蓄怨鬼セツゲッカ

 娘が泣いています。
 お母さん、お母さんはどこ、と、地吹雪の向こうから叫声が聞こえてきます。
 私はその声をたよりに、雪原を進みます。
 あの子に父親はいません。わたくしに夫はいません。
 夫はいらんか。金はいらんか。
 私にそう言い寄る男たちも、あの子の父親になろうとはしません。
 それでも私は、何度か男に騙されてしまいました。
 娘がいるのに、私は自分を孤独な女だと思っていました。
 ええ、ええ。わかっています。私も、母である以前に女であるということは。
 短い間ながら、共に氷雪を踏んで歩いてくれた男たちには感謝もしています。無論、感謝よりも憎しみのほうが勝るので、私がその男たちの血を絶やすことに関しては何のためらいも生じませんでしたが。
 そろそろでしょうか。娘の声が近づいてきました。
 私は、これまでに何度もこのようにして娘を探して歩きました。
 鈍色にびいろよりも白が勝る世界。上からも下からも吹き付ける氷の結晶は、いとも簡単に娘の体温を下げるのです。娘のもとに辿り着いても、その娘はもう二度と私をお母さんと呼んでくれません。
 私は、幾度となくこの孤独を味わってきました。そのたびに、強い痛みを感じながら、また新たな娘を探して雪原を歩き回りました。
 何人の男を殺し、何人目の娘を見つけた頃でしょうか。
 あるとき、私は奇妙な箱を見つけました。
 美しい装飾が施されたその箱に私が触れると――悲しい歌が聞こえてきたのです。
 その箱の中には、今まで出会った娘たちが閉じ込められていました。
 私が名前を呼ぶと、その子の歌が流れてくるではありませんか。また、その歌を聴き終えたあとならば、箱の中から娘を出してやることができました。
 さらに、再び閉じ込めることもできるのです。
 ええ、ええ。わたくしは確信しましたとも。

 少女の悲歌を溜め込むこの不思議な箱は、すべての娘たちの母――私そのもの、だと。

アマエノコ/1

 薄暗い地下倉庫の中で、アマエノコは女の胸に顔を埋めてグズグズと泣いていた。
 また大きなミスをしでかしてしまった。
 またたくさん怒られてしまった。
 組織の面汚し。『聖楽器』の無駄遣い。いつものこわい人に、さんざん言われた。
 こわい人に文句を言われているあいだ、アマエノコはただひたすら涙を流し続けることしかできない。
 両手両足を縛られて、さるぐつわをかまされて、目隠しをされて、頑丈な檻の中に閉じ込められて、お人形もぜんぶ取り上げられてしまうから、アマエノコはなんにもできない。組織に拾われる前は純日本人らしく黒く艶があったという髪も、とうに色素が抜け落ちて真っ白になった。
 でも涙はかれれなかった。人のからだは樹木とちがって地に根を生やすことができないというのに、どうしてこうも都合よく、涙の雫だけは尽きないのだろうか。
「アマエノコ、いいかげん泣き止んで? あなたは何も悪いことはしていないし、組織の人間だってあなたのその力はコントロールが難しいものだとわかっている。誰もあなたを責めてなんかいないわ」
 アマエノコの髪をやさしくでる女――フシラビがアマエノコの涙を拭った。
 フシラビは、『聖楽器』を蒐集しゅうしゅうする組織内において非常に優秀なエージェントとして知られている。何をやってもうまく行かず、「グズ」だの「バカ」だの言われているアマエノコとは月とすっぽんだ。
 アマエノコとフシラビが二人一緒に並んで歩けば必ずこう言われる。
『不釣り合いな姉妹だ』と。
 なぜ、こんな優秀な姉をもってしまったのだろう。
 アマエノコは、自分がフシラビの妹であることに引け目を感じていた。
 自身の『聖楽器』の力も満足にコントロールできない。アマエノコの感情と強くリンクするその力は、心が未熟なうちは能力と呼んでいいのかどうかも不明だ。
 アマエノコはいつだって出来損ないの役立たず。
 だからアマエノコは誰にも見つからないようにこうして陽の当たらない場所を探して一人きりになるのだが、どういうわけかフシラビは、必ずといっていいほどアマエノコが隠れている場所を特定し、こうして迎えに来てくれる。
 いったいどうしてフシラビはアマエノコのことをこんなにも可愛がってくれるのだろう。
 ――ほんとうは、姉妹なんかじゃないのに。
「アマエノコはしばらく任務から離れて、少し休むといいわ。組織の上層部もそのように判断を下したことだし」
「お仕事、しなくていいの?」
「本当はもっとがんばってほしいけど、今のあなたはとても不安定だもの。無理をしてまた失敗したんじゃ、いつまでたってもその力を操ることができないでしょう」
「ごめんなさい。なんだか最近、何をやってもうまくいかなくて」
「気にしないで。そういう時期って、誰にでもあるものよ。特に女の子には、心がざわざわして、落ち着かないときっていうのがある。でもそれは、決して悪いことではないのよアマエノコ。感情が乱れて能力が荒れるのは、心が成長している証なんだから」
「心も成長するの? からだみたいに?」
「もちろん。あなたはまだ小さいから、これからどんどん大きくなるわ。体も、心も、私より大きくなるかもしれない」
「でもフシラビ、妹っていうのは、お姉ちゃんより小さいものなんだよ?」
「あら、アマエノコは私より小さいままでいいのかしら? 私は女の中でもけっこう小さいほうなんだけれど」
「小さくていいよ。フシラビより大きくなったら、またみんなに『不釣り合い』って言われちゃうもん」
「ばかね。釣り合いが取れているかどうかなんて、姉妹の絆には関係ないのよ」
 フシラビがアマエノコを強く抱きしめる。
 美しく、透き通るような白い肌から緑色の血管がうっすらと見える。首も、肩も、アマエノコを包む四本指も、その全てが細い。簡単に壊せてしまいそうだ。
「このまま、ずっとこうしてフシラビと一緒にいたい」
「それはできないわ。私には仕事がある」
「またどこか遠くに行っちゃうの?」
「うん。そのことなんだけどね、アマエノコ……」
 フシラビはアマエノコの両肩に小指のない手を乗せて、じいっと瞳の中を覗き込んでくる。
「私はとても重要な任務を任されることになったの。長いあいだ組織が追い求めていた『聖楽器』が、しなちょうにあることにわかってね……その、しばらくあなたとは会えないと思うのよ」
「どうして? 私が上手に仕事をこなせないから、組織のえらい人にいじわるされたの?」
「そういうわけじゃないわ。ただ、その『聖楽器』を回収するのはかなり難しくて、終わるまでにすごく時間がかかりそうなの。しっかりと準備をしなくちゃならないし、向こうに気取られないように慎重に接近する必要がある。正直に言って、私の見立てでは成功率もそれなりに低い」
「まさか。フシラビに出来ないことなんてないよ。だってフシラビは、組織の優等生なんだから」
「ありがとう。でも、油断はできない状況なの。失敗すれば、二度とアマエノコに会えなくなってしまう」
「なんで?」
「失敗すれば私は死ぬからよ」
 フシラビはその言葉を、一切のちゅうちょなく口にした。それから、ふだんはゆるやかな目尻をきゅっと引き締めて、ひどくまじめな顔をして言ったのだ。「私は死ぬ」と。
 ちょっとだけ怖い顔。何かをさとすときにフシラビはよくこういう顔をする。
 でもまさか、フシラビが死ぬだなんて、そんなわけあるはずがない。きっと何かの冗談だ。
 アマエノコはフシラビの実力をよく知っている。『聖楽器』の能力を上手に活かせているし、頭もいい。いつも冷静で広い視野を持っているから、難しい任務だって楽々とこなしてしまうのだ。
 ――なんでもかんでも壊してしまうアマエノコとは月とすっぽん。なんだから。
「わたしはフシラビが死ぬとは思えないけどな。フシラビ、すっごく強いし。それに、フシラビなら自分より強い相手と戦わないはずだもの。そうでしょう?」
「人はあっけなく死ぬものよ。私も例外ではない」
 フシラビはアマエノコの意見に同意しなかった。
「フシラビがそんなに警戒する相手って、どんな人?」
「……影の無い怪物」
「怪物?」
「あなただって噂程度には聞いたことがあるはずよ。どこにも属さず、具体的な能力も未だ知られていない神出鬼没の『聖楽器』使い」

