刈谷蒼衣/1

 わたしには穴があいている。
 刈谷蒼衣には常にそんな他人に説明しづらい感覚、自覚があって、それは日増しに強まっている。本で調べたり勇気をだして保健室の先生に相談してみたりもしたが、思春期特有の漠然とした不安感――みたいな、何かちがうな、というそれっぽいけど正解ではないように思える結論が見いだせる程度だった。
 もちろん蒼衣は人並み外れて冷静で賢い少女であるし、すくなくとも強いてそう演じているし――とくに蒼衣を女王のようにほうたいする信乃芽高校においては、刈谷蒼衣というのはそういう俗っぽく、恥ずかしい思春期の悩みを抱えていてはいけなかった。
 なので、その気味の悪い感覚を胸の奥に仕舞いこむ。
 丁寧に慎重に、奥へ奥へと。
 そして表面上はこの世に舞い降りた天使のように揺るぎなく正しく、真面目で人当たりも良い優等生、お姫さまのようなつくりものめいた綺麗な偶像として振る舞うのだ。
 刈谷蒼衣のかたちにあいた穴の上っ面を、ひとに好かれる美しいもので覆い隠す。それもまた――穴があいている、という奇妙な居心地の悪さめいたものを誤魔化すための処世術で、防衛策で、虚飾ではあるのだけれど。
 蒼衣ははたからは窺い知れない、そんな血を吐くような努力をしながら今日も生きている。愛想良く微笑み、誰も傷つけない当たり障りのない丁寧語で喋りながら、ここにいるものが刈谷蒼衣というひとりの血肉をもった女の子ではなく、ぽっかりとあいた不気味な穴であることを誰にも悟られないように振る舞っている。
 その点については蒼衣は徹底していたし、この現代社会では誰もが表面的な付きあいのみを好む。深入りされぬよう、穴に手を伸ばされぬよう、蒼衣は細心の注意を払っていたし――その試みは、おおむね上手くいっていたのだ。
 これまでは、ずうっと。

刈谷蒼衣/2

「穴があいてんな」
 などと兄の橙一が不意に、脈絡なく蒼衣の深いところまで貫くような一言を発したので――数秒だけ頭が真っ白になった。深呼吸。ほとんどの感情は六秒ほどしか持続しないし、この現実ではたいていの物事はそう瞬時に対処しなくても問題ない些細なこと。
 深く息を吸って吐き、己に言い聞かせる。
 橙一は馬鹿だ。脳みそまで筋肉だ。いくら同じ屋根の下で暮らしている兄妹だからといって、物語ではないのだし、そうそう都合よく妹の奥の奥まで仕舞いこまれた悩みを察することはできない。兄妹でも他人だ。だから大丈夫、気づかれてはいない。
 やたらと吐息を漏らしてしまったから、空気が乱れ蒼衣の黒髪が揺れて安っぽいシャンプーの芳香が漂った。眉をひそめる。両親と取り引きのある業者が賄賂なのか何なのか、試供品として大量にくれたものを捨てるのももったいないから使ってはいるが――主張が強すぎるにおいは好みではない。
 芳香。色彩。音楽。その主張が強すぎると、輪郭がくっきりしてしまう。己の内側にある穴が浮き彫りにされるようで、居たたまれなくなる。見ないで。聞かないで。嗅がないで。わたしの正体に気づかないで。
「橙一、何ですか藪から棒に」
 我ながら蚊の鳴くような弱々しい声を、かろうじて絞りだした。騒がしい学校ではむしろちいさな声は際立ってしまうので、もっと声を張るけれど――ここは自宅だ。
 自宅の教会。刈谷兄妹が暮らす居住空間が存在する、古ぼけた一軒家である。鳩の鳴き声を耳にしながら、ぼんやり早朝の洗面所にて寝間着姿で歯磨きをしていた蒼衣は、己の発した声に返事がないので仕方なく廊下へ顔をだした。
 そこで、兄の橙一がしゃがみこんでいる。橙一は体格が良いので、わりと狭苦しい廊下では窮屈そうである。彼はいつも寝起きが悪いので先ほど蒼衣がフライパンで殴って起こしたが、毎朝のことなのでとくにそれについては気にせず――のんびりしている。
「穴とは?」
 蒼衣はすこしどきどきしながら問うたが、橙一の視線を追って安心する。彼の目の前、老朽化した廊下のいちぶに穴があいていた。ささくれた木材の切れ目。白蟻に食われたか雨漏りでもして腐ったのかは知らないが、この一軒家は蒼衣たちが生まれる前から建っている年代物なので――こういう事態にはよくなる。漏水。崩落。破損。
 いつものことだし、心配はゆうだったし、蒼衣はほっとして微笑んだ。
「地震でもあったら倒壊しそうですよね、この建物。あとで業者を手配しましょうか。さすがに廊下に穴があいていたら危ないです、寝惚けていたら蹴躓けつまずいてしまいますよね」
「ん~、こっちの建物は改築が後回しになってるしなぁ。細々と修復するより、あとで全体的に直すほうが安上がりじゃね。とりあえず、穴だけ塞いどくわ」
 見ると橙一の傍らには工具箱があり、そこから取りだしたらしいトンカチで彼は肩をとんとんと叩いている。大工仕事にバイクに筋トレ、男らしいことが好きな兄だ。
 大喜びで廊下の穴に板を打ち付けている兄を、蒼衣は嘆息しながら眺める。
「ご苦労さまですね」
「おう。仕方ねぇけどな、父ちゃん母ちゃんはまた出張で海外だしさ。俺が何でもかんでもやるしかないじゃん、蒼衣のお守りとかさ」
「わたしがいつ、橙一の世話になりましたか?」
「最近はそうでもねぇけど、ちっちゃいころは何かあるごとに『ふぇえ~ん、お兄ちゃん! 助けて~!』って泣きついてきただろうがよ」
「……だから覚えてませんから」
 蒼衣は十年前、不可思議な誘拐事件の被害者となって――長い間、行方不明だった。おまけに、無事に戻ってきたものの誘拐されていた間とそれ以前の記憶を失っているのである。だから橙一が昔の蒼衣の話をしても、何だか他人の話みたいで実感がない。
 それについては思うところがなくもないし、いつもごうほうらいらくな橙一も何だかそのあたりの話をすると酷く傷ついたような顔をするので――すこし胸が詰まるような気分になる。蒼衣は首を振り、できるだけ明るく言った。
「手が汚れます。大工仕事は、朝ご飯の後にしなさい。すぐ用意しますから――キャロルは、もう起きてるのでしょうか」
 近ごろ自宅で暮らしている同居人の名前を口にして、蒼衣を女神かお姫さまのように崇拝する信乃芽高校のものには見せられないぐらい、酷く顔をしかめた。

