然とするしかなかった。
 先ほど己の目の前で発生していた異常事態は、時間にすればほんの数分間だっただろう攻防は……。これまで、それなりに平々凡々に生きてきた橙一の常識を根底から引っ繰りかえし──めちゃくちゃにかき混ぜる、ありえない出来事だった。
 謎の少女が、災害めいた黒いものと不可思議な戦闘をしていた。すべて夢だったと片付けるのは簡単だが、何度も瞬きしても、頬をつねっても状況は変わらない。
 現実である。瓦礫だらけになった古アパートの跡地で、橙一はひたすら当惑する。
「間抜け面をしないでください、余計に馬鹿に見えますよ」
 一種のショック状態だった橙一に我を取り戻させたのは、冷たく響く妹の声だった。
 橙一にほとんど押し倒されている状態のままだった蒼衣は、ひどく不本意そうにこちらを睨みつけている。橙一の顔面を鷲掴みにして、ぐいぐい遠ざけようとする。
「橙一。どいてください、邪魔ですよ」
 自分を身を挺して守っていた──と表現できるほどには何もしていないが、それでも庇うようにしていた橙一に対して感謝どころか、とくに何の感想もないようだ。
「兄妹でなければ、痴漢、と叫んでもいい状態ですけど?」
 慌てて橙一が横にどくと、蒼衣は身を起こして鬱陶しそうに髪をかきあげた。深々と、吐息。そして先ほどまで気絶していたのが嘘みたいに、迅速に立ちあがって歩きだす。
 そんな妹を、慌てて橙一は追いながら気遣った。
「おまえ、大丈夫か? どっか、痛いところはないか?」
「橙一、バイクの運転はできますか?」
 こちらの質問には答えずに、蒼衣はちょっと脈絡のない質問をしてくる。問われるまでもなく、このアパートまで橙一はバイクで蒼衣を送ってきてやったのだが。
「そりゃ、できるけど……。何でそんなことを聞くんだよ、もう帰るのか? まぁ、そうするべきなんだろうけど──俺のバイクはほら、お陀仏だし」
 廃アパートの倒壊に巻きこまれるかたちで、橙一のバイクがあったはずの駐車場も瓦礫に押しつぶされている。橙一の愛車も圧壊したか、運良く無事に掘りだせたとしても動かせる状態ではあるまい。あぁ、まだローンが残っているのに。
「では、これを」
 素っ気なく蒼衣が視線を向けた先に、奇妙なバイクが鎮座していた。
 子供が想像で、うろ覚えで絵に描いたような不格好な形状をしている。それは一般的なバイクよりも、むしろ先ほど駆け去っていった黒い獣に似ていた。継ぎ接ぎめいた、まだらに色が配置された凸凹の車体。金属質な硬質タイヤ。いちおう二輪駆動として成立しなくもない基本的な仕組みは備わっているようだが、改造バイクにしても異様だ。
 こんな代物が、この場にあっただろうか……。不意に、どこからともなく出現したようにすら思えた。アパートの倒壊に巻きこまれなかったのか、不自然に新品どうぜんに汚れひとつない。蒼衣はそれに、身軽に飛び乗った。
「橙一が運転しないなら、わたしが──」
「おい待て。それ、誰んだよ。勝手に乗っちゃまずいだろ、ってか蒼衣おまえ──まだ運転していい年齢としじゃねぇよな?」
「この状況で……。そんな、免許とか、つまらないことを言うのですか?」
 蒼衣はなぜか眩しそうに橙一を見ると、バイクに女の子座りする。ただ尻を乗せているだけに見えるのに、瞬間、バイクに熱が入ってエンジン音が響き始める。
 バイクが意志をもち、生命をもち、ひとりでに動きだしたように見えた。
「橙一。いいのですよ、わたしは……。ひとりでも、おにいさんを追いますから」
「おにいさんって、時任のことだよな。そういや時任は、無事なのか? 『追う』ってどういうことだよ、意味わかんねぇよ──寝惚けてんのか、蒼衣?」
 今さら幼なじみの安否が気になり、橙一は周囲を見回す。バイクが勝手に走りだしてしまいそうだったので、ひとまずその座席シートに跨がりながら。