 蓄怨ちくおんセツゲッカ。

 蓄怨鬼セツゲッカは、組織が設定した危険人物リストの最高ランクにその名を記す『聖楽器』使い――一部では『影の無い怪物』と呼ばれている。
 着物を着た痩身そうしんの女性で、長い黒髪を腰まで伸ばしているその目立つ容姿は街中に現れたらすぐにわかるというのだが、セツゲッカはなかなか尻尾を掴ませない。
 雲のように流れ、風のように忽然こつぜんと姿を消す。
 だが時にもやのように増殖し、きりのように人の心を惑わせる。
 時空を移動するのか、物体の中に潜むことができるのか、理由は定かではないが、組織が『聖楽器』の力を駆使してもセツゲッカの居場所や行動を全く読めないのだ。彼女が影のない怪物と呼ばれる所以ゆえんである。
 組織が長い時間と労力をかけてようやく得たセツゲッカに関する情報だが、これはセツゲッカを捕捉し、彼女の所持する『聖楽器』を奪うという目的には役立たない。
 蒐集ではなく「奪え」との指示が飛ぶのも仕方がない。なぜなら組織はセツゲッカの能力により多くのエージェントを失っているからである。
 彼女の持つ『聖楽器』の能力の一つはわかっている。だがその能力を知ったところでセツゲッカの攻略に役に立つわけではない。
「蓄怨鬼セツゲッカは『蓄音機』という特殊な『聖楽器』の中に人の怨恨えんこんを取り込んでそれを自由に出し入れできるらしいわ」
 フシラビの説明を聞いて、アマエノコは一瞬納得しかけたが、すぐにその違和感に気づいてこんなことをいた。
「そこまで詳しいことがわかっているのに、どうして危険人物扱いされているの? 組織が本気になれば対策が立てられそうな気がするけど」
「そうね。私もそう思うわ。アマエノコは本当にかしこいわね」
 穏やかに、それでいてどことなく冷ややかに、フシラビは白いくちびるを小さく動かす。
「いま私が言ったのは蓄音機の『聖楽器』としての能力であり、セツゲッカの能力ではないの。『聖楽器』の中に人の怨念を溜め込むというのは、組織の人間なら十分に想定しうる能力だもの。まあ、ちょっと変わってはいるけれど」
「ってことは、こわいのは『聖楽器』の力じゃなくて使い手のほうだ」
「ええ。セツゲッカは私たち普通の『聖楽器』使いとは違う。でもその違いが何なのかがわからないから組織もうかつに手を出せないの。たとえセツゲッカから蓄音機を奪えたとしても、彼女が無害化されるという可能性はとても低い」
 理想は、蓄音機の『聖楽器』を奪いセツゲッカも捕らえること。
 それができなければ倒すこと。
 でも実際は、セツゲッカの正体を知った者は一人も組織に戻っていない。
「『悲歌あるところに本体あり』」
「なにそれ? 悲歌?」
「とある筋から仕入れたセツゲッカの情報よ。あなたにしか話していないから、くれぐれも組織の人間には言わないで。内通者がいた場合すべてが台無しになる」
「わかった。言わない。そのぐらい重要なんだね。その、悲歌っていうのが」
「重要であることは間違いないわ。問題は、その悲歌が何を指すのかがわからないことよ。歌なのか、それとも別の何かを指す隠語なのか……でも、その悲歌というのが『聖楽器』によって奏でられたものなら、私たちも見たり聞いたりすることができるはずなの」
「じゃあ、信乃芽町で怪しいものが見えたら、それはセツゲッカに近づくチャンスってことだ!」
「そうだけど、逆に『呼び寄せられた』というピンチでもあるわ。悲歌は私たちの目にとまりやすい。これをセツゲッカを攻略する切り口と取るか、それとも罠と考えるか……慎重に判断しなければならない。悲歌が何なのか、本体が何なのかがわかっていないんだもの。臆測だけで飛び込むと予想以外のことに対処できなくなる。覚えておきなさい」
 さすがはフシラビだ。本当にかしこい。組織が頼りたくなるのも十分うなずける。
「セツゲッカには『聖楽器』の力以外にも何らかの能力や特性がある。それを突き止めないことには対策を練ることもできないからね。特に戦闘能力に関してはどんな些細な情報でもほしいというのが組織の考えよ。一度で成功しなくてもいいと言われているから、とにかくまずはセツゲッカが何者であるか知りたいのでしょう。相手の力が未知数である以上、ヘタな手を打って逃げられるよりは確実に前進するほうが大事だから」
 だから入念に策を練らなくちゃ。とフシラビはほほんでアマエノコを安心させる。
 確かに、蓄怨鬼セツゲッカほどの危険人物が相手なら並大抵のエージェントじゃ歯が立たない。強くて、頭がいいフシラビが適任だ。
 フシラビの任務はセツゲッカの討伐とうばつでも『聖楽器』の回収でもなく、対策を練るための情報収集なのだろう。戦闘能力に関してはできるだけ多くの手数を使わせて、セツゲッカの能力や弱点を探る。うん。バッチリな作戦だ。
 ――なんて言うとでも思ったか。
「……組織はフシラビを使い捨てる気だ」
 アマエノコは知っている。組織は時に、エージェントに片道切符をわたすことを。
「アマエノコ。殺気を抑えなさい」
 気がつけばアマエノコは、こみ上げる怒りと不安から牙を剥きだしにしていた。
 いったい誰に? 何に?
 それはわからない。蓄怨鬼セツゲッカなんて実際に見たことはないし、組織の上層部を殺してやりたいと思ったわけでもない。
 ただムカついたから牙を剥いた。それがいけないことだっていうのも、未熟な証だっていうこともわかっている。
「大丈夫よ。私はあなたを置いて死んだりしない。確かに、組織のバックアップはないし、単独でやらなくてはいけないから危険は大きい。むしろ失敗したときのことを考えて私から他のエージェントを引き離しているみたいだから、片道切符でも任務を達成しうるエージェントとして頼りにされているのでしょう」
「でも片道切符って『生死に関わらず』って意味だよね?」
「そうよ」
「いやだよそんなの! フシラビに何かあったらわたしが組織の人間を皆殺しにしてやる!」
「滅多なことを言うものじゃないわ。誰かに聞かれたらどうするの」
 いきり立つアマエノコをフシラビがたしなめる。感情のたかぶりと共にきばくアマエノコの殺意がフシラビの頬にビリビリと伝わっていく。
「私はそこらのエージェントとは違う。あなたをこの世に残して死んだりなんかできない。私がそうしたくない。だから意地でもこの任務を成功させる……ううん、失敗したって、何とか無事に戻ってくるわよ」
 フシラビはいつだって正しい。優しい。
 いつだってアマエノコを守ってくれるし、助けてくれるし、なぐさめてくれる。
 たとえアマエノコが仕事でミスをしても、力のコントロールを間違えて人をたくさん殺してしまっても、フシラビは必ずこうやってアマエノコのからだを抱きしめて、四本の指で包んでくれる。
 そんなフシラビが、お姉ちゃんが、割に合わない仕事を言いつけられた。そのせいでアマエノコと長いあいだ会えなくなってしまう。もしかしたら死んでしまうかも。
 そんなのいやだ。どうして優秀なエージェントであるフシラビがそんな捨て駒みたいな役目を押しつけられなくちゃならないんだ。
 フシラビの仕事は組織から渡された片道切符をどうにかして往復切符にすること。生きて戻る、任務を成功させるというのなら、無謀な作戦は許されない。
 なのに、組織はフシラビに手を貸してくれない。

 ――だったら、せめてわたしだけでも力になれないかな。

「言っておくけど、ついてこようなんて考えてはダメだからね」
 言葉に出す前に、フシラビが先手を打ってアマエノコの目論みを抑止する。
「あなたは出来る子。それはわかっている。違う仕事ならいの一番にアマエノコに声をかけたわ。でも今回の仕事は私一人でなきゃダメなの。詳しくは言えないけれど、どうか聞き分けてちょうだい」
 フシラビの腕の中、アマエノコは初めてフシラビと出会ったときのことを思い出す。
 今みたいに誰もいないところ、光も声も届かない狭い部屋に閉じ込められていたアマエノコに手を差し伸べてくれたのは、この人だけだった。
 孤独しか知らなかったアマエノコに、孤独を超越するひとりの時間を教えてくれた。
 自分の命を失うこと以外の恐怖と絶望。自分が傷つけられること以外での屈辱。それらを教えてくれたのは、世界にただ一人の「大好きな人」。
「約束して。決して私の仕事の邪魔をしない。ついてこない。私のことを探さない。これさえ守ってくれたら、私もあなたとの約束を守る」
「フシラビの仕事の邪魔をしない、ついていかない、フシラビを探さない……うん、わかった。わたし、約束を守る」
「いい子。おかげで安心して仕事に集中できるわ」
「フシラビは、どんな約束をしてくれるの?」
「あなたが決めていいわよ。私と、どんな約束を交わすのか」
「えっと、無事に帰ってきてほしいっていうのと、わたしを一人にしないっていうのと、それから、それから……」
 まだあるの? と微笑むフシラビを見て、とっさに出てきた三つめの約束。
「わたしを、ほんとうの妹にして?」
 それは、ずっとずっと言わないようにしていた、アマエノコの願いだった。
 フシラビは細いからだでアマエノコをぎゅうっと抱きしめて、「ずっと気にしていたの?」と声をふるわせながら言った。
 気にしていたよ。お姉ちゃん。
 アマエノコは、フシラビのほんとうの妹じゃないってこと。
 アマエノコは、生まれてきてからずっと一人ぼっちで、家族なんていないんだってこと、気にしていたんだよ。
 フシラビが地下倉庫を去ってから、アマエノコのひとりの時間が始まった。
 次はいつ会えるのかな?
 それまで、ひとりでがんばらないと。
 孤独を超越するひとりの時間が、また、始まった。

宮ヶ瀬涼音/1

「ねえ、あなた、お母さんはいる?」
 タイムセールの知らせを受けてウキウキ気分だった涼音の鼻歌がぴたりと止まった。
 お母さんはいる? 初対面の女性に突然そんなふうに話しかけられて、驚かない人間がいるだろうか。
「失礼。わかりにくいかただったかしら。今の質問は、お母さんが必要かどうかという意味ではなくて、今現在あなたにはお母さんがいらっしゃるかしら、という意味よ」
 全身の毛が逆だった。
 お母さんはいる? 学校からの帰り道にスーパーに立ち寄ると、店の入口で白い着物を着た女性が涼音の顔を見るなりそう言った。げんな顔をしたままその場で凍り付く涼音を見たそのな女性は、自己紹介をする前に質問の意味を説明してくれたけれど、あいにく涼音は小さな子どもではないから、そんな失礼極まりない質問に対し「いませんけど」なんて答えをすぐに返すはずもない。
「あの、出会ったばかりの人にそういう質問をするなんて失礼じゃないですか?」
 言い返す涼音に、今までうつむきがちだった着物姿の女性はゆっくりと頭を上げて反応し、長い髪に包まれた雪のように白い肌とくちびるを見せた。
「ごめんなさい。いきなり言われても驚くわよね。失礼をおびするわ」
 正面からちゃんと見ると、ものすごくきれいな人だ。
 でもそれ以上に不気味だ。こういう人とはあまり深く関わらないほうがいい。
 涼音は女性に一礼し、視界の端に白と黒の人影をとらえたまま自動ドアのボタンをプッシュする。