刈谷蒼衣/3

 そのあと。
 蒼衣はきちんと制服に着替え、朝ご飯の支度をだいたい終える。やるべきこと、毎日のように繰り返している行為をこなすと気分が良い。
 楽しげに大工仕事をしている橙一(蒼衣が親切心からかけた「朝ご飯の後にしなさい」という言葉は微風のように耳を素通りしたらしい)のたてる、やけに小気味良いトンカチの音を聞きながら歩く。階段を上り、二階へ。
 切れかけた電球が明滅する廊下の果てに、扉があった。蒼衣が誘拐される前に与えられた子供部屋で、現在は蒼衣の愛するすべてである時任静――その同一人物だと主張するキャロルなる異世界からの来客が、我が物顔で寝泊まりしている。
 ちなみに最初のうちは屋根裏部屋を貸し与えていたのだが、やれ黴臭い狭すぎて落ち着かないとキャロルが文句を垂れたのである。彼女は基本的に無邪気で素直ではあったが、たまに見た目どおりお姫さまらしいままを言うのだった。
 そんなキャロルには施錠の習慣がないらしく、扉はいつでも開きっぱなしだ。
 ほのかに風で揺れる木製ドアの向こうは暗く、みょうに不安になるような穴があいているように見える。地獄にでも繋がっていそうで、蒼衣にはちょっと近寄りがたい。
 とはいえ勝手知ったる我が家だ、お化け屋敷でもあるまいし、良からぬことがあるわけもない――と自分に言い聞かせながら大股で歩んだ。
「キャロル? 起きていますか、朝ご飯の用意ができましたよ」
 億劫に思いながらも呼びかけつつ、扉の向こうを覗き見る。部屋に灯りは点いていないが、半端に閉じられたカーテンの向こう――窓からわずかに冬の朝日が差しこんでいる。
 薄暗くて視界は不明瞭だが、元は物置だった小部屋なので全体が見通せる。
 あからさまに子供部屋だ。パステルカラーの壁紙。丸みを帯びた箪笥と寝台。なぜか床に大量の子供服や絵本、ぬいぐるみなどがでたらめに転がっている。
「あなたねぇ、散らかさないでくださいよ。誰が掃除すると思ってるんですか」
 我ながら小姑こじゅうとじみているなと思いつつ、ぶつぶつ言いながら室内へ踏みこむ。
 だが寝台にキャロルの姿が見当たらず――おや、と思って周囲を眺める。先に起きて、入れ違いにどこかへ行ってしまったのだろうか。彼女はこちらの世界のことなど何も知らぬまつろわぬもののくせに、わりと気軽にほいほい散歩などに出かけてしまうのだ。
「非常識のかたまりのくせに、せめてもっと従順ならかわいげもあるのですが……。おにいさんと同一人物なのでしょう、ぶらぶら出歩いて車にでもかれたらどうするのですか。責任がとれるのですか、あぁ忌々しい」
 八つ当たり気味に、足下にあったテディベアを蹴飛ばした。
 元々、ここは己の部屋だったようなのだけど――蒼衣には記憶に欠落があるせいか、あまり自分の縄張りという気がしない。何もかもが見覚えがないし、愛着もない。
 ここは手狭だし風通しもよくないし、家具も高校生には使いにくいサイズ感だし(蒼衣はさほど大柄でもないのに、ふつうに寝転ぶと足がベッドからずり落ちたり飛びだしたりするのだ)、いくらでも空き部屋はあるし――現在の蒼衣はもうちょっと広めの他の部屋を己の私室としている。
 だから何だか全体的に、他人の部屋という感じで、居心地は悪い。箪笥の上に飾りっぱなしになっている、ちいさなころの蒼衣の顔写真も何だか他人のようだ。
「いえ、他人のよう――では、ないのですけど」
 思考に相槌を打つ、という人格が分裂し始める初期症状のようなことをしていたら、不意に気づいた。制服のポケットのなかで、スマホが震えている。
 何の気もなくそれを手にとると、画面を眺めて指先で撫でた。
『おはよう蒼衣ちゃん』
『寝坊しちゃって大ピンチ。親と喧嘩して近ごろ起こしてくんないから』
『蒼衣ちゃんは起きてる? 声が聞きたいなぁ、電話しちゃ駄目?』
 などと、何だかあまり意味のなさそうな文字列が並んでいる。この親しい人間とメッセージを交わせるアプリは時間ばかりがとられるうえに伝達される情報の精度も重要度も低すぎて面倒なだけだが、外面の良い蒼衣はけっこうな大人数と遣り取りをしている。
 蒼衣ちゃん。刈谷さん。蒼衣。刈谷さま。あおちゃん。会長。委員長。
 他者が己を刈谷蒼衣と認識し、呼称してくれるのを確認するのは何だか安心することでもある。蒼衣は慣れた手つきでスマホをタップし、文字を入力する。
『おはようございます。宮ヶ瀬さん』
『あっ、まだ宮ヶ瀬さんだ。やっぱ名前呼びNGっすか~? 蒼衣ちゃんの心の壁は厚いなぁ、厚いのはおっぱいだけに』
 中途はんぱなところで文章が途切れて、数秒後につづきがきた。
『今のなし。まじごめん。うっかり送信しちゃった』
『寝惚けてスマホをいじくるからですよ。遅刻しそうなのでしょう、さっさと身支度をととのえて登校しなさい』
 そこまで入力してから、溜息をついて、一言だけ足した。
『お喋りなら学校でいくらでも付きあいますから、涼音さん』
 送信すると、ハートマークを擬人化したようなへんてこなスタンプが大量に送られてきた。女子高生は何だかこういう、ちょっと不気味なものを気に入りがちだ。
 自分も世間的には同じ生き物――女子高生であるはずなのに、そんな他人事みたいな感想を抱きつつ、近ごろやたら学校の内外問わず絡んでくる宮ヶ瀬涼音という女の子とのネット上の会話を打ち切る。彼女はちょっと、こちらの想定以上に踏みこんでこようとするところがあるため――蒼衣は正直、警戒をしている。
 誰にも深入りされてはならない。
 刈谷蒼衣の、がらんどうの穴のなかに。