「ええ。ずっと、寝惚けているようなものですよ……。夢と現実の、隙間にいるみたいな気分です。橙一、だからあなたが必要です」
 蒼衣は、どこか譫言めいたことを口にする。そして昔よくそうしていたように──橙一の背中に、頭を擦りつけるようにして抱きついた。
 みょうに生々しい妹の体温に、橙一が戸惑っていると。
「君たち、無事かい?」
 足音が響く。見ると、そろそろと近づいてきていたパトカーがすぐそばに停車し、なかから二人組の男がでてきていた。どっちがどっちか見分けがつかないほどよく似た、眼鏡をかけた生真面目そうな、平凡な警官たちである。
 ひとりは橙一たちに心配そうに歩み寄ってきていて、もうひとりはパトカーの車内から繋がった無線で、どこかに連絡をとっている。
「ええ。そうです、いつでも尻ぬぐいですよ……。ええ、アマボンズが、あの口先だけの子供がしくじったみたいで。まぁ、最終的に帳尻をあわせるんでしょうけど」
 警官が、苛立った様子で無線に不可解なことを言っている。パトカーはやや離れているのと、バイクから吐きだされるエンジン音のせいで聞き取りづらい。
 もうひとりの警官が、にこやかに歩み寄ってくる。
「どこか怪我をしているなら、病院まで送っていくから──」
「橙一。無視して、突っ切ります」
 蒼衣が橙一に身体を押しつけるようにして、ハンドルに手をのばした。握りしめる。同時にバイクが前輪を跳ねあげて、馬の嘶きのような快音を放った。
 そのまま、急発進する。警官が驚いたように、蹈鞴を踏んで後ずさった。
 バイクは即座に加速し、爆音をあげて警官の真横を通過──Uターンして、先ほどキャロルと黒い獣が消えていった方角へと猛進する。
「おわっとと!?」
 橙一は慌ててハンドルを握ったが、振り落とされないようにするだけで精一杯だ。バイクは勝手に走り、小石や土を跳ねあげながら積み重なった瓦礫に突進。坂のようになった瓦礫を駆けあがって、宙を舞った。
 小川を跳び越し、そのまま直進。心臓に悪い、無軌道な走りかただ。橙一は悲鳴をあげたが、蒼衣は「舌を噛みますよ」と平然とぼやくのみ。
「急ぎましょう」
 蒼衣はあらためて橙一に密着し、一心に祈るように頭を擦りつける。
 慌てて警官たちが飛び乗ったパトカーが、サイレン音を響かせながら追ってくる。

刈谷橙一/6

 高速道路を、黒い獣が疾走している。
 踏みしめるたびにアスファルトには亀裂が走り、周囲にはパニックが広がっていく。
 趣味の悪いCG合成のような光景に、のんびりドライブを楽しんでいた家族連れやトラックの運転手たちは大混乱だ。
 次々と急停止し玉突き事故を起こし、あるいは運転を誤って道の外に飛びだし、追突されて横転し──ポップコーンが弾けるみたいにめちゃくちゃな状態になる。交通事故による火災、それに伴う煙と、罵声やクラクション……。
 やはり周囲に災害の直後のような景色を広げながら、黒い獣はひたすら直進しつづける。その行き先は誰にもわからない、あまり明確な目的地があって移動しているようにも見えない。
 黒い獣は勢いを減じずに転がった車を飛び越えて、着地。再び駆ける。それを何度も何度も繰り返し、驀進する。
 高速道路の左右には高い壁が屹立し、道路の外まではこの喧噪が伝わっていない。だが報道され、未曾有の交通事故の現場として名を残すのも時間の問題であろう。前代未聞の大惨事のなか、黒い獣は左右の壁を利用して立体的に跳躍までして、前へ進む。
 それを追う、一台のバイクがあった。
 橙一と蒼衣が乗る二輪駆動だ、こちらも黒い獣と見比べて遜色ない異様なフォルム。タイヤがどういうグリップをしているのか、車体を地面と平行に倒して壁を走っている。