「あなたの中に娘がいるの」

 ぴたりと足が止まる。
 あなたの中に娘がいるの――その言葉は、涼音の心に痛烈に響いた。
 もの悲しそうに言う女性を無視することは、涼音にはできなかった。
「私が、あなたの娘さんに似てるんですか?」
「似ているわ。とてもよく似ている」
「私はあなたの娘さんではないですよ。私のお母さんは天国にいるので」
 久しぶりに母の死について口にした。ふだんはあまり言わないようにしているのに、この人を前にすると自然と出てきてしまう。
 それはたぶん、彼女が涼音と同じ立場にある人間だから。
 涼音の顔をじっと見つめるこの女性もまた、家族を失った悲しみにさいなまれているのだろう。この世にはいない者を求める目。それは、足りない何かを欲する目とは微妙に違うのだが、涼音にはその違いがよくわかる。
「あなたにも、私の悲しみがわかるのね。家族を失った者の悲しみが」
「ええ、わかります。でも、あまり口にしないほうがいいですよ。言葉に言い表すと苦しくなるだけですから」
「あなた、お名前は?」
「涼音です。みやすず
「涼音……素敵な名前ね」
「お姉さんは?」
「私は……セツコというの。雪の子と書いて、セツコ」
「いいお名前ですね。上品で、日本人女性らしい」
「娘の名前はつきはなっていうのよ」
 訊いてもないのに娘の名を口にするセツコは、姿の見えない誰かにそっと語りかけるように、呼びかけるように、うっとりと息を吐く。
 失った娘は月子なのか花子なのか、あるいはそのどちらもなのか。
 同情から、涼音はセツコの亡き娘について考えた。見たところまだ二十代前半と若いのに、二人も娘も失ったとしたらさすがに心を病むだろう。母親の気持ちというものは涼音にはまだわからないけれど、自分の命よりも大切なものを失うという苦痛はなんとなくだがわかる気がする。
 でも、どうしてわかるんだろう?
 涼音には、自分の命よりも大切なものなんてないのに。
「ああ、涼音ちゃんはとっても優しい子ね」
 はっと顔を上げると、数歩先、自動販売機の前にいたはずのセツコがすぐそばまで歩み寄っていた。音もなく、気配もなく。
「私は娘たちを、月ちゃん、花ちゃんって呼んでいたのよ」
 瞬きのたびにセツコが少しずつこちらに迫ってくるセツコの異様な雰囲気にされて、思わずセツコの顔から目を逸らした。
 きっと娘を亡くして気がヘンになっているのだろう。かわいそうとは思うけど、涼音が話を聞いてあげたところでこの人の悲しみを取り去ることはできない。時間が解決してくれるのを待つしかない。
 心が病んでいる人に何かを言うときは、優しくしても厳しくしてもダメで、自分の考えや世間一般的に考えられる「普通」という一般論なんかも口にしてはいけない。その人が欲しているものを的確に言い当てられたとしても、そこから感情だけでなく考え方や言い分まで百八十度ひっくり返してしまうことだってある。
 ましてや出会ったばかりの人間の心の傷に触れないように傷口を見るのは難しい。正しい選択なんてできっこないからこそ、時には向き合うことを避けたほうがいい場合だってある。
 涼音の母親が、そうだった。
「ごめんなさい。私、急いでるので」
 涼音はその場を離れようとセツコに背を向けた。
「ちょっと待って涼音ちゃん」
「ひっ!?」
 腕をつかまれ、ぐいっと引っ張られる。
 力いっぱいに、ガッチリと。
「涼音ちゃん、話をきいてちょうだい。ほんの少しでいいの。私の話をきいて」
 馴れ馴れしく「涼音ちゃん」と呼ばれて、涼音はこの奇妙な女性に自分の名前を教えたことを後悔した。
「私は雪子。死んだ二人の娘の名は月子と花子。こう聞いて、何か思うところはない?」
「い、痛いですよセツコさん。離してください」
「私は雪子。死んだ娘の名は月子と花子」
「それはさっき聞きましたから」
「私は雪子。死んだ娘の名は月子と花子」
 これは本気でまずいやつだ!
 涼音は助けを求めようと辺りを見渡すが、どういうわけかスーパーの中にも駐車場にも誰一人として見当たらない。レジ打ちの店員さんさえ一人もいないのだ。
 どうして? 店の外にも、中にも、さっきまではあんなに人がいたのに。
 こわくて後ろを振り返れなかった。冷たい息が首筋に吹きかかる。そんなに近づく必要ないでしょうってぐらいの距離まで近づいて、この人は涼音に何を求めているというのだろう。話を聞くっていったって、同じことを連呼しているだけではないか。
 私は雪子。死んだ娘の名前は月子と花子。
 何度めかのそのフレーズと共に、右手首が徐々に締め付けられていく。
「涼音ちゃん、何か思うことはない? 思い付いたことがあったら声に出してみて?」
「そんなこと言われても……」
 この不可解な状況の中で、涼音はふとオカルト好きの幼なじみ――はらたつのことを思い出す。
 そういえばむかし辰樹が口裂け女の話をしているとき、「幽霊や妖怪は特定の言葉を口にすると満足して消える」って言ってたっけ。
 まさかこのセツコという女性が幽霊や妖怪のたぐいだなんてことがあるわけがないけれど、涼音に何か言ってほしいことがあるのは間違いない。
 雪子と、月子、花子。
 この三つの名前で連想される言葉?
「雪と、月と、花……雪月花?」
 思い付いた言葉を口にする。
 雪と、月と、花。四季の美しさを言い表す「雪月花」という言葉を思いだした。
「涼音ちゃん、もう一度」
「雪月花……?」

「そう。私の名前はセツゲッカ――今日からあなたの、お母さんになる人よ」

 セツコはニィと不気味な笑みを浮かべ、涼音の腕を離した。

宮ヶ瀬涼音/2

 ふわりと体が軽くなった拍子に前につんのめり、スーパーの床に倒れ込んだかと思うと、なぜだか涼音の視界には見覚えのある天井が現れた。
 ――涼音の部屋だ。
「なんで私の部屋に? さっきまでスーパーにいたはずじゃ……」
 夢だった。というオチはいくらなんでも無理がある。寝起きという感じでもないし、ほんの数秒前まで記憶もある。
 涼音は学校帰りにスーパーに寄った。夕飯のメニューは特に決めてなかったけれど、自動ドアのすぐ目の前にあった特売品のお茶に飛びついて、二リットルのペットボトルを二本買い物カゴに入れた。その証拠に、まだ涼音の右腕には買い物カゴの重みが感触として残っている。
 でもそこから先の、買い物を終えて自宅まで歩いて帰ってきたという記憶だけがすっぽり抜けてしまっているのだ。
 ちょっと前のことが思い出せないでいるのに、どういうわけか頭はスッキリしている。この感覚、少し前にも経験したことがある。
 確かあれは、辰樹の様子がおかしくなる前日のこと。校門を出てからすぐに忘れものをしていることに気づいて昇降口まで戻ったのだが、上履きに履き替えてから教室に戻るまでの記憶だけが抜けていたのだ。気づいたら自分の席に突っ伏して寝ていたのだが、どういうわけか涼音が忘れものを取りに戻ったはずの時間から二時間近くも経過していたのである。
 夢の中で小さな女の子が話しかけてくるようになったのも、辰樹が抜け殻のようになってしまったのもほぼ同じ時期だということを考えると、もしかしたら辰樹が涼音や蒼衣ちゃんに素っ気ない態度を取るのは涼音にも何か原因があるのだろうか?
 まさかとは思うけど、夢遊病みたいになって知らないあいだに誰かに迷惑をかけているとか。
「夢遊病なんかじゃないわよ。私があなたをここまで運んできたんだから」
 息を吸う音さえ立てず、ドアの前に着物姿の女性が現れた。
 誰だっけこの人? 咄嗟に名前が出てこない。
「えっと、あなたは?」
「まあ、寝ぼけているの? おばさんの顔を忘れてしまうなんて」
 おばさん?
 おばさんって、えっと……お母さんのきょうだいってことだよね?
 涼音は目覚める前の記憶の中から、ゆらゆらと揺れる白い影を見つけ出す。それはしだいに輪郭りんかくあらわにしていき、この部屋で最初に目に入った白い天井のようにごく当たり前の現実として涼音の中に入ってきた。
「セツコおばさん……」
「さっきセツコさんでいいって言ったでしょう?」
「セツコさん……そうだ、私さっきスーパーでセツコさんに声をかけられて、一緒に夕飯を食べようって話になって」
「それで涼音ちゃんが急にまいをおこして、慌ててタクシーで帰ってきた」
「そうだった……ごめんなさいセツコさん。私、自分から誘っておいて」
「いいのよ。久しぶりに会っためいが目を回すほどはしゃいでくれたんだもの。としては嬉しいわ」
 セツコは涼音に歩み寄り、その白い手を涼音の額に当てた。ひんやりと冷たいセツコの手が涼音の体温を奪っていく。
 もう大丈夫そう? と訊くセツコはいつか見た母の顔にそっくりで、母が亡くなってから何年ものあいだ涼音が空けておいたスペースにするりと入り込んでも何の違和感もなく、むしろこちらから迎え入れたいという衝動にかられる。
 髪型も、体形も、声色も、亡き母とは全く違うのに、セツコとはもう何年もこうして肌を合わせているかのような気がする。
「涼音ちゃんはふだんからあんなふうに倒れることがあるの?」
「ううん、貧血を起こしたこともないし、風邪だって最近はあんまり引かないよ」
「ならきっと、心が悲鳴をあげたのね」
「心って……私、悲鳴をあげるほどの悩みとかないと思うんだけど」
「自分では大丈夫と思っていても、心にできた傷っていうのはゆっくりと時間をかけて大きくなっていくの。特に涼音ちゃんのように、大人になる少し手前の年の頃っていうのは心がよく動くものだから、急激に傷口が開いてしまうことがある」
「その傷って……お母さんが死んじゃったときのこととか?」
「それは私にはわからないわ。涼音ちゃんがそう思うのなら、きっとそうなのかもしれない。でも、心の傷は程度の違いこそあれ、似たような傷がいくつも付いていることが多いのよ」

 涼音の母は、涼音が中学一年のときにこの世を去った。

 自殺だった。
 なぜ母が自ら命を絶ったのかはわからない。高校生になった今でもその理由は考えつかない。いつも明るくて、何があっても涙を見せなかった母が、自殺するほどに思いつめていただなんて。
 父はあの日以来変わってしまった。もともと仕事が忙しくて帰りが遅かったけど、休みの日でも家にいることはほぼなくなった。
「さみしかったでしょう」
 さみしかった。
 さみしかったけど、乗り越えられた。
 笑おう。できるだけ大きな声を出そう。そうすればあなたの周りに人にが寄ってくる。一人ぼっちにさえならなければ、大抵のことは乗り越えられる。
 これは母が教えてくれたこと。涼音はこの言葉のおかげで絶望的な哀しみの底から這い上がることができた。父も、涼音の前ではちょっとずつ笑顔を見せてくれるようになった。
 辰樹も、辰樹のお父さんとお母さんも、いつも涼音のことを気に掛けてくれていた。涼音ちゃんは強い子だねって言われるけれど、涼音が今でも人前で明るく振る舞えるのは支えてくれた人たちのおかげなのだ。
 それに今は、蒼衣ちゃんがいるもの。
 そうでしょうハーメルン?
「ハーメルン?」
 って何? 誰?
 自分で言ったのに、その言葉に覚えがない。
 涼音は困惑したが、涼音が無意識に口にした『ハーメルン』という名に心当たりがあるのか、セツコは「そう、もうハーメルンと話したのね」と、一人で納得して、涼音の頬に張りついた前髪を指先でそっとけた。肌に触れないように髪の毛だけを探るしぐさが妙に艶っぽくて、なんだかドキドキしてしまう。
 セツコの実年齢は知らないが、見た目の印象ではまだ二十代の前半だ。洋服を着たら大学生と言っても通じるかもしれない。
 きれい。それに、とても美味おいしそう。
「私もセツコさんみたいになりたいな」
「私みたいになりたい?」
「うん。大人の女っていうのかな。セツコさん、美人だけど『可愛い』とは言われないでしょう?」
「確かに、かわいいだなんて言われたことは一度もないわね」
「でも『きれい』って褒められてたことはあるでしょ?」
 セツコは答えなかったが、両方の眉が微妙に上がったのを見て、涼音はそれを肯定ととらえた。
「やっぱりね。オーラが違うもん。私よりも細いのに、すごくセクシーだし」
「オーラとかセクシーというのはよくわからないけれど、体つきは涼音ちゃんのほうがよっぽど女らしいわよね。胸もお尻もしっかりしていて羨ましい。ちょっと触ってもいい?」
「えっ!?」
 触るってどこを!?
 と涼音が言う前にセツコは涼音の肩に手を乗せ、そこからするすると鎖骨に指をわせた。人差し指と中指がぴたりと止まったかと思うと、親指の先と付け根がやさしく胸の内側に触れ、やがてセツコの手のひら全体が涼音の胸をつつんだ。
「大きいわね。いいお乳が出そう」
「そっ、それはどうも」
「なぜそんな顔をするの? もしかして痛い?」
「いえ、痛くはないですけど……」
 胸の感触がどうとかではなく、この行為じたいがそもそもおかしくないですか?
 同性限定ではあるが、胸やお尻を触られるのは慣れている。でも、学校だとみんなもっとこう、ふざけてんだりたたいたりするから、改めてじっくり見られて触られてっていうのはなかなかない。っていうか初めてだ。
「涼音ちゃんが私を大人だと思うのは、きっと人の親だからよ。髪型や体形なんかじゃない。母親になれば、誰だって顔付きが変わるものよ」
「そっか。セツコさんはお母さんなんだもんね」
「そう。私はお母さんなのよ」
 お母さん。
 セツコさんは、お母さん?
 あれ? おかしいな……セツコさんはおばさんじゃなかったっけ?
 涼音の視界がぐにゃりとゆがむ。
 窓の外から聞こえていたカラスの鳴き声も、道路を走る車の音も、ぷつっと聞こえなくなって、代わりにジィジィと耳障りなノイズが部屋の中を飛び交い始めた。
 そのノイズはやがて涼音の耳の中に入ってきて、途切れ途切れになる。無音と、雑音の繰り返し。
 ザッ、ザザッ、と強いノイズが右の耳から左の耳へと抜けていったかと思うと、頭の奥のほうから少女の歌声が聞こえてきた。
 とても悲しい歌だ。何を歌っているのかまではわからないが、その歌のあまりの悲壮さに涼音は涙を流していた。
「さみしかったでしょう? つらかったでしょう? でも、あなたはもう一人じゃないの。さあ、お母さんの胸の中でお泣きなさい」
「お母さん……私のお母さんは、もういない……」
「いいえ。ここにいるわ。今日から私のことは、お母さんだと思って」
 氷のように冷たい息を吹きかけられて数秒ののち、気づけば涼音は、目の前にいるどこの誰かもわからない女性と夕食の仕度を始めていた。