刈谷蒼衣/4

「…………」
 スマホを汚いものかのように身体からめいっぱい遠ざけてから、乱暴にポケットに突っこんで――また深呼吸。近ごろ何だか不安定だ、みょうに落ち着かない。
「……ん?」
 沈黙して立ち尽くしていると、何かの気配を感じて、蒼衣は部屋の真ん中にあるベッドまで歩み寄る。そこに膝を突き、向こう側を見た。
 そこでキャロルが、斬首を待つ憐れな王侯貴族――としか表現できない不可思議な姿勢で熟睡していた。変死体のようにも見えるが生きてはいるようで、その肩などがわずかに揺れているし寝息も聞こえてくる。
「キャロル。寝相が悪いにも程がありますよ」
 ベッドでさえぎられてキャロルが見えず、すぐには気づかなかった。蒼衣はベッドシーツを掻き分けるようにして前に進み、眠りこけているキャロルを見下ろす。
 非現実的な異世界のお姫さまは、蒼衣が貸した丈のあっていないパジャマ姿である。何だか土下座を失敗したような感じで、顔を床につけて膝を折り曲げて座っており、両腕は後ろ向きにだらんと垂れている。丸まっている猫にも見えた。
「起きなさい。朝ご飯が冷めてしまいます」
 呼びかけたが反応がなく、仕方ないので揺り起こそうかと手を伸ばし――。
 そこでバランスを崩した。
「ひゃっ!?」
 子供用のベッドが蒼衣の体重を支えきれずにおおきくたわみ、うっかり転がり落ちてしまったのである。着地点にキャロルがいたので、彼女を押しつぶすかたちになる。
 キャロルがクッションになってくれたので怪我も痛みもないが、ちょっと驚いてしまって、鼓動が跳ねる。
「うう……。ごめんなさい、キャロル」
 いちおう謝りつつ、間近から異世界のお姫さまを眺める。現実にはほとんどありえない、宝石を固めたような白金色の髪。意志の強そうな太めの眉。いつまでも触れていたくなるきめ細かい肌。マシュマロのようにふんわりした脂肪層。
 舐めると、汗だろう――ほのかな塩味。
 味?
「あっ……?」

挿絵5

 蒼衣は愕然として、口元を手のひらで覆うようにしながら仰け反った。今、自分は何をしていた? 空腹を我慢できない幼子のように、キャロルの肌に舌を……?
 舐めて、含んで、味わっていた。
 自分でも驚くほどの量の唾液が、キャロルの首筋と己のくちびるの間に伝っている。
「え、っと……?」
 息が乱れる。うまく考えられない。お腹の奥から、黒いものが溢れてくる。懸命に覆い隠していた蒼衣の穴が、広がっていく――この世界にはみだしてしまう。
 理解不能な衝動が、己の脳天から爪先までを貫いて支配する。
 早く。
 早く我が物にしなくては。
 己の穴を埋められるのは――。
「キャロル」
 名を呼んで、吐息をこぼして、舌なめずりをする。血糖値が急激に下がったみたいに震えた指先で、そおっとキャロルの眉をなぞった。
「蒼衣……?」
 不意に、声が響く。キャロルは蒼衣にのしかかられたときからもう起きていたようだが、寝惚けているらしく状況がわからないようで――目をぱちくりとしている。
 密着している蒼衣を不思議そうに見ると、何度か瞬きした。
「何をしているの?」
 端的に問うと、まったくこちらを警戒していない表情で――やわらかく抱き返してくる。背中を撫でてくれた。慈しむように。母親のように。
 自分自身のように。
「ごめんね。たまに静の声が聞こえるようになったのだけど途切れがちで、こういうのって電波の状態が悪いっていうのかしら。そういうのに似てるのよ、あたしと静はべつに電波で遣り取りしてるわけじゃないんだろうけど」
 相変わらずよく喋る――いきなり、キャロルは饒舌にまくしたててきた。
「場所によって声が遠かったり近かったりするんじゃないかなって思って、よく聞こえる場所を探そうとしてたわけよ。そうしているうちに眠っちゃったのね、不覚だわ。疲れるっていうのかしら、肉体的な感覚がまだ不明瞭でね――どれだけ動くと自分が電池切れになるのかわからないのよね。電池切れ、っていう表現で伝わるかしら?」
 けっこう非力らしいキャロルは、自分より体格が良い蒼衣を押しのけられないのか手足をみじめに動かしたかと思うと、困った顔をする。
「蒼衣。動けないわ、不自由なのは嫌よ。どうしたの? 顔色が悪い気がするわ! あたしのせいだったら申し訳ないと思うし、できれば蒼衣と橙一には笑顔でいてほしいのだけど――どうすればいいの? 教えてくれる? お返事ぐらいして!」
 軽く肩を揺すられて、けれど蒼衣は何の反応も示せない。
 刈谷蒼衣として過ごし、生きてきた歳月のすべてが、築きあげた自我が粉々になって消し飛んでしまった。そんな気がする――今の蒼衣は、単なる穴だ。その中身を埋めようとする、衝動そのものだ。
 そしてそれは、キャロルにしか埋められない。
「蒼衣?」
 名前を呼ばれたが、それが誰のことだかもわからない。猛烈な吐き気がして、胸の奥がむず痒くて、蒼衣は奇声を発しながら全身を掻きむしった。
 そして何気ない毎日が、日常が、覆い隠してくれていた己の本質と向きあった。