 橙一は声をあげることもできず、必死でバイクにしがみついている。運転しているというより、ただバイクから振り落とされないようにするだけで精一杯だった。
 ヘルメットもつけていない。ひたすら尋常ではない速度で、ここまで走ってきた。大量に転がった車をときには跳び越し、こうして壁を走るという曲芸までして……。ただ跨がっているだけなのに、とんでもない暴れ馬に騎乗しているみたいに疲弊していた。
 だが、後ろには妹がいる。自分がバイクから落ちれば、かわいい妹も道連れだ。それを危惧し、橙一は死にもの狂いでバイクに縋りついている。
「ふむ、追いつきましたね」
 声なき声をあげて恐怖する橙一に抱きついたまま、蒼衣が無感情につぶやいた。
「……どういう状況でしょう?」
 速度では、黒い獣よりバイクのほうが勝っている。やがて追いつき、併走する。橙一も気づいて、恐る恐るとなりを走る黒い獣を見た。
 スピードはこちらが上だが、サイズは黒い獣のほうが勝っている。間近に、異様な、巨体の怪物がいる……。冷や汗を流しながら、橙一は気づいた。
「キャロル!」
 呼びかける。高い位置なのですぐに気づかなかったが、黒い獣の背中にあの可憐な少女──キャロルが座っている。相変わらず足に黒いものが絡みついたまま、つまり黒い獣と有線接続されたまま、不満そうに胡座をかいていた。
「橙一」
 ちょっと驚いたように名を呼んでから、キャロルは不作法を恥じるようにお上品に座り直した。それこそ、優雅に乗馬を楽しむ上流階級の淑女みたいに。
 バイクを運転するみたいに、黒い獣を操縦しているみたいに見えるキャロルは──困り顔で、語りかけてくる。
「どうやっても無理なのよ、あたしでは倒せないみたい。こいつをね、傷つけることはできないの。だって自分自身なのよ、これはあたしのノイズなのよ──腹立たしいことにね。何度か試して、弓矢で、剣で、銃で、仕留めようとしたけど無意味だって悟ったわ」
 キャロルは深々と溜息を漏らして、己が座った黒い獣の背中を撫でた。
 すでに彼女の武器である、あの変形する不可思議な物体もどこかに収納してしまったらしい。もはや戦っていないのだ、彼女はひたすら『うんざり』している様子だ。
「でもね。収穫もあったのよ、こうして寄り添って……。あたし、ひとに話を聞いてもらいたいって主張してばっかりで──でも一方通行で、会話になってなかった。だからね、この子の話を聞いたの。理解したいと思ったのよ、それで何がわかったと思う?」
 問われたが、橙一が返事に困っているうちに──バイクが黒い獣に体当たりを仕掛けた。
 激しいショックに、橙一は跳びあがる。強かに尻を打ちつけて痛めながらも、驚いてバイクを見た。ハンドルを握り、操縦しようとしたが、バイクは勝手に暴れている。
 何度も何度も、バイクは黒い獣に真横からぶつかっていく。
 嫌がるように、黒い獣がまた不協和音を響かせた。
「ちょっと、何をするのよ! あわっ、わわっ?」
 キャロルが危うく、黒い獣から落下しそうになる。バイクとちがってハンドルなどの取っかかりがないのだ──彼女は何回転もして、黒い獣の表面を滑っていく。
 その間にも、周りで次々と交通事故が起きている。不運な車が激突し、独楽のようにスピンしていく。無数の車のヘッドライトが、くるくると回転しながら七色の光を暗闇に投げかける。
 幻想的ともいえる、奇妙な光景のなか──。
「ふんぬ、ぬぬ……!」
 自らの足に絡まった黒いものをたぐり寄せ、キャロルはどうにか吹っ飛ばされずにぎりぎりのところで踏ん張る。硬質な獣の背中に何度も全身をぶつけたせいか、負傷し、おでこに流血が滴っていた。
「痛いわね! これが痛いってこと? 傷つけあうって哀しいことね!」
 おおきく口を開いて、彼女はオペラのように感情的に叫んだ。
「これは『あたし』なのよ、あたしのノイズ! 抱えていかなくちゃいけないんだわ、だからあたしには傷つけることができなかった! ねぇ、これは敵じゃなかったのよ!」
 橙一の視界は渦巻き、光と混沌に満たされている。バイクは壁を走り、横転した車をかわして跳躍しながら何度も黒い獣に接近しては激突している。そのたびに、衝撃。蒼衣は橙一の腹のあたりを強く抱きしめ、爪痕すら刻みながら、キャロルを睨んでいる。
「おにいさんを、返してください!」
 その言葉の意味も、どうしてこんな状況になってしまったのかも……。橙一には何もかもが理解できないうちに、事態は進展する。
 猛烈な速度で疾走するバイクと黒い獣、その進行方向。正面、高速道路と一般道路が連結する料金所がある。異常な速度で走るバイクに乗ったままの橙一には、停止しているようにすら見える、小山のように巨大なトラックの荷台の上。
 そこに、ひとりの少女が腰掛けている。

挿絵1

 幼い、小学生ぐらいの年齢だろうか。平坦な胸に骨っぽい腰と、手足。
 奇妙なファッションをしていた。冷えこむ季節なのに、南国風に日焼けした肌をほとんど露出している。限界まで短くカットしたジーンズ。上半身は目に痛い原色の帯めいたものをてきとうに巻きつけただけ。頭部には、『あっかんべ』をしている漫画的な両目と舌をだした口元が描かれた、バンダナで覆われている。
 素足に、時代錯誤のローラースケート。
 不安定な、法規制を越えた速度で走るトラックの上で呑気に腰掛けて、これも季節外れのアイスバーを口にくわえている。
 どこかで見た顔だ、と橙一は思った。
 すぐには思いだせなかったが、やがて気づいた──橙一が奇妙な状況に巻きこまれる直前、あの古アパートで、時任静に荷物を届けにきた宅配業者だ。服装がだいぶ変化しているが、まちがいない。なぜ、彼女がここに? 何者なのだろう?
 奇妙な少女はのんびりと、迫りくる黒い獣とバイクを一瞥する。
「あ~……あ~らら、お姫さま、名乗るのが礼儀なんだろうけど。これ以上、被害が拡大すると困るんで。そのへん省略して、ちゃっちゃとお仕事させてもらうよん」
 相対速度の差で、徐々に近づいてくるトラック。その荷台の上で軽やかに立ちあがると、奇妙な出で立ちの少女はバンダナに描かれたのと同じ、あっかんべの表情をする。
アサルトじゃ無理っぽいから、今回はボーンで。始まりの鐘を打ち鳴らすよ、終わりのラッパはまだ鳴り響かない。ってことで、ちょっと洒落てるでしょ?」
 カットジーンズの腰に拳銃のように吊られたちいさなラッパを、指先で撫でる。そして彼女はサッカーのフリーキックをするみたいに、片足を真後ろに振りあげて──。
 思いっきり、何もない空間を蹴った。
 鐘を打つみたいに振り子運動をした彼女の足裏、ローラースケートから次々と車輪が分離してこちらに迫ってくる。否、それは車輪ではない。ずんぐりむっくりした形状の、大昔の遺跡から発掘されたみたいな薄汚れた鐘である。
 びみょうに形状とサイズの異なる鐘が、十個弱、奇妙に揺れながら飛来する。
 ちいさな鐘から放たれているとは思えない、世界を震撼させるような巨大な音が響く。
 それらの鐘は慣性に従ってゆるやかに宙を舞い、追いついてきた首無しの黒い獣の本来ならば頭部があるはずの位置に──着弾、と同時に大爆発を引き起こした。
 衝撃にバイクごと吹き飛ばされ、橙一は咄嗟に蒼衣を抱き寄せる。
「おにいさんっ、おにいさん! おにいさあん……!」
 蒼衣は必死に、何もかも目に入らぬ様子で手をのばしている。
 その手のひらの先、目映い爆発の輝きのなかで、キャロルがこちらを見ている。
「あぁ、そういうこと……。じゃあ、あたしは永遠に手も繋げないのね」
 橙一と目があって──彼女はちょっと困ったように、はにかんだ。
「さっき名前を呼んでくれたわね、橙一。縁ができたってことよね、それがすごく嬉しいわ。また会えたら、こんどは歌を聞かせてね。あたしが、伴奏するから」
 そして鍵盤を叩くみたいに、指先を華麗に踊らせる。
 そんなキャロルの正面に、またあの不思議な弓矢めいた武器が出現していることを確認した直後。連鎖的な、大爆発──。
 光と、破壊力と、轟音にすべてが塗りつぶされた。

時任静/2

 時任静は、静寂のなかで目覚めた。
 先ほどまで、奇妙な演奏が──でたらめで、意味不明な、いくつもの騒音や、どこか未熟ながらも美しいメロディ……。最後には世界のぜんぶを打ち壊すような、鐘の音などが聞こえていた気がする。今は、まったくの無音だ。
 鼓膜がおかしくなっているのか、と耳元に手を添える。自身で改造した左右で異なる構造と色をもつヘッドフォンが、きちんと装着されている。偏執的に音をカットするこのヘッドフォンのために、うまく周りの音が拾えないらしい。
 左耳は完全防音、右耳からは爆音が流れるこのヘッドフォンは──現在はどの音楽機器にも接続されておらず、なので右耳のほうからはわずかに物音が拾えた。たしょうの防音はするのだが、左側のそれよりは徹底していない。
 右側から、みょうに現実的なサイレンの音が聞こえてくる。
 小鳥の鳴き声も。差しこむ朝陽を感じて、静は目を細める。いつものように頭を抱えて、蹲っているうちに、無為に一日を過ごして夜が明けたのだろうか。
 否。自宅の部屋の窓は完全に防音材で密封されている、光は届かない。肌に、空気の流れも感じる。屋外だ。ここはどこだ
「あれっ──」
 静の周囲には、不可解な光景が広がっている。
 花畑だった。色とりどりの花が咲いている、もう冬なのだが……。きちんと管理され、栽培されている、どこでも見かけるありふれた花々だ。
 顔をあげると、近くに白い建物がある。病院のようだった。遠目に、表札みたいな看板が確認できる。信乃芽総合病院。静は足を運んだことがないが、地元の病院だ。
 でも、なぜこんな場所に……。自分はとうとう本格的に精神を病んで、家族とか、アパートの管理人とかに救急車でも呼ばれてここに担ぎこまれたのか? 否、それならどうして病室などではなく病院の花壇に?
 記憶に、欠落がある。同時に酷い疲労感と、身体のあちこちに痛みもある。
 どうせ病院だし、治療を頼むべきであろうか。だが財布などない着の身着のままだ、保険証もお金もない。そんなことを、ぼんやり考えていると──。
 不意に気づいた。間近に、ぬくもりがある。
 見ると、座りこんだ静のすぐそばに、ぼろぼろに擦り切れて汚れた制服姿の橙一と蒼衣が寝転んでいる。同じ学校だ、むかしは仲良くしていたし──顔を見れば誰だかわかる。
「橙一、くん。蒼衣ちゃん、どうして?」
 何もかも理解できないまま、静はうろたえる。
 ふたりとも怪我をしているようだ、自分はともかくこのふたりは病院へ運ばなくては。すぐそこだ、だが長い引きこもり生活のために筋力が弱っている。ふたりを背負ったりして、運ぶのは無理だ。
 誰かを呼ぼう、病院のひとを。そう思い、静は顔をあげて叫んだ。
「誰か!」
 そして咳きこむ。しばらく、ほとんど声をだしていなかったのだ。かなりの早朝らしく周りには奇妙に人気がなく、静の声に反応するものもいない。
 そのはずだったのに──。
『その様子だと、何も見ていなかったし聞こえていなかったのね? つまり、状況がわからない? 呆れた! ひとの苦労を知りもしないで、のうのうと寝てたのね!』
 ここ最近、静の精神を磨りつぶし、混乱させていた奇妙な声が響いた。
 周りを見るが、当然のように誰もいない。防音構造のヘッドフォンをつけているのに、その声は静の脳に直接──不躾に、傲慢に、響くのだ。
『まったく、何だってあんたみたいな情けないやつと繋がっちゃってるのかしら。そっちの、橙一のほうが百倍ましだったのに。でもまぁ、これが運命ってやつなのよね』
 幻聴だ。そうだと思いこむ。だが、無視できない。
 うるさい。静は耳を塞ぐ仕草をしたが、声は無遠慮に垂れ流されてくる。
『いつまで俯いて、聞こえないふりをしてるの? 動いてよ! いちおう病院ってところまでは到着できたけど、さすがに限界! ここで治療をうければ、元気になるんでしょ? ここから先は、あなたに任せるから!』
 いつものように一方的に、押しつけがましい声は命じてくる。
『あたしは今ちょっと大忙しなのよ、あたしのノイズを躾けているの……。あたしが苛立つとまたノイズが暴れるから、動けないから、あんたが行動するしかないでしょ?』
「何なんだよ……。この声、おまえ、何なんだよ?」
 頭痛をおぼえながらも、静はそばで意識を失っている橙一と蒼衣を見殺しにもできず、ふらつきながら立ちあがる。病院の建物まで行けば、医者や受付のひとがいるはずだ。
 この声は、今は無視しよう。ついでだし、ちょっと本格的に心の病気についてお医者さんに相談してもいい。まずは、動かなくては。俯いて、聞こえないふりをしているだけでは、たしかに何も変わらなかった。意味は、なかったのだから──。
『あたしはキャロルよ、名乗ったのに。あの爆弾みたいなのを放ってきた生意気な子供から逃げるのに全力を使っちゃって、ちょっと死ぬほど眠いのよ』
 声は、たしかに欠伸を噛み殺すみたいな感じだ。
 相変わらず、みょうに生々しい。耳元で誰か知らない女の子がめちゃくちゃ喚き散らしている、どころか──自分自身の発した声みたいに、頭蓋骨を震わせてくる。
『だけど寝る前に、会話できるうちに、とりあえず今日はこれだけ教えてくれたっていいでしょ? 何度も聞いたけど、あんたの名前って何なの?』
「それを教えれば、黙ってくれるのかな……?」
 ひたすら無視してきた声に、静は返事をしてみた。自分の妄想かもしれない、この声と会話をしてしまえば、本格的に心の病のようで怖かった。
 だが今は、それも億劫だ。なぜだか、疲れきっている。ひたすらこの喧しい声を無視しつづける、気力もなかった。
「僕は、時任静。いちおう言っておくけど、頼むからもう黙ってほしいな」
『そう、時任静。静、静、静……。やっぱり、すてきな名前ね。どうしてもっと早く教えてくれないのよ、自信満々に名乗ってもいいのにね。あなたの親とか、誰かがあなたへの愛をこめてつけた名前でしょう? あたしのとはちがってね、それなのにさ?』
 なぜか不満そうだったが、奇妙な声は親しみをこめて告げてくる。
『よろしくね、静! あたしの名前はもう覚えたでしょ、キャロルよ!』
 ちっとも黙ってくれずに、キャロルというらしい何者かは止めどなく喋りつづける。
『できれば末永く仲良くしましょう、あたしたちは一心同体なんだから! あたしは演奏家で、あなたは歌手よ! すてきな声、もっと聞かせてね! 歌って! あたし、あなたの歌にとびっきりの伴奏をつけてあげる!』
「歌なんか、大嫌いだ。前から嫌いだったけど、もっと嫌いになりそう──」
 せめて精一杯の憎まれ口を叩こうとしたが、その前に今度は楽器の演奏が聞こえてきた。頭のなかに、響き渡る楽しげなメロディ。静は頭を抱えて、煩悶した。
「あぁ……。僕は、ほんとうに、もう駄目かもしれない」
 呻いてから、静はふらつきながら歩を踏みだした。
 暗澹とした静の精神状態とは裏腹に、世界は一日の始まりを告げる朝陽の輝きで満たされている。

オープニング/calling  歌/+α/あるふぁきゅん。  曲/かめりあ
【ニコニコ動画でもご覧いただけます】http://www.nicovideo.jp/watch/sm28127002