『パラソルさん』/1

「ねえ知ってる? 隣町でまた『パラソルさん』が出たって」
「それってアレでしょ。真っ黒い服着て、真っ黒い日傘さしてる女の人」
「そうそう。こないだ彼氏に聞いたんだけど、中学のときの後輩が『パラソルさん』を見たって騒いでたらしくてさ」
「なにそれめっちゃ身近じゃん! ウソじゃなくて?」
「最初はみんな信じてなかったらしいんだけどさ……」
「まさか、その人に何かあったの?」
「そのまさか! 最初はなんともないような顔してたんだけどね、その次の日から何も喋らなくなっちゃって、何を言っても上の空なんだって。なんていうか、抜け殻みたいになっちゃって。スポーツ推薦で高校入ったのにいきなり部活もやめちゃったとか」
「うわ〜、なにそれメンタルやられてるっしょ。何かトラウマになるようなことされたのかな?」
「わかんない。でも『パラソルさん』の被害者って全員男の子なんだよね。スレ見ると女の逆恨みとか、男の失恋話を面白おかしくしたものとか、いろいろ考察が立ってるんだけどね、実際に見たって人が多すぎてもはや都市伝説とかお化けの話じゃ済まされないっぽいよ」
「不審者疑惑もあるくらいだからね」
「このへんにも『パラソルさん』って出るのかな?」
「どーだろ? でもウチら女だから平気っしょ」
「ウチらは平気でも彼氏とかが襲われたらヤじゃない? 抜け殻みたいになっちゃうんだよ?」
「その抜け殻ってのが謎だよね。実際にそうなった人を見てみたいわ」
「いるかな? そういう人」
「いるかな? そんな人」

ハーメルン/1

 恋の味ってどんな味かって?
 なるほどね。あなた、あの子のことが好きなんでしょう?
 わかるわ。恋をするっていうのは、道ばたに落ちているアイスクリームのきれいな部分を舐め取ることと同じくらい当たり前のことなのだから。
 甘くて冷たいものは、人に踏みつけられさえしなければいつだって美味しいものね。
 恋をする。素晴らしいことじゃない。
 好きな人と一緒にいるときはドキドキと鳴る心臓の鼓動が心地良いのよね。速く、高く、リズムを刻んで、何を口に入れても目に入れてもへっちゃらって気分になれるわ。
 でも、一人になるとどうかしら?
 不安になることばかりじゃない?
 ドキドキがズキズキに変わる。つまり、痛みになるってことね。喉の奥が締め付けられるような感覚に陥って、胸が苦しくなる。そうなったら、一人でいるのはつらいわよね。
 この痛みは強烈なものよ。勉強をしても、お風呂に入っても、一度封を開けて湿気ってしまったお菓子を食べても、その痛みが消えることはない。好きな人が今なにをしているか、誰と一緒にいるのか、自分のことをどう思っているのか、気になって仕方がないの。
 ずーっとね、こう、お腹の上から喉のあたりまで何かがつっかえているような気になるわ。口を閉じて、その何かが飛び出してこないようにするの。ちょっとでも油断すると口から、鼻から、目から、そいつが飛び出してくる。ろくなもんじゃないわよね。
 でもあなた、あの子のことが好きなんでしょう?
 わかるわ。人が人を好きになるのは、コーンフレークを見たら手づかみで食べずにはいられないということと同じくらい当たり前のことなのだから。
 抑えられない衝動っていうのかしら。自分の好きな食べ物が目の前にあったら誰だって飛びつくじゃない? だから、あなたがあの子に飛びつきたくなる気持ち、私にはとてもよくわかる。
 私もね、お恥ずかしながら、自分の欲望に忠実なタイプなの。
 食べたいって思ったら食べるし、殺したいって思ったら殺すわ。
 話は変わるけれど、冷蔵庫って知ってる? 食べ物を入れておくあの冷蔵庫。
 あ、そうよね。知ってて当然よね。ごめんなさい。そんな目で私を見ないで。私を嫌いにならないで。
 この世界の人たちは冷蔵庫も冷凍庫もあって当然だと思っているのよね。その中に食べ物以外のモノを入れて、時には保管して、時には乱雑に詰め込んで、押し込んで、中のモノが凍っても冷たくなっても、泣き叫んでも、抵抗しても、ありがとうと涙を流しても、足をじたばたさせても、無理矢理に閉じ込めるのが、当然だと思っている。
 それでもあなた、あの子のことが好きなんでしょう?
 わかるわ。限界までお腹がすいて、食べ物のことしか考えられなくなったとき、冷蔵庫の中にあるものを片っ端から食べたもの。当たり前のことだと自分に言い聞かせながら。
 私は冷蔵庫の中身を見て絶望するの。
 練りわさびと、賞味期限の切れたマーガリンと、ママのお酒と、ママのスポーツドリンク。それから、くるくる巻かれて小さくなった銀色の袋の中から、片手でつまめるだけのわずかなコーンフレークしかないの。
 そのままバリバリ食べてもよかったんだけれど、私はね、ご飯を食べているっていう実感が欲しくて、悪いことをしたの。
 ママのスポーツドリンクをコーンフレークにかけて食べたのよ。
 牛乳がなかったから。
 ──あと、その日は私の誕生日だったから。
 私はただ、スプーンでご飯が食べたかっただけ。
 でもね、ママは私をぶって、怒鳴って、冷蔵庫の中に閉じ込めたわ。
 あなた知ってる? コーンフレークにスポーツドリンクをかけて、ふやけるまで待ってから食べるとね、ゲロの味がするのよ。
 お腹の上から喉のあたりまでつっかえるあの感じ。それが口の中に広がるの。
 ああ、ウソついてごめんなさい。
 私が知っているのは恋の味なんかじゃなくて、ゲロの味だったわ。

木原辰樹/1

「木原くんは、難しいことをたくさん知っているのですね。とても勉強になったし、楽しかったです。もしよかったら、またお話をきかせてください」

 刈谷蒼衣は天使だ。いいや女神だ。
 黒く艶やかな髪。透き通るような肌。いつも背筋がぴんと伸びていて、礼儀正しく、人と話すときはよく笑う、まさに完全無欠のマドンナ。
 ああ、なんて美しいんだ。なんて可愛いんだ。そりゃ毎日下駄箱にラブレターがパンパンに詰まっていてもしょうがない。男も女も学年も、時には生徒と教師も関係なしに、刈谷蒼衣に色目を使う。その理由がわかった。あんなの誰だって惚れてしまう。
 クラスの花であり、学年のアイドルであり、学校のマドンナ、そしてこの世界の全てであるスーパー女子高生、刈谷蒼衣の横顔を見つめ、木原辰樹は深い溜息をついた。
 教室の隅っこでスマホをいじるふりをしながら、数学の小テストで出題された難問の解き方を聞きに集まる意識高い系の生徒たちの問いに笑顔で応える彼女の横顔を、食い入るように、まじまじと見つめていたのだ。
 刈谷蒼衣。信乃芽高校でその名を知らぬ者はいない。
 容姿端麗、頭脳明晰、成績優秀、品行方正、千客万来、超絶技巧、産業革命、とにかく非の打ち所がない完璧な優等生だ。
 学校内での発言力、影響力は教師よりもあるだろう。真面目で優しい蒼衣は誰にでも平等に接し、困っている人には手を差し伸べ、微笑みかける。
 そんな彼女がいるおかげで、信乃芽高校では大きなトラブルもなく、男も女も明るく楽しく日々を過ごせている。多くの人に囲まれて、みんなを笑顔にする。

 ──辰樹とは大違いである。

 もちろん、辰樹のように人と接するのが苦手で、友達も作らず一人黙々と趣味に走る者もいる。だがそれは本人が好きでそうしているだけで、周りの人間が意図して集団の輪から追い出しているわけではない。辰樹も、必要があればクラスの輪に入るし、体育祭や修学旅行などの学校行事には協力的な姿勢を見せる。友達がいないわけじゃない。辰樹が欲しいと思っていないだけなのだ。
 別に、寂しいと思ったことはない。
 自分には友達付き合い以上に夢中になれることがある。好きなものを好きと言えない人付き合いなどいらない。それが辰樹の持論であった。
 自分は趣味に生きる者。何人たりともその領域には踏み込ませない。
 何に夢中になるのか人それぞれ。勉強でも、スポーツでも、深夜アニメでも、スマホのアプリでもネット配信でも何だっていいが、身も心も打ち込める対象があるのはいいことだって誰かが言っていた。
 一人でいる時間が長い人ほど、人と触れ合わなくても楽しめる趣味を見つけるのが上手い。とも言っていた。辰樹には、これが当てはまる。
 辰樹の趣味──それはオカルトである。
 辰樹は小さいときから大のオカルト好きで、幽霊や妖怪、都市伝説などを追いかけている。現代の科学では証明できない超常現象、ウソのような本当のウソ。そういった、現実世界と空想世界の狭間で生きているものに目がないのである。
 怪談話は日本の文化の一つであり、日本人は柳や井戸の側に立つ長い髪の女幽霊が大好きだ。夏になれば心霊番組が放送され、子どもたちは大騒ぎ。それを上手いこと躾けに利用できないものかと大人が悪知恵を働かせ、怪談話に尾ひれを付ける。それを真似して子どもたちも自分なりに背びれを付ける。なんてことのない話が長きに渡りくり返され、バージョンアップしてきた。そうやって日本の怪談話や都市伝説は語り継がれてきた。
 しかし、辰樹の年齢──高校生にまでなって、それを信じる人は少ない。
 インターネットやデジタル技術が発達した昨今では、この手の趣味は比較的アングラ扱いされているのが実状だ。大人たちは「子どもが夢を見なくなった」と言い、子どもたちは「大人はもっと勉強しろ」と言う。
 心霊写真なんかは、画像処理などしなくともシャッタースピードと光の量で再現できるということが証明されているし、オーパーツのほとんどは人工的に作られたものであるということがわかっている。
 夏の心霊番組では「投稿者からの映像」と言っておきながらあからさまなCGで作られたお化けがホラー映画ばりにハッキリと映り込み、幽霊の存在を信じている子どもがそのせいで逆に幽霊は大人の創作であったと考えを改めてしまうほど。スタジオでVTRを見ている芸能人がかわいそうだ。リアクションが難しすぎる。
「でも、木原くんの話には説得力があります。オカルトだけど、オカルト以上。そのような印象を受けました」
 蒼衣にそう言われたとき、辰樹の中で何かが弾けた。
 誰とでも仲良くする人だというのは知っていた。相手を拒絶せず、真摯に向き合い、優しく接してくれる。それが刈谷蒼衣だ。だが、まさか辰樹のオカルト話を聞いてそんなふうに言ってくれるなんて。
 辰樹は蒼衣と話してみて、前言を撤回……まではいかないが、一部修正することにした。
 好きなものを好きと言えない人付き合いはいらない。ではなく、好きなものを好きと言える相手とは付き合いたい。と。
 蒼衣ともっと話したい。
 もっと近づきたい。
 辰樹は蒼衣に心を奪われてしまった。
 これを恋と呼ぶのなら、甘んじて受け入れよう。
 なぜなら辰樹は──大のオカルト好きなのだから。