刈谷蒼衣/5

 そもそも、刈谷蒼衣という人物は実在しない。
 正確にはかつて存在はしていたが、十年前のあの忌まわしい誘拐事件の際に――殺害されている。どうも誘拐犯に抵抗して、あえなく命を奪われたらしい。
 何の罪もない無垢な少女は、享年六歳でこの世を去った。
 彼女は兄である橙一が覚えているとおりに、引っ込み思案で気弱な性格をしていた。読書やお絵描きなどの内向的な趣味を好み、あまり丈夫な身体ではなかったこともあって、たいてい自宅である教会で過ごしていた。
 家族を、友人を愛し、何でもない平和な日常を尊ぶ普通の少女だった。
 現在の刈谷蒼衣は、そんな彼女の血肉――遺伝子情報を元にして特殊な『聖楽器』によって織りあげられた偽者である。記憶などは受け継がれなかったため、自分の元になった少女のことはやはり他人のようにしか思えないけれど。
 調べて、考察し、その人格を再現することに腐心している。
 偽者だと見破られてはならない。
 ここに存在する刈谷蒼衣が、幼いころに亡くなった憐れな少女の立場を横取りして居座っている、おぞましい盗人で偽者であるのだと――誰にも気づかれてはならない。

刈谷蒼衣/6

「あなたの目的は、端的に言って『お姫さま』の監視です」
 十年前の誘拐事件、そして本物の刈谷蒼衣を殺害した犯人――『独奏者』と名乗るあの奇妙な人物は、現在の蒼衣にもよく似た取り繕ったような丁寧語で語った。
「まぁ、ちょっとした思いつきというか……。転ばぬ先の杖のひとつというか、念のため打っておく布石のひとつでしかありません。だからそこまで期待はしていませんけどね、生きていたいなら言うとおりにしなさい。生存は、あらゆる生命の目的ですよね」
 他者の認識を操作する、としか形容できない不可思議な『聖楽器』を操る彼だか彼女だかの外見は、常にぼやかされていて把握できない。光沢のある美しい長い髪だけがやけに印象に残るが、目の前にきちんと存在しているのかどうかも曖昧だ。
 幽霊のような、幻覚のような、浮世離れした存在である。
『独奏者』と蒼衣は、現在ではドグモやスワシワラといった『聖楽器』の使い手が身を潜めている豪華な屋敷の薔薇園にいた。何年前のことだったか、記憶は定かではない。
 すべてが夢だったかのように、あのころの思い出はぼやけている。
 信乃芽町の片隅にある、常人には認識できない謎めいた物件である。通行人どころか虫や鳥すら気づかない、時空が隔てられたかのように何者にも干渉できない領域で、偽者の――現在の蒼衣はずっと育てられていた。
 正確には、同じく誘拐されてきた時任静の世話係として、『独奏者』が創りあげた疑似生命体――お人形のようなものだった。見た目も今の蒼衣とはかけ離れていたはずだが、己の姿を鏡で確認しよう、と思いつくほどの自我もなかったので不明瞭だ。
 いずれ蒼衣になる疑似生命体は、己の創造主である『独奏者』の声を黙然と聞いている。周囲には色とりどりの薔薇が咲き誇り、ときおり花びらが舞っている。
『独奏者』が掻き鳴らすヴァイオリンの音色が、漫然と漂っていた。
「後ほどあらためて、あなたの認識に『目的』を刻みこみますので――こうして口頭で説明する意味はあまりないのですけどね。私もそれなりに人恋しいのでしょうか、まぁ独り言だと思って聞き流してくださいね」
 演奏をつづけながら、『独奏者』は途切れ途切れに語る。その紡ぎだす音色は麗しいが、聞いている疑似生命体には感受性というものがないので――音は単なる音である。
 返事をする機能もなく、ただ黙って『独奏者』のそばに侍っている。
「我々は生命体である以上、その本能とでも呼ぶべき衝動には抗えません。生存すること。変化し適応すること。他者と関わりえること。つくられた生命であるあなたも、この世の理から半ば外れている私も、あの『お姫さま』も、その例外ではありません」
 観念的なことを、自明の理のように語る。詳しく親切に説明する気もないようで、だからこれは『独奏者』が自分で口にしていたとおりに独り言のようなものだったのだろう。
 彼だか彼女だかは、歌うように語っていた。
「地球がひとつの生命体である、とするガイア仮説はご存知でしょうか。その真偽について議論するつもりはありませんが――半世紀ほど前に我々の生きるこの世界と接触した、未知なる異世界、あの『お姫さま』が存在する異世界はひとつの生命体のようなのです」
 知らない単語だらけだが、『独奏者』は教師のように解説をすることもなく、とうとうと語りつづけている。
「あの異世界が何なのかは、いまだに私にも理解しきれていません。宇宙に吹き溜まった巨大で濃厚なエネルギーの塊が生命を宿したもの、と仮定していますけどね。何にせよ、それは巨大なひとつの生命体なのです」
 私やあなたのように、と『独奏者』はあごでこちらと自分を示している。
「この地球と同規模、あるいはもっと巨大なひとつの生命体です。それは何の偶然か因果か我々の生きるこの世界と接触し、様々な波紋を広げています。おおきな影響のひとつとしては、『聖楽器』がありますね」
 今も彼だか彼女だかが奏でている、古風なヴァイオリンも『聖楽器』のひとつだ。見た目は地球の職人がつくったものと奇妙なほど似ている、単なるヴァイオリンである。独特な光沢のある木製と思しき楽器で、弦はひとつひとつ色と質感が異なっている。
 その弦を弓で弾き、奏でることで――その音階などによって他者の認識を自由自在に歪め、干渉し、操作する。かなり扱いが難しい『聖楽器』のようだし、元々これは『独奏者』が他者から奪った代物のようで、まだ扱いには不慣れなようだ。
 こうしてたまに弾いているのも、もしかしたら練習するためなのかもしれなかった。
『聖楽器』はひとつひとつが超絶技巧を必要とする難物で、いかに超越的な存在である『独奏者』といえども――容易にはその扱いに習熟できないのだろう。
 他人から強奪して無理に移植した臓器のように、それはなかなか馴染まない。

