州上遠乃/1

 人間は死ぬ寸前に走馬燈を見る。
 己の人生の回想を。
 例えば猛烈に突っこんでくる大型トラックや、刃物や銃弾といった、目の前に迫りくる無慈悲な『死』を目前にして――それを回避する方法を、己の人生を反芻し、経験を振り返ることで見いだそうとする。走馬燈とは、そういう脳の働きだと言われている。
『死』というゲームオーバーを避けるための、最後のわるきだ。
 前提として、人間が生命をもつ存在であるかぎり、『死』は最も忌避すべきものである。生命には、生き物には自己を保存しようとする本能がある。先祖代々、受け継いできた遺伝子を後世へ遺すため、まさに死に物狂いで生きようとする。
『死』という終わりを、結末をできるかぎり遠ざけようとする。
 救いのない、第二幕が上演される予定もない最悪のバッドエンドを迎えることなんて、誰も望んではいないのだ。常識的には。普通は。絶対にありえない。
 ただし、例外もある。
 あまりにも苦痛を感じると、不幸だと、人間は死を求めることもある。借金苦で首が回らなくなった、愛しいひとにこっぴどく傷つけられた、むごたらしいほどの苦痛を伴う病気や大怪我を抱えた、などの理由で生きていくことに堪えられずに――。
 死んだほうがましだ、と思って。
 がみとおは考える。そんな死に向かう気持ちもまた、本能に、遺伝子に予めプログラムされていたことだ。遺伝子は、より良いものを後世へと受け継ごうとする。
 死にたい、自殺したい、この生命を終わらせたいと望むものは――たいていどこかで失敗しているのだ。世界に適応できず、何かをやらかしてしまって、にっちもさっちもいかなくなって死を選ぶ。
 そんな馬鹿みたいな失敗作、劣った負け犬の遺伝子を後世へと受け継ぐ必要はない。
 そう遺伝子が判断して、万が一にでもそんなものが世界に残ってしまうことのないように――他の優秀な、勝ち組の遺伝子と交配して子孫をつくってしまうことのないように、さっさと死ね、自殺しろ、おまえは失敗作だから廃棄処分にする~と通告してくる。
 遠乃は、そんな遺伝子からの死刑宣告をうけた負け犬のひとりだった。
 生きている価値のない、人間の出来損ないだった。

州上遠乃/2

 自殺しようと決めて――つらつらと、走馬燈らしい自分の人生を回想していたけれど、まったくひとつも良いことがなかった。不幸の連続だった。死を避ける方法は見つからない。死んだほうがいいよって、世界のすべてに背中を押されている気持ちになった。
 死にたかった。
 消えてなくなりたかった。
 狭苦しい自宅のアパート。かびの生えた寝台でお行儀良く正座して、遠乃は錆の浮いた包丁を握りしめている。最近の包丁は事故防止のためにあまり切れない、武器としては使えないと聞いたことがあるけれど――がんばればお肉も切れる、決して傷ついてはいけない太い血管などに切れこみを入れるぐらいのことはできそうだ。
 それで死ねる。終われる。そう思いながらも勇気がでてこなくて小一時間、微動だにせずにうなれている。遠乃は昔から、かなりの意気地なしだ。
 握りっぱなしの包丁が部屋の照明を反射して、不気味に輝いている。その赤錆で汚れた表面に、遠乃の顔が映りこんでいる。
 見慣れた、痩せて不健康な面構え。美容室などに行く度胸がなくて、自分で適当に切っているぼさぼさの髪。腕には大量の、注射器の跡。遠い昔に、誰かが買ってくれた安物の服。しばらく入浴もしていないので、垢まみれで小汚い。
 室内にいるけれど、路上の浮浪者と変わらなかった。
 今年でまだ二十二歳だけれど、二倍は老けこんで見えた。
「生きてて、良いことなかったなぁ――」
 無意識にお腹を撫でて、遠乃は自嘲する。
「なぁんにも、良いことなかったなぁ……。死にたい、死にたいなぁ――死にたい、死にたい。死にたいなぁ……。うん、じゃあ死ねばいい。死ねよ。死ね。死ね死ね」
 ぶつぶつ言って、ずっと握っていたから手のひらに接着されたみたいになっている包丁を、あらためて自分に向ける。疲れた。もう終わりでいい。これで終わろう。
「あんたなんか死んじゃえ」
 他人を殺すみたいに、遠乃は包丁で己の首筋を掻き切った。

スワシワラ/1

 頸動脈を切断すると、嘘みたいに鮮血がほとばしる。コンビニ弁当やペットボトル、お菓子の袋が散らばった狭い部屋の床も壁も天井も、紅に染まった。
 包丁の切れ味が悪かったし、医学的には首を切ってもそう易々とは息絶えることもない――遠乃は即死もせずに異様な呼吸音を響かせて、しばし苦しんでいた。
 だがやがてそれも途切れ、全身の血液の三分の一ほどを体外に放出した時点で彼女は事切れる。動かなくなり、部屋には静寂がわだかまった。
 州上遠乃という女は、享年二十二歳でこの世を去った。
 親しい友人知人も、家族もいない彼女の死が発覚するのは、近隣住民がたいの放つ異臭に気づいてアパートの管理人に報告する数日後である。
 その瞬間まで、この部屋には何の動きもなかった――はずだった。
 だが奇妙なことに、死亡したはずの遠乃の指先がわずかに動く。指の一本一本が新種の虫のように跳ねて、痙攣し、握りしめたままの包丁を腹部に向ける。
 そして、戦国武将のように己の腹を切り裂いた。切腹である。
 否、それは帝王切開であった――このとき遠乃は妊娠しており、そのお腹のなかには新たな生命が宿っていた。それは邪魔な遠乃の腹の肉が切り開かれたことで、外の世界と触れる。新鮮な酸素を吸入し、それを吐いた。
「あぁ、死ぬかと思った」
 とぼけたような、若い女の声だ。このとき、遠乃のお腹にいた赤ん坊はまだ肉片と見分けもつかないような胎児である。口すら存在しない時期だ。論理的に、日本語を喋るなんてことはありえない。
 だが遠乃のお腹を突き破るようにして生えたのは、成人女性の足である。物理的に、遠乃のお腹に収まっていたとは思えない――遠乃よりも長身の、ひとりの女が這いだしてくる。足につづいて腰が腹が肩が、遅れて頭部がでてくる。
 芋虫のように身悶えして、彼女は全身を引きずりだした。
 先ほどまで遠乃の腹のなかにいたのに、きちんと衣服を身にまとっている。飾り気のない質素な服装。長い髪を、なぜか腕時計で結わえている。端正な顔立ちをしているが、遠乃の血や羊水の混じった液体で汚れていて、美貌も台無しだ。
「でもまぁ――ぎりぎり、間に合ったかなぁ?」
 呑気に語っているのは、『聖楽器』と呼ばれる不可思議な存在をしゅうしゅうする組織によってスワシワラと名付けられた人物だ。時間に干渉する恐るべき『聖楽器』オルゴールの使い手である彼女には、神にも等しい超越的な権能がある。
 今も、命の危機に見舞われて間一髪――時間を移動し、過去へと戻ることでそれを回避したところだった。
「突然だったから、緊急避難するしかなかったけど……。できれば、この時系列には戻りたくなかったよ」
 ぼんやり語りつつ、スワシワラは血まみれの寝台に腰掛ける。そのすぐそばに転がった州上遠乃の屍体を、とくに何の感慨もなく眺めていた。
「久しぶり、お母さん。あぁ、わたしにとって久しぶりっていうことだし……。もう死んでるから、話しかけても意味ないんだけどね」
 回りくどいことを言ってから、スワシワラはゆったり立ち上がる。うまくバランスが取れずに転びそうになり、あわわ、と気の抜けた声をあげた。
「汚れちゃったから、シャワーでも浴びて着替えたいんだけど」
 それも、なかなか難しそうだ。現在のスワシワラは、両腕を失っている。
 スワシワラの認識では先ほど、正体不明の何者かの襲撃を受けたのである。不意打ちだったため対応できずに、スワシワラは両腕を切り飛ばされてしまった。
 本来ならば激痛とショック、失血で死にかねない重傷だが、スワシワラにとってはこのぐらいの負傷は初めての経験ではない。対応策も、準備していた。
「ドグモくん、驚いちゃっただろうなぁ」
 瀕死にしか見えない自分よりも、スワシワラはあの愛らしい同居人――ドグモのことを案じていた。過去へと戻って避難する寸前、彼とは短い会話を交わしたが、あんまり何も大事なことを伝えられなかった気がする。口べたな自分を、スワシワラは恥じる。
 意味深な、死に別れるみたいな言いかたをしてしまった気がする。べつに大丈夫なのに。無駄に心配させて、ドグモが混乱したり自棄になったりして変なことをしてなきゃいいけど。あの子はまだ保護者が必要な年齢だ、そばを離れしまったことを悔やむ。