木原辰樹/1

 近ごろ、幼なじみの様子がどうもおかしい。
 辰樹の幼なじみといえば涼音以外の誰でもない。家が隣同士で、近所付き合いがそこまでよくない辰樹の両親が唯一親しくしていたのが涼音の両親だ。
 幼いころはよく涼音と二人で遊んだが、男と女ということもあり、心と体の成長と共にその回数はしだいに減っていった。
 ――涼音との関係について誰かに訊かれた場合、辰樹が答えるのはここまでだ。
 俺たちも男と女なんだからいつまでもベタベタしているわけがないだろうと、涼音を狙う男子たちには言っておけばいい。面倒事は嫌いだ。余計なことを話せば涼音にも迷惑をかけるし、辰樹だってそんなにいい気分にはならない。
 まあ、本当のことをいうと……辰樹と涼音があまり口を利かなくなったのは、涼音の母親が自殺してからだ。
 明るい人だった。臆病で泣き虫な涼音はいつもあの人にくっついて、ほっぺたをむにむにされたり、脇の下をくすぐられたりして無理やりに笑わされていた。体は小さくて華奢きゃしゃだったけど、いつも前を向いて堂々と話す彼女は、宮ヶ瀬家の中心にいつもいた。
 そんな人が、突然うつ病になった。そして自ら命を絶った。
 心の病は脳の病である。胸を痛めずとも人の心は簡単に壊れることがある。彼女を診た精神科医がそう説明した。強い刺激がなくとも、思考の際に生じるズレや歪みが脳の破片となり日々の中で累積されていく。それが何かのきっかけで火がつくと、恐るべき早さで燃え広がって人が「心」と信じてやまないものを消してしまうのだという。
 世の中には、医学的に、科学的に証明できることが随分と増えた。涼音の母親がある日とつぜん笑わなくなったのも、夜中に歌をうたうようになったのも、脳の病が原因だと言われたらその通りだと思う。
 だが、そんなに単純なことなのだろうか。もしも現代の医学よりも数歩進んだ知識や技術を持つ脳医学者がいたとして、現実世界から放り出されるように、または自ら飛び出していくようにして正気を失っていく人々を元の状態に戻すことができるのだろうか?
 心を壊すわずかなきっかけを見抜き、対策を立てられるのだろうか。
 もしも未来を知っている人がいるのなら、教えてほしい。
 現代人が思う『人知を超えるできごと』に人知が追いついた場合、全ての不思議な現象は人のコントロール下におけるのだろうか。

 たとえば、いるはずのない母親と食事の用意をしたり、いるはずのない妹の遊び相手になってやったりと、何かと家での用事が増えて忙しくなった幼なじみの脳に何が起こっているのか――専門家たちは科学的に説明することができるのだろうか。

木原辰樹/2

 涼音の様子がおかしいのは家にいるときだけだ。学校での様子はというといたって正常であり、独り言を口にしたり、くうに向かって身振り手振りのアピールをすることはない。おかしなところなんて一つもない。
 とはいえ、涼音は今や二年C組の中心人物であり、男女を問わず常に数人の取り巻きがいる。朝から夕方まで一人でいる時間なんて皆無に等しいので、おかしな言動をとるヒマさえないのかもしれない。
 学校一の人気者であるかりあおと親しくなったことをきっかけに、涼音は前にも増して陽の当たる場所から戻ってこなくなった。
 辰樹は、それでいいと思う。
 母親が死んですぐの頃、朝も昼も泣いてばかりいた頃の涼音に比べたら、多少無理をしてでも明るいところにいたほうがいい。涼音は本来あのように明るい性格ではないのだが、必要以上に他人に気を遣うので、周りの勢いが強ければそれに合わせて溶け込むすべを身につけている。くらという意味では辰樹も涼音と大差ないが、自分を曲げてまで周りに合わせるスキルは持ち合わせてない。その点では涼音のほうがコミュ力が高いといえるだろう。
 だが、幼なじみとして、隣人として、どうしても近ごろの涼音の行動および言動そして態度はかんできるものではない。

 涼音は家に帰ってから、いないはずの誰かと会話をしているのだ。

 その誰かが何者なのかはわからない。ただ一つ言えるのは、あの家から聞こえて来るのは涼音の声のみということ。一方的にべらべら喋ることもあれば、相手の反応を待ったり、相打ちばかりのときもある。
 もちろん、話相手の姿は見えない。
 はじめは誰かと電話しているものだと思っていた。だがあるとき、涼音が大声で誰かと話している途中にスマホに着信があった。涼音は話相手に「友だちからだよ」と言って会話を中断し、電話に出た。そして通話が終わると、涼音は再びすぐ隣にいる誰かと話し始めたのである。いったい涼音は誰と話しているというのか。
 何かがおかしい。普通ではない。
 死んだ母親の遺影や仏壇に語りかけることはあっても、涼音は基本的に幽霊や妖怪のたぐいをそこまで強く信じているわけではない。おかしなものを見たことも、聞いたこともないはずなのだ。
「木原くん、どうかしましたか? 今日も元気がありませんね」
 ぼーっと涼音の横顔を見ていると、学校一の人気者、クラス委員の刈谷蒼衣が辰樹に声をかけてきたらしい。
 らしいというのは、目の前にいる人物が百パーセント刈谷蒼衣であるという確証がもてないからだ。胸に名札でも付いていればいいのだが……今の辰樹には女子生徒の顔をハッキリと認識することができない。

 様子がおかしくなったのは涼音だけではなかった。
 あのとき――屋上で涼音と話してから、辰樹にも変化が起きた。

 もっとも大きな変化があったのは視覚だ。
 目に映っているはずのものの輪郭が定まらない。色ばかりが目立ってしまうのだ。
 意識ははっきりとあるはずなのに、生きた心地がしない。いったい辰樹はどうしてしまったのだろう。
 見慣れたはずの景色も、人の顔も、すべてがぼんやりとかすみつつ、それでいて一瞬で視界の外へと流れてしまう。
 辰樹の生きる世界は、歪んで、そして消えていく。
 特に女性の顔が印象に残らなくなった。母親や幼なじみの涼音は別として、それ以外の女性はその表情を認識する前ににごった色の中に溶け込んでいくのだ。もう何度も顔を合わせているクラスメイトでさえも、いちいち名乗ってもらわないとそれが誰だかわからなくなってしまう。
 今の辰樹が女の輪郭を詳細にとらえるのは、高速道路を時速百キロで走りながらトンネルに連なる灯りの一つ一つを数えるのと同じくらい難しい。
 おまけに上手く言葉が音にならないし、思っていることを伝えようとすると喉の奥に熱いものがこみ上げて胃と肺の中身をぶちまけそうになる。一音ぶんの息を吸うことさえ難しくなった辰樹は、自然と口数が減っていき、何にも興味を持てなくなった。
 まるで、精気を封じられたかのように。
「木原くん?」
 煙に包まれたようにぼんやりとしらむ教室の中央に、長い黒髪の女子生徒が腰をかがめて辰樹のほうを向いている。声色にノイズが混じりはっきりとは聞き取れないが、おそらく刈谷蒼衣で間違いない。なぜなら、今の辰樹に話しかけるもの好きなんて、涼音かこの刈谷蒼衣ぐらいしかいないのだから。
「宮ヶ瀬さんも心配していましたよ。メールの返事も返ってこないし、話しかけても上の空だって」
 心配しているのはこちらのほうだ。と辰樹は目の前の刈谷蒼衣らしき人影に視線で訴えかける。言葉は出ない。発しようと思っても上手く音に表せない。
「まだ調子が悪そうですね。ごめんなさい。無理に話しかけてしまって。余計なお世話でしたよね。木原くんの気が向いたときにでいいので、また話しかけてください。私、また木原くんとオカルトの話ができるのを楽しみにしているんですよ」
 いちいち丁寧なお辞儀をしてきびすかえす優等生の後ろ姿は、ぼやけた日常の中に消えていく。刈谷蒼衣とオカルトの話をした覚えなどないのに、何を言っているのだろうか。
 まあいい。刈谷蒼衣がどんな記憶違いをしていようが辰樹には関係のない話だ。オカルトだって、別に他人に話すほど入れ込んでるわけではない。
 ……はずだ。たぶん。