刈谷蒼衣/7

 じゃじゃ馬を乗りこなすようにヴァイオリンを操りながら、気を紛らわせるためにか、『独奏者』はときおり思いだしたように言葉を投げかけてくる。
「『聖楽器』はいわば巨大な生命体である異世界の断片、肉片や細胞のようなもの。あるいは体液――唾液のようなもの、だと推測しています」
『独奏者』もすべてを知っているわけではないのだろう、慎重に推論を述べるだけに留めている。とはいえその知識は、あの『聖楽器』を求める怪しげな組織のそれを凌駕している。彼らはいまだに、『聖楽器』とは何かという推測すら得られていないらしい。
「異世界と地球が接触した際に生じた衝撃で、双方は砕け散りました。地球側もいくつもの島が消し飛びおおきく地表をえぐられましたが、異世界も無傷ではなかったのでしょう。交通事故に遭った不幸な人間のように、異世界は負傷し血肉を飛び散らせたのです」
 生々しい喩えを交えて、『独奏者』は語りつづける。
「いえ、もしかしたら無傷だったのかもしれませんけど。どちらにせよ異世界は激突したこの世界――地球に興味を抱いて手を伸ばし、己のいちぶを射出してこの世界に根付かせました。それが『聖楽器』です、異世界の断片なのですよ」
 途方もない話を、世間話のように語っている。
 何となくだが、『独奏者』は異世界や『聖楽器』そのものにはあまり興味がないのではないか、と疑わせるほど素っ気ない態度である。『聖楽器』を血眼で追い求める組織と見比べれば、その語り口は軽薄だった。
「通常の『聖楽器』、たとえば私のこのヴァイオリンなどについては――異世界はほぼ頓着していません。置き換え可能な、あるいは再生可能な細胞のひとつなのでしょう。これだって、用いかたによってはこの世界を滅ぼせるほどの途方もない代物なのですけど」
『独奏者』はそこで、不意に声色を真剣なものにする。
「けれど。そんな異世界が唯一、必死に取り戻そうとしているものがあります。それが『お姫さま』――と組織が仮称している、あの不可思議な存在です。他の『聖楽器』が単なる細胞のひとつだとしたら、『お姫さま』はいわば決して失うことができない主要な臓器、心臓や肝臓、あるいは脳のようなものなのかもしれません」
 異世界などというおとぎばなしめいたものについて語っているのに、喩えのせいでどこまでもグロテスクである。
 とはいえ実際、人間だって内臓や脳を失えば生きてはいけない。生命維持装置に繋ぐなり他人から移植するなりして命を長らえることは可能かもしれないが――そんな対処が不可能、あるいは時間稼ぎが関の山なのだろうか。
『独奏者』は人間ではなく、巨大な異世界――地球と同等かそれ以上の超生命体の話をしているのである。地球における脳や内臓が一時的にでも失われたと考えるならば、深刻にならざるを得ない。それは、世界の滅びに直結しているはずだ。
 地殻が丸ごと引っこ抜かれる、あるいは海の水がすべて干からびるような事態なのだろうから。一時的に生き長らえたとしても環境は激変して衰退の一途を辿るだろうし、いずれ滅びる。それは不可逆的な死に至る、致命傷である。
 現在の異世界は、そんな状態なのだ。心臓を抉られている。
「異世界にどこまで思考、あるいは自我のようなものがあるかはわかりませんが。それは必死に、『お姫さま』を取り戻そうとしています。現在、その存在は行方不明のようで――異世界も焦って、次々と己の細胞のいちぶである『聖楽器』をこの世に送りこみ、あるいは動かして『お姫さま』を捜索しているようですね」
 たしかに近ごろ、つまり現在から見ると十年ほど前から『聖楽器』にまつわる事件は急増し、それに伴い組織も発言権と行動力を増して活発になっている。
 すべては『お姫さま』を求める、異世界の本能あるいは意志が原因だったのだろうか。抉り取られた心臓を取り戻そうとする、死にかけの異世界の足掻きだったのか。
「この異世界の衝動、あるいは意識は『聖楽器』を通してその使い手にも波及します。どうも見えない経路、神経で異世界の本体へと繋がっているようですね――『聖楽器』は。私も例外ではなく、必死に『お姫さま』を渇望しています」
 私が彼女を捜しているのは他に理由もあるのですけどね――などと、『独奏者』は口のなかで誰に聞かせるつもりもなさそうな、独白をしていた。
 発言する機能のない疑似生命体には、このときの刈谷蒼衣には、その真意を問い質すことはできなかったけれど。
 疑問は尽きない。だいたい、すべての『聖楽器』が異世界と繋がっているなら、かつてそのいちぶだったはずの『お姫さま』とやらの所在もわかるのではないか。わざわざ捜す必要はないように思える、繋がっているならせればいいだけだ。
 そんなこちらの疑問を察したのか、『独奏者』は補足するように語る。
「異世界そのものとは別に、『聖楽器』や『お姫さま』にもそれぞれ意志のようなものが芽生えている場合があるようです。たとえば動植物など、他の生命体に『聖楽器』が入りこんだ場合はとくにその影響を受けますね」
 異世界は地球になぞえられるが、どうも物理的に存在する惑星のようなものではなく、もっと概念的なものらしい。それこそお化けや、夢幻のようなものなのか。それは物質世界であるこの惑星では、何かに取り憑くようなかたちでしか存在できないようだ。
 それも、いつだったかに『独奏者』が語って聞かせてくれたことだった。
「さらに、高度な精神活動をする人間に『聖楽器』が入ってしまった場合は――もともとの肉体の持ち主だった人間のほうの意志が優先され、『聖楽器』の意志は抑えこまれて表に出なかったりします。もちろん、『聖楽器』と融合したことで多大な影響はあるようですけどね。たいてい人格が豹変します、なかには正気を失ってしまうものもいます」
 実際、組織が積極的に身内に引き入れている『聖楽器』の使い手は、人格に異常をきたしているものがおおいようだ。まともじゃない、社会不適合者ばかりだ。