木原辰樹/2

 その日、辰樹は昇降口で雨止みを待っていた。
 オカルト研究会の部室で、一人黙々と都市伝説に関するサイトをまとめていたら、すっかり遅くなってしまった。昇降口にも校庭にも、生徒の姿は見当たらない。夜から強い雨が降るという予報だったので早めに帰ろうかと思ってはいたのだが、最近町を騒がせている『パラソルさん』という怪人に関する考察につい熱が入ってしまい、気がつけば六時を回っていた。
 上履きから靴に履き替え、空の様子を確認しようと外に一歩出たところで、天気予報が的中。ザァザァと音を立てて、強い雨が降り出した。
「降り出すのが早いんじゃないか? ツイてないな……」
 傘を持ってきていない自分が悪いのにもかかわらず、天気予報に文句を言う辰樹。しかし、こんなバケツをひっくり返したみたいな土砂降り、すぐに止むだろう。雨足が弱まるまでここで待てば、そんなにひどい目には遭わないはずだ。
 辰樹はひとまずこの強烈なゲリラ豪雨をやり過ごすため、下駄箱にもたれ掛かって、大粒の雨がアスファルトを打つ様子をぼうっと眺めていた。
「ん? 誰かこっちに走ってくる」
 しばらくして、前方から一人の女子生徒が大慌てで昇降口のほうへと駆けよってきた。
 辰樹と同じように遅くまで残っていたのだろう。この大雨の中わざわざ学校に戻ってくるということは、並木道を歩いているところでこの大雨に降られ、慌てて引き返したに違いない。
 バシャバシャと地面を蹴って、その女子生徒は辰樹にどんどん迫ってくる。
 そのシルエットには見覚えがある。細長い体、長い髪。
「……ツイてる」
 まさか、こんな幸運なことがあるなんて。辰樹は、この大雨を降らせた嵐の女神に感謝した。
「刈谷さん」
 豪雨の中を駆けてきたのは、蒼衣だった。
 この一降りで冷えたのだろうか、両腕で上体を抱きかかえ、ただでさえ主張の激しい丸くて大きな胸がいっそう際だって、辰樹の目を引く。雨に濡れたせいで、うっすらと水色のレースが浮かび上がり、直視するにはあまりにも刺激が強い。
 蒼衣の、いつもよりまとまりのある黒髪の毛先と、スカートの裾から、ぽたっ、ぽたっ、っと、と雫が落ちる。
 艶めかしく、美しい。
 辰樹は、同い年とは思えない彼女の体に、しばらくのあいだ見とれていた。
「思いきり降られてしまいました。こういうの、ゲリラ豪雨っていうんですよね」
 全身ずぶ濡れの蒼衣が、辰樹に言った。タイミングの問題ではあるが、同じ居残り組でも雨に濡れずに済んだ辰樹としては、何か気の利いた言葉でもかけてやりたいところではある。
「す、すごく濡れてるね」
 すごく濡れてるね。というのが気の利いた言葉なのかどうかは置いておいて、辰樹はなんとか声を発する。まあ、これでもよくやったほうだ。
「木原くんは濡れてないんですね。降り出す前に気づいたのですか?」
「うん。雨降りそうだなって空を見上げたら、ザーって降ってきてさ。ほんとラッキーだよ。まあ、このまま止まなかったらラッキーとは言えないんだけど」
「傘は?」
「持ってきてない。刈谷さんも?」
「持ってきていたのですが、人に貸してしまいました」
 どんな状況だったかにもよるが、恐らく彼女の性格ならたとえ土砂降りの中であっても笑顔で「わたしは平気だから」と傘を差し出すだろう。刈谷蒼衣とは、そういう人だ。
「とりあえず風邪引くから着替えたほうがいいんじゃないかな。体操着とか持ってる?」
「いいえ。でも、タオルは持っているから平気です」
 鞄の中から取り出されたタオルから、ふわんと甘い香りが漂った。蒼衣の髪や体から香るものと違って、少し強めの化学的な匂いだ。
「木原くんも居残りですか?」
「うん、ちょっと部室に残ってサイトにアップする記事をまとめててね」
「またオカルトですか?」
「そう、オカルト」
「木原くんらしいですね。今日は何について調べていたのですか?」
 蒼衣が興味津々といった面持ちで辰樹の顔を覗き込んでくる。タオルから移った柔軟剤の香りが鼻をくすぐった。
 いや、それよりも気になってしまうのは蒼衣の胸元だ。ブラウスの隙間から、白く透き通るような蒼衣の肌。その下に突き出た胸を持ち上げるアレの、花模様が見えている。
「木原くん? どうかしましたか?」
「あ、ううん! ごめん! なんだっけ?」
「どんなことを調べていたの、って訊いたんですよ。教えてもらえますか?」
「も、もちろんだよ! 今回は、都市伝説について調べてるんだ」
「都市伝説?」
「そう。特に、事件性の高いものを中心にね」
 蒼衣の眉がぴくりと動く。初めてオカルトについて話したときとはまた違った表情だ。興味があることに違いはないのだろうが、以前より真剣みを増している。
「事件性が高いものというと?」
「そのままの意味だよ。単なる臆測や創作ではない、何者かの手によって引き起こされた事件の可能性があるもの。情報はたくさんあるのに真相がわからない。ただの未解決事件として処理するには謎が多すぎる。そういう話って、けっこう多いんだよ」
 超常現象なのか、事件なのか。
 この世ならざる世界の住人のしわざなのか、人間のしわざなのか。
「それがハッキリしない、真相まであと一歩及ばない、そういう都市伝説はいくつかあるけど、意外なところで繋がってたりするんだ」
「でも、どこでどう繋がっているかはわからない……」
「その通り。もちろん、そうじゃないのもあるけどさ」
 辰樹は頭の中でいくつかの事件をピックアップして、もっとも情報が少なく、謎に包まれた事件を口にする。
「かなり昔の話だけど、このへんで誘拐事件があったの知ってる?」
 蒼衣は、無言で目を瞬かせた。
「もう五年も前の話だから、ほとんど知ってる人はいないと思うんだけど……」
「木原くんは」
 辰樹の言葉を遮って、蒼衣が言った。
「木原くんは、その誘拐事件について何か知っているのですか?」
「え……?」
「気になります。何を知っているのか、どこまで知っているのか」
 一瞬、辰樹の時が止まった。強い雨音だけが、ほの暗い昇降口に響き渡っている。蒼衣の前髪から雫が垂れ落ち、誰かが閉め忘れた水道の蛇口から落ちる水滴のようにぴちゃんと音が鳴るまで、辰樹は蒼衣の瞳の奥に映るものに自由を制限されていた。
「あ、いえ。特に深い意味はないのですが……」
 雨音の中に蒼衣のれいろうな声が混じり、辰樹は再び現実に引き戻される。
「しつこく訊いてしまってごめんなさい」
 謝罪の言葉を述べる蒼衣だが、その声色はどこか自身の行いを反省するようであった。わずかに漏れた吐息が一瞬ため息のようにも見えたが、蒼衣が落胆するほどのことではないのでそれは何かの見間違いであると辰樹は自分に言い聞かせる。
「実は、僕もこの件に関してはほぼ知らないんだ。刈谷さんに詳しく話せるようなことは何もないよ。解決されないまま闇に葬られた事件として一部のマニアのあいだで噂になっているから、それに付随した作り話は多いけど……それは事実とは大きく異なるものも多いだろうから」
「元のお話が脚色されて都市伝説になる、といった感じなのでしょうか?」
「うん。都市伝説っていうのは大体そういうものだよ。臆測が臆測を呼んで尾ひれがついてることが多い。でも所詮は子どもの作り話みたいなものだから、刈谷さんが聞いて面白い話かどうか……」
「そんなことありません。面白いです。この世ならざる世界の住人と、人間の狭間にある得体の知れないもの。そういうことを真剣に話せる木原くんは、本当にすごいと思います」
 やはり、刈谷蒼衣は女神だ。以前は幽霊の話で盛り上がったが、今回は少し毛色の違う都市伝説に関すること。正直言って、この手の話はほとんどがデマであり、さすがの刈谷蒼衣も「子ども騙し」と鼻で笑うだろう、と思っていた。
 ところがどうだ。蒼衣は純粋な笑みを浮かべて辰樹の話を今か今かと待っているではないか。心から楽しみにしている。そんな顔だ。
「常識では考えられないようなことって、知りたいとも思うし、知らなきゃいけないことだとも思います。でも、そういうオカルト知識って、いざインプットしようとしても案外難しいものですよね。だから木原くんのようにわかりやすく、楽しく話してくれる人がいると助かります。私、木原くんのするオカルト話が好きですよ」
 好きですよ。好きですよ。好きですよ。
 甘い香り漂う昇降口。辰樹の脳内では蒼衣の言葉が都合よくリフレインする。
 そうか。好きか。なら仕方ない。この木原辰樹が、思う存分オカルトの素晴らしさを語ってあげよう。
 などと本人に直接言えるわけはないのだが、蒼衣が「好き」と言うのなら辰樹も遠慮する必要はないだろう。
「都市伝説の中でも一線を画すのは、『パラソルさん』かな」
『パラソルさん』?」
「黒い日傘を差した怪人だよ。これはオカルトマニアじゃなくてもけっこう知ってると思うよ」
「聞いたことありませんけど……怪人らしからぬ名前ですね」
 怪人という割には可愛らしいニックネームに、蒼衣は小首を傾げた。
「この辺りで急速に伸びている都市伝説でね。全身黒ずくめの女の人が、真っ黒な日傘を差して現れるんだよ。顔が見えないように、こう、日傘を前に傾けてさ」
「頭から足先まで真っ黒だと、確かに不気味ですね」
「まあ、怪人だからね」
 蒼衣の興味が向いているうちにと、辰樹はもったいぶらずに『パラソルさん』の実態を語る。
「『パラソルさん』に出会ったら絶対にしてはいけないことが二つあるんだけど」
「してはいけないこと?」
「うん。一つは、『パラソルさん』の顔を見ること。これは怪人ネタあるあるだよね。どんな顔をしてるかってのは諸説あるけど、こういうのってだいたいはすっごい美人だったりするんだよ。それでうっかり顔を見ちゃって……っていう」
「もう一つは?」
「『パラソルさん』に──好きなものを教えないこと」
 これについては、辰樹も未だ考察中だ。一口に好きなものといっても、色々ある。
 食べ物、スポーツ、科目、本、テレビ番組、それから、人。
「困ったことに『パラソルさん』は質問をするのが大好きでね。色々なことを訊いてくるらしいんだよ。何を訊かれるかはわからない。ただ、自分の好きなものを教えてはいけないんだって」
「興味深い怪人さんですね。都市伝説にしてはあまりにも具体的すぎる」
 蒼衣は水気の多い前髪を指でいじりながら、『パラソルさん』について真剣に考えていた。ただの好意で話を聞いているわけではなく、この都市伝説があたかも現実世界に存在し、何らかの影響を与えるものとしてとらえている。
「何か、怪人のモデルになったものがあるのかもしれませんね」
 言われて、鳥肌が立った。
 蒼衣が考察したこと。それから、その考察が初歩的ながら非常に的を射ているということに、辰樹は驚いたのだ。
 今まで、辰樹は蒼衣のことを別の世界に住む人間だと思っていた。クラスの、学校中の誰からも愛され、何をやっても一番の完璧超人。男も女も蒼衣のことが大好きだが、蒼衣は全員に微笑みかけ、誰かにひいするなんてことはしない。
 彼女には『好きなもの』がないのではないか? 内心そう思っていたのだ。一つのものに依存したり、執着することはなく、周りのもの全てを平等に愛し、好む。それゆえ彼女は完璧で、何をしても皆から好かれるのだと。
 だが、ここに来て辰樹のその考えは覆りつつある。
 蒼衣はオカルトが好きなのではないか? 他の趣味や娯楽や学問と比べても、特別という意味での好意や興味を抱いているのでは?
 そして……オカルトが好きな辰樹のことも、好きなのではないか。
 もちろんわかっている。蒼衣が辰樹のことを好きになるなんてことはない。異性として意識されていることも、クラスメイトとして特別視されていることもない。
 わかってはいるのだが、刈谷蒼衣のこんな姿を見てしまっては、勘違いしてしまうのも仕方がないことだろう。
「一方的で、自分勝手」
 自分のことを言われたのかと思い、辰樹は冷や汗を垂らした。
「『パラソルさん』は、そんな何かを象徴している気がする。そう思いませんか?」
「えっ? あ、うん……そうだね」
「違ったかしら?」
「違わないよ! むしろ大正解!」
 辰樹はポケットからスマホを取り出して、『パラソルさん』のスレッドにアクセスしそれを蒼衣に見せる。
「これは地域ごとの『パラソルさん』に関する情報なんだけどね。場所によって『パラソルさん』の見た目の特徴は微妙に違うんだけど、男にしか見えないっていうのと、質問ばかりしてろくに話を聞いてくれないっていう共通点はどこも一緒なんだ」
「男の人にしか見えなくて、質問ばかりしてろくに話を聞いてくれない……なるほど、一方的で自分勝手っていうのが共通点なのですね」
「刈谷さんは『象徴』って言ったけど、まさにその通り。実は、『パラソルさん』は、恋する女の子の象徴だっていう説がもっとも有力なんだよ。事実にしろ、創作にしろ、恋をしている女の子の特徴を捉えた人物像なんじゃないかってね」
 好きな男子の情報を求める姿勢や、パラソルという女性らしいアイテムを持っていることから、『パラソルさん』は恋する乙女の呪いだとか、彼氏に振られて自殺した霊だと噂されている。もちろん、コスプレが趣味のオタク女子が好きな男子に告白をしたときたまたまそういう格好をしていただけだとか、悪ノリした男子が女のフリをして騙したなどという現実的な見方もあるが。
「この怪人には具体的な目撃情報が多すぎる。だから瞬く間に話題になった。隣町では、保護者が動き出しそうな勢いなんだって」
「そこまでいったらもう都市伝説ではなく事件ね」
「その通り。これはもう事件なんだよ。だから今オカルト板ではこの『パラソルさん』が大ブーム。日本では過去にこの手の都市伝説で社会現象にまで発展しているからね。実際に警察が出動する騒ぎになった。ほら、口裂け女って知らない?」
「クチサケオンナ……ごめんなさい。聞いたことがないわ」
 口裂け女は日本ではかなりポピュラーな話だ。正直なところ、蒼衣が口裂け女を知らないというのはオカルトどうこう抜きにして予想外だった。
「まあ、『パラソルさん』は口裂け女よりは怖くはないかな。持っているのはハサミじゃなくて日傘だし、百メートルを十秒で走るなんてこともない」
「ハサミを持って追いかけてくるなんて、そんな噂が立ったら警察も動くでしょうね。『パラソルさん』はどうなんですか?」
「ああ、それなんだけど……」
 辰樹は一瞬、言いよどむ。
 学校帰りに『パラソルさん』を見たという人物が、既に十人以上ネットに書き込みをしている。実際には、その人物の友人や知人が書き込んでいるのだとは思うが、『パラソルさん』と接触してどうなったかというのは、不気味なことに全員一致しているのだ。
 ただ、ちょっと女子には言いにくい内容なのだが。
「過度に恐がったりしませんよ。わたしは平気です」
 だから教えて? と訊いてくる蒼衣に迫られ、辰樹は覚悟を決める。
 辰樹は、蒼衣の透けた下着と胸元を一度見やり、その答えを口にした。
「その……男の生気というか、ヤル気というか……欲望を、吸い取るんだってさ」
 蒼衣が、辰樹の視線に気づき、雨粒で湿った白い谷間を隠すまで、辰樹は蒼衣の顔を直視できなかった。
 生気や欲望とは? という質問は、蒼衣の口から発せられることはなかった。