「ねえ、キミは宮ヶ瀬涼音の友だちだよね?」

 女子の顔と声が濁った世界の中で空虚なときを過ごす辰樹の耳に、少女の声が響いた。
 ずいぶんとくっきりとハッキリと。
「知らんぷりしたってダメだよ。わたしの声ならちゃんと聞こえるはずだもん。あなたは『聖楽器』の呪いを受けているようだけど、声が聞こえるのならお話はできるでしょ?」
 セイガッキ? いったい何のことだ。
「そっか。キミは組織のことも蓄怨鬼セツゲッカのことも知らないんだね。あの黒髪の女と話していたから、てっきり知っているのかと思ってたよ。ごめんね」
「話がまったく見えない。黒髪の女って、刈谷蒼衣のことか?」
「よかった。やっぱりちゃんと喋れるんだ」
「あ……」
 耳元で聞こえる少女の声に対し、辰樹は言葉を発した。いつもは胸の内だけで鳴る自分の意志が、女性相手でもきちんと声になった。
 この感覚はいつ以来だろう。屋上で目が覚めたあのときから、もうずっとまともな会話をしていない。話をする気にならないのはもちろん、物理的に難しく感じるのだ。簡単な受け答えさえも、ああ、とか、なあ、と口にするのも、一苦労だ。
 それなのに、この少女とはごく普通に会話ができる。このぼやけた空間の中で辰樹が唯一、確かな音として認識できる声。いったいこの少女は何者なのだろうか。
 姿の見えない謎の少女に、辰樹はいつぶりかの興味を抱いた。
「わたしはアマエノコ。人を探しているの」
「アマエノコ……それ、名前か?」
「そうだよ。アマエノコ。それがわたしの名前。ちょっとふくざつなじじょうがあって、とある人、っていうかモノ? を探しているの。今すぐにでも見つけ出さなきゃならないくらいなんだ」
「僕には関係ないだろ」
「それが大アリなんだよ。宿主から悲歌を取り出すにはキミの協力が必要みたいなの」
「ちょっと待ってくれよ。ヒカって何だよ? シュクシュって? いきなりすぎて何が何だかわからない。どうして姿が見えないのに声だけ聞こえる?」
「それはね、わたしが代わり身を使ってキミと話しているからだよ。ちゃんと見えているよ。キミのすぐ後ろにいる」
「後ろって……」
 耳のすぐ近くで聞こえていた声が、首筋の辺りに移動した。妙な感覚にゾッとしながらも、自分の真後ろにいるという少女の主張は如何なものかと思った。
 なぜなら、辰樹の背後に人が立つ隙間などないからだ。辰樹の席は窓際だ。教室全体を見渡すようにして窓に背中をつけている辰樹の後ろに、人などいるはずがない。
 わかってはいるのだが、自然と首が動く。動かされる。
「うそだろ……」
 辰樹が目を向けた先――窓の外には、日本人形が浮かんでいた。
 上から糸でつり下げられているのか、腰まで伸びた長い髪と手足の先が全て地面に向いている。人間の子どもと違わぬ等身大の人形だ。生身の人間でないことはひと目でわかるが、糸で吊られたこの巨大な人形のだらりとした脱力感がかえって生々しく感じられる。
「この子は志寿。わたしのおにんぎょう。呪いを受けたキミの耳に直接語りかけることができるのはこの志寿のおかげだよ。志寿も『聖楽器』の一部だから」
「さっきも言ってたけど、そのセイガッキって何なんだよ?」
「『聖楽器』は『聖楽器』だよ。不思議なチカラをもった楽器のこと」
「楽器? この人形が?」
「うん。普通の楽器とは少し違うけどね。『聖楽器』にはそれぞれ特殊な能力があって、とーっても便利なんだ。志寿の姿がキミにしか見えていないのも、『聖楽器』としての能力のおかげ。すごいでしょ? でも、志寿を作ったフシラビはもっとすごいんだよ」
 志寿という人形を介して話す少女アマエノコは、辰樹の疑問などおかまいなしに続ける。
「志寿はある条件を満たさないと誰にも見つけることができない『ていさつよう』のおにんぎょうなの。だから『聖楽器』の使い手にも見つからない。あんぜんに、かくじつにターゲットに近づけるすごいおにんぎょうなんだよ」
「ターゲットって……もしかして僕のこと?」
 ところどころに赤い斑点が散らばった着物のすそを見ながら、辰樹はおそるおそる訊いた。
「違うよ。わたしのターゲットは蓄怨鬼セツゲッカっていうとってもとっても危険な女だよ。がんばって調べた結果、どうやらこの学校に、セツゲッカが『聖楽器』に溜め込んでいる歌の一つが紛れ込んでいたみたいでね。それがさっき言った悲歌ってやつだよ。うまく説明できないけど、それがあればセツゲッカに近づけるかもしれないんだ」
 これまで少女のような甲高い声で話していたアマエノコは、突如その声色を変えて。
「フシラビが言ってたの。『悲歌あるところに本体あり』。わたしは本体である蓄音機の『聖楽器』を奪って組織に持ち帰る。そうすれば、フシラビが危ない目に遭うことはないもん。お姉ちゃんのために何かしたいの」
 きっとお姉ちゃんは褒めてくれる。邪魔はしてないし、ついてってないし、フシラビを探していない。約束は守ってる。わたし一人でやるぶんには、約束を破ったことにはならないもの。そうでしょう? そうだよ。
 アマエノコは、今この場にはいない誰かに問いかけるように、それでいて自分自身を納得させるように、「お姉ちゃん」と呼んだ。
「キミの体に巻き付いているその真っ黒でトゲトゲした鎖からは、ものすごく強い力を感じる。それを見たとき確信したの。キミは――セツゲッカの悲歌と接触している」
 窓の外でだらんと頭を垂らしていた志寿が顔を上げた。
 血とすすで汚れた頬。眼球のない目。狂気にまみれた日本人形が、辰樹の瞳をじっとのぞむ。辰樹は志寿に吸い込まれるように手を伸ばし、窓ガラスと接触。だが、またたき一つするよりも早くガラスは消滅し、辰樹の手は外気にさらされた。
「わたしと手を組みましょう。そうすればキミにかかった『聖楽器』の呪いも解けるし、キミのお友だちの命も救うことができる」
「僕の、友だち……?」
「うん。キミのお友だちは、セツゲッカの悲歌に狙われてるの。このままほうっておいたら死んじゃうかもしれない。そんなのやでしょ? 死んでほしいなら止めやしないけど」
 言われて、辰樹はついさっきアマエノコに話しかけられたときのことを思い出す。
「そういえばお前……なんで涼音の名前を知ってるんだ?」
 相手は人形。うなずきも、微笑みもしない。
 赤と黒に汚れた着物を身にまとい、目に見えない糸でつり下げられた傀儡くぐつの少女は、声のみで辰樹の質問に答えた。
「あの子もキミと同じ。セツゲッカの悲歌に接触してるの」
 でも安心して。わたしとキミが手を組めば、きっとあの子を助けられる。
「二人で悲歌の呪いを打ち消そうよ。そうすれば、キミもあの子も、普通の人間に戻れるよ。普通の人間でいることは、とってもとーっても幸せなこと。そうでしょう?」
 志寿の中からアマエノコが手を伸ばし、辰樹を誘う。
 半ば強引に辰樹の手に触れた小さな手は、人形とは思えぬほど温かかった。

アマエノコ/2

 信乃芽町には、地元住民でも滅多なことがなければ近づかない『道連れお池の森』という森がある。
 森の奥には道連れお池と呼ばれる池があり、一部のオカルト好きのあいだでは有名な心霊スポットになっている。道連れお池の下には多くの死体が埋められているとか、大昔に身投げした姫の霊が通りがかる男を次々と池に引きずり込むとか、そこにまつまる怪談話は枚挙まいきょいとまがない。しかし、古い歴史を調べても道連れお池のまわりに立つ噂話の元になるような事件はなく、一時の心霊ブームで広まった作り話という説が今では有力である。
「でも、わたしは確かに感じるよ。ここは、普通の人の目には見えない何かが発生しやすい場所。なんとなくわかる」
 アマエノコは、その道連れお池から更に森の奥へと進んだところ、古い廃屋の中で待ち人を待っていた。
 待ち人というのはもちろんターゲット――蓄怨鬼セツゲッカ。
 セツゲッカ本人、もしくは『聖楽器』の本体にも同時にありつけたら万々歳ばんばんざいだが、アマエノコの狙いはセツゲッカの『聖楽器』から抜け出した悲歌だ。
「タツキのおかげでセツゲッカの悲歌と一対一で戦える。悲歌を痛めつければきっと本体が姿を現す。わたしはフシラビの邪魔をせずにセツゲッカから蓄音機の『聖楽器』を奪って任務完了。ふふふ、きっとフシラビは褒めてくれるよね」
 今にも崩れ落ちそうな廃屋はいおくの、燃えかすのように黒ずんだはりからられた二つの布袋。
 袋の中身は人形だ。アマエノコが仕事のときに使う人形袋。アマエノコの体よりも大きな二つの人形袋は、すきま風に吹かれてくるくると回転し、そのたびに老朽化が進んだ木造の廃屋をきしませる。
 アマエノコは二体の人形のそばで、手首に巻かれた糸をいじりながら、人形の一つに小声で話しかけた。
「キミたちの持っているスマホってやつは、本当に便利な道具だよね。どんなに離れていても連絡を取ることができるし、赤の他人が書いた文章でも、あたかも本人が書いたことのように錯覚させることだできる。わたしもほしいな。スマホを持っていれば、フシラビと毎日話せるもん。面白いことがあったら写真を撮って自慢してさ……いいよね。そういうの、すごくいいよね」
 昨日、信乃芽高校で辰樹に声をかけて同調に成功してから、アマエノコは辰樹の体を使って悲歌の宿主である宮ヶ瀬涼音に連絡を取った。彼らが日常的に使用しているスマホという機械の使い方がわからなかったので辰樹に指示を出し、宮ヶ瀬涼音をこの場所に呼びだしたというわけだ。
「宮ヶ瀬涼音は悲歌の宿主。まちがいない。わたし見たもん。あの子の背中から飛び出した、大きな大きな憎しみの花。あの子の中から悲歌を引っ張り出して攻撃すれば、きっとセツゲッカは現れる。セツゲッカにとって悲歌は、蓄音機の中にいようがいまいが、とっても大切なものらしいからね」
 ここまで辿たどくのにそう時間はかからなかった。フシラビの下調べが十分過ぎるほど完璧であったのと、ここ信乃芽町に住む人々が人知を超える現象について肯定的な意見を持ち合わせているという地域柄も相まって、適当な人間を捕まえてほんのちょっと痛めつけるだけでぼろぼろと情報が出てきたのだ。
 セツゲッカの容姿の特徴を表した白い着物の女性の目撃情報はなかったが、代わりにみんなが口をそろえて言ったのが『パラソルさん』だ。
 黒い日傘を差して、男にのみ声をかける怪人。
 男を虜にし、男から「好き」という感情を奪い、抜け殻のようにしてしまうというその怪人の情報を線で結んでいくうち、信乃芽高校に行き着いた。志寿を遠隔操作して忍び込ませた結果……体中から隠しきれないほどの怨恨を垂れ流す少女を見つけた。
 間違いない。あれは『聖楽器』の呪いだ。そしてその呪いをかけた人物が蓄怨鬼セツゲッカだった場合、あの少女の背中に咲いた黒い花はセツゲッカの悲歌だ。