刈谷蒼衣/8

「ともあれ。そういうふうに人間に『聖楽器』が入りこんでしまった場合、本能を理性が、その人間の思考がある程度は抑えこんでしまいます」
 人類とその他の動物の差異はそこだ。高度に発達した脳が、自我が、生物としての本能を理性で屈服させる。この機能によって人類は、地球の支配者となれたのだ。
「だから異世界がどれだけ求めてもいわば着信拒否し、異世界のもとに戻って融合したい、みたいな気持ちに支配されることがありません。各々が勝手に、ひとつの人格として生きていこうとするのです。親離れした子供みたいにね――もちろん程度の差はあれ、本能は厳然として存在するので、気を抜くと異世界の意志に抗えなくなりますけど」
 とすると、幸か不幸か『お姫さま』とやらが入りこんでしまったのも人間なのだろうか。その意識は表出せずに、誰かの心の奥で息を潜めている。
「そう推測されます」
 こちらの思考を読み取ったのか、『独奏者』は満足そうに頷いた。
「私は長い時間をかけて、『お姫さま』が入りこんだ人物を捜していました。そして突き止めたのです――異世界が追い求める主要な臓器、あるいは脳たる『お姫さま』は現在、時任静という少年のなかにいます」
 その名前に、疑似生命体は反応しない。けれど、胸の奥に疼きがあった。己の元に、根本になっている刈谷蒼衣という少女にとって、それは大事な幼なじみであり家族のようなひとりの男の子の名前だった。
 そして、いろんな話が繋がった気がした。なぜ『独奏者』は時任静を誘拐したのか――彼そのものより、そのなかにいるらしい『お姫さま』を狙ったのだろうか。
「どうして『お姫さま』が時任静を選んだのかは、よくわかりません。異世界と地球の接触は半世紀前ですが、どうしてそこから何十年もかかって今さらようやく時任静を宿主にしたのか、その真意はわかりません」
 たしかに、時間におおきな開きがある。異世界と地球の接触、という歴史上の転機であるその瞬間から何十年も、『お姫さま』はいったいどこで何をしていたのか。どうして今になって、時任静という言ってみればわりとどこにでもいる少年のなかに入ったのか。
 己の重要な器官を取り戻したい、という異世界の意志よりもなお『お姫さま』の思考は不可解である。会話ができるなら、どういうことなのかただしたいぐらいだ。
「さぁてね。けれど、それは私にとってはさほど重要ではないのです」
『独奏者』は肩をすくめて、不意にヴァイオリンの演奏を止める。
 そして真っ直ぐに、こちらを見つめてきた。
「私の目的は、『お姫さま』を異世界へ返すこと。そうすれば満足して、異世界はこの地球から遠ざかってくれるかもしれない。すくなくとも、『お姫さま』を捜索するために『聖楽器』を活発に動かすことはなくなるはず。そう、期待しています」
 胸元に手を添えて、『独奏者』は悲痛にこいねがっていた。
「この世界から、私たちの生きるこの惑星から、異世界を立ち退かせる。『聖楽器』などによる影響を、できるかぎり取り除く。そうして初めて私たちは奇妙な異世界の干渉を受けずに、ありのままに生きていけるのです」
 それが奇妙なこの人物、『独奏者』の願いなのか。否、単なる目的ではあるのだろう。その真意は読めない――何のために、異世界からの干渉を嫌って遠ざけようとするのか。最後まで、刈谷蒼衣と呼ばれることになる疑似生命体には推測もできなかった。
 ただ『独奏者』が命懸けで、必死に、その目的を叶えようとしている――そんな強い意志だけは痛いほどに感じていた。なぜ、そこまでして?
 どうして、異世界からの影響を排除しようとしているのか?
「もともと不自然な、ありえない事態だったのです。異世界の接触、そのために数多くの悲劇が今も昔も繰り返されています。私は、それを根絶したい」
 地面に散らばった薔薇の花びらを踏みにじりながら、『独奏者』が歩み寄ってくる。ヴァイオリンを片手で抱え、彼だか彼女だかは空いた手のひらをこちらの頭に添える。
「なぜか今、『お姫さま』は時任静のなかから浮かびあがってきません。たしかに、彼のなかにいるはずなのに……。たったひとりの人間が、その自我が、抑えこめるような脆弱な存在ではないはずなのですけど」
 触れている『独奏者』の指先には体温があって、彼だか彼女だかもまた生きている人間――ないしは、こちらとそう変わりのない生命体であることがわかる。
 己の人生を懸命に駆け抜ける、どこにでもいる一個の生命だ。
「いろいろ試しましたが、手応えはありません。このために危険を冒してまで誘拐したのですけどね、成果がないまま時間だけが浪費されています。こちらにもあまり猶予はありませんし――ここいらで、ちょっとアプローチを変えようと思っています」
 触れている間に『独奏者』から何らかの操作、影響があったのか、疑似生命体の見た目がゆっくりと様変わりしていく。
 白い肌。黒い髪。麗しい少女――刈谷蒼衣として、造りかえられた。肉体的には変化したが衣服はなく、生まれたばかりのような全裸だ。
 疑似生命体は不思議になって、己の手のひらを眼前に掲げる。
 汚れのひとつもない肌。桃色の爪。人間の身体だ。