宮ヶ瀬涼音/1

 近ごろ、幼なじみの様子がおかしい。
 先週あたりからそんな疑念を抱いていたのだけれど、週が明けて、その疑念は確信に変わった。
 いつもは遅刻ギリギリに来るのに、今日は誰よりも早く登校し、窓際後列の席でじっと外を眺めている。特に何をするわけでもなく、足を組み、頬杖をつき、一定の姿勢をずっとキープしている。
 絶対ヘン。ヘンだよタッちゃん。
 現在ではそのニックネームで呼ぶと不機嫌そうな顔をする幼なじみの名は、木原辰樹。
 その辰樹が、どうにも辰樹らしくない。
 いつも教室の隅っこで俯いているだけの、地味でオタクでオカルトマニアで勉強も運動もできず夜中に深夜アニメを爆音で視聴するどうしようもないインドア派の辰樹が、あろうことか髪の毛にワックスなど付けている。しかもツヤが出るタイプ。
 教室の隅っこで俯いているだけの辰樹が、教室の隅っこでツヤツヤと輝いた不自然な前髪を気にしながら、頬杖をついているのだ。
 おかしいでしょ。明らかに何かあったコレ。
「なに見てるんだよ涼音」
 涼音の視線に気づき、辰樹は涼音の名前を呼ぶ。「おい」とか「お前」じゃなく、ちゃんと下の名前で。前までは学校で話しかけてもあまり相手にしてくれなかったのに。これはいったいどういう心境の変化なのか。
「ジロジロ見るなよ。気持ち悪いだろ」
「ご、ごめん。なんかいつもと感じ違うなぁって思ったからつい……っていうか、気持ち悪いとかひどいこと言うなし」
「じゃあ見んなっつーの」
「う、うん……」
 と、一度は視線を外す涼音だが。
「わ、ワックスつけてるよね?」
 なぜだか無性に気になって訊いてしまった。
「ああ、寝グセ直すのにいいかなって」
「そ、そう……い……いいじゃん」
 でもつけすぎだよソレ。とは言えなかった。
「僕だってワックスぐらい使うよ」
 ウソつけ。あんたワックスどころかリンスもコンディショナーも使ったことないでしょ。
 絶対にヘン。
 辰樹のことは私が誰よりもよくわかっている。っていうか辰樹のことをわかろうとする人なんてこの学校にはいないから、涼音が必然的に彼のことを一番よくわかっている人ってことになるんだけれど。
 涼音と辰樹は物心ついた頃から一緒にいる。高校生になった今でも、涼音の中では幼なじみのタッちゃんだ。
 家が隣で、幼稚園からずっと一緒で、私の初めてをことごとく奪った男。
 初めてのオモラシ。
 初めてのランドセル。
 初めてのハグ。
 初めてのキス。
 初めてのハダカ。
 ってバカ。何よ初めてのハダカって。一緒にお風呂に入っただけじゃない。ハダカとかなんかもう一線越えた感じの響きだし、しかも順番的にランドセルのあとにハグ、キス、ハダカとか狙いすぎでしょ。と涼音は一人で身もだえする。
 実際はハダカ(お風呂)→ハグ→キス→ランドセル→オモラシの順。
 ってバカバカ。なに思いっきりカミングアウトしてるのよ。特にランドセルのあとのオモラシはまずいでしょ。こんなの誰かに聞かれたら超絶ヤバいって。
「すず? どうしたの顔真っ赤よ?」
「うひゃあっ!?」
 クラスメイトの女子にいきなり後ろから抱きつかれた。
「乳じゃ〜」
 で、そのまま胸を掴まれ、おまけにブラの隙間に指を入れられ、耳元でふうっと息を吹きかけられた。
 いや、ジョーダンで襲うにしてはやりすぎでしょ。なんという強欲な痴女。女の私でもこれはさすがに引く。
「相変わらずいいカラダ〜♪ このままお尻もさわっちゃうぞ? っていうかもう触っちゃった〜ん」
「ちょっ……そこお尻じゃないだろバカ!」
「あーっ、すずがえっちな声出した〜♪」
「おっ、なになに、宮ヶ瀬がエロい声出したって? 俺も混ぜてよ」
「おーけーおーけー、女子は百円、男子は一人千円ね〜♪」
「マジで? 聞いたかよ千円で宮ヶ瀬のブラ触れるってよ」
「おお、宮ヶ瀬のエロキャラついに本人公認になったの?」
「ふざけんな! 誰がエロキャラだ!」
 涼音は、男女を問わず友達が多い。
 だから学校生活はそれなりに充実している。涼音は一人でいるのがニガテなので、どこかの誰かさんみたいにひとりぼっちで幽霊とかお化けとか妖怪とかのサイトばっかり見ているだけなんて耐えられない。
 クラスのみんなとは休みの日にもよく一緒に遊ぶし、部活のつながりで他のクラスとも交流がある。他の子よりちょっとだけ発育が良いせいか、さっきみたいに数名のエロ女子に胸やら尻やら触られ放題。スキンシップもよくしている。いや、さすがに男子にはまだ一ミリたりとも触らせたことはないし、今後もその予定はないんだけれど。
「ねえすず、そういえばサッカー部の先輩からの告白、あれオッケーしたの?」
 困ったことに、私は胸の成長と共になかなかのモテ期に突入したらしく、ここのところ愛の告白をよく受けるようになってしまったのだ。
「すずはおっぱい大きいし、こういう悪ノリにも付き合ってくれるし、じわじわ人気出てきてるんだよ。男は欲望に忠実だからねぇ」
「褒められてる気がしない」
「え? あたし別に褒めてないよ〜?」
 ゲラゲラと下品な笑い声をあげる彼女は、私に構ってもらえたのが嬉しいのか、意味もなく両手を広げてくるくる回る。男子たちはいつものように「回れ回れ」と煽り、スカートを広げて回る女子のパンチラチャンスを狙ってスマホのカメラを向けている。こういう軽いノリ、もう慣れたけどあんまり好きじゃない。
「おはようございます。随分と騒がしいけど、もうすぐ先生がお見えになりますよ?」
 無法地帯と化した朝の教室をぴしゃりと静める一声。
 来た。
 教室の扉を開けて、このクラスの、この学校の全てを支配するスーパー女子高生がいつも通り凜然と、軽やかに、颯爽と現れた。
 刈谷蒼衣──信乃芽高校の生徒会長。マドンナでアイドルで神様。
 彼女の前では、男も女もみんな変わる。
「あ、宮ヶ瀬さん」
「は、はいっ!?」
 気をつけ! そう言われたわけじゃないけれど、なぜだか勝手に反応してしまう。足先を揃えて、手をぴったりと体の横につけて、涼音は刈谷さんに向き直る。
 登校するなり、いったい何の用だろう?
 刈谷さんは自分の机に鞄を置くと、そのまままっすぐ涼音のほうへと歩み寄る。
 クラスメイト全員の注目の中、刈谷さんと涼音との距離が縮まっていく。
「今日の放課後、話したいことがあるのですが」
「刈谷さんが、私と?」
「はい。みんながいる前だと少し話しづらいことなので、できれば二人きりで」
 おおっ、と男子たちが声をあげる。何を想像しているのか知らないが、たぶん彼らが思っているような話ではないし、涼音が選ばれたのもどうせ大した理由ではない。きっと委員会か部活絡みの話なのだろう。
「宮ヶ瀬さんは……オカルトに興味ありますか?」
「へっ?」
 涼音にしか聞こえないように、耳元でこっそりと、刈谷さんがそう言った。
 だが、彼女の目線は涼音の後ろ窓際後列──教室の隅っこをとらえていた。

宮ヶ瀬涼音/2

 放課後。刈谷さんに連れて来られたのは、美術準備室だった。
「ごめんなさいね。こんな狭いところに連れてきたりして」
 そう言いながらも、刈谷さんは内側から準備室に鍵をかける。この準備室は、美術室から内部でつながっている小部屋で、廊下から直接中に入ることはできない。
 刈谷さんが鍵をかけたことで、このほこりっぽい準備室は完全な密室となったわけだ。
 密室。
 密室で刈谷さんと二人きり。なんだろうこの感じ。いやに緊張する。
「こうでもしないと、誰かに聞かれちゃうから。イヤだったら言って?」
「あ、私は別に平気。刈谷さん、人気者だもんね。色んな人に話しかけられるから、なかなか一人になれなくて大変そうだなっていつも思ってた」
「そんな、大変だなんて。人に好かれるのはありがたいことだし、嬉しいことです」
 にっこりと微笑んで、刈谷さんは言う。
 嘘偽りのない言葉を、作り物だらけのこの部屋で。
「何か人に聞かれたくないことでもあるの? 相談したいこととか?」
「ええ、そんなところです。本当はこういうの、あんまりよくないってわかってはいるのですが」
「刈谷さん真面目だなぁ。私でよければ聞くよ。何の話?」
 完璧超人の刈谷蒼衣のことだ。涼音のような一般人にそんなにたいそうな相談事はしないだろう。
 そうタカをくくって気軽な気持ちで「聞くよ」と言ったのだが、刈谷さんは「単刀直入に言うわね」と改まったあと、驚くべきことを口にした。
「木原くんのことなのですが」
 おっと、ここでその名が出るか木原辰樹。
 ホワイ? なぜ? 動揺するあまりつい英語が出てしまった。ふざけているわけでもないんだけど、ちょっと意味がわかりませんよ刈谷さん。
「木原って、木原辰樹? 地味でオタクで深夜アニメは必ずリアルタイムで観るというあの?」
「アニメのことはわかりませんが、そうです。同じクラスの木原辰樹くん。宮ヶ瀬さん彼の幼なじみでしょう? きっと誰よりも木原くんのことを知っていると思って」
 ええ、そりゃ知ってますとも。少なくとも刈谷さんよりは知っている。木原辰樹について知りたいことがあればとりあえず私に訊いて下さいって言えるぐらいには。
 でも、どうして刈谷さんが辰樹のことを?
 気になる。
 なんだろうすごく気になる。
 あなたがタッちゃんのことを知ってどうするの? 何をするつもりなの? 
「宮ヶ瀬さん?」
 この宮ヶ瀬涼音以上に彼のことを知りたいと思っているの?
 そんなのズルい。アンフェアよ。
 あなた自分がどれほど価値のある人間かわかっているの?
 平凡な男子高校生にとって刈谷蒼衣に興味を持たれることは高校野球の地方大会でいきなりメジャーリーグのスカウトマンに声をかけられるようなものなのよ? ずっと一緒にがんばってきたマネージャーの気持ちとか考えたことある?
 そんなにきれいな顔してさ、なめらかな髪してさ、やわらかそうな胸して、張りのよさそうな、叩いたらいい音しそうなお尻して。
 女子の魅力も女性の魅力も乙女の魅力も処女の魅力もぜんぶ持ってる。 
 肩も、首筋も、白くて甘そう。舐めたらきっとバタークリームのような味がするのよ。
 ほら、腕も細くて、折れちゃいそう。
「ねえ宮ヶ瀬さん? どうしたの急に……」
 痛いわ。と吐息まじりに出た彼女の声にゾクッと反応してしまう。
「あ……」
 ハッと我に返り、目の前で肩をすくめている刈谷さんの、ほんのり赤らんだ顔を見る。
「とりあえず手を離してもらえるかしら?」
「あ……ご、ごめんなさいっ!」
 あれ……私、いま何してた……?
「何か気に障ったのなら謝るわ。ごめんなさい」
「ちっ、違う違う! 刈谷さんは何も悪くないの。いやだ私、どうしてこんな……」
 自分でもよくわからない。
 いつの間にか、涼音は刈谷さんの両手首を掴み、彼女の体を壁に押しつけていた。
「大丈夫? 顔色が悪いですよ?」
「大丈夫。なんていうか、びっくりしすぎて混乱しただけだと思う」
「ならよかった。わたしのことは気にしないでください。平気ですから」
 こわかった。ついさっきまでの自分は誰? 今まであんなことなかったのに。
 正体不明の恐怖に怯える涼音を気遣ってか、刈谷さんは壁に立てかけてあったパイプ椅子を開いて、「座って話しましょう」と優しく微笑んだ。ひどいことをされたというのに、聖人みたいな子だ。
「木原くんについていくつか訊きたいことがあったのですが、宮ヶ瀬さんにはその前にはっきりと言っておいたほうがよさそうですね」
 刈谷さんの手が涼音の肩に触れる。
 辰樹の名を聞くなり高鳴った胸の音も、ようやく調子を取り戻す。
「わたしが木原くんに特別な感情を抱いていることはありません。クラスメイトとして、お友達として仲良くさせてもらっている。それだけです」
 やがて訪れる平穏。
 安堵と共に、お腹の上から喉の奥あたりに響いたドキドキ、ズキズキという音と不快な味はどこかに消え去った。
「最近、木原くんとよく都市伝説の話をしているんです。たまにネットの記事を見せてもらったり、気になったことを質問したり」
「そういえば刈谷さん、さっき教室で私にオカルトどうこう言ってたよね」
「はい。実はわたし、もともと非科学的な現象に興味があったんです。常識では考えられないこと、起こりえないことになぜだか惹かれてしまって」
「なるほど、それじゃタッちゃんと気が合うわけだ」
「タッちゃん? ああ、辰樹くんだからタッちゃん。そんなふうに呼んでるんですね」
「あっ。いや……子どものときのクセでたまに」
「わかります。私も、そうやって親しみを込めて呼ぶ相手がいますので」
 おっと、ここで聞き捨てならない情報がポロっと漏れ出たぞ刈谷蒼衣。
 刈谷さんがニックネームで呼ぶ相手? それってつまり、彼氏とまでは行かないけれど、親しい人がいるってこと?
「かっ、彼氏だなんて。ちがいますよ。確かに男の人ではあるけど」
「でも、男の人なんだ?」
「ええ。でも……身内だから」
 あー、照れてる。なるほどね。刈谷さんもこんな顔、するんだ。
 と、涼音は思わず口元を緩めてしまう。
「宮ヶ瀬さんったら、今は木原くんの話ですよ?」
 笑いながらも頬を染めてる。かわいい。ほんとかわいい。どこまでもかわいい。
「木原くん、いま『パラソルさん』っていう怪人を追いかけて色々と調べてるところなんですって」
「ああ、最近よく聞くよね『パラソルさん』。若い子が好きな変態おばさんって説もあって、地域によっては警察も動いてるとか」
「でも木原くんは、そういうんじゃないって」
「言うだろうね。怪人だの妖怪だの、そういうの昔っからだーい好きだから」
 と、涼音は辰樹の筋金入りっぷりを鼻で笑ったのだが。
「わたしも……『パラソルさん』はいると思います」
 まっすぐこちらを見て、刈谷さんは言った。
 その怪人は実在すると。
 ガラス玉のように澄んだその瞳の中には、ゆがんだ顔を必死に取り繕おうとする涼音の姿が映っていた。
「『パラソルさん』には共通点があります」
「へえ、どんな?」
「声をかける相手は全員男性。実際に『パラソルさん』の姿を見たと主張するのも、男性だそうです。女性からの報告はありません」
 刈谷さんはやけに真剣だが、そこだけ聞くといっそう『パラソルさん』の正体は人間であると思えてしまう。
「人間より恐ろしいですよ。『パラソルさん』に出会った男性はみな無事ではないのですから」
「あ、それも聞いたことあるな」
 なんだっけ、性欲がなくなるとか、そんな話だったと思う。もちろん、さすがの涼音でも刈谷さん相手にそんなことは言わないけれど。
「声をかけられたその日を境に、ガラリと人が変わってしまうのです。何にも興味を示さず、好きという感情さえも忘れ、抜け殻のようになるとか」
「でもそれって、私たちぐらいの歳じゃよくあることなんじゃない? 『パラソルさん』が何なのかは置いといて、中高生は悩みもたくさんあるだろうし、恋だってするし、心に変化が起こる要因はたくさんあるよ」
「私もそう思います。『パラソルさん』に会っておかしくなった人というのは、『パラソルさん』に出会う前からおかしくなる原因がある、と」
「『パラソルさん』がいてもいなくても、凹む人は凹むってことよね」
 なんだか不思議な感じだ。今まであまり仲良くしてこなかった学校のマドンナと、二人きりで真面目に都市伝説について語り合っている。
 刈谷蒼衣はみんなのもの。みんなと仲良くしてくれるのだから、みんなで仲良くしよう。
 いつからかそんな暗黙のルールがみんなの共通認識となった。男も女も、抜け駆けは許されない。それでも彼女を『女』として意識する者は、どうにかして彼女を振り向かせたくてあの手この手を使ってアプローチをかけてきた。
 恋は人を惑わす。
 もし、暗黙のルールを破れば……まわり全てを敵に回すことだってあり得る。
 その敵意を生むのは──嫉妬。
 そう、嫉妬だ。
 人間には色々な感情があるけれど、その中でもこの嫉妬は悪質な感情だ。心にへばりついて、体を苦しめて、自信を不安に変える。好きを嫌いに変え、嫌いを好きに変える。
「宮ヶ瀬さんも気づいてますか?」
 刈谷さんに何かを気取られた。
 涼音は知らんぷりしてこう答える。
「気づいてるって、何が?」
「木原くんの様子がおかしいことに」
 痛い痛い。胸が痛い。お腹が痛い。
 喉の奥がきゅーっと締め付けられて、上手く言葉が出てこない。
「木原くん、一人でいるときもずっと誰かを意識しているような感じがするんです。授業中も、休み時間も、誰かを見ているような気がして」
 明らかに前とは違います。と、刈谷蒼衣は純粋無垢な目で涼音に言った。
 涼音は、彼女のように純粋でも無垢でもないから、「そうかな?」と誤魔化した。
「宮ヶ瀬さん、これってもしかして『パラソルさん』と何か関係があるのでしょうか?」
 バカじゃないの?
 何が『パラソルさん』よ。あんた、どこまでピュアなのよ。そんなんだから男にも女にも好かれるのよ。存在が美しすぎる。綺麗すぎる。
 辰樹は……刈谷さんに恋をしているのよ。
 わかるわ。あなたのことが好きなのよ。だから見ているの。
「こんなこと他人に話していいものかどうかわからないのだけれど、宮ヶ瀬さんになら話してもいいかと思って。木原くんによく話しかけているし、木原くんもあなたとは親しげに話しているから」
「まあ、物心ついたときから一緒にいるからね。わかった。今度さりげなく辰樹には訊いておくよ。もちろん刈谷さんの名前は出さずにね」
「ありがとう。私も何か力になりたいと思っていたのだけれど、こういうときどうしたらいいかわからなくって、困っていたんです」
 経験がないので。と付け加える刈谷さん。
 ああ、あなたが言うといやらしさが全く感じられない。
 あなたはそのままでいい。何も覚えなくていい。
 これからも信乃芽高校のマドンナで、アイドルで、女神でいてくれればそれでいいの。
「じゃあ、私そろそろいくね」
「話を聞いてくれてありがとう。正直いって少し緊張していたのだけれど、宮ヶ瀬さんってとても話しやすい人だったのですね。よかったらこれからも仲良くしてくださいね」
「もちろんだよ。でもそれ、男子には言わないほうがいいよ〜」
「どうしてですか?」
 そんなの、決まってるでしょ。
 ──あなたを好きになってしまうからよ。

ハーメルン/2

 恋と愛の違いは何かって?
 なるほどね。あなた、あの子のことが好きなんでしょう?
 わかるわ。恋をするのと、愛を知るのはとってもよく似ているもの。
 いつからかしら。ママが若い男の人をお家に連れてくるようになったのは。
 その人、ママよりうんと若くてね。ママのお友達って歳じゃなかったと思うの。きっと近所の人は私のお兄ちゃんだと思ってたでしょうね。まあ、私はいつもお家の中にいたから、近所の人がなんて言ってるかなんて知らないんだけれど。
 うちにはパパがいないから、男の人には慣れてなかった。でも、ママが仲良くしなさいって言うから、初めて会ったときはちゃんとご挨拶したわ。その人、にっこりと笑ってね。私の頭を撫でてくれたの。
 べたべた触られるのは、思っていたよりイヤじゃなかったわ。
 頭も、顔も、首も、胸も、腰も、おしりも、足も、べたべたべたべた触るの。その人。
 仕方ないと思った。ママからは、家族になる人なんだよって言われていたから。
 だから私は笑った。せいいっぱい笑った。
 その人はね、私が笑うとお菓子を買ってくれるの。お弁当を買ってくれるの。コンビニへ連れていってくれるの。なんでも好きなものをカゴに入れていいって言われてね、私は桃のゼリーとコーンフレークをカゴに入れたわ。
 その人は私に愛を教えてくれたのよ。
 だからママが怒ったのね。ママは、愛という言葉が大嫌いなのよきっと。
 ママは私をぶって、蹴って、真っ暗なタンスの中に閉じ込めた。
 でも私は、ちょっと嬉しかった。
 今まで無関心で無表情で無気力だったママが、大声で私の名を呼んだの。ああ、ママはまだ私のことでいっしょけんめいになってくれるんだなって。ママの心にも、まだ感情というものはあるんだなって。
 暗くて、狭くて、寒いタンスの中で私はママのことを考えてた。
 ママは今までひとりぼっちで、寂しくて、男の人を憎んできた。
 だから、私があの若い男の人と仲良くしすぎると、昔のことを思い出して寂しくなっちゃうんだ。
 ママ、ごめんなさい。私はママのことをぜんぜん考えてなかったね。もうママの邪魔もしないし、食べ物で釣られたりなんかしない。
 だからママは幸せになってね。
 そう思ったときね、ハッと気づいたの。
 これが愛だ。この気持ち、愛だよ。って。
 ママが私を閉じ込めるのも、私がママに幸せになってねって思うのも、どっちも愛だったのよ。よく似てるもの。そうに違いないわ。
 あの男の人がくれた桃のゼリーも愛に似てるけど、ちょっと違うわ。確かに桃のゼリーはおいしかったけれど、私も彼に『おかえし』をしたもの。
 愛に『おかえし』はいらない。まだ私が小さかったとき、ママが教えてくれた。
 私はママを愛していたし、ママから愛されていた。
 ママはあの若い男の人に恋をしていた。でも、たぶん愛してはいなかったんじゃないかな。そう思うわ。
 なんでそう思うのかって? そんなの簡単よ。
 だってママは、あの男の人にたくさん『おかえし』をしてたから。
 恋と愛の違いはそこよ。これ、テストで出るから覚えておいてね。それから、恋に夢中になりすぎると危険なの。だからあまり恋を追いかけないほうがいいわ。
 私のママは、その恋でついに命まで落としてしまったんだからね。
 ママは私を守ってくれたの。だから私は、今度はママのために、『しかえし』をするの。
 どうでもいいけど、帰りにコンビニ寄ってくれない?
 あなたの好きな人のニオイを嗅いだら、無性にクリームパンが食べたくなっちゃった。

木原辰樹/3

『大事なお話があります。今日の放課後、五時に屋上へ来てください』

 下駄箱の中に入っていた一通の便せん。封を開けると、ふあんと甘い香りが漂ってきた。土とほこりで乾いた昇降口に広がるその香りには、覚えがある。
 あの、大雨が降った日、ずぶ濡れになってここへ駆け込んできた少女──刈谷蒼衣の香りだ。
「ウソだろ……まさか、刈谷さんが僕に?」
 自意識過剰もいいところだ。蒼衣が辰樹にラブレターを書くだなんて、世界がひっくり返ってもありえない。
 だが、差出人が書かれていないその手紙からは、間違いなく彼女の香りがしたのだ。
 この数日間、辰樹は『パラソルさん』と同時に蒼衣のことも追いかけてきた。ずっと見つめてきた。ずっと聴いていた。彼女の体、顔、吐息、すべてに集中してきた。彼女の髪と胸元から漂う香りは他の女子にはない独特の甘さとやわらかさがあり、口を閉じて鼻のみで呼吸をしていれば数メートル先からでも嗅ぎ取れる。嗅ぎ取れるようになった。そんな力を身につけてしまうほど、辰樹は蒼衣に夢中だった。執念のなせるわざである。
「いやいや、まだそうと決まったわけじゃない。過度な期待は禁物だ。もし刈谷さんだとしたら、手紙なんて回りくどい手は使わずに直接話しかけてくるはずだもんな」
 そう自分に言い聞かせるが、やはり心のどこかで期待はしてしまう。
 この信乃芽高校で、辰樹を呼び出すような人物には心当たりがない。たとえそれが男であっても、友達のいない辰樹にとってはイタズラされる心配もないのである。
 接点がある人物といえば、最近『パラソルさん』を通じて急接近している蒼衣のみ。
 愛の告白なんかじゃないってことぐらいは、恋愛経験のない辰樹にだってわかる。だが、もしこの手紙の差出人が蒼衣であったなら、彼女にとって辰樹は他の男子とは違う特別な存在だということが確定する。
 蒼衣は誰にでも平等に接する。こんなふうに手紙で屋上に呼び出して、改まって話すことなんてないはずだ。
「もし刈谷さんだったら……もっと仲良くなりたいって言ってみようかな」
 恋は人を変える。いつかどこかで見かけた言葉だが、辰樹は今まんまとこの言葉通り恋によって大きく変わってきている。
 それは悪いことではなく、むしろいいことだ。と辰樹は思う。
 なぜなら、今までの辰樹では、女子を好きになることも、特別な感情を抱くこともなかったからだ。その想いを伝えようなどとは間違っても考えなかっただろう。
 辰樹の中に、確かな積極性が芽生えている。
 これは、男として健全で、正常なことなんだ。
 香りつきのラブレターを胸ポケットにしまったまま、辰樹は悶々と一日を過ごした。

木原辰樹/4

 いよいよ勝負のときがきた。
 放課後、辰樹は屋上のドアの前であの手紙を握りしめて深呼吸をしていた。かれこれもう五分ほどこうしているだろうか。
 時刻は午後四時五十八分。そろそろ覚悟を決めないと遅刻になってしまう。
「僕は何をこんなに緊張しているんだろう。呼び出したのは向こうであって、僕じゃない。それに、刈谷さんだとは限らないじゃないか」
 午後四時五十九分。そろそろ時間だ。もう考えているヒマはない。
「これで怖い人たちからの呼び出しとかだったら笑えないな……ははは」
 時間だ。ドアノブに手をかけ、重たいドアを押し開く。
 屋上に出た瞬間、強い風が辰樹に吹き付けた。グッと力を入れて、鉄製のドアを支える。土埃にびっくりして下を向き、数メートル先、フェンスの前に立つその人物の足先だけを視界に入れる。
 ソックス、スカート、細く白い足──女子だ。
 つま先は向こう。辰樹に背を向けて立っている。
 ゆっくりと顔を上げ、風になびく長い髪と、そこから漂ってくるあの甘い香りを確かめる。まさか。まさかまさかまさか!
「か、刈谷さん……?」
 辰樹が呼ぶと、屋上のフェンスに手をかけて眼下を眺めていたその人物は、バタバタと暴れるスカートの裾と黒髪を両手で押さえながら振り向いた。
「残念。私」
 屋上で辰樹を待っていたのは刈谷蒼衣でなかった。
 ──宮ヶ瀬涼音。
 幼なじみの涼音である。
「涼音、お前、どうしてここに……」
「どうしてって、その手紙書いたの私だもん」
「手紙って、これのこと? もしかしてお前、下駄箱まちがえたのか?」
「間違えてない。私がタッちゃんの下駄箱に入れたの」
「なんでわざわざ呼び出すんだよ? 話なら教室でもできるだろ?」
「じゃあ逆に訊くけど、どうしてタッちゃんはわざわざ屋上まで来たのよ?」
「そ、それは……」
 愛の告白だったり、秘密の相談だったり、人前では言えないようなことがあるのかもと思ったから。
 まあ、相手が涼音だとは思ってなかったが。
「愛の告白、秘密の相談。それなら呼び出す必要があるでしょう?」
「そうだけど、相手によるだろ。変なイタズラだったら趣味が悪いぞ。これでも僕はそれなりに勇気を出してここにきたんだ。惨めな思いをする覚悟もした」
「私も」
「は?」
「私も同じ。もうこのまま傍観しているなんてできない。私はタッちゃんをほうっておけない。このままだとみんな不幸になっちゃう」
「涼音、お前なに言って……」
「私の気持ち、本当に気づいてないの?」
 風が凪いで、重力に逆らっていた涼音の髪が落ち着きを取り戻す。
 紅梅色に染まったくちびるが、きゅっと結ばれる。しっとりと長い睫毛がやや下を向き、教室で男子にからかわれているときのそれとは全く異なる表情。
 辰樹の視線は、いつの間にか綺麗になった幼なじみの、「女」の部分に奪われる。
「私さ、高校に入ってから、けっこうモテてるみたいなの」
「知ってるよ。男子のあいだじゃけっこう噂になってるし」
「刈谷さんほどじゃないけど、真剣に告白されたりもする」
「そんなこと僕に言ってどうするんだよ。涼音が付き合いたいなら付き合えばいいし、好きにすればいいじゃないか」
「そうするつもりよ」
 その瞬間、全身の毛が逆立った。
 目の前にいる女は、誰だ?
 宮ヶ瀬涼音は、スタイルこそいいが大人っぽいとはいえないし、勉強もできないし、下ネタとかくだらないギャグとかにも付いていくから上品ともいえない。子どものときから臆病で、言いたいことをハッキリと言えなくて、いつも辰樹が涼音をリードしていた。
 だが、「そうするつもりよ」と言った涼音は……明らかな別人だ。
 まだ辰樹を見ている。じっと見ている。何も言わず、微動だにせず、真剣な眼差しで。
 不気味である。涼音は何を考えているのだろうか。
 辰樹が思わず目を逸らすと、それを待っていたかのように涼音が口を開いた。
「タッちゃん、えっちだね。いま、私の胸見てるでしょ?」
「はあ!?」
「そうやってさ、目と目を合わせないフリしてさ、刈谷さんの胸も見てたんでしょう?」
「お前、何言ってんだよ。誰かに何か言われたのか?」
「質問してるの私だよ」
 しゅるっ……涼音がブラウスのリボンを外す。
 胸元を緩めるしぐさをして、扇情的な目で辰樹を見る。
「タッちゃん……」
 うっとりと、熱く、甘い息を吐いて、涼音が辰樹へ歩み寄る。
「な、なに考えてんだよ! やめろよそういうの!」
 ふだん見ることのない涼音の姿にとまどい、辰樹は思わず涼音をフェンスへ突き飛ばしてしまった。
「なに焦ってるの? リボンを外したのは髪結ぼうとしただけだよ?」
「いいや違うね! お前いま絶対からかってただろ? 胸を見せるようにしてさ」
 動揺の中、辰樹の心の奥底から眠っていた感情がこみ上げる。それがどんな感情なのかは一言では表せない。辰樹自身もよくわからない何かが、まとめていっぺんに言葉となり、涼音を切りつけにかかった。
「なんなんだよほんと! これ動画でも撮ってんのか? だったら本気で怒るぞ? 涼音とは付き合い長いし、だいたいのことはわかってるつもりだったけど、今日のお前おかしいよ!」
「うん、もっと言って」
 なんだこいつ。バカじゃねえの。
 こっちはムカついてんのに、なんでそんな嬉しそうな顔してるんだよ。
 どんどん溢れてくる。失望と、落胆と、怒り。それらが混ざり合った酸っぱい味が、喉の奥からこみ上げてくる。不思議と、羞恥の念は感じられなかった。
「そりゃ僕だって昔みたいに涼音と仲良くなんてできないとは思ってるよ。けど、別に涼音のことは嫌いじゃないし、避けてるわけでもない。本気で話があんなら聞くよ。家のこととか、お母さんのこととかさ。でも、幼なじみっていう関係を利用して僕を揺さぶろうとするのは卑怯だろ? 僕だっていっぱいいっぱいなんだよ。刈谷さんとは絶対に仲良くなれないって思ってたよ。それでも……それでも! 一緒に『パラソルさん』の話ができるまでになったんだ。もしかしたら刈谷さんが僕をここに呼び出して、僕にしか教えない秘密や都市伝説を話してくれるかもって思ったんだ! なんだよもう! そのぐらい期待してもいいだろう!?」
 無意識に蒼衣の名前が出た。涼音にこんな話をしてどうする? わかってはいるが辰樹の感情はまだ治まらない。
「今まで誰も信じてくれなかったんだ。僕が幽霊を見たって言っても、タンスの中に何かいるって言っても、みんなして僕をバカにした。最後まで信じていた涼音でさえ、中学に上がったら僕とお化けの話をしてくれなくなった。でもそれは仕方ないよ。そんなものあるわけないって、僕だってちょっとは思ってる」
 それでも。
 それでもあの人はバカにしなかった。
「刈谷さんはちがう。僕の話が好きだって言ってくれた。ただ話を合わせるだけじゃなく、本当に興味を持ってくれたんだ。こんなの初めてだ。僕は刈谷さんが人気者じゃなくても、美人じゃなくても、きっと一緒に『パラソルさん』の話をした」
 刈谷さん。
 刈谷さん刈谷さん刈谷さん。
 辰樹の頭の中は「刈谷さん」でいっぱいだ。
 美人で、優しくて、足が細くて、胸が大きくて、甘い香りを漂わせ、男も女も生徒も教師も全員を虜にする完全無欠のスーパー女子高生である刈谷蒼衣が、辰樹に微笑みかけている。
 真っ暗闇の中で、孤独な思いをしてきた辰樹の前で、全てを受け入れてくれるかのような、慈愛に満ちた表情で辰樹を見ている。
 目を閉じても、目を開けても、彼女以外は見えない。
 ああ、この世界はどうなっているんだろう。もし神様がいるとして、神様はこの暗闇の中になぜ刈谷蒼衣という光を生み出したんだろう。
「タッちゃん」
 うるさい。タッちゃんとか気軽に呼ぶんじゃない。お前なんてただの幼なじみじゃないか。僕が本当に困っているときに助けてくれなかった。小さい頃からずっと一緒にいたのに。大きな家の小さな部屋に閉じ込めれる苦痛をわかってくれると思ったのに。
 オマエハボクヲウラギッタ。
「お前のような尻の軽い女なんかに興味はないんだよ!」

 そのとき──猛毒を持つ黒い花が、辰樹の前で咲き開いた。

『へえ、あなた、刈谷さんのことが好きなんだ?』

 あれ?
 ちょっと待て。

『隠してもダメ。あの刈谷蒼衣っていう女のことが好きなんでしょう?』

 なんだこれ? おかしくないか?
 低く、太く、ゆがんだ声。
 話し方は確かに女っぽいが、女の声じゃない。醜く、ノイズの混じった不気味な声が、涼音のほうから聞こえた。
 こいつは涼音じゃない。
 だとすれば、いま辰樹に話しかけたのは……誰だ?
「タッちゃん? どうしたの?」
「えっ、いや……今、変な声きこえなかった?」
「別に?」
 おかしい。
 ついさっき、『刈谷さんのことが好きなんだ?』と辰樹に訊いたのは涼音ではない。涼音ではない、別の誰かの声がした。
「タッちゃんってさ、刈谷さんのこと好きなの?」
 これは涼音だ。辰樹に突き飛ばされた体勢のまま、フェンスにもたれかかっている。
 俯き、長い黒髪で顔を覆ったまま……表情は見えない。
「タッちゃん、刈谷さんのこと好きなんでしょ?」
「ぼ、僕は……」
「ハッキリ言ってくれたほうがいい。絶対に誰にも言わないから」
 涼音は辰樹の迷いを、躊躇う時間をぴしゃりと封じてくる。
「……うん、好きだよ」
 言ってしまった。ウソをつける空気じゃなかったし、何よりこれ以上の沈黙を保つのは無理だと感じたから。
 だが、相手は涼音だ。口はかたい。信頼できる相手だ。むしろ、この気持ちが恋だとわかった今、言ってしまったほうがラクになる。
「好きだよ。たぶん僕は刈谷さんのことが好きだ」
「刈谷さんと付き合いたい?」
「そういうのは考えてないよ。僕なんて相手にされてないだろうし」
「デートに行くならどこに行きたい?」
「だからそういうのは……」
「絶叫マシンは乗れる?」
「おい涼音」
「アイスクリームは好き? 好きな色はなに?」
「……涼音?」
 俯いたまま、抑揚のない声で質問を繰り出す涼音に、辰樹は強い違和感を覚えた。
「好きな音楽は? 大人になったらどういう職業に就きたい? 好きな果物は? 好きな服は? 好きな女性のタイプは? 好きな映画は?」
 だんだんと、黒い花が、大きく、大きく咲き開いていく。
 まだまだ大きくなる。
 この世の憎悪と怨恨を吸って、真っ黒に染め上げられた大輪の花が、涼音の背後、いや頭上に咲き開く。
 黒い花はいばらを涼音のカラダに巻き付けて、涼音を丸ごと飲み込んだ。屋上のコンクリートに根を張るようにして、涼音の足先から首元まで覆い尽くす。
 残されたのは、腰まで伸びた黒髪だけ。だが、もはやこの状態でその黒髪の持ち主が涼音だとはとうていわからない。
「お前……誰だよ?」
 目の前の人物──真っ黒な女性に向かって、辰樹は問うた。
『私はハーメルン。この世界の、全ての女の子の味方』
 さっきの声だ。
 低く、太く、ゆがんだ、不気味な声。
『私は心に傷を負った女の子の中で暮らしてるの。基本的に男の人が嫌い。だからあなたともあまり長いこと話すつもりはないわ』
 異様な光景だ。屋上に根を生やし大輪を咲かせる黒い花。そいつが辰樹に話しかけている。オカルト? 都市伝説? そんなレベルじゃない。夢でも見てるようだが、おそらくこれは夢なんかじゃない。
 この世ならざる世界から現れた、限りなく人間に近い何かだ。
 落ち着け。落ち着け辰樹。
 いま目に見えているもの、聞こえているものは真実だ。現実だ。科学では証明しきれない事象に出くわしたときは、冷静さを欠いてはいけない。
 子どものときからずっとそうやって訓練してきたじゃないか。いつか、得体の知れないものと遭遇したときに後悔しないよう、何度も、何度もシミュレートしてきた。
 葛藤と戦え。心を食われたら負けだ。
『いいわねその表情。男なのにまだ男の本質を知らない、若いオオカミ。でも自尊心が芽生え始めている。これは女にとって超キケン。よって私は見逃せな〜い』
「僕が話していたのは涼音だ。お前なんて知らない。ハーメルンなんてやつこの学校にはいない」
『まあまあ失礼! ハーメルンは実在するのよ? 目の前にいるじゃない。強がっちゃってカワイイ』
 ハーメルンと名乗る黒い花はそう言うが、辰樹の目の前にいるのは涼音だ。黒い花の、黒いいばらに覆われてしまった幼なじみ。
 涼音はこいつに取り憑かれておかしくなったんだ。だから辰樹を呼び出したり、変なことを口走ったりしてたんだ。
「涼音から出てけこの化け物!」
『まあまあ無礼! 女の子に向かって化け物ですって?』
 黒い花はまがまがしい形をした花弁を不規則に動かし、いばらで涼音の体をしめつけた。
 いばらに囚われた──黒い花に飲まれた涼音は、声ひとつあげない。
「やめろ! 涼音をはなせ!」
『大丈夫よ。私とスズネは二人でひとつ。私の意志はスズネの意志なの』
「そんなわけないだろ。涼音がお前みたいなやつを受け入れるわけがない」
『それはあなたにはわからないわよ。だってあなた、男の子だもん』
「どういう意味だよ?」
『私はね、思春期の女の子にはたいてい受け入れられるの。ちょっと変態ちっくに言うと、女子高生が大好物のくいしんぼう。十代後半の女の子って、どこを舐めても甘いのよ』
 黒い花の声が、いっそう太く、低く、しわがれる。同時にその巨大な花弁を動かして、迫り来る暗雲を歓迎しているような素振りを見せる。不気味だ。まるで花が生きているよう。声に合わせてうねうねと、右に左に揺れている。
 気づけば辺りは薄暗く、今にも雨が降り出しそうな分厚い雲が空を覆っていた。
『オカルト好きのあなたなら、こっちの姿はご存じかしら?』
「こっちの姿?」
『スズネ、右手をあーげてっ♪』
 黒い花が言うと、真っ黒な涼音の右手がぐにゃりと不自然に上がった。まるで糸でつるされた人形のように、ぷらんぷらんと右手が宙に浮く。
『おめかししましょうね。あなたの本音を、彼に聞かせてあげなきゃね』
 黒い花は花弁で涼音の右手を食らうように包み込む。
 すると、涼音の全身を覆っていたいばらが彼女に溶け込むようにして消え、その直後に衣服のように浮かび上がる。涼音の体のラインがはっきりとわかるような、ぴっちりとしたワンピースドレスに早変わり。
 右手には──大きなパラソル。
 涼音の右手を食らった黒い花は、真っ黒な日傘へと姿を変えた。
 黒くて大きな日傘は、いばらの拘束から解放された涼音の顔を隠している。
「タッちゃん……ごめんね」
 今度は涼音の声がした。辰樹を「タッちゃん」と呼ぶ彼女の声色は、子どものときによく聞いた、さみしがり屋で、甘えん坊のスズちゃんのものだった。
「私、どうしてもタッちゃんに気づいてほしくて。わかってほしくて。今までずっとこの子と一緒に悩んできたの」
「この子って、ハーメルンってやつのことか?」
「そう。ハーメルンは私の悩みを聞いてくれたし、自分の話もしてくれた。夢の中で、いつもハーメルンは私に語りかけてきた。最初はただの夢なんだって思ってたけど、タッちゃんが刈谷さんと仲良くするようになってからは、起きているときにもハーメルンの声が聞こえるようになった」

 そのときね。
 鏡を見たの。
 そこには全身真っ黒の女の人がいた。
 とても怖い顔をした女の人が、私を睨み付けていたの。
 手には大きな日傘を持っていて、あ、こんな人、どこかで聞いたことがあるって思った。

「タッちゃん、助けてなんて言わないから、私の質問に答えて?」
 黒い日傘をくるくると回し、『パラソルさん』が辰樹に迫り来る。
 辰樹は恐怖と驚きとで声が出ない。まさかそんな、『パラソルさん』が実在したなんて。
 しかもその正体が涼音だったなんて。信じられない。信じたくない。
「人前でこの姿になるのは初めてだけど、なんとなくわかる。私の質問に二度目はない。だからタッちゃん……後悔しないように答えてね」
 黒い日傘がぴたりと止まり、ゆっくりと、角度を変えて上に向いていく。
 腰、胸元、『パラソルさん』の腕までが視界に入る。あと少しで『パラソルさん』の顔が見えるが、それは彼女の質問のあとのようだ。
「自分が『好きな人』を忘れてしまうのと、『好きな人』が自分を忘れてしまうの、どっちがいい?」
 質問は一度きり。
 答えるチャンスも一度きり。
 その意味は、辰樹にも何となくわかった。窮地に追い込まれたときに働く勘が、辰樹にそう言っている。選ぶ権利があるだけ、まだマシだ。必死に考えろ、と。
もしかしたら、これは辰樹が人を好きになったことの代償なのかもしれない。『パラソルさん』の静かな問いにどう答えるか悩んでいるあいだ、辰樹はそんなことを考えていた。
 やはり、人を好きになるなんてオカルトの類だ。
 でも、辰樹はオカルトが好きだ。
 好きという気持ちを覚える前のことなんて、大して覚えていない。
 好きになって、よかったのだ。後悔はない。
「僕はね、初めて人を好きになったんだ」
 気づけば辰樹は、黒い日傘を差したその奇妙な女に、自分の恋について話していた。
 どうせ、これが最初で最後だ。
 今までいいことなんてなかった。オカルト趣味にも限界を感じていた。
 だが、刈谷さんは辰樹の日常を変えてくれた。この恋が、辰樹に人を好きになる喜びと意味を教えてくれたのだ。
「刈谷さんは僕を笑わなかった。オカルトに興味を持ってくれてね、僕の話を楽しそうに聞いてくれたんだよ。まるで自分の好きなことを話すときのような、可愛らしい表情で」
「あと三十秒待つわ」
「きっとこの先、何年経っても僕は人を好きになんかならないだろう。恋もオカルトの一種だって思ってる。つまりそれは、追いかけ続けるものであり、決してたどり着けるものではないってことだ」
「あと二十秒」
「でも彼女の存在は僕にとってのオカルトよりも、日常よりも大きかった。だから僕は彼女を好きになったことを後悔しない。たとえこの気持ちを忘れてしまったとしても、僕の中から彼女の存在が消えてしまったとしても……僕が刈谷さんに恋をしたという事実は消し去りたくない」
「そろそろ時間切れよ」
「答えるよ『パラソルさん』。僕は自分の好きなものを忘れてしまってもいい。でも、僕の『好きな人』から、僕のことは消さないでくれ。僕との思い出は、彼女の中に残しておいてほしいんだ」
「わかった。じゃあ、あなたの『好き』は奪わせてもらうわね」
 世の中には常識では考えられないことがある。
 辰樹が追い続けていたものは、決して辿り着くことができない、現実と空想の狭間にあるものだ。だから、今回のように辿り着いてしまった場合……それはなかったことになるのだろう。
 覚悟はできてる。
 屋上のドアを開けたとき、刈谷さんを想う気持ちにだけはウソをつかないと決めた。
「タッちゃん、最後に私の好きな人を教えてあげる。このパラソルを上げるとね、私の『好きな人』がタッちゃんに笑いかけるわ。暗く深い闇の中へ落ちる前に、私の恋心も知って欲しいから」
「涼音の『好きな人』を教えてくれるのか?」
「ええそうよ。それじゃタッちゃん……さようなら」

 もう二度と、刈谷蒼衣に近づかないでね。

 黒い日傘を上げ、『パラソルさん』は最後に微笑みかける。
 宮ヶ瀬涼音の『好きな人』が、辰樹に微笑みかける。
 夕闇迫る放課後。
 誰もいない屋上には、甘い香りが漂っていた。

ハーメルン/3

 男なんてみんないなくなっちゃえばいい。
 汚らわしくて、暴力的で、女心をもてあそぶ。
 大人になる前に気づけてよかったじゃない。
 そうよ、この世に男なんていらない。
 男は、あなたと、あなたの好きな人と、冷蔵庫の中にあるものを全て奪っていくケダモノなのだから。
 ねえ、私、がんばったわよね?
 私のおかげで、邪魔者がいなくなったでしょ?
 うん、いいわ。そうやって頭をなでてくれると、ほっとする。
 ご褒美に、コンビニでアイスクリームを買ってほしいな。
 それから、たまにでいいからこうやって、ぎゅっとしてほしいな。
 そしたらね、もっといっぱい、お花を咲かせるわ。
 ママは、ベランダの鉢植えにお水をあげているときだけは笑顔だったの。
 その花が枯れてしまっても、ずっとお水をあげて、話しかけてね。
 死ぬまで愛していたのよ。ママは何も言わないお花が大好きだった。
 ねえ、アイスクリームのほかに、買ってほしいものがあるんだけれどいいかしら?
 ううん、別に大したものじゃないわ。
 お花の種が欲しいの。
 大きくて、綺麗で、水やりをしなくても、日光浴をさせなくても枯れない花の種。
 そんな花があれば、誰も不幸になんてならないわよね。

宮ヶ瀬涼音/3

 刈谷蒼衣はあの日以来、何度か辰樹を呼び出して『パラソルさん』について、オカルトについて話そうと努力をした。
 しかし、辰樹はどういうわけかオカルトには一切の興味を示さず、学校のアイドル刈谷蒼衣がわざわざ二人きりで話そうと言ってくれているにも関わらずそっけない態度で彼女の好意を無下にした。辰樹は瞬く間にクラスの嫌われ者となった。
 それを受けて刈谷蒼衣はこれ以上自分が歩み寄ることは逆効果だと判断。何を言っても無気力な辰樹と以前のようにオカルト談義をすることはあきらめた。
「タッちゃん、先生があとで職員室に来いって」
「ああ」
「私、伝えたからね? きっとテストの結果のことだとは思うけど、サボったりしないでよ? 私が先生に怒られるんだから」
「わかったよ涼音」
 涼音は、もはや先生の手にも負えなくなった辰樹の生活態度や成績不振を何とかするために毎日こうして伝達係をやらされている。
 理由はわからないが、辰樹は涼音とだけはまともに話してくれるのだ。
 といっても、今みたいに「ああ」とか「わかった」ぐらいしか言ってくれないんだけれど。
「涼音」
「うん?」
「ありがとな」
「なによ急に」
「いや、なんとなく」
 辰樹はすぐに窓の外に目を向けて、深い溜息をつくと、そのまま机に突っ伏した。
「宮ヶ瀬さん」
「あ、蒼衣ちゃん」
 辰樹の元気がなくなったことは寂しいけれど、嬉しいこともある。
 それは、刈谷蒼衣と今まで以上に仲良くなれたこと。今では「蒼衣ちゃん」と下の名前で呼んでいる。蒼衣ちゃんは相変わらず「宮ヶ瀬さん」と呼ぶが、今はまだそれでいい。
「木原くんは相変わらずですか?」
「うん。ほんと、ごめんね。無器用なヤツで」
「宮ヶ瀬さんが謝ることではないですよ。それに木原くんだって、きっと何か事情があるに違いありません」
「事情って?」
「それは……」
 言いよどむ蒼衣ちゃんの代わりに、私はその怪人の名前を口にする。
「『パラソルさん』でも見たのかな?」
「わかりませんが……そういうこともあるのかな、って」
「そうだね……あるかもしれないね」
 蒼衣ちゃんの肩をぽんと叩いて、一歩近づく。彼女の髪から漂う甘い香り。こうして体をくっつけると自分の髪やからだにもこの香りがつくから、たまにこっそりとおすそわけしてもらっている。
 本当にいい香り。蒼衣ちゃんだけの、特別な香りだ。
「ねえ蒼衣ちゃん、オカルトついでにさ、ちょっと変わったこと訊いていいかな?」
「ええ、もちろん。宮ヶ瀬さんからそういう話をしてくれるの、嬉しいです」
「そんな面白いことじゃないんだけどね……その、恋とか愛について」
「恋や愛、ですか。あまり自信がありませんが、お話を聞くぐらいなら」
「じゃあ単刀直入に訊いちゃう。ぶっちゃけ、私が蒼衣ちゃんのこと好きって言ったらどう思う?」
 平然を装って訊いた。
 蒼衣ちゃんは、何の疑いもなく、いつも通りの笑顔でこう言った。
「嬉しいですよ。とても嬉しいです」
 これからも仲良くしてくださいね。宮ヶ瀬さん。と付け加えて。
 あーあ。やっぱそうだよね。
 涼音の恋は、まだしばらくは実らなそうである。
「いつか木原くんがまた元気になったら、三人で『パラソルさん』の話でもしましょうね」
 ないない。絶対ない。
 だって、涼音はそんなオカルト、信じてないもの。
 帰りにコンビニでも寄って、アイスでも買っていこう。
 蒼衣ちゃんのすべすべの肌だと思って、蓋の裏まで、余すことなく舐め回そう。
 いつか、この恋がかなうといいな。
 涼音は、覚えたての恋の味──自分の髪に移った蒼衣ちゃんの香りを嗅ぎながら、廊下をスキップして昇降口へと向かった。

世界中が僕に恋しても  歌/ちょまいよ  曲/TOKOTOKO
【ニコニコ動画でもご覧いただけます】http://www.nicovideo.jp/watch/sm29822937