『悲歌あるところに本体あり。悲歌は私たちの目にとまりやすい。これをセツゲッカを攻略する切り口と取るか、それとも罠と考えるか……慎重に判断しなければならないわ』

 迷うよね。慎重派のフシラビなら、きっとどっちもあり得るって考えるよね。だから作戦が決まらないんだ。きっとそうだ。
 でも大丈夫だよ。わたしが確かめるから。
 フシラビが一人でセツゲッカと戦うというのなら、どのみち悲歌との接触は避けられない。なぜならセツゲッカにとって悲歌とは、自分の代わりに何かをさせる道具のようなものだから。
 セツゲッカの戦闘能力は未だ不明だが、現在わかっている情報から推察すると、おおよその能力はアマエノコやフシラビとこくしているはず。
 それは、『聖楽器』を介して自身とは別の媒体を遠隔操作するというもの。セツゲッカの持つ『聖楽器』が蓄音機であり、そこから出入りする悲歌そのものが『聖楽器』の能力を介する媒体。だとしたら……悲歌と戦えばセツゲッカの能力がわかるはずだ。
 これは、アマエノコにとっての人形と同じなのだ。偵察は志寿、攻撃は紅桜というように、あるていど役割の違いはあるが、どの人形もアマエノコが糸で操る必要があるし、アマエノコの感情と人形の攻撃性がリンクするという共通点がある。
「悲歌あるところに本体あり。悲歌のそばには必ずセツゲッカがいる。『聖楽器』もある」
 順調。じつに順調だ。この調子ならフシラビがセツゲッカを狙う前に片が付く。いつもは力でねじ伏せることしかできないけれど、今回はなかなか頭を使った戦いができたと思う。自分でも驚きだ。
 フシラビのためなら冷静になれる。考えられる。ちゃんと作戦を立てて、必要なものを用意して、自分に有利な場所を選んで、相手の弱点を予測する。アマエノコだってやればできる。
 アマエノコの中で、確かな自信が芽生えていた。
 制御が難しいチカラを持ったアマエノコは、これまで戦闘がからむ任務でことごとく失敗をくり返した。感情を抑えられない。ふだんは内気で臆病な性格をしていても、敵とたいすると理性が飛ぶ。捕らえなければいけない相手を殺し、隠密おんみつに行動しなければいけないときでも破壊の限りを尽くす。そこないと揶揄やゆされながらも、優秀な姉にまもられながらアマエノコは組織のエージェントとして今日まで生き抜いてきた。
「わたしはもう大丈夫。ちゃんとお仕事をこなせるよ。お姉ちゃん」
 お姉ちゃん。だいすきなフシラビ。
 ずっと比べられてきた。物心ついた頃からずっと。
 アマエノコはもういくつになる? にフシラビに任せたい仕事があるというのに、あんな出来損ないのお守りに時間をかれたんじゃ迷惑だ。
 すみません。すみません。フシラビは何度も何度も謝ってきた。出来損ないの妹のために、自分は悪くないのに、頭を下げて、大した実力もないエージェントにまでこびへつらった。そんなフシラビを見てアマエノコはまた暴れてしまうから、しだいに誰も近寄らなくなった。
 それでもフシラビはアマエノコを見捨てなかった。だから、厄介者の姉妹だと、アマエノコと一緒くたにされて一部の人間からうとまれた。
 その結果がこれだ。ついにフシラビにも片道切符が渡された。
 危険度最上級。ブラックリストの一番上に書かれた影のない怪物を一人で背負わされた。
 わたしのせいだ。わたしのせいだ。
 アマエノコのために全てを犠牲にしてきたフシラビ。そんな彼女のために、何か恩返しがしたい。邪魔をしないように、一人きりで出来ること……それを考えた結果、蓄怨鬼セツゲッカの悲歌を探し出してたたき割るという結論に至ったのだ。
「わたしは痛みを感じない。だから、情報収集にはうってつけなんだよ。フシラビがそう言ったの、わたし、ちゃんと覚えているんだから」
 日がかたむいてきた。背の高い木々におおわれたこの場所は、夜の訪れがいくぶんか早い。
 さあ、もうすぐだ。もうすぐ宿主が現れる。蓄怨鬼セツゲッカの悲歌を体と心に取り込んだ哀れな人の子が、大切な人のためにこの廃屋へと足を踏み入れる。
「大丈夫。わたしのこころは成長している。からだとおんなじように、大きくなるんだもん。大丈夫。失敗しても、殺しちゃっても大丈夫な相手だもん。思い切りやればいい」
 フシラビは強い。簡単に負けない。それは信じている。
 でも、相手はただの人殺しではなく『聖楽器』使いだ。戦い方を間違えれば戦闘能力の差は簡単に縮まる。それが『聖楽器』を用いた戦いでのおそろしいところ。
 ――だから、相手が何者であっても絶対に油断しないこと。
 戦い方を教わったとき、フシラビから口すっぱく言われたことだ。相手が何者であっても油断しない。自分がやられるくらいなら、相手をやっつける。それがアマエノコの戦い方だ。誰に何と言われようと、フシラビに言われたことは絶対に守る。

「タッちゃん、いる? 私。涼音だよ。待ち合わせ、ここでいいんだよね?」

 扉の向こうで宮ヶ瀬涼音が辰樹に呼びかける。梁からぶら下がった袋の中の人形は返事をせず、ただくるくるとすきま風に揺られていた。

アマエノコ/3

 廃屋の中に足を踏み入れた涼音は、アマエノコの姿を見るなりヒッと声を上げた。涼音を呼び出したはずの辰樹の姿はなく、白髪の少女が二体の人形袋の下で椅子に腰掛けているのだ。いきなりだとびっくりするだろう。
 ――つまり、涼音はアマエノコの罠に気づいていないということだ。
「初めまして宮ヶ瀬涼音さん。わたしはアマエノコ」
「あなたは誰? 私、タッちゃんに呼び出されてここに来たんだけど……」
「知ってるよ。でもキミを呼び出したのはタツキじゃない」
「どういうこと?」
「タツキのスマホを使ったんだ。キミを呼び出したのは、わたし」
「あなたが私を呼び出した? いったい何の用で?」
「キミの中に隠れている悲歌を痛めつけるためだよ」
「え……なに、ヒカ? 痛めつけるって?」
 涼音は視線をスマホの画面とアマエノコの顔を行ったり来たりさせながら、この人気の無い森の奥に一人で来たことを後悔し、そしてすぐに自分と辰樹が何らかのトラブルに巻き込まれたことを悟って後ずさる。
「逃がさないよ」
 アマエノコは糸を引き、涼音の背後にあった扉をバタンを閉める。逃げられないよう、邪魔が入らないよう、この廃屋にはアマエノコの糸が張り巡らされているのだ。
 十分な準備をして自分の戦いやすい環境で戦うこと。これも、フシラビが教えてくれた。
「キミの中に、黒い花を操る悲歌がいるでしょ? そいつを外に出してほしいんだ」
「言っていることがわからないよ。あなた、タッちゃんの友だち? 悪いけど私はオカルトとか都市伝説にはそこまで詳しくなくて……」
「しらばっくれてもダメだよ。いるでしょう? っていうか……見えてるよ」
 涼音の背中から突き出た黒いいばらが、あたりの空間をねじ曲げてゆらゆら、ゆらゆら。
 アマエノコの体に染みついた血の臭いにつられて、黒い花が宿主の体から飛び出している。今にもその花が開いて、アマエノコに向かってきそうだ。
「わたしを食べようとしているんだね。予想以上だ。宿主が意識を保っているにもかかわらずこんなにわかりやすく姿を現すなんてね。欲望も、殺意も、声もだだ漏れ」
「ねえ、あなた何を言ってるの? オカルトごっこならもうちょっと明るいところでやってよ。こわいんだけど」
「歌がきこえる。憎しみと哀しみ、恨みのうた。間違いないよ。こいつはセツゲッカの悲歌だ」
 アマエノコは糸を引いて、梁からつり下がった人形袋の一つを床に落とした。
 どすんと鈍い音を立てて床に落ちた人形袋。きつくしばってあった口がするりとほどかれて、襦袢じゅばん腰紐こしひもでぐるぐる巻きにされたアマエノコの人形があらわになる。
 血だらけの人形。頭から床に落ちても、ぴくりとも動かない。
「……タッちゃん?」
 その人形を見たとたん、涼音の顔が一変した。
 驚愕しきる前に訪れる絶望が、少女の心の一部を、確実に打ち砕く。
 床に転がったのは、真っ赤な顔をした辰樹だった。
「うそ……タッちゃん!? なんで!? 血だらけじゃない!」
「いっぱい血が出るように頭を傷つけてみたの。首から上はよく血が出るからね。手加減したからまだなんとか生きてるけど、このままほうっておいたら死んじゃうよ」
「やだ……なによそれ……死んじゃうって……あなたいったい何考えてるの!?」
 大声を出してはいるが、涼音はその場にへたりこんで動かない。腰を抜かしたようだ。
「タツキはキミを心配してたよ。最近キミの様子がおかしいってね。それでわたし、教えてあげたの。宮ヶ瀬涼音は『聖楽器』の呪いにかかっている上に、悲歌の宿主……悪い病気にかかっているんだよって。わたしに協力すれば、その病気を取り除いてあげるって言ったんだ。そしたらタツキは協力してくれた」
 全ては、宮ヶ瀬涼音の中からあの黒い悲歌を引きずり出すため。
 悲歌に限らず、人を操るチカラを持つものは人の心に入り込む。それを取り出す方法がわからなければ、心を壊してしまえばいい。
「ほら、キミのお友だちがぴくぴくしてるよ。こっちを叩けば、そっちが動く」
「やめてよ! あなたどうかしてる! こんなの人間のやることじゃない!」
 黒い花が、また大きくなった。
 もうすぐだ。
 もうすぐ悲歌が宿主を乗っ取って、アマエノコを殺しにくる。
 そしたら悲歌を人質にして、本体を――セツゲッカを待つ。
「壊れろ。さあ早く壊れろ」
「やめて……私に近寄らないで……ッ!」
 血まみれの辰樹を引きずりながら、アマエノコは涼音に歩み寄る。腰を抜かして動けない涼音は、ただ目を閉じて手を振り払うだけ。
「もしかしてタツキじゃ足りないのかな?」
 と、アマエノコは何の気なしに言った。
 本当に、思い付いたことを口にしただけだ。他意はなかった。
「キミはタツキのことがそんなに好きじゃないの? もっと好きな人が他にいるとか?」
 すると、これまでアマエノコに怯えていた涼音の声色が、低く、鈍く変化した。

「……蒼衣ちゃんに手を出したら殺すよ?」

 ハッ、と息を吸ったときにはもう目の前に涼音はいなかった。
 辰樹を引きずっていたせいもあって、反応がわずかに遅れた。アマエノコが背後に気配を察知した瞬間、着物の奥襟おくえり、首根っこを掴まれた。すぐに辰樹を手放して糸を引く。せつ、梁から吊された攻撃用の人形紅桜がアマエノコの後ろを取っている涼音めがけて飛びかかった。
 紅桜は殺傷能力の高い人形だ。『聖楽器』を扱う者、または『聖楽器』の影響を受けているものなら感覚でわかる。
 黒い花に動かされたのか、悲歌のチカラを得たらしい涼音もまた例外ではなく、紅桜の攻撃を回避するために上空へ飛んだ。
「不意打ちとはやるね。やっぱりキミはセツゲッカの……」

 ――ぼきり。アマエノコの右腕が直角に折れた。

「えっ?」
 アマエノコの頭上に飛び上がった涼音――黒い茨に覆われた女が、落下と同時にとつせんと日傘の先を向けている。
 なるほど、これが悲歌の本性か。と納得するぐらいの余裕はまだアマエノコにはあった。涼音に襲われてからの一連の流れも、全て見えているし、反応も間に合っている。
 だが、なぜアマエノコの右腕は折れた?
 顔まで真っ黒に覆われた涼音はもう言葉を発さない。ただまっすぐに落下してくる。アマエノコの眼球めがけて、超高速の刺突が降ってくる。アマエノコは無呼吸で刺突を見切り、日傘の先を掴んでそのまま涼音を壁に投げつけた。同時に紅桜を追従させて、壁に打ち付けられた涼音の頭を取り押さえる。茨だらけの黒い女の背中と頭が廃屋の土壁にめり込んだ。
 涼音の手から、黒い日傘がカランと音を立ててこぼちた。もしかしたら今の一撃で死んだかもしれない。
「油断は禁物。紅桜、粉々に砕けるまで殴れ」
 アマエノコの指示通り、殺人人形紅桜は無抵抗の涼音をひたすら殴る蹴る。だが、やはり相手も只者ただものじゃない。普通の人間なら一撃で骨まで粉砕する紅桜の打撃を一方的に受け続けても、涼音の体は人のかたちを保ったままであった。
 紅桜の攻撃だけでは足りない。そう判断したアマエノコは、自身も攻撃に加勢する。平静へいせいを保ったままでも、アマエノコの攻撃力は紅桜よりは上だ。殺すつもりでやって相手の出方を見る。
 ところが、いざ涼音のもとへ飛びかかろうとしたら、足に力が入らない。
「あれ……わたしの、わたしの足は……?」

 ふと下を見ると、アマエノコの左足がぎれれて床に転がっていた。

 片足になったアマエノコはバランスを崩して床に倒れる。
 そこで初めて、アマエノコはこの廃屋に入り込んだ影の無い怪物の存在に気づいた。
「やはり痛みを感じませんか。人形を使うあたり、私と同じニオイがしたのですが、試して正解でしたね」
 冷たい床に横たわったまま、アマエノコは目の前に現れたその怪物をひと目みて、罠にかかったのは自分のほうだと理解した。
 白い着物。
 腰まで伸びた長い黒髪。
 仄暗ほのぐらい廃屋にたたずむのは、雪のように白い痩身そうしんの女。

挿絵11

「蓄怨鬼……セツゲッカ……」
「いかにも。私はセツゲッカ。闇夜と雪原の中に響く悲歌の母」
 ついにその姿を現した蓄怨鬼セツゲッカ。余裕のある表情と口ぶりからして、セツゲッカは初めからアマエノコを攻撃するつもりだったのだろう。
 おそらく涼音と一緒にこの廃屋に入り込んでいたのだ。涼音の中に隠れていたのか、姿を消す能力を持っているのか。詳しいことはわからないが、そのくらいアマエノコでもちょっと考えれば予測できた。
「油断した、という顔をしていますね。ええ、ええ。そうでしょう。あなたの目的が何なのかはわかりませんが、私を殺そうとしていることはわかります」
 セツゲッカは手のひらを上に向け、そこにふうっと息を吹きかけた。
 すると、セツゲッカの息は見る見るうちに廃屋中に広がっていき、触れたものを氷漬けにしていった。アマエノコの体も、首からを上を残して真っ白に凍り付く。痛みは感じないが、セツゲッカの息吹から生まれた氷はかなり強固なもので、アマエノコが全力でそれを引きはがそうとしてもぴくりとも動かない。糸を操る指先を動かすこともできないので、涼音を殴り続けていた紅桜も動きを止めた。
「明らかな準備不足……これが戦いだというのなら、あなたの負けですよ」
 セツゲッカはアマエノコに歩み寄り、どこからかなたを取り出した。それをゆっくりと振り上げる。
「あなたの戦い方はせつですね。ええ、ええ。その理由はわかります。あなたは痛みを感じない。だから自分が傷つけられることに対して恐怖を感じない。そのくせ頭が悪いから、ただがむしゃらに相手を傷つけることしかできないのです」
 セツゲッカの言っていることは正しかった。アマエノコは生まれつき痛みを感じない。それに驚異的な生命力とフシラビによる自動再生能力があわさって、致命傷を受けても攻撃を続けることができる。
 頭が悪いのも、その通り。でもそれは、ただ単に感情をコントロールできないだけであって、考える能力がないっていうわけじゃない。
 そうでしょうフシラビ?
「痛みを感じないのはよいことです。でも、痛みを知らないのはあまりよいことではありませんよ」
「おどしたってムダだよ。わたしはどんな痛みも感じない。ケガをしたってすぐになおるんだから」
「では、試してみましょうか」
 セツゲッカは振り上げた鉈をアマエノコの胸めがけて振り下ろした。
 ざくり。分厚い刃がアマエノコの薄い胸に重く突き刺さる。
「ギャアァッ!!」
 体の中に異物が侵入する感触よりも早く、アマエノコの上半身に衝撃が走った。呼吸を強制的に止められたような感覚。これは何だ?
「これが痛みですよ。痛いって、わかるでしょう? ほら、こうすればもっと痛い」
 セツゲッカはアマエノコの胸に刺さった鉈をぐりぐりとこねくり回し、刃先を喉に向け、それをゆっくりと動かした。アマエノコの胸部は裂け、その亀裂はやがて細く白い喉に到達する。アマエノコはひゅーひゅーと擦れた息を漏らしながらも、「痛い、痛い」と残った手足をじだばたさせて抵抗した。
 これまで痛みを感じたことのないアマエノコにとって、耐えがたいものであった。セツゲッカが突き立てた刃は皮膚や骨を貫通し、アマエノコの心を深く深くえぐった。
「その体は痛みを感じない。ですが、その体に宿っているあなたの魂は痛みを感じるものなのです。あなたも私も、生を持たない存在。私はあなたの霊魂に触れることができるのです。人間の体に巡る神経がそれにもっとも近い」
 シンケイ?
 なにそれ? そんなの、きいたことない。
 それに、「生を持たない存在」って? おかしいよね? わたしは、まだこうして生きているのに。
「ええ、ええ。ごくまれにいるのです。あなたのように、自分を人間だと思ってしまっている哀れな人形が」
 なにを言っているの? わたしは人形なんかじゃない。人形使いだよ。
 フシラビが作ってくれたおにんぎょうを操って戦う、組織のエージェントなんだ。
「それは違います。あなたは人間ではない。人間と見まごうほどに精巧せいこうに作られた人形です。この世界に強い恨みを持った人間が人殺しの道具として作り上げた傑作けっさく。この執念、きょうたんあたいします。おそらくあなたの体のどこかに、自身の血を混ぜたのでしょう。でなければ、これほどの自立はあり得ない。もしあなたのような人形を作り、そして操れる傀儡師がいるのなら、その者は私にとって脅威となり得る……排除しなくては」
「フシラビに手を……出したら……ゆるさないから」
 アマエノコは力をしぼり、口を動かす。
 ぱくぱくと、かたかたと、上と下の唇が当たる音が聞こえる。
「フシラビ……それが傀儡師の名ですか。少なくともこの森には人の気配がないようですが、それほど離れた場所からどのようにしてあなたを操っているのですか?」
「だから言ってるでしょ? わたしは人形じゃない。わたしは……わたしはアマエノコだよ……フシラビのいもうとで……『聖楽器』の使い手」
『聖楽器』と聞いて、セツゲッカのまゆがわずかに動く。痛みと戦いながら言葉をつむぐアマエノコはそれに気づけない。
「嘘をおっしゃい。あなたが『聖楽器』の使い手というなら、その楽器はどこにあるのですか? 手に巻かれた糸で人形を操っているだけではありませんか」
「嘘じゃないもん……わたしがおにんぎょうを使えるのは……『聖楽器』のチカラのおかげなんだもん」
「ではそれを見せてごらんなさい。あなたの持つ、『聖楽器』とやらを」
「今は見せられない……でも本当だよ……フシラビと一緒にいるときは、わたしにも『聖楽器』が見えるんだ……きれいな……琵琶の……『聖楽器』」
「琵琶……それはまた、ずいぶんと懐かしい楽器ですね」
 セツゲッカは鉈のを掴み、アマエノコに問いかける。
「あなたは、モノが生んだ霊魂ですか? それとも、霊魂が宿ったモノですか? その返答しだいで、私はそのフシラビという傀儡師を殺さねばなりません」
 前髪の隙間から冷ややかな眼がアマエノコをじっと見つめている。返答しだいでフシラビを殺す。自らそう言い切った怪物は、アマエノコを苦しめる痛みのもとを手に握りながら答えを求めている。
「あなたが人形として意志を持ったのならば前者。しかし、その人形の中に入る前に意志を持っていたのならば後者です。後者だとすれば、ほとんどの場合あなたは人間だったということになりますが……生きていた頃の記憶はありますか?」
「だから何度も言っているだろうッ! わたしは人間だッ!」
「足をもがれ、氷漬けにされ、胸を破られても生き続ける人間などいません。喉を裂かれて叫べる人間など、いるはずがありません」
「黙れッ! わたしは人間だッ! わたしはフシラビのチカラで痛みを感じなくなった特別な人間なんだ! 『聖楽器』を使って組織に貢献するエージェント、選ばれし人間! 記憶だってちゃんとある!」
「それはどんな記憶ですか? 覚えているのなら私に話してください」
 覚えている。
 覚えているとも。
 忘れようとしても忘れられない、あの地獄の日々を。
「わたしは毎日毎日せまいところに閉じ込められて、大人たちのおもちゃにされてた。殴られて、蹴られて、体のいろんなところをいじくり回されて、くさいものを食べさせられて、何度も死にたいって思ったけど手足をしばられてたからそれもできなくて」
 お願い殺して。
 もう終わらせて。
 何度もそうお願いした。
 でも声が出なかった。
 両手両足を縛られてたから自殺もできなかった。
 壁にも天井にも窓はなくって、朝も昼も夜もなかった。
「あなたはその地獄の中で死に絶えたのですね」
「死んでない……死んでないもん……そうなる前にフシラビに助けてもらったもん。ずっと一人ぼっちだったわたしに、フシラビは居場所をくれたんだよ。痛みを感じない体をくれたんだよ。どんなことがあっても一緒だよって約束してくれた」

『アマエノコ、あなたは今日から私の妹よ。どんなことがあっても、私はあなたと一緒にいる。だからあなたも、どんなことがあっても私から離れないでね』
『うんわかった。どんなことがあっても、フシラビから離れない』
『それから、私の言うことはちゃんときくこと』
『うん、フシラビの言うことはきく』

 セツゲッカによってズタズタにされた白髪の日本人形は、目から涙を流し、口をぱくぱくさせて懸命に何かを語っている。
「さいごに、フシラビはゆびきりしようっていったの。こう、小指をくっつけて、やくそくだよって……でもわたしはゆびきりの意味がわからなくて、フシラビの小指を思いきり引きちぎっちゃったんだ。フシラビ、すっごく痛がってた。でも、ごめんなさいっていったら、フシラビはにっこりと笑ってね、その小指はアマエノコにあげるって……いいでしょう? わたしの、生まれて初めての……プレゼント」
 白髪の日本人形――アマエノコの小さな手には、人間の小指が糸で縫い付けられていた。

 アマエノコは、組織が誇る優秀な『聖楽器』使い『げんフシラビ』の人形だ。

「やはりあなたの主は霊魂をモノに閉じ込める能力者、私とほぼ同じチカラを持つ者でしたか。生きた人間などさして脅威を感じませんが、私の体に触れられる存在は脅威ですね。娘たちの成長を邪魔される前に始末しておいたほうがいいでしょうか」
「ねえ……セツゲッカ」
「なんでしょう?」
「セツゲッカの正体も、目的も、能力も、なんだっていい。組織がどうなってもいい。蓄音機の『聖楽器』なんかいらない。だからおねがい……フシラビをころさないで」
 きりきり、アマエノコの細い首がおかしな方向へと回り出す。
「フシラビをころさないで……ころさないで……」
 アマエノコに終わりが近づいていた。
 霊魂が宿った人形がその活動を停止するときは、死と表すのは適切かどうかは不明だ。アマエノコはすでに死を経験している霊魂であるし、壊れた部分を直せばいいというのは体の部分の話であって、アマエノコそのものが完全によみがえるわけではない。
 目の光りが消え、手指に巻かれた糸が切れた今、アマエノコはどこに向かうのだろう。
 その答えを知っているのは、傀儡師であるフシラビ。
 それから――アマエノコと同じ霊魂であるセツゲッカだけだ。
「ああ、アマエノコ。哀れな少女の霊よ。あなたは人形の体を借りて、生を感じていたのですね。ええ、ええ。わかります。私も同じです。死してなお男たちへの復讐心が消えず、亡霊として世を彷徨さまよっていました。死んだ娘にも会えず、人々に存在を受け入れてもらえず、一人きりでずっと過ごしてきました」
 セツゲッカは動かなくなったアマエノコの頭を持ち上げ、我が子のようにやさしく抱きかかえた。
「あの箱に出会わなければ、私はおんりょうとして永遠に雪原を彷徨っていたでしょう。あの箱は、私の求める歌を聴かせてくれます。私を求める声を、聞かせてくれるのです。涼音の中で成長を遂げているハーメルンも、もう少し大きくなってから箱に戻せば、さぞよい歌を聴かせてくれるでしょうね」
 ハーメルン。その名に反応してか、今の今まで黒い日傘で紅桜をメッタ刺しにしていた涼音がぴくりと反応する。
「ハーメルン、お人形遊びはもうおよしなさい。アマエノコが安らかに眠れませんよ。この子もあなたと同じ、絶望の中で育ちそして死んだ哀れな娘なのですから」
 つま先から頭まで、黒い茨に覆われた女は、低くれた声で「マ、マ」と言い、日傘を放り投げてセツゲッカのもとへ駆けよった。
「そうだハーメルン。この子も、私の箱の中に入れてあげましょうか。きっと、いい歌を聴かせてくれますよ」
 うんうん、と無言で首を縦に振る涼音の頭を撫でて、セツゲッカはアマエノコの前で手のひらを合わせる。がっしょうして祈るわけではなく、合わせた手のひらはすぐに離された。
 すると、セツゲッカの右手と左手のあいだに黒い闇が渦巻きだした。はじめは横につぶれてえんに見えた小さな闇は徐々に形を整えて真円に近くなり、セツゲッカが両手を広げてやっと収まるほどの大きさになった。
 やがてその中から古びた箱が現れた。木と、金属と、人骨らしきもので出来た不気味な箱の上には、ラッパのような形をした黒い枯れ花があった。
 この箱こそ、組織が長年追い求めている『聖楽器』――蓄音機である。
 そして、組織から『蓄怨鬼セツゲッカ』と呼ばれるこの女は、『聖楽器』にいた五百年前のりょうなのだった。
 すでに死んでいるため、セツゲッカには肉体がない。そのためセツゲッカを殺すことはできない。
 しかもセツゲッカは、自身がひょうしている『聖楽器』をあろうことか自らの霊魂の中に取り込んで隠すことができる。これにより、彼女から『聖楽器』だけを奪うのは不可能に近い。
 組織の中で、この事実を知る者は誰もいない。ただ、偶然にもフシラビの能力はやりようによってセツゲッカにいっむくいる可能性がある。
 アマエノコがこの情報だけでも持ち帰ることが出来たのなら、この怨霊を止めることができたかもしれない。
 だが、それが出来なかったのだから、どうしようもないのだ。
「私の大事な大事な箱よ。蓄音機よ。この娘の心の闇を歌にしてくださいな。ええ、ええ。ほかの娘たちのように、さぞ素晴らしい悲歌を聴かせてくれるでしょう」
 アマエノコの霊魂が白髪の人形からひゅうと抜けて、蓄音機の中へと取り込まれる。
 蓄怨鬼セツゲッカの悲歌が、少女の悲しい歌が、また一つ増えた。

宮ヶ瀬涼音/3

 セツコと暮らすようになってから、涼音は家に帰るのが楽しみになった。ここ数日、友人たちからの遊びの誘いは全て断り、まっすぐ家に帰っている。日課だったスーパーでの買い物も、一度家に帰ってからセツコと二人で行くようになった。
 はじめのうちは「付き合いが悪い」と口をとがらせる者もいた。でも涼音が「親戚の人が来てる」と友人たちに説明すると、みんなそれ以上深く事情を訊くこともせず、涼音が真っ直ぐ家に帰ることに肯定的な意見を述べてくれるようになった。
 気をつかわせちゃって悪いなぁ、と涼音は思う。
 きっとみんな、涼音の家のことを心配してくれているのだ。高校に入ってから知り合った友だちも、涼音の母親がどうなったかは大体知っている。家族の話になったとき、母の死についてはできるだけ早く涼音が自分の口から言うようにしているからだ。暗い話だというのは自分でもわかっているが、きちんと事実を伝えて、その上で明るく振る舞えばいい。笑顔を絶やさず、相手に好意を持って接する。そうすれば、みんな涼音のことを好きになってくれる。友だちに、なってくれる。
 いつか友だちが、家に遊びにいきたいと言ってくれたとき、お母さんの前で「友だちだよ」って紹介したい。そんな思いを胸に、涼音は今日の日まで広く浅い友だち付き合いをしてきた。
 その結果、涼音の周りに多くの人が集まり、学校にいるあいだは一人きりの時間というものがほぼなくなった。まず男子の友だちが増えて、その次に女子。そのあとは男子からの告白が続いた。男女交際をするつもりのない涼音は誰に告白をされても断ってきたが、その噂が広まると女子の友だちがもっと増えた。クラスを超えての友だちも増え、同じ学年ならどの教室の前を通っても声をかけられるようになった。
 私はもう一人じゃないよ。お母さんの言う通りにしたら、友だちがたくさん出来たよ。
 涼音は、友だちの作り方を教えてくれた母に感謝している。
 涼音の母は高校を卒業するまでいじめっれっこだったらしいが、大学に入ってから人気者になり、ミスコンにも選ばれ、合コンやパーティーでは男性からのお誘いがひっきりなしにあったという。
 ――だからお母さんは、人と話すのが苦手でも、友だちがたくさんいたんだね。
 キンコン。スマホの音がメッセージの通知を告げる。
『宮ヶ瀬、明日も家にまっすぐ帰る感じ? なんかあった?』
 キンコン。
『涼音、悩んでることがあったら俺にいつでも言えよ?』
 キンコン。
『いま家かな? 宮ヶ瀬さんここのところ少し元気ないから、少し気になっちゃった』
 男の子たちからだ。みんな優しい。
 キンコン。
 まだ止まらない。
 キンコン。
 キンコン。
 キンコン。
 キン、キンコン。
 キン、キキキンコン。
『もしかして誰かとなんかあった?』
『たまには気晴らしもしようぜ! 二人だけでどっか行くとか!』
『土日のどっちか空いてない?』
『そういえば涼音ちゃん、最近刈谷さんと仲いいよね! よかったら……』
 未読スルー。
『おつ! こんどのカラオケ、刈谷さんも誘えない?』
 これは既読スルー。
 キンコン。キンコン。キンコン。
 ああ、通知が止まらない。涼音が少しグループから離れるだけで、こんなにもたくさんの友だちが心配してくれる。
「涼音ちゃん、どうしたの? ぼうっとしちゃって」
「セツコさん」
 鳴りやまない通知にうんざりすることもなく、涼音が無表情でスマホの画面をタップしていると、買い物袋を下げたセツコが部屋に入ってきた。
「あれ? もしかしてセツコさん一人で買い物すませちゃった? 今日は早く帰るから一緒に買い物に行こうと思ってたのに」
「ごめんなさい。スーパーの近くをお散歩してたら偶然タイムセールを見かけて」
 涼音はセツコについて何も知らない。セツコがふだん何をしているのかもわからない。涼音が学校に行っているあいだあの着物姿でそのへんをうろうろしているのか、それとも家に帰っているのか。
 まあ、そんなことどうだっていい。こうして涼音のそばにいてくれるだけで幸せだ。
 キンコン。
 またスマホが鳴った。セツコさんがいるときは通知を切っておかないと……。
「……あれ?」
「どうしたの? お友だちから何か大事な連絡?」
「内容からしてたぶん送る相手を間違えてるんだと思うけど……タッちゃんから」
「お隣の辰樹くんよね? 確か、しばらくご親戚の家で暮らすことになったんじゃなかったかしら?」
「うん、休学かと思ったら転校だって」
 辰樹はある日とつぜん学校に来なくなり、その数日後に信乃芽高校を辞めた。親戚の家で暮らすっていう話だけれど、いつこの町に戻るのか、そもそも戻って来るのかはわからない。幼なじみの涼音にさえ何も言わずに出て行ったから、きっと何かあったんだろう。ここのところ様子がおかしかったし、もしかしたら心の病気にでもなっちゃったのかな。
「私に連絡したわけじゃないっぽいけど、とりあえず元気でいるってことはわかったら一安心かな……あ、それより聞いてセツコさん! 今日ね、蒼衣ちゃんがね……」
 涼音は辰樹からのメッセージに既読をつけ、通知をオフにした。
 涼音の友だちで二十四時間通知をオンにしているのは蒼衣ちゃんだけ。蒼衣ちゃんからの連絡なら、真夜中だって返信するし、電話にも出る。
「ねえ涼音ちゃん、一つ、お願いがあるのだけれど」
「お願い?」
 急にどうしたんだろう? ふだんは涼音の話を遮ることなんてしないのに。
 涼音はセツコに向き直り、彼女のお願いを聞いた。
「そろそろね、セツコさんじゃなくて……お母さんって呼んでくれないかしら?」
「お母さん……?」
「ええ。お母さんでも、ママでも、好きなように呼んでいいから」
 セツコの手が涼音の頬に触れる。冷たく、白い指先が、涼音の頬をなでで首へ、胸へと伸びていく。涼音のからだの一つ一つを確かめたあと、セツコは枯れ枝のような腕を涼音の背中へと回し、耳元でふうっ、と息を吹きかけた。
「お母さん……お母さんがいい……」
「ええ、ええ。そう呼んでください」
「お母さん」
「はい。お母さんはここにいますよ。涼音」
 黒い花の種を宿した少女は、心の闇を吸って花を咲かせる。
 その種は、別の誰かが咲かせた花から落ちたもの。
 種を集めて、別の誰かに植え付けて、花を咲かせて、また種を集める。
「これからも、ハーメルンと仲良くしてあげてくださいね? そしていつの日か、私に最高の悲歌を聴かせてください」
 涼音の体を抱きしめたまま、影のない怪物がニィ、と笑った。


『これ、とどいてるかな? とどいているといいな。
 フシラビ、わたしを助けてくれてありがとう。
 わたしに命をあたえてくれて、ありがとう。
 またしっぱいしちゃったよ。できのわるい妹で、ごめんなさい。
 でも、やくそくは守ったよ。
 じゃまはしてないし、ついていかなかったし、さがさなかったよ。
 だから、やくそく。
 こんどあったら、わたしをほんとうの妹にしてね?
 それまでわたし、まってるから。
 フシラビからもらった小指、だいじにとっておくから。
 やくそくだよ。お姉ちゃん』