刈谷蒼衣/9

「時任静を、彼の日常のなかへ戻します」
 変わりゆくこちらの肉体を見下ろしながら、『独奏者』は丁寧に言葉を紡ぐ。
「普通の生活にね。もちろん、あれこれ仕込んではおきますし――この後も入念に観察し、実験し、刺激を与えつづけます。それで『お姫さま』が表出してくればしめたもの、そうでなくても環境を切り替えることで何らかの変化が訪れるものと、期待します」
 新たに得た肉体、人間の身体に慣れずに疑似生命体はその場にへたりこむ。二足歩行というのは、慣れないと難しい。本当に、生まれたばかりの赤ん坊である。
 あられもない姿で見上げると、『独奏者』は何だか困ったように首を揺すった。何だか自己嫌悪しているように見えたが、彼が再びヴァイオリンを奏で始めて認識がぼやけて――表情すら読み取れなくなっていた。
「あなたは、時任静と一緒に誘拐された――ということになっている、刈谷蒼衣という少女に成り代わって生活しなさい。そして時任静を間近から観察し、『お姫さま』が表出してきたら知らせなさい。可能なら、確保もお願いしたいところですけどね」
 最初に彼だか彼女だかが言ったとおりに、疑似生命体が刈谷蒼衣として暮らすことは単なる布石のひとつだったのだろう、あまり期待していないような口ぶりだった。
「あなたの周囲にいる人間の認識を弄り、あなたが刈谷蒼衣であることを誰にも疑わせないように処置しておきましょう。あなたと同様の監視役、時任静の観察や確保を目的とする駒を、他にもいくつも配置しておきます」
 簡単なことのように、『独奏者』は言った。そして実際、彼は酷く容易にそんな処置をしてしまい――今に至るまで、刈谷蒼衣が偽者であることは誰にも気取られていない。
 この世界を手のひらの上で転がす、神さまのような所業であった。
「有事の際に、たとえば組織の『聖楽器』の使い手などを出し抜き渡り合えるように、ある程度の戦闘力や特別な機能も付加してあげます。とはいえ常日頃からその能力を乱発したり、怪しげな動きをしていたら、それこそ組織に『聖楽器』の使い手だと誤解されて狩られる可能性がありますから――」
 ヴァイオリンの音色が強まり、疑似生命体の認識が、思考が侵される。プログラムを入力するかのように、『独奏者』がこちらを意のままに操作し、有用な駒として仕立てあげているのだろう。その点において、『独奏者』には抜かりがなかった。
「あなたは、あなた自身が本当は私の駒のひとつである疑似生命体であることすら忘却します。あなたは誘拐されて、帰ってきたときには記憶をすべて失っている、可哀想な刈谷蒼衣として今後は生きていくのです。周囲を疑わせない、程良い設定でしょう?」
 呪わしいことを、まるで素敵な思いつきのように『独奏者』は語っている。
「記憶を失っても、私が仕込んだプログラムは活きている。あなたはどうしようもなく時任静に惹かれ、知りたがり、関わろうとします。ごく自然に。そして彼から知り得たことをすべて、何の疑問もなく私に報告しつづけます。そういう、生きて動く私の端末となるのです――『お姫さま』を宿した時任静の、自覚なき監視員にね」
 そう。それが、現在の刈谷蒼衣という存在だった。
 周りを欺き、嘘で塗り固めた仮初めの生活を送る、監視装置のひとつだった。
「……どうして?」
 人間の肉体を得たことで、初めて疑似生命体の声帯が震えた。
 言葉として、己の意志を発した。
 いまだに人間として活き始めたばかりの疑似生命体には、幼児のようなぼんやりとした問いを口にすることしかできなかったけれど。
「なぜ、あなたは? どうして、そんなことを?」
「何度も言うようですけど」
『独奏者』はすこし驚いたように間を置いてから、応えてくれた。
「人間として、普通に生きたいだけです。わけのわからない異世界の干渉など受けずに――私も、あのひとも、みんな。そう望む私が、あなたを意のままに動く操り人形として仕立てるのは、赦されざる愚かな行為なのかもしれませんけど」
 その言葉の意味は、『独奏者』の真意は、いまだに理解不能である。

刈谷蒼衣/10

 ヴァイオリンの音色が聞こえる。
 刈谷蒼衣にとっては忌まわしいはずのその調べは、なぜか快くて――穏やかな二度寝をするみたいに安らかに聞き惚れてしまった。
 瞬きをして、よだれが垂れそうな口元を拭った。
 顔を上げる。
「あっ、起きた?」
 すぐ目の前で、キャロルが心配そうにこちらの顔を覗きこんできている。その手元には、彼女がたまに出現させる不自然な楽器めいたもの――電子キーボードのようなものが物理法則を無視して浮かんでいる。
 軽やかに、キャロルの繊手がその表面を撫でている。
 ピアノのように鍵盤が並んだ楽器に見えるのに、なぜか響くのはヴァイオリンの音色である。どうも彼女の用いる楽器は、様々な種類の音を響かせられるらしい。
 どこかで聞いたような聞かないような曲を、キャロルはぎこちなく演奏しながら、天真爛漫に笑った。安心したように。
「蒼衣ったら、何だか様子がおかしかったから心配したのよ。何だかあなたのなかに気味の悪い音が流れてたしね、それをあたしの演奏で洗い流してあげてるの。気分は、どう? 具合が悪いなら寝たほうがいいわよ、これから学校があるんだろうけどね――蒼衣の健康のほうが大事だわ。そうでしょ? お返事はできる?」
 鍵盤を何度か叩いて一曲終えると、キャロルは機敏に立ち上がった。
「それより朝ご飯にしましょ。今日も用意してくれたんでしょ、蒼衣。あなたって料理が得意よね、あたしが味覚っていうものに不慣れなせいか毎回とっても新鮮で嬉しくってね――踊っちゃいそうになるのよ、この表現で伝わるかしら?」
 言葉どおり無意味に踊るようなステップを踏む彼女を、しばらく呆然と眺めてから――蒼衣は首を揺すった。吐き気がして、けれど必死にそれを飲みこんだ。
 いろんなことを思いだしていた。
 これまで漠然と感じていた不安感、己がぽっかりとあいた穴のようなものであるという奇妙な不安感を埋めるような、記憶の再生があった。
『独奏者』が『聖楽器』ヴァイオリンで弄くった蒼衣の認識の歪みが、キャロルの演奏によってなぜか解除された。そんな気がする――まだ頭が混乱していて論理的に考えられないが、いくつかの記憶が再生されて、蒼衣は己が何者であるかをようやく自覚した。
 自分は刈谷蒼衣の偽者。単なる監視装置。人間ですらない疑似生命体。
 そんな事実を、今さら知らされて――思いだして。
 どうすればいいのだろう?
「蒼衣? どうしたの? 今日の朝ご飯は何?」
 キャロルはよっぽどお腹がすいているのか、早く早く、とこちらを何度も見て手招きをしてくる。彼女がたぶん善意から、本能的に行ったことは、蒼衣のすべてを震撼させていた。こんな真相なら知りたくなかったし、思いだしたくなかった。
 けれど、キャロルを責めるのも筋違いだろう。
 本当に彼女は、その通称どおりに――善意しかない無邪気な姫君なのだ。
 それにキャロルはあまり己の権能を、あのキーボードめいたものを完璧には用いられないようで、いまだに蒼衣のなかにはいくつもの空白がある。穴のすべてが埋まったわけではない。それだけ『独奏者』の干渉は、認識の操作は深刻に根を張っている。
 いちどの演奏ですべてが解除されるほど、やわな代物ではないのだろう。
 けれど。このとき、確実に刈谷蒼衣のなかでおおきな転換があった。それがこの後、どんな事態を招き寄せるのかは――まだ神のみぞ知る。
「朝っぱらから騒がないでください。ご近所迷惑ですし、あなたの声はキンキンと甲高くて頭に響くのですよ」
 いつもの憎まれ口をどうにか絞りだして、蒼衣は立ち上がる。
 さぁ、どうしようか。
 まだまだ疑問は尽きない。『お姫さま』――キャロルを中心にして、いまこの世界はおおきく揺れ動いている。『聖楽器』の使い手をおおく保有し暗躍する組織、巻き起こる異常事態、その裏に見え隠れする『独奏者』という奇妙な存在。
 異世界との接触によって歪んだこの世界で、偽者の我が身を抱えて、自分は何をするべきなのか。何ができるのか――わからないけれど、知ってしまったからには無視もできない。万難を排し、慎重に懸命に、蒼衣も己自身の人生を駆け抜けるしかない。
 一個の生命として。
 そのためには。
「ええ。まずは、朝ご飯を食べましょう。栄養摂取は、必要です」
 ゆっくりと、本物の蒼衣がかつて暮らしていた子供部屋をでる。
 さっさと先に飛びだして、小躍りするようにして廊下を進んでいたキャロルの背中を追いながら、蒼衣は独りごちる。
「食べないと死にますからね。……生きなくてはなりません」
 その途中で楽しげに大工仕事をしていた橙一が、もう床にあいた穴を塞ぎ終えたのか、満足そうに板が打ち付けられた老朽化した廊下で踏ん反り返っている。
 そんな彼に飛びついて、「何をしてたの? 楽しいこと? どうしてあたしも誘ってくれなかったの?」と無邪気にまとわりつきながら問うている、異世界の姫君。そんな平和だけれど裏にはおぞましい悪意が渦巻いていて、輝かしいけれど歪んでいて、和やかだけれど水面下では数々の陰謀が張り巡らされた現状を――蒼衣は見据える。
 いつものように背筋を正して、真っ直ぐに、かわいげのないてつめんで。
「橙一、呑気にしていると遅刻しますよ。朝食をとって、登校しましょう」
 これまで何百回も口にした、ありふれた小言を述べながら。
 塞いだばかりの廊下の穴を、軽やかに乗り越えて前へ進む。