スワシワラ/2

「早く、あの時系列に戻らないと……。でも、その前に」
 独りごちながら、スワシワラは瞑目する。その身体の奥から、オルゴールの調べが響く。同時に、その喪われた両腕が不自然に元に戻った。
 己の時間を逆回しにして、腕が切り飛ばされる寸前まで戻したのだ。そのようにして、スワシワラは自己を再生することが可能だった。
 他にも色々と、ドグモも含めてどんな親しいひとにも語っていなかった秘策が――秘密がある。それらを駆使して、これまでスワシワラは生き延びてきたのだ。
 この世界を。
「お母さん」
 そっと、スワシワラは新しく生えた手のひらで、遠乃の屍体の頭を撫でる。
「いつも思うけど、自分だけ死なないでよ……。お腹を刺してくれたら、わたしも一緒に死ねたのにね」
「死ぬことが、あなたの望みなのですか?」
 独り言のつもりだったのに、返事があった。スワシワラはすこし驚いて、おどおどと周囲を見回す。周りの景色は変わらない――どこから、声がしたのだろう?
 すぐに気づいた。
 時間を逆戻しにして再構築した、両腕。その付け根のあたりに、何かが巻きついている。銀色の繊維、どこか見覚えがある金属の光沢のある糸だった。
 それが震えて、糸電話のように何者かの声を届けてくる。
「ならば私は、その望みを――願いを叶えたい」
 声だけではなく、次の瞬間には糸が巻き取られ――釣られた魚のように、何者かが時空間を超えて出現してきた。信じられない、スワシワラにも見たことがない現象だった。
 何か、異常な事態が発生している。
 咄嗟にスワシワラは、遠乃が握りしめた包丁を奪って、その銀色の糸に見えるものを切断しようとした。だが糸は強固で、包丁の刃は通らない。
 悠々と、転がりでてきた何者かは――立ち上がる。
 うまく認識できず、その人物の輪郭はぼやけていて不確かだ。男なのか女なのか、老人なのか若者なのかもわからない。声も奇妙に曖昧で、人間味がなかった。
「逃げないでくださいよ。私は、あなたの敵ではありません」
 穏やかに語っている。その人物の詳細は不明で、やけに美しく長い髪だけが印象的だ。スワシワラの認識だと、しばらく自分とドグモが共同生活をしていたあの不思議な屋敷の主人である。『独奏者』、などと名乗っていたか。
 何者なのだ、あなたは誰だ――などとスワシワラは問いかけようとして。
 口をつぐんだ。『独奏者』の正体を、何となく察したのだ。
 彼だか彼女だかもわからぬその人物の、唯一、はっきりと認識できる長い髪――それを見て理解した。髪ではない。糸である、美しい銀色の糸。
 その糸は『聖楽器』の産物であるがために、『独奏者』の輪郭を曖昧にしている他の『聖楽器』のちからを打ち消している。あるいは、わずかに影響させにくくなっている。だからそれだけが、くっきりと見える。
 そこまで考えて、スワシワラは納得した。そして珍しく感情を露わにして――当惑しながらも、悲痛な声を振り絞る。
「あなたは――」
「私は、あなたの味方です。だから、あなたを終わらせてあげましょう」
『独奏者』はスワシワラの声を遮りながら、そう断言した。

スワシワラ/3

 問答無用で攻撃がくる。
 意味不明なことを語りながら、『独奏者』が銀色の閃光――に見えるものを放ってきた。それは切れ味鋭い鋼線のような、彼の麗しく長い髪の毛である。
「ひゃっ――」
 瞬時に、スワシワラはそれを察して動いている。別にその身に宿した『聖楽器』のちからで未来を予知したわけではない、単なる経験則だ。
 何度も何度も時空間を跳躍し、うんざりするほど繰り返してきた――スワシワラの他者とは比べものにならない人生経験が、その身に迫る危機を感知した。
 幼い子供に比べて、大人が道を歩いていてもなかなか転ばないのと理由は同じだ。似たような出来事を経験して無意識のうちに危機を避けるからだし、慣れているからだし、長く付きあってきた肉体の制御の仕方を弁えているからだ。
 普段はぼんやりしているスワシワラだが、さすがに今は昼行灯を気取ってはいられない――集中して、全力で目の前の事態に対処する。
 そんなのは随分、久しぶりなので、上手にできるかはわからないが。
「わっ、とと――」
 頭を抱えて、寝台の上から間の抜けた感じに転がり落ちる。
 狭苦しいアパートの床へと、緊急回避。
 部屋の面積はせせこましいのにスワシワラの図体はでかいので、非常に身動きが取りづらい。床に落ちていた空き缶や雑誌や何だかわからないごみくずなどを弾き飛ばしながら、慣性に従って横移動――壁に激突して停止。
 直後に、攻撃の第二波がきた。
 今度は銀色の髪の毛を格子状に織りあげた、回避の難しい一撃だった。どこかで見た覚えがあるゾンビ映画の一幕が、スワシワラの脳裏に浮かぶ。ドグモと一緒に、あのお屋敷で暇つぶしに観たのだったか。
 残酷な場面がおおくて嫌で、ずっとスワシワラはドグモのちいさな背中に隠れていたような……。そんな自分を、ドグモはさんざん小馬鹿にしたものだ。
 こんなことになるなら、もっと真面目にあの映画を観ておくべきだった。
「んっと――」
 余計なことを考えている暇はない。瞬時に、スワシワラは対応する。
「ごめんね、サイコロステーキみたいに切り刻まれたくないから」
 スワシワラの姿がかき消える。そして、ほぼタイムラグなく再び寝台の上に出現する。先ほど寝台の上にいた瞬間まで、時間を遡ったのだ。ほんの短い跳躍……。それだけで、回避不可能に思えた敵の攻撃に完全に対処した。
 かわされた格子状の銀線が、薄っぺらいアパートの壁を容易く切り刻む。壁材が崩れ落ちて、外から血色の夕陽が差しこんでくる。
 さびれた街並みだ。在来線が間近にあり、電車が通過するごとに轟音と震動が伝わってくる。州上遠乃の流した血のにおいが、吹きこんできた風でわずかに散らされる。
 切り裂かれたほうとは逆方向の壁際に立った『独奏者』が、舌打ちしながらこちらに向き直る。その髪の毛が、美しい短音を響かせながら奇妙に蠢いている。
「ちょっ、ちょっと待って」
 会話をする余裕もなく、矢継ぎ早に攻撃がきて――のんびり屋のスワシワラは落ち着かない。今のところ対処できてはいるが、疲れるし面倒だし怖い。
「な、何で酷いことをするの……。わ、わたし、あなたに何かしたっけ。そうだったら謝るから、怒らないで。ごめんね、ごめんなさい」
 間近にあった、遠乃の血がこびりついた枕を拾い上げて、盾にするようにして抱きしめる。無論、そんなもの『独奏者』の攻撃から身を守る役には立たないのだが。
 情けないそぶりのスワシワラを眺めて、『独奏者』は一瞬だけ何だか不思議な反応をした。呆れているのか何だろうか、ちょっと懐かしそうに目を細めたのだ。
 彼だか彼女だかの輪郭はぼやけていて認識しづらいので、気のせいかもしれないが。
「謝られても困ります」
 やはり曖昧な声でつぶやいて、『独奏者』が己の毛先をつまむ。そのまま無造作に髪の毛を引っこ抜き、こちらにとうてきしてきた。
 弾丸の速度で、銀色の針めいた髪の毛が飛来してくる。
「わわっ……。だ、だから暴力反対」
 スワシワラは先ほどと同じような動きで、寝床から転がり落ちて回避。
「同じ手は通じませんよ」
 だが『独奏者』もこちらの動きを予期していたようで、スワシワラの落下予測地点に先んじて銀色の針を放っている。タイミング的に、避けられない。狙い澄ませた一撃だ――理由はわからないが、『独奏者』は躊躇なくこちらを殺しにきている。
 だが刹那のうちに、スワシワラが再び消える。と同時に、また寝台の上に出現した。再びほんのわずかな過去へとこうし、敵の連続攻撃を回避したのだ。
「う、うう――はぁ」
『聖楽器』は使用するたびに疲労感をおぼえる。ほんの短い攻防のうちに、もうスワシワラはあおいきいきになりかけていた。

挿絵4

 それよりも。
「あぁ……。もう、酷いことをするなぁ」
 スワシワラは抱えたままの枕に頬を寄せて、傍らを眺める。そこに転がったままだった州上遠乃の屍体が、『独奏者』の攻撃を食らっていた。

スワシワラ/4

 スワシワラは『聖楽器』を駆使して敵の攻撃を回避したが、遠乃はすでに物言わぬ屍体だ。普通に、寝台に転がったまま銀色の針が直撃している。ちいさな針にどんな威力がこめられているのか、ほとんど機関銃の掃射でも食らったような有様だった。
 遠乃の右腕の根元は撃ち抜かれ、ちぎれてしまっている。
 安っぽいネイルアートが施された指が散乱し、穴のあいた腹部から内臓がこぼれている。頭部は半分、吹き飛ばされて灰色の脳組織が覗いている。
 彼女の着ていた安っぽい寝間着が千々に引き裂かれ、色紙のように宙を舞っている。
 遠乃が死亡してからそう時間が経っていないため、血液も凝固していない。わずかに溢れて流れ、再び室内に新鮮な血臭が漂う。彼女が好きだったらしい、写真立てに収められたアイドルの生写真が、そんな無惨な彼女を虚ろに見下ろしている。
「お掃除が大変そう。可哀想に、お母さん……。まぁ、どっちみち数日後に発見されるころには腐乱が始まって、ちょっと酷い有様になってはいるんだけど」
 よしよし、とちぎれた遠乃の腕の先、手のひらに己のそれをあわせて――スワシワラは独り言のようにつぶやいた。
「屍体ってさ……。汚くて、見苦しくて、気持ち悪いし……。腐ると異臭を放ち始めるし、虫とかも集まってくる。だから大昔から、人間は屍体を埋葬したり火葬したりして処分して、見えなくするんだよねぇ」
 一方的に攻撃されている真っ最中なのに、散歩の途中でベンチに腰掛けて一休みしているみたいな態度だった。のほほん、としている。
「不気味だもんねぇ、屍体って……。だから臭いものに蓋をして、嫌なものは見ないふりして――隠しちゃう。そんな生理的な理由で行われつづけた行為が、死者への敬意だ、弔いだって、好意的な解釈をされて今に至っている」
 人間は言い訳が上手だねぇ、とスワシワラはにこやかに言った。揶揄するわけではなく、単に思いついたことを言ってみただけ――みたいな態度である。
『独奏者』は油断なく身構えたまま、そんなスワシワラに問うてくる。
「流石です、自分が人間じゃないみたいな発言をしますね。時空間を超越して存在する、神さまのようなものですからね――あなたは。それは人類史を見守り、観察して得た持論でしょうか? 勉強になります」
「いや~……。あなたも理解したと思うけど、わたしは自分が生まれた瞬間より前には戻れないんだ。それが『聖楽器』オルゴールの機能的限界なのか、わたしが『聖楽器』の能力を引きだせてない、下手くそだからかはわからないけどね――」
 スワシワラは、あっさりと己の万能無敵に見える『聖楽器』の限界、弱点めいたものを口にする。戦闘の真っ最中に、敵に急所を晒す行為だ。
 普通に考えれば、馬鹿げている。
 強者のおごりにも見えるが、スワシワラはぜんぜん何も考えていないだけか――あくまで世間話の調子で会話をつづける。
「それ以前のことはわからないし、戻れないから……。今、ちょっとピンチかも。生まれた直後のほんのわずかな時間を行き来して、あなたに対応するしかない。ぜんぶの瞬間、しらみつぶしに攻撃されたら、この時間軸から動けなくなる」
 ここまで『独奏者』の攻撃を回避するために、スワシワラはいちいち過去に戻っている。他に、対処の方法が思いつかなかったからだ。
 だが、逃げ場はほぼ固定されている。
 スワシワラの時間移動には、明確な起点がある。限界がある。それは神さまのような圧倒的なちからをもつ彼女に、付けいる隙にもなる。
『独奏者』が本当にスワシワラを殺すつもりなら、そこを突いてこないわけがない。
 彼だか彼女だかも攻撃を重ねるごとに学習している、延々と同じ行為を繰り返しはしないだろう――いつか、詰め将棋のように試行錯誤を重ねて、スワシワラに致命的な一撃をくわえてくる。そんな気がする。
 ゲームに喩えるとわかりやすい。スタート地点は固定されていて、スワシワラにはひっきりなしに難題が、トラップが、敵キャラが用意される。対処をまちがえばゲームオーバーになって――スタート地点に戻される。
 そのゲームは、どんどん難易度を増していく。障害物を設置している『独奏者』がこちらの動きを確認し、学習し、進路を阻むものを追加していくせいだ。
 否。何かがおかしい。スワシワラは、ふと顔をあげて思案する。ピンチ? そんなわけがない――スワシワラの『聖楽器』はほぼ万能無敵だ、苦難に見舞われる可能性すらない。誰が何をしようとも、決して自分を傷つけることすらできない。
 誰にも、神さまを損なえない。
 そうだ。スタート地点に戻る必要はない。逃げるなら、未来へ逃げればいい。難関ステージを突破した後に、しれっと移動すればいい。スワシワラにはそれができる。
 なのに、今の今までそれを思いつかなかった。馬鹿みたいに、何かあるごとにスタート地点に――母の胎内へと戻っていた。どうして? 何かがおかしい!
「~……♪」
 ふと見ると、『独奏者』がいつの間にかヴァイオリンを演奏していた。銀色の髪の毛を波打たせながら、優雅な所作で楽器に弦を走らせている。
 殺しあいの現場においては場違いな行為だが、それはお互いさまだし、スワシワラは異様な寒気を覚えた。あのヴァイオリンは、おそらく『聖楽器』だ。
『独奏者』の自在に動く髪の毛も、おそらく『聖楽器』だろう。『聖楽器』を複数、所有しているのか。あの組織における優秀なエージェント、A・B・アマボンズと同様に。
「気づきましたか? 今さら遅すぎますけどね――先ほどまでの攻撃は小手調べ、時間稼ぎです。本命の攻撃は、こちらになります」
 ヴァイオリンを奏でながら、『独奏者』は微笑んでいる。
 響く音色がゆっくりと、スワシワラの全身に染みこんでいく。
「質問に答えてください、スワシワラ。私、知りたいことがたくさんあるんです。久しぶりに仲良くお喋りしましょうよ――何でも、私の聞きたいことを話してください」
「う、うん……。そうだねぇ、いつものようにお喋りしようか」
 スワシワラは自然とそう返事してから、己の口元を手のひらで覆った。やはり、何かが変だ。自然と、意識せずに、自分が相手の望むような行為をしている気がする。
 洗脳され、操作されているみたいだ。
 それが、敵の奏でる『聖楽器』ヴァイオリンの能力なのだろうか――否、どこか不正確な推測に思える。頭がうまく働かない、というか自分の思考にいちいち引っかかって首を傾げてしまう。何だこれは。何をされている?
 違和感が渦巻くなか、『独奏者』がいくつかの質問をしてくる。スワシワラは彼だか彼女だかの発言の意味も理解しないうちに、はきはきと答えてしまう。
『独奏者』は満足したように頷き、質問を重ねてくる。
 喋らされている。彼の疑問を解消するために、一生懸命になっている。おかしい。何か、まずい事態が進行している――それを薄々と察しながらも、なぜかスワシワラは相手が求める解答を、次々と差しだしている。高貴な王に仕える、奴隷のように。

スワシワラ/5

「えぇっと――ご、ごめん。ちょっと待って、気分が悪いんだ」
 吐き気がこみあげてきて、スワシワラは身悶える。『独奏者』から、その『聖楽器』の能力によって猛烈に干渉されている……。そんな気がする。
「待てと言われて、待つと思いますか?」
『独奏者』が何だか申し訳なさそうに言って、さらに奏でる音を強めていく。
「確認をしておきましょう。そこで死んでいる女性――州上遠乃が、あなたの母親ですね。貧相なアパートで一人暮らしをしている、とりたてて特徴のない人物です」
「そう……。このひと、わたしのお母さん」
 寝台の上で内臓をぶちまけている遠乃の屍体を、スワシワラは愛おしげに眺める。
「可哀想なひとなんだ。つらい人生だったみたい――苦労ばっかり重ねて、呼吸するだけで大変で、良いことなんかひとつもなかった。勉強も運動も苦手で、変な男のひとに付きまとわれていて、そのひとに面倒で退屈なバイトの帰り道で暗がりに引きこまれて」
 押し倒されて。
 酷い目に遭わされて。
「わたしを妊娠した。名前を付けることもないまま、お母さんは人生を悲観して自ら命を絶った。二十二歳でね……。それが、このひとの歴史」
 スワシワラはゆっくり冷えていく母の手のひらを、そっと握りしめる。指を絡めて、切なくなって吐息を漏らした。この世には、不幸せなひとがおおすぎる。
 その『聖楽器』により過去に戻る権能を得たスワシワラは、当然の好奇心として、己の素性を知りたがった。そして何度か昔に戻り、自分の母親や、己が生まれた状況について調べてみたことがあったのだ。
 数え切れないほど繰り返した時間遡行のなかで、スワシワラはだいたいの事情を把握していた。己の出生について、自分という生命の由来について。
 あんまりドラマチックでもないし、その経緯を辿ってみても愉快な気持ちにはならなかったが……。むしろ気が滅入るだけなので、あまりこの時系列には足を運びたくないぐらいだったが。
 ちょっと知りたかった、己の本当の名前すらも――わからない。永い時間を生きるうちに忘れたものだと思っていたが、最初から名前なんかなかったのだ。お腹に宿した赤ん坊を、名付る前に母は死んだ。不幸と、絶望のなかでスワシワラは生まれた。
「もちろん、大部分は推測だよ。わたしは、このひとが死んだ瞬間までしか戻れない――理由はわからないけどね。わたし、どうもこのひとが死んだあと、数日後に発見されて……。ぎりぎり生きてて、慌てて病院で取りだされたみたい」
 普通は、母親が死ねばそのお腹にいる胎児も死ぬ。機能を停止した母胎のなかで、命を保っていられるわけがない。死産になる。遠乃の屍体が発見されたのは、彼女が死亡してから数日後だ――当然、赤子であるスワシワラもへその緒から栄養を摂取することもできず、飢えて渇いて死ぬ運命だった。
 だが、その身に宿っていた『聖楽器』が、スワシワラを生き延びさせた。『聖楽器』は宿った人間をある程度、身体的に強化する。不衛生で、地獄のような環境でも生き延びたドグモのように。スワシワラもまた、『聖楽器』によって生かされてしまった。
「人間は、生まれた瞬間からこの世界に関わり始める。この世界の運命を、未来を変える資格を得る。わたしが生まれる前後までしか戻れないのも、そのせいかなぁ……。それ以前の歴史に、時間の流れに関わる資格がないんだ」
「いいえ。そんなはずはありません、スワシワラ」
 スワシワラの独白を遮って、『独奏者』が呆れたように首をふった。
「その説が正しければ、あなたはあなたが正確に産み落とされる瞬間――今の時間軸から見て数日後までしか、戻れないはず。今、あなたがここにいる時点でおかしい。生まれる前、本来は母親の胎内にいたころまで、戻れているじゃないですか」
「ん~……。お母さんのお腹のなかで、ある程度の脳組織がつくられたところまで、戻れてるのかなぁ。思考めいたものを有して、人間らしくなったころまでは、戻れる? そう考えれば、矛盾はないのかなぁ。どうだろう、難しいことはわからないけど」
「あなたはそういう思想をもっているから、自分の『聖楽器』の能力に無意識的にリミッターを設けてしまっているだけでしょう。『聖楽器』の能力に限界なんてありません――あなたが本気でそう願えば、もっと過去まで遡れるはずです」
「そうだとしても。そうする理由もないし、意欲もないかなぁ」
 スワシワラは母の屍骸に寄り添ったまま、はにかんだ。
「わたしは、なるべく何もしないのが正解なんだ。歴史に、時間軸に干渉して、ひとの運命をねじ曲げるのは良くないことだよ。殺人よりも、お母さんを絶望させたような犯罪よりも何よりも、おぞましい――いけないことだと思うよ」
「いいえ。それは何にも優先されるべき、尊い行為です。あなたにしか果たせない、大義です。正義です、あなたはこの世界の救世主になれます」
 意味不明なことを言って、『独奏者』はヴァイオリンの演奏に没頭する。
「あなたがそれを望まないなら、私が、代わりにやってあげましょうか――愛おしい、私のかわいいひと」
 その口ぶりに異様な胸騒ぎを覚えて、スワシワラは深く息を吸いこんだ。
 気合を入れて、ひとつのことだけを念じる。このままだと、まずい――状況を変える必要がある。それだけが、本能的に理解できた。
『独奏者』の言っていることの意味は、わからないけど。彼の思いどおりにさせてはいけない。なぜだか、スワシワラはそう確信できた。
 だから。
「ごめん。わたしは自分の『聖楽器』をまともに演奏もできない、ただ流れる音を聞いてるだけの役立たずだけど……。あなたに、これは譲れない。わたしの運命はわたしだけのものだし、誰だって、他人に自分の人生を奪われたくないはずだよ」
 取り留めもないことを言って、スワシワラはいつの間にか膝の上に出現していた己の『聖楽器』――オルゴールに付随するハンドルを、思いっきり回した。
 全身全霊で。
 同時にこの摩訶不思議な『聖楽器』の性質に従って、猛烈に時間が前へ進む。
 スワシワラは、未来へ飛んだ。

スワシワラ/6

 どこかの教会である。
 ごうしゃなステンドグラス越しに差しこむ七色の光に照らされた、せいひつな空間。そこに、異様な群衆が蠢いている。全員、カラフルな帯のようなものを身体に巻き付けるという独特な風体をしている。頭部も、バンダナめいたもので目元まで隠している。
 骨格や顔立ちからいって、多種多様な人種がいるようだが――大多数は日本人だ。スーツに着替えて革靴を履いて町へ繰り出せば、そこらの一般大衆と見分けがつかないような……。だが今は、特撮番組に登場するような怪人の群れである。
 まさにカルト教団じみた、一種異様な雰囲気。
 彼らは口々に呪文めいたものを唱えながら、ひたすら教会の最奥――十字架を凝視している。どうやら、何か秘密めいた儀式が行われている真っ最中らしい。
 十字架のそばには寝台が置かれ、その上では繊細そうな顔立ちをした妊婦が寝そべっている。その手のひらを、他と同じように全身に色鮮やかな帯を巻き付けた男性が握りしめて、必死に鼓舞している。
 妊婦の女性はいきんで、苦悶している。周りにいる医師らしき白衣のものたちが忙しく走り回り、大声をあげている。
 出産の現場のようだが、状況がおかしい。だが集まった十数人かそれ以上はいるらしい人々は疑問の声もあげず、固唾を呑んで見守っている。
「ここだ」
 そんな教会の片隅に、過去から跳躍してきたスワシワラが出現する。ちょっと頭を振って疲れたような吐息を漏らしてから、状況を確認――首を傾げる。
「何これ……。わぁ、お祭りかなぁ」
 ずれたような発言をしていたら、集まっていた人々のひとりがスワシワラに気づき、ギョッとする。悲鳴をあげそうになったので、スワシワラは慌てた。騒ぎになったら困る――基本的に、スワシワラはことなかれ主義だった。
 抱えたままだった『聖楽器』オルゴールのハンドルを逆回しにして、過去に飛ぶ。そして再び、出現したときには他のものと同様に全身に飾り布を巻いていた。
 過去に飛んで、教会に集まっていたひとのうちひとりと接触し――交渉したりこれも適当に集めた金品と交換したりして、このカラフルな飾り布をゲットしたのだ。これを巻いていれば他のひとと見分けがつかないし、うまく群衆のなかに溶けこめる。
 怪しまれないように、さらに過去に戻っていろいろ手筈を整える。こういうことには、慣れている。名前もつけられずに、この世界を彷徨うことになったスワシワラは――どこにも所属できないけれど、どこにだって混ざりこめる。
 時空間を漂流する孤独な旅人は、今、異常な熱気に満ちた教会のなかにいる。
「う~、んん――」
 そこまで広くない教会なのに人口密度が高すぎて、空気が薄い。息苦しくて唸り声をあげると、スワシワラはひょろ長い身体を折り曲げるようにして、少しずつ群衆の先頭へと進んでいく。怪しまれない程度に、さりげなく。
 何度か時間を跳躍して下調べを済ませ、スワシワラはだいたいの状況を理解する。
 この教会は現在――つまり、キャロルと呼ばれる存在が刈谷兄妹と暮らし始めた時系列から見て、十六年ほど前にあたる。
 まさに、刈谷兄妹が生活しているあの教会である。スワシワラ自身はそこに足を運んだことがないのでわからないが、まちがいない。現在はかなり老朽化しているらしい教会はこの時点ではそこそこ綺麗で、隅々まで掃除が行き届いている。
 この教会は、海外を拠点とするあるおおきな宗教の日本におけるちいさな分派のひとつ――という扱いだ。教義に忌まわしいものを含むため敬遠され、あまり信者もいないらしい。同じ宗教の、他の派閥からも異端視されることもおおいようだ。
 吹けば飛ぶような、怪しげな新興宗教でしかない。そういうものが流行っていた時代ではあったが、他のおおくの宗教と同様に――あっという間に廃れるはずのものだった。
 実際、現代ではほぼ教団は消滅し、信者も離散していて跡形もなくなっている。彼らの行為に違法なものがあり、幹部が一斉検挙されたためだ。
 建物を貸し、資金を援助していただけらしい刈谷兄妹の両親は警察の追求を逃れたものの、この教団との関わりを論難されてたいそう苦労したようだ。現代で、刈谷兄妹が両親と一緒に暮らしていないのも、そのあたりが理由だろうか。別居状態なのか。
 そこは、今は比較的どうでもいい。問題なのは、そのとき逮捕されたもののなかに、あの時任静――キャロルという超存在を宿していると思しき少年の、両親の名前もあったということだ。
 その両親こそ、今、スワシワラの目の前――十字架のそばの寝台に横たわる妊婦で、その手のひらを握りしめている男である。

スワシワラ/7

 ここは、時任静が産み落とされる現場なのだ。
 こんな異様な状況で誕生したのか――スワシワラは静とはちょっと会話をしただけだが、わりと平凡な男の子だと思っていたのだが。キャロルを宿しているらしいことも含めて、本人がどうであれ、何やら数奇な巡りあわせを背負う運命にいるらしい。
 可哀想に。スワシワラはそう思う。平凡な人生のほうが良かっただろうにね、時任静くん――などと、口のなかでもごもご囁いているうちに、ついに産声が聞こえた。
 赤ん坊の泣き声が、教会のなかに反響する。
 出産を終えた母親はぐったりとして、その手を握ったままの父親がかいさいを叫ぶ。
「祝福せよ! 今まさに、希望の神子がこの世に生まれ落ちた! 名前はあらかじめ決めていたとりに、静とする!」
 やはり、あの赤ん坊は時任静らしい。見た目は、何の変哲もない生まれたての子供だ――だが父親はぼうと泣き、その赤ん坊を宝物のように掲げている。
「『せい』とも読めるため、『聖なるもの』の意味を有する! 漢字は『しずか』と書いていずみである! この世に響く異界の音楽をかき消し、この世に静寂をもたらす子! この世界は再び我々のものとなり、主の福音を聞き逃すことは二度となくなる!」
 群衆も次々と雄叫びをあげて、足を踏み鳴らし喝采している。
 本当にお祭り騒ぎだ。教団の一員である夫婦が、無事にかわいい赤ん坊を出産したことをみんなで祝っている――とかだったら、むしろ心温まる感じだが。
 そうではないだろう。いくらなんでも、不可解なほどの狂騒だ。
「これは……?」
 スワシワラは眉をひそめて、身構える。いつでも操作できるように、しっかりと『聖楽器』オルゴールを抱き寄せた。
 産声が、徐々に変化する。音律が生じ、音階が発生し、音楽になっていく。聞き覚えのある旋律だ――これは、(スワシワラの感覚では)先ほど聞いたヴァイオリンの調べではないか。他者を幻惑する、あの奇妙な演奏だ。
 瞬間、教会に集まった人々の動きが一斉に切り替わった。ぴたりと押し黙り、粛々と動く。丁寧にお辞儀したかと思うと、まったく同じタイミングできびすかえす。
 そのまま教会から、あっという間に去って行く。スワシワラはついていけずに取り残されて、呆然とした。何だ? 急に、どうしたというのだろう?
 赤ん坊の時任静と、その両親と、動くに動けないスワシワラのみが教会に居残る。否、医者も残って、赤ん坊を産湯につけて清拭したり――甲斐甲斐しく世話をしている。
 両親も貼りついたような満面の笑みで、静をあやし、語りかけている。
「おぉ、神の子……。我らを救う人類の希望よ、生まれてくれてありがとう」
 何がなんだかわからない。異国の文法で、言語で綴られた舞台劇を眺めているようだ。ぜんぜん状況が把握できず、彼らの行為の意味が頭に入ってこない。
 誰か解説してくれないかなぁ、とスワシワラが思った――瞬間である。
「今まさに、母親から息子へ『聖楽器』が受け継がれたんですよ」
 スワシワラはどきりとして、声のほうを振り向いた。
 いつの間にか、教会の壁際に『独奏者』が立っている。相変わらずその姿は認識できずにぼやけていて、お化けじみていた。七色の光を反射し、ほとんど神々しい。
「ご存知のとおり、『聖楽器』は親から子へと受け継がれます」
『独奏者』が優雅に一礼してから、こちらに歩み寄ってくる。
「『聖楽器』がこの世に出現したのは、この時系列から数えるとおおよそ半世紀とすこし前――その時点で、この世界と接触した異世界の抉れた飛沫、いわば肉片や体液のようなものがこの世界のものたちに宿りました。無機物や、動物や植物、人間にね」
 それは知っている。そのなかで人間に宿り、知能のある人間がその扱いかたを覚えて――便宜上、『聖楽器』と名付けた。異世界の断片、欠片……。そうとしか表現できない何かが、人類の歴史に波紋を広げ始めたのだ。
「これは永い時間をかけて組織が解析した結果、判明した事実ですが。『聖楽器』は親から子へと受け継がれる。相性が悪いのか活性化せずに、体内で保存されたまま気づかれもしない場合もありますがね――彼らは自覚し、理解し、『聖楽器』を継承しました」
 十字架のそばで、まさに宗教画に描かれる聖なる親子の姿そのものに寄り添う、時任静とその両親。彼らを、『独奏者』は冷笑を浮かべて眺めている。
「幸か不幸か、『聖楽器』を宿らせた時任静の母親も、そのまた母親――祖母もとある宗教の熱心な信仰者でした。彼女らはこれを神から与えられたギフトだと信じ、それを受け継いでいくことを己の人生の目的としました」
 淡々と語りながら近づいてくる『独奏者』を警戒して、スワシワラはすこし後ずさる。だが群衆が消えたとはいえ、さほど広い建物ではないし――すぐ壁際まで追い詰められてしまった。

スワシワラ/8

 過去に置き去りにして振り切ったと思ったが、甘かった。『独奏者』は当たり前のようについてきて、こうして目の前でゆうしゃくしゃくに口上を述べている。
「彼らに、この時点ですでにけっこうな勢力を有していたあの組織が接触し、ある世迷い言を吹きこみました。結果として、時任静は聖なる神子――神童として持て囃されて幼少期を過ごすことになります」
『聖楽器』は、人知の及ばぬ奇跡めいた能力を発揮する。それを身に宿している子供が崇拝され、畏怖され、信仰すらされるのは理解できる。スワシワラだって、何度も神さまみたいなものだと呼ばれていた。
 人間とはちがうもの。より高みにいるものだと――敬われ、見上げられてきたのだ。
 静も同じだったのだろう。どこか、彼にちょっとした共感をおぼえる。
 そんな彼が現代では普通の高校生として、それなりに平凡な日々を過ごしているらしいことを知っていて――ちょっと羨ましくすら思った。
 人間の世界では、神さまは生きづらいのだ。
「あの子が身に宿した『聖楽器』は、あなたが今、使ってるやつだよね……。そのあの、ヴァイオリンみたいなの」
 無為な思索を切りあげて、スワシワラは目の前の『独奏者』に集中する。
 深呼吸して、珍しくはっきりと言った。
「たぶん、他人の思考を操るっていうか、洗脳するみたいな能力……。だよね、ちがう? あってる?」
「正確には思考ではなく、認識を操作します」
『独奏者』はすこし迷ってから、正答を口にする。思考ではなく認識、と説明されてもスワシワラには両者の差異がわからない――だいたい同じだろう。
 今さら気づいたが『独奏者』はヴァイオリンを手に、演奏をしている。静が放っている産声と、ほぼ同じ音色だ。
 音色どうしがぶつかりあっているのか、こちらまで届かなくなる。
「今、時任静はその身に宿した、というか一体化している『聖楽器』ヴァイオリンの能力を無意識に発動しています。赤ん坊ですからね、自分を助けて守って世話をして、みたいな要求をしているんでしょう。あと、うるさくて不愉快な連中を遠ざけたりとかね」
 その説明で、先ほどの現象にかろうじて理解が及んだ。群衆、信者たちは喧しく騒いでいたから、静の不興を買って遠ざけられた。医者や両親は、自分を世話をしてくれるものと理解して残し、己に奉仕させている。
 赤ん坊らしい要求を、大の男たちに無理やり承認させている。従わせ、思うがままに操っている。『聖楽器』ヴァイオリンの能力だろうが、これは恐ろしい。
 意図的にこれを用いれば、簡単に独裁者になれる。他人を思うがままに操って、己に絶対服従する奴隷にできる。実際、神さまのようになれるだろう。
 だが不意に、静の泣き声が止まった。
 産声をあげつづけて疲れたのか、すやすやと寝入ってしまったようだ。彼の意識が眠りに落ちると同時に、彼の放っていた『聖楽器』ヴァイオリンの認識を操作するらしい音色も中断する。
 と同時に両親がはっと我を取り戻し、医者に指示して静の首筋に何らかの薬液を注射させた。赤ん坊に何てことを、とスワシワラは顔をしかめそうになる。
 だが、必要な措置ではありそうだ。おそらくあの薬液によって静の意識は曖昧になり、無意識に他者を従わせる『聖楽器』の能力を濫用しなくなるのだろう。
「元々、あの『聖楽器』は時任静の母親が所有していました。あの『聖楽器』でできることや、対処方法などは彼女が知っています。あらかじめ、医者や夫に指示をして赤ん坊の時任静を無力化し、制御する方法を用意していたわけですね」
『独奏者』はヴァイオリンの演奏をつづけたまま、微笑んだ。
「彼らはそうして己の子供を、時任静を道具にして、ある目的を果たそうとしています。彼らにとっては崇高な、至上命題を達成するつもりなんです」
「えっと、それは何なの……。ていうか時任静くんのお母さんが『聖楽器』をもってたなら、自分でやればいいでしょう。どうして、自分の子供にやらせるの?」
 スワシワラはこの際なので、知りたいことをぜんぶ聞いてみる。聞かなくても、過去に戻って調べればわかるのだが、いちいち時間遡行をするのも億劫ではある。
『聖楽器』を用いるのは、かなり疲れるのだ。
「そこはタイミングが悪かった、としか思えませんね。彼らがその目的を見いだした時点で、すでに母親は身ごもっていました。『聖楽器』は母親から、息子である静に受け継がれてしまった後でした。だから仕方なく、プランを変更したのでしょう」
『独奏者』が『聖楽器』ヴァイオリンで認識を操作しているのか、普通に会話しているというのに、時任静の両親たちはこちらに目も向けない。認識できていないのだ。
 スワシワラは、『独奏者』が主人となっていた屋敷が、通行人どころか鳥や獣にすら気づかれなかったことを思いだす。周囲から隔離され、認識されなくなっていたのだ。
『独奏者』が、その『聖楽器』の能力で自分たちの隠れ家を構築していたわけだ。
 いろいろ繋がってきたが――まだ、よくわからないこともある。

スワシワラ/9

「何のために……?」
 スワシワラは気味の悪さを感じて、震える声で問うた。
「あのひとたちは、何がしたいの? 自分の赤ん坊を道具にしてまで、いったいどんな願いを叶えたいの? 何が目的なの?」
 尋ねながら、スワシワラはじりじりと移動する。ゆっくりと、時任静のもとへ――その狙いを悟らせてはならない。何のために、スワシワラはこの時系列に飛んだのか……。この時空間を超えた闘争を、制するためだ。
 のんびり会話しながら、超越者たちは常人には理解しがたい戦いを繰り広げている。
「そのぐらい自分で調べてくださいよ、と思いますし……。私の目的に関わることなので、言えません。まぁ演繹法で理解できるのではないですか、未来の――あぁいま私たちがいる時系列から見て、先の展開を知っているから推測できるでしょう」
 時間稼ぎの問いだったが、その答えにスワシワラは驚く。
 現在。今から見た、未来において――時任静はキャロルを宿している。
 あの子か? あの不可思議な『お姫さま』が、やはり事態の中心にいるのか?
 そこまで考えて、スワシワラはぞっとした。人間の欲望とは何て底がなく果てもなく、途方もないものだろう……。まさか、そんなことを考えているなんて。
「残念でした」
 不意に、目の前にいたはずの『独奏者』の姿がかき消えた。
 否。彼は認識を操作する『聖楽器』ヴァイオリンの能力で、スワシワラに自分の位置を誤解させていたのだ。すぐそばにいるように見せかけて、本当は時任静のそばにいた。
 こちらの狙いが読まれている。
 スワシワラは、己の敗北を――失敗を理解する。
「あなたの推測どおり、私のこの『聖楽器』ヴァイオリンは時任静から奪ったものです。私自身のものじゃない……。正確に言えば、安直に『聖楽器』を彼から引っこ抜いたみたいな感じではなく、ややこしい手順を踏んだんですけどね」
『独奏者』は余裕げに、間近にいる赤ん坊の静の頭を撫でた。
「あなたは、私の『聖楽器』に危機感を覚えたのでしょう。だから時空間を跳躍して、私がこの『聖楽器』を入手するのを防ごうとした。いろんな時系列に飛んで調べて、この『聖楽器』ヴァイオリンの所在を突き止め、消そうとしたんでしょう」
 そうだ。認識を操作する、と表現されている『独奏者』の『聖楽器』は危険である。スワシワラは実際、彼を保護者と感じ――彼が維持していた屋敷で呑気に暮らしていた。それが当然だと思いこんでいた、認識を操作されていた。
 彼は、こちらを操作できる。『聖楽器』ヴァイオリンなら、それができる。
『独奏者』が望むがままに、スワシワラは操られて――この身に宿した神さまのような権能、時間への干渉を使用させられる可能性がある。
 そうなったら大変だ。何が起きるか想像もできない。実際、何でもできるちからだ。スワシワラにはその気がないので私利私欲のためにはあまり用いないが、何だってできる。どんな恐ろしいことだって……。『独奏者』の思いどおりに、歴史がつくれてしまう。
 それを阻止したかった。
 だから、自分を操作する危険性のある『聖楽器』ヴァイオリンを、歴史から消そうとした。その持ち主を始末するなり、可能かどうかはわからないけれど――『聖楽器』を破壊するなりして。
 そのために、スワシワラはこの時系列にきたのだ。この時点から見てかなり先の組織の研究機関に潜入し、『聖楽器』ヴァイオリンの所在を調べて、なるべく昔の――ヴァイオリンがこの世界に関わり始めた起点のあたりで干渉して、消す。
『聖楽器』ヴァイオリンが歴史から消えれば、こうして『独奏者』によって困らされることもなくなる。一件落着だ、それでようやくスワシワラは安心できる。
 自分が何者かに操られている、という疑いをもつこともなく、ドグモと仲良く平和に暮らせる――かもしれない。
 それだけが、スワシワラの望みだった。静かに、平凡に、幸福に過ごしたかった。
 だがその作戦は、思考は読まれていた。

スワシワラ/10

「可哀想ですが。たとえば今ここで時任静を始末しても、もっと言うとさらに前に戻って彼の母親を殺しても、無駄です。時空間に干渉するあなたの存在を知っている私が、そんな事態を想定して布石を打っていないとでも思いましたか?」
『聖楽器』が出現したのは、この世界と異世界が接触した後――時系列でいうと、静の祖母の時代だろう。だがスワシワラは制約により、そこまで過去には戻れない。静の母親を殺す、ぐらいならできるが――それが能力の限界だ。
『独奏者』もそれを理解しているらしく、静の祖母、おそらく最初に『聖楽器』ヴァイオリンを身に宿した人物については言及しなかった。
「確実に勝てる、と判断したから仕掛けたんです。あなたの行動のすべては想定内ですし、私の勝利は揺るぎません」
 そもそも、何の勝負をしているのか。戦っている実感はあるが、ルールも目的も見えてこない。ひたすら、暗い穴に引きずりこまれるような恐怖感がある。
「私は必ず、願いを叶えます。たとえ、何を犠牲にしてでも」
 語りながら、『独奏者』は不意にヴァイオリンの演奏を途絶えさせる。
 その直後に、ヴァイオリンの表面を指先で撫でた。すると不思議なことに、ヴァイオリンが形状を変化させる。
 高価な楽器のように見えていたそれが、銀色の、どろどろと溶けた半液体状の何かに変貌したのだ。それを見て、スワシワラの全身に鳥肌が立った。
「あなたは、その銀色のものを変化させて――何でもつくれるんだね。他の『聖楽器』すら、つくれる。能力も、再現できる。すでにあなたは『聖楽器』ヴァイオリンを完全に再現できるから、オリジナルのヴァイオリンを消しても意味がない……?」
 オリジナルが消えても、複製品が『独奏者』の手元にある。本物も偽物も機能に大差がないなら、状況は変わらない。
 さすがに、コピーはオリジナルより多少は劣るはずだが。だからこそスワシワラが意識的に抵抗して、『独奏者』のもくを潰すために過去へ遡行するなどの行動ができた。彼の干渉に対抗し、まだある程度は認識を完全に操作されずに自らの意志で動けている。
 そう思いこんでいるだけ、認識させられているだけで――すべてが彼だか彼女だかの手のひらの上、という可能性もあるが。そこまで疑ってしまえば、指先も動かせない。
「ここまで再現するには、長い時間がかかりましたけどね。オリジナルの『聖楽器』ヴァイオリンを手に入れる機会があって、じっくり観察し研究できたため、ほぼ完璧に再現できていると自負しますけど」
 再び銀色のものが変化し、『聖楽器』ヴァイオリンの姿をかたちづくる。彼は複数の『聖楽器』をもっている、わけではない――使用しているのは自在に変化し、『聖楽器』の能力すら、機能すら再現できる銀色の『聖楽器』のみだ。
 その銀色のものに、スワシワラは見覚えがある。最初に、州上遠乃の死亡現場で彼だか彼女だかを目撃したときに抱いた直感が、正しかった。
「そっか――」
 スワシワラは何だかむしろ誇らしげに、吐息を漏らした。
「上手に使えないだけかもしれないけど、あんまり役に立たない『聖楽器』だって嘆いてたのに……。そんな、すっごい能力を秘めてたんだね。他の『聖楽器』の能力をコピーできるなんて、無敵だね。わたしのオルゴールと、どっちがすごいか比べられないね」
「『聖楽器』は、だいたいが同等のちからを有しています。様々な『聖楽器』の能力を模倣し、同時に扱える私は、だから誰よりも優れているかもしれませんね。場合によっては、あのキャロルにもけんするぐらいに」
 その言葉に、スワシワラはむしろ当惑する。スワシワラが観察したかぎりでは、キャロルは噂ほどにはすごい存在には思えない。普通の女の子だ。たしかに、いろんな音色を響かせられる変な楽器を用いられるが――さほど脅威ではない。
 彼女はまだ、真のちからの一端も見せていない、ということだろうか。
「どうしますか、スワシワラ」
 思考が横道に逸れていたスワシワラに、『独奏者』が目を覚まさせるように鋭く問うてくる。自分を構ってくれない母親にすがる、ままな子供みたいな態度だった。
 それを見て、スワシワラは哀しくなる。
「あなたは詰め将棋に負けました。何をしても、私は止められません。最初にあなたの両腕を切り裂いた際に、あなたの肉体と――それと同化したオルゴールに私の『聖楽器』を絡ませています。どんな時系列に移動しても、私はその糸を辿って必ずあなたのところへ辿りつけます。逃げられませんし、どう足掻いても無駄ですよ」
 あぁ、運命の赤い糸で結ばれてしまったのか。などと考えて、スワシワラは場違いに笑った。そんな乙女ちっくな想像、自分なんかに似合いもしない。
 時空間を跳躍して逃げおおせたと思ったのに、『独奏者』が当たり前のようにこの場に現れた理由もわかった。こちらを追跡するための手段も、彼は用意していたのだ。
 単純に、物理的に糸で繋がっているだけでは時間旅行に同伴するのは無理だろう。何か仕掛けがある。あるいは『独奏者』はすでに完成度は不明だが『聖楽器』オルゴールも複製していて、ある程度、スワシワラのように時空間を移動できるのかもしれない。
 だとしたら。どうしようもない……。打つ手がない。スワシワラの唯一の優位性、時間への干渉が意味を成さないなら、『独奏者』に対抗する手段がない。
 スワシワラは、むしろ感心してしまった。
 どれだけ必死で考えて、想像もつかないほどの努力を重ねて、苦労して実行しているのだろう。『独奏者』は、何でそこまで一生懸命なのだろうか。
 そこまでする意味があるのか、スワシワラにはわからない。
 彼の目的も、ぼんやりとは推測できるが――理解ができない。
「ねぇ、あなたはどうして――」
「言ったことがありませんでしたけど」
 どこか苛立たしげに、『独奏者』は吐き捨てるように言った。
「私はあなたを、母のように姉のように、そしてたぶん――ひとりの女性として愛していました。あなたに、幸せになってほしかったんです」
 その告白を聞いて、あぁ、とスワシワラは納得した。
 それで、ぜんぶ繋がってしまう。
「そっかぁ……。嬉しいな。わたしも、同じ気持ちだよ」
 ちょっと泣けてきて、スワシワラは洟を啜って、苦笑した。
「相思相愛だね。なのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……?」
 神さまのような女はそう言って、途方に暮れてしまった。

 時空間を超越した、不可解な闘争はつづいていく。

時任静/1

「そろそろ、朱紗ちゃんが帰ってくる時間だ」
 独り言をつぶやきながら、時任静はいつでも薄汚れた雲で覆われている空を見上げる。相変わらずの暗鬱な景色だ、眺めているだけで気分が沈んでいく。
 静が何の因果か天里朱紗という少女と共同生活をつづけている、静が暮らしていた現代から数えておそらく七十年ほど前のとあるとうしょのひとつ――プレハブ小屋のすぐ正面。
 そこで、静は焚き火の用意をしている。
 プレハブ小屋には時計もカレンダーもないので日付の感覚を忘れ気味だが、朱紗と暮らし始めてから一週間ほどが経過しただろうか。自由気ままに、野生動物のように暮らしている朱紗には曜日の感覚もないようで、平日なのか休日なのかもわからない。
 そもそも、この時代にそういう一般的な休日などがあるのか。それすらも、静にはろくな知識もなくて不明瞭だ。こんなことなら、もっと真面目に歴史の授業を受けておくんだった。引きこもって、不登校になっていたことを恥じる。
 両親が収監されたり、奇妙な誘拐事件に巻きこまれたりした経験のためか、もともと浮世離れした環境で育ったせいか――静はあまり一般的な生活に馴染めなかった。学校にも行ったり行かなかったりで、ひたすら自分の部屋で時間をつぶすだけの日々だった。
 そんな自分の半生を、ちょっと後悔している。この不便な島とは比べるべくもない何不自由ない現代で、毎日の生きる糧を自ら得る労力も必要ない恵まれた立場で、それでもひたすら時間を無駄にしていた自分自身を――反省する。
 無事に現代に帰れたら、もうちょっと真面目に生きよう。
 そう決意しつつも、その方法がわからないし、自分が何で過去にきてしまったのかも不明なため――今はひたすら、目の前の雑事を片付けるぐらいのことしかできないが。
 せめて、それだけは全力でがんばってみることにしていた。
「う~む……。朱紗ちゃんは、もっと簡単に火を点けてたんだけどなぁ」
 自分なりに考えてこしらえた木組みのそばで、火打ち石を何度も鳴らしつつ、静は首を傾げる。何がいけないのかわからないが、ぜんぜん火が点かない。
 この島には季節感すらないが、夜など冷えこむし……。電気も通ってないので、日が沈むと焚き火がないと不便極まりないのに。静には、どうがんばっても火をおこすことはできなかった。
 神童だ、神さまの子供だって持て囃されていたのに。
 自分には結局、何もできないのか。
「う~……。駄目駄目、ネガティブになっちゃ駄目だ」
 首を振り、気がつけば湧いてくる後ろ向きな思念を押し殺す。ちょっとは真っ当に生きよう、明るく健全な人間になろうとぼんやり決意したものの――生まれ持った性質はなかなか変えられるものではない。
 それでも。もうちょっと、ちゃんとしたい。
 せめて、こちらのする(この時代から見れば)未来の話を、目を輝かせて面白がって聞いてくれる朱紗に――落胆されない程度には、しっかりしたひとになりたい。
 子供の前では、格好をつけたい。ごく自然に、静はそう思い始めていた。
「朱紗ちゃんが帰ってきたら、火をおこすコツを聞いてみよう」
 そう決めて、とりあえず疲れてその場に座りこんだ。プレハブ小屋のそばにある切り株を椅子のようにして、そこに尻をのせる。原始人みたいな暮らしだ、とあらためて思う。
 けれど。そんなに、嫌ではない。ここには静けさと、自由があった。静を傷つけるものは何もなかった。幸か不幸か、キャロルの声もぜんぜん聞こえないし――こちらを煩わすものの一切がない。
 現代社会に疲れきった社会人が、田舎でスローライフを楽しむような心地で、静は何だかこの生活を気に入り始めていた。それではいけない、現代に帰らなくてはならないと思うものの――どうせ、別に現代にも自分を心配してくれるひとがいるわけでもないし。
 刈谷兄妹ぐらいは、自分が不意に消えたので困惑しているだろうけど。
 友達もいないし、今は家族も牢屋のなかだし、自分を気に掛けるひとなんて誰もいない。そう思うと、無性に儚い気持ちにもなった。
 せっかく神さまめいた信仰の対象ではない、生身の人間になれたのに。普通の人生を歩み始めたのに、自分は誰とも関われない。
 否、それを避けてきた。よくわからなくて苦手で、怖くて、他人を遠ざけていた。馬鹿だった気がする、もっとちゃんと青春とかしておきたかった。
 現代に二度と帰れないかもしれない、と思うと――無性にそう思った。いつも当たり前のように呼吸していた空気が、突然、消え失せたような気持ちになっていた。
「おにいさ~ん! たっだいま!」
 遠くのほうから、もうだいぶ聞き慣れた朱紗の声が届いてきた。
 きんきんと甲高い、幼い声音。もう静は音を遮るヘッドフォンをつけていない――何だか耳を塞ぐのも馬鹿馬鹿しいと思ったのだ、だから明瞭に聞こえる。
 飼い主が帰ってきたのを知った子犬みたいに、静は無邪気に反応した。
「お帰り、朱紗ちゃん」
 朱紗はこの時間、いつも海にでて魚などを獲ってくる。その場で刃こぼれのおおいナイフで器用に刺身にしたり、串に刺して焼き魚にしたり……。干し魚にして、保存食にもする。それが、なかなか美味しい。
 魚だけじゃ飽きるし栄養が偏る、と静が主張したら、野菜や果物も食卓に並ぶようになった。どうも、そのへんのひとと物々交換をしてくるらしい。
 朱紗は巫女の血筋だとかで、信者のようなひとがいて、貢ぎ物がもらえることもあるらしい。物々交換というか、一方的にたくさん食材をもらえるとか。
 そのへんの境遇は自分と似ていたので、親近感があった。
 朱紗は島のひとたちに嫌われていると思いこんでいたようで、かなり驚いていたが、同時に嬉しそうでもあった。悲劇に見舞われた両親のために偏見に晒され、島の隅っこのプレハブ小屋に追いこまれたと考えていたようだが、島のひとたちは意外なぐらい朱紗のことを気にして――同情すらしていたらしい。
 みんな、とても良くしてくれた。
 それを幸せそうに語る朱紗を見て、静まで顔がほころんだものだ。

時任静/2

「えっと、どうかしたの……?」
 楽しい思い出をはんすうしてにやにやしていた静だったが、いぶかしんで眉をひそめる。どうも、朱紗の動きがおかしい。何かを、引きずるようにしている。
 運ぶのに難儀するような大物を仕留めたのか、それともどこか痛めてしまったのか……。気になって、静は立ち上がると彼女のもとへ駆け寄った。
 朱紗はそれに気づき、天真爛漫に笑った。
「おにいさん! やっぱり、火をおこすのは無理だった? あのね、言ってなかったけど木にガソリンを垂らすんだよ! そしたら一発で、ぼ~んって燃える!」
 子供っぽくまとまらないことを言っている彼女は、どうも誰かを背負っているようだった。ちいさな朱紗に比べて、かなり大柄な人物だ。
 身長差がありすぎるので、そのひとの足は地面にかなり引きずられてしまっている。
 たぶん、まだ若い女性だろう。静と同年代か、すこし年上ぐらい。海にでも落ちたのか全身、濡れそぼっていて風体が判然としない。
「そ、そのひと、どうしたの? えっと、どざえもん……屍体じゃないよね?」
「生きてるよ! うん、心臓がどきどきいってる! あたしが海に潜って魚を獲ってたら、どぼんって飛びこんできてさ~! びっくりしちゃった!」
 そのまま、放置するわけにもいかずに運んできたのだろう。放置していたら、そのまま海の藻屑だったはずだ。朱紗は優しい子だし、見殺しにはすまい。
 素性のわからぬ静を受け入れ、何かと世話を焼いてくれるような子なのだ。
「そっか。あっ、僕がそのひとを運ぶよ。身体が冷えてるだろうし、朱紗ちゃんは火をおこしてくれる?」
「いえっさ☆」
 なぜか敬礼っぽい仕草をして、朱紗は背負っていたひとを静に押しつけてくる。それから小動物のような素早さで、さっさと焚き火の準備に入ってしまった。
 めちゃくちゃ元気で、見ているだけで何だか和んでしまう。
 だが、ほっこりしている場合ではない。
「よいしょ――」
 静は濡れているせいか酷く冷たく思える女性を抱え直して、慎重に運ぶ。
 その途中で不意に――静は、気づいた。
「あれっ、このひと……?」
 その謎の女性に、見覚えがあった。
「えっと、たしか――」
 静が以前、現代で接触したことがある。静の通う信乃芽高校を、あの恐ろしい子供――ドグモが襲撃したときだ。下駄箱で見かけて、静のほうから声をかけた、何だか暗い感じの……。名前は、たしかスワシワラだったか。
「な、何でこのひとが? ここは大昔なのに! 顔立ちが同じなだけで、先祖とかだったりするのかなぁ……?」
 当惑していると、ふとスワシワラ――らしき人物が瞬きした。
 呻き声をあげて、周囲を眺め、重苦しい溜息をついた。
「あぁ……。やられちゃった」
 ぶつぶつと、独りごちている。
「これが目的か……。ずっと『聖楽器』ヴァイオリンの音色を聞かせて、わたしの認識を操作してたんだ。それで無意識に設定してたリミッターを解除させて、わたしの生まれるずっと前にも移動できるようにした――」
 何がなんだかわからないことを、陰鬱な口調で語っている。
「目指したのは、この時代か……。始まりの、瞬間。狙いはやっぱり、この世界と接触する刹那の――異世界?」
「あ、あの……?」
 うわごとを口にしているスワシワラに、不気味なものを感じつつも、静は呼びかける。
 だが彼女は反応せず、密着しているこちらに気づいてすらいないのか――動きにくそうに身じろぎする。
 その両手に、これも静には見覚えのあるオルゴールめいたものが出現していた。
「あのひとの目的は、たぶん……。いや、どっちだろう? どっちを選ぶんだろう? いや、どっちだとしても――止めなくちゃ。世界が、歴史が根底から引っ繰り返る。その影響は、想像もつかない」
 行かなくちゃ、と囁いて――彼女はオルゴールに付随するハンドルを回した。
 瞬間、彼女の姿が消え失せる。
「……うひゃっ!?」
 急に重みがなくなったので、静はバランスを崩してその場に倒れてしまった。朱紗が驚いて「おにいさん!?」と、悲鳴じみた声で呼びかけてくる。
「あれ? あのひと、どこ行っちゃったの? いま、消えたよね……?」
 不思議そうにしながら、朱紗が歩み寄ってくる。静は返事もできずに地面にへたりこんだまま、正体不明の焦燥感めいたものにかられて――青ざめる。
 何か、得体の知れないことが進行している。
 自分たちの認識している、この世界の裏